雨読










 魂のこと 






  いま私にわかっているのは、自分が魂のことをやり始めている、
  ということだけだよ、
  そしてそれをやり始めた以上は、
  どういう道すじを辿っても、
  まったくなにもなかったことにはならない  ……

   ※大江健三郎『燃えあがる緑の木』第二部「揺れ動く」第一章



…たましいは、物と心の切断からもれてきたものであるだけに、人間の身体と心の終焉である「死」と深く関係するし、従って、宗教とも関連してくる。自分の死をいかに受けとめるかについて、たましいはつねにファンタジーを送り続ける。身体と心とは、己れの死についてパースペクティブをもつことが出来ない。このように、たましいは死と強く関連し、あいまいさをもつ故に、すべてのものがいかに明確に、明白に見えようとも、その影の部分を見る。たましいの言葉は、従って時に非常に暗く、破壊的ですらある。…

 ※河合隼雄『宗教と科学の接点』第一章 たましいについて「たましいとは何か」








  はしがき

 『魂のこと』は著者が半生の間に、精神的な向上を目指して行った様々な思索の、成果をまとめた手記をもとに構成した。
 そこには今から見れば、ひどく幼い感情にまかせて書き散らした言葉や、移ろいやすい一時の心境を、不変の境地とかん違いして綴った文章なども見られる。しかし、改めて読み返したところ、忘却の彼方にあった思索の成果がいくつも残されていたり、自分が懐くものの考え方の根拠について、はっきり記されてあったりした。とりわけその頃は、いささか過敏な神経で「苦」を感受していた時期であり、この問題に関してはかなりいろいろな方面から考察してある。
 まことに手前味噌ながら、こうしたものは関心のある人なら読んでいただけるように思われ、いささか古びたこの手記を公にすることとした。
 けれどもやはりこれは自分本位で、一般の人にとってなんの意味もない、独りよがりな駄文を連ねただけの、拙劣な文集かも知れない。不幸にして本書を手に取り、そうした読後感を懐かれた方には、ただただ深くお詫びするしかない。

森 不知 (もり しらず) 







  【総目次】


  《1989》
宗教と非宗教」 「道と理」 「閉じた世界」 「文化的生活」 「読書
自己表現」 「死について」 「死への思索」 「死への恐れ
与えられたこと

  《1990》
試練」 「わたしの願い」 「不信の理由」 「発想ノートより 1
苦しみについて」 「対人関係」 「発想ノートより 2」 「汚れた苦
吐血」 「わたしが悪いということ」 「あるものと苦とわたし
わたしと苦

  《1991》
求める境地」 「意識と自我

  《1992》
阿弥陀仏と大いなるもの」 「南無阿弥陀仏」 「書いてきたこと

  《1993》
この世の努力」 「二種深信」 「御恩報謝」 「必要なもの
理想と苦悩」 「日々の仕事」 「憎い者

  《1994》
徳を埋める」 「救いを求める心」 「我の粉砕

  《1995》
求めてきたこと」 「死後に意識なし」 「阿弥陀仏・浄土とは擬制か?
現時点での領解」 「無理解

  《1996》
瞑想」 「二種深信 続々」 「感謝の気持」 「生きている実感
ことばと我」 「不知」 「感謝すること」 「真宗の極意」 「老荘と真宗
恵まれていること」 「超己のはたらき」 「お任せする心」 「道の求め方
日常の大事」 「腹立ち」 「仏教の本質?」 「幸福」 「集団の力
つらいこと」 「自我の様相」 「自利と利他」 「不浄行」 「死にたい
光の筋道」 「自分の本性」 「宗教的経験」 「自分が

  《1997》
過去・現在・未来」 「すかさず感謝」 「真宗の信」 「生老病死の人生観
念仏で救われるか Ⅰ」 「念仏で救われるか Ⅱ」 「宗教の分かれ目
がのことに」 「パソコン」 「念仏で救われるか Ⅲ」 「信仰心
大正新脩大藏經

  《1998》
ナミダ」 「意志」 「病みあがり」 「安楽に死ねるか
大蔵経を読むこと Ⅰ」 「慈しむ心」 「自我と自己
大蔵経を読むこと Ⅱ

  《1999》
自分の評価」 「阿含経」 「座右の言」 「大蔵経の読み方
信仰を持たない者」 「汚れた心」 「涙を出して」 「阿含部上 読了
三業帰命」 「異端」 「真宗の真意」 「自分とは」 「真宗の教相
生き方」 「異安心の起因」 「はからいの心」 「往生不定

  《2000》
新年」 「方便としての擬制」 「けが」 「人生は苦である」 「上座仏教
慈悲喜捨の瞑想」 「真理の錯覚」 「最悪の時」 「生きる喜び
央掘魔羅経」 「ふつうの幸せ

  《2001》
がんばらないで助かる道」 「ヴィパッサナー瞑想」 「
自分なりの生き方」 「妙好人で異安心」 「朱利槃特」 「通仏教の視点
自我を忘れる念仏」 「ありのままの姿」 「提婆達多」 「行いの観察
真宗の根拠」 「大正新脩大蔵経 第二巻読了」 「鹿の王と月の兎

