雨読
魂のこと 《1992》
《目次》 「阿弥陀仏と大いなるもの」 「南無阿弥陀仏」 「書いてきたこと」
「書いてきたこと」 19920212 ⇒TOP これまでいろんなことを書いてきて、ああでもないこうでもないと試行錯誤をくり返してきた。この文章ではこの点に触れることができたけれども、あの点は落としてしまった、とか、この内容を述べたいのだが、どう表現してもほんとうのところがもうひとつ出ない、などというように。 しかし今にして思えばこうして長々と書いてきたのは、結局つぎのようなことを言いたくて、してきたことではなかっただろうか。 自分のためには生きない 少なくともまわりの者のために ひいてはそれらをとび超えて 大いなるもののために生きる 簡単すぎて幼稚にも感じる。けれども言いたかったことは、すべて盛りこまれている。これで自分のために書くことは、もう卒業していいかも知れない。 「南無阿弥陀仏」 19920205 ⇒TOP 今日また、誕生日を迎えた。そこで例の如くしみじみと、来し方を反省し行く末を検討していたら、ほんとうに今の自分の未熟さが痛いほど身に染みた。 まだ何もこれと言えるような実績はなく、今から確かにこれをすると言えるような計画もない。ただ日常の生活に追われ、漫然と時を過ごして来ただけで、未来に向け何かをやれる実力などまったくないのだ。 しかし人とは普通、その程度のものかも知れない。 特別な力のある者は例外として、常に年齢より自分の内容の方が未熟に思えて、死に至るまでこんな筈ではなかったと、嘆き続けるだけなのかも知れない。「わたし」の如き平凡な者にとり、それはそれで仕方のない生き方なのだろう。 どう生きるかも、なにを成せるかも、ふだん人が考えているほど自分の力で決定できるものではない。それはどれだけたまたま訪れる機会を捉え、自分の可能性を発揮できるかの勝負に過ぎない。その時機がやって来ないうちは、独力でこなせることなど極わずかだ。むしろ自分だけではなにもできないと、慎ましく考える方が真実に近いのではないだろうか。 ただし自分が心の底からほんとうにやりたいと願っていることは、そう思うこと自体がある種の促しに基づいているわけであり、自分の意志というものが、まったく無意味だと言うつもりはないけれども。 結局「阿弥陀仏」のようなものを信じて、ことさらしてやろうとする心を捨て去り、促されるまま自然に生きて行くのが一番ではないだろうか。 親鸞聖人は言う。 「無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とは まふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。かたちも ましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふすとぞききならひてさふらふ。 弥陀仏は、自然のやうをしらせんれうなり」 ―『末灯鈔』より 「阿弥陀仏と大いなるもの」 19920104 ⇒TOP この自分の中に巣くう自我=「わたし」をめぐって、これ以上何かを書きたいという衝動が、それほど感じられなくなってきた。そこでおのずとこの記録を繙くことも少なく、1年近い空白となった。 もう基本的にはほとんど、我が家の宗教である真宗の「南無阿弥陀仏」で済んでしまい、これ以外のものを求める必要がなくなったからだ。 いま人間の本質は阿弥陀仏であると、心から思えるようになり、きわめて落ちついた心境でいる。阿弥陀仏とは無量寿仏・無量光仏であり、仏・法そのものに外ならず、それは「大いなるもの」に違いないのだから。 ただそれでも折々未熟な心が波立って、何か書き殴りたい衝動に駆られるかも知れない。望ましくはないけれど、その時は再びこの魂の記録を、頻繁に付け始めることもあるだろう。
|