  《2002》
修行」 「精進」 「菩薩の心」 「浄土に墜ちず」 「人との軋轢
在家のための教え」 「教行証文類」 「長老のことば」 「喜ぶ力
白糸篇

  《2003》
無宿善」 「福力」 「念仏往生」 「大蔵経を読む

  《2004》
誕生」 「無我の行」 「学問とは」 「仏教の真髄」 「浄土偽宗
人生の迷い」 「大正新脩大蔵経 第三巻 読了」 「自灯明 法灯明
人生の基調

  《2005》
勝海舟」 「良寛と海舟」 「みんな、敵がいい」 「苦しみの日々
」 「李賀」 「小人」 「志と願」 「幸福論

  《2006》
坐りませんか」 「ありがとう」 「空念仏」 「信とは
幼児とことば」 「感謝して生きる道」 「毎日の思索

  《2007》
自分にこだわらない生き方」 「念仏を愛好する」 「指方立相
念仏と感謝と慈悲」 「自然(ジネン)の念仏」 「自然念仏と無為自然
自分が納得するように話す」 「生きる目的としての念仏」 「念仏の効用
自力の念仏と他力の念仏 Ⅰ」 「『法句経』を読む
自力の念仏と他力の念仏 Ⅱ

  《2008》
念仏して得られるもの」 「心の基準点としての念仏」 「求めない念仏
信心のある念仏」 「悪いこと最悪なこと」 「顛倒妄想から離れる念仏
信心の救済的効能―清沢満之『我信念』をめぐって
いのち と からだ」 「生活の中での念仏

  《2009》
考える病」 「心の弱さ」 「病的な思考と健全な思考」 「信心の諸相
わたしの五聖教」 「念仏が先か信心が先か」 「念仏の利益
念仏の使い方」 「なぜ歴史を研究するか」 「念仏の称え方
刹那の念仏

  《2010》
念仏という瞑想法」 「わたしの信条」 「念仏の歴史」 「鬱病
念仏の種類と方法」 「五種五法の読書」 「浄土教の要点
現代の念仏」 「浄土教の本質」 「念仏者」 「門余の釈」 「自浄其意
三部作」 「念仏者の理想像

  《2011》
カウンセリングは代受苦か?」 「苦しみからの 脱出」 「苦しみの解決法
止・観の念仏」 「怒りの観察」 「念仏の身体性
今ここに生きる瞑想生活」 「心のモード」 「自分が幸せであること
わたしの幸せ」 「いまここにいる幸せ

  《2012》
捨ててこそ」 「今ここ、この瞬間」 「人生三分論」 「悩みの意義
悩みと念仏」 「心の出家」 「思秋期の危機」 「捨てて生きる
老いの自覚と悲哀」 「昼念仏(ひるねんぶつ)」 「心の深い底
新しい念仏」 「一分間の幸せ」 「今できる一つのこと
捨て去る生き方」 「自浄其意の幸福」 「念仏の実践と呼吸
妄想しない」 「気づきの念仏」 「孤独になじむ
道を信じる幸せ」 「三つの道」 「諸縁を放下す

  《2013》
念仏は心の杖」 「気づきの呼吸瞑想」 「わたしとは何者か
深く息して食べて寝る」 「心身と和む
ティク・ナット・ハンの意識的呼吸法」 「気づきの動作瞑想」 
リラクセーション」 「わたしとは何者か(答)」 「気功ヨーガ
気づきの瞑想生活」 「独りで生きる」 「浄化教―心が浄らかになる教え
如去」 「気功・ヨーガ・念仏」 「社会と自分」 「聖人と俗人
まわり道」 「たましいとは

  《2014》
観察するもの」 「同行二人」 「内観念仏 —こだわらない心
瑜伽念仏」 「氣に気づく」 「生死と意識 —水波の教え」 「永遠の今
老いさき」 「大阿闍梨の遺言」 「気づきの原理」 「学問とは 2
日常の心得」 「意識の構造

  《2015》
心のイメージ」 「何もしない、思わない」 「六根の分解清掃
自我と我執」 「お静かに」 「氣とこり・しこり」 「急性喉頭蓋炎
動きながら休む」 「和のヨーガ」 「魂とは意識の場
念仏の原理」 「真の自分を知る方法」 「正しい祈り

  《2016》
 「日頃のヨーガ」 「批判しない愚痴らない」 「一息の幸せ
 「私のヨーガ」 「少食知足 -ミニマル・ライフ Minimal Life
 「いやな奴 -権化の菩薩」 「苦痛は好機」 「慈気とは
 「名言と意言、そして離言」 「微食 ―ほんとうの美食
 「ヨーガと脳」 「意識の階層 -思考・感情・気分・体調
 「水波の瞑想」 「リラックス瞑想法」 「三つの宝」 「三つの問い
 「安心と信心 -瑜伽念仏の要諦

  《2017》
 「からだに貞(き)くヨーガ」 「重力に目覚める」 「心身の振動
 「五食 ―正しい食べ方」 「五歩 ―正しい歩き方
 「五行 ―正しい行住坐臥と食」 「今ここで体に心を」 「苦痛と向合う