雨読










魂のこと 《2016》






   【目次】

 「日頃のヨーガ」  「批判しない愚痴らない」  「一息の幸せ」 

 「私のヨーガ」  「少食知足 -ミニマル・ライフ Minimal Life」 

 「いやな奴 -権化の菩薩」  「苦痛は好機」  「慈気とは」 

 「名言と意言、そして離言」  「微食 ―ほんとうの美食」 

 「ヨーガと脳」  「意識の階層 -思考・感情・気分・体調」 

 「水波の瞑想」  「リラックス瞑想法」  「三つの宝」  「三つの問い」 

 「安心と信心 -瑜伽念仏の要諦」 







  「安心と信心 -瑜伽念仏の要諦」 20161201   ⇒【目次】

 真宗では通常「安心」と「信心」は同義語に用いられる。
 「信心」がさだまるのを「安心決定」と言うこともある。
 ※『真宗新辞典』法藏館 1983
 それを「瑜伽念仏」では、あえて別々の意味に使いたい。

 「安心」は、体が健やかで、心も安らかになることであろう。
 体が健康でなければ心も安定せず、そのため「瑜伽」を行う。
 ここでいう「瑜伽」は、「ハタ・ヨーガ」のアーサナとする。

 「信心」は、語源的に「心が浄らかになること」を意味する。
 『阿毘達磨倶舎論』(巻第四「分別根品」第二之二)にいう。
 「此の中信とは、心をして澄浄ならしむるなり(此中信者、令心澄浄)」
 「信とは」20060122参照。
 また「信心」はサンスクリット語で、「プラサーダ」という。
 信じて、心が完全に静まっており、清らかなことを意味する。
 ※「プラサーダ prasāda」(浄信)「信心の諸相」20090408参照。

 これを具体的に、「瑜伽念仏」を修め心身が調うこととする。
 南無阿弥陀仏と称えつつ「瑜伽」を行うと心が迷わなくなる。
 伝統的なヨーガでも、「自在神への祈念」が重視されている。
 体が調い、心も浄らかになれば、自分の姿がはっきり見える。
 この念仏行で真の自己を知り、自ずから「信心」が育まれる。







  「三つの問い」 20161111   ⇒【目次】

 一、何のために生きているのか
 二、自分にとって幸せとは何か
 三、どうすれば幸せになれるか

 この三つの問いに、納得できる答えを見つけたい。
 そうすれば以後、もう生死に迷うことがなくなる。
 ちなみにたとえば、いまの自分なら、こう答える。

 一、みんな幸せになるため
 二、心が浄らかになること
 三、「瑜伽念仏」を修める

 「瑜伽念仏」とは瑜伽行唯識思想に基づく、瞑想行としての念仏をいう。
 「瑜伽念仏」20140421参照。
 法蔵説話に拘らず、ただ南無阿弥陀仏と念じつつ、ハタ・ヨーガを行う。
 そして瞑想する際は、唯識思想を参照しつつ、自分の心をよく見つめる。
 そうすれば体調が良く気分も爽やかになり、心身の様子がはっきり分る。
 人生の目的が明確になり、来し方行く末に対し、後悔や不安がなくなる。

 三つの答えが実現するため、日々折々心を込め、次のように祈っている。
 「いま念仏して 心浄まり ここで皆 幸せになる」
 「正しい祈り」20151212参照。






  「三つの宝」 20161101   ⇒【目次】

 いま自分には、三つの宝がある。
 己事究明に、必須のものだろう。
 修得した順では次のようになる。

 一、念仏
 二、ヨーガ
 三、唯識思想

 念仏を行として、しっかり修めようと思った。
 するとなぜか、ヨーガを始めることになった。
 ヨーガをよく理解するため、あれこれ調べた。
 するといつしか、唯識思想に魅せられていた。

 真宗に念仏を、唯識思想で解釈する人がいる。
 法蔵菩薩は阿頼耶識である、などと言われる。
 自分の中に、自我を摂取する真の自己がある。
 要するにそれで自分がよく分かるようになる。







  「リラックス瞑想法」 20161020   ⇒【目次】

 ヨーガでは心身を、リラックスさせることが重んじられる。
 いろいろポーズを決めるのも、リラックスするために行う。
 そしてリラックスするのも、深い瞑想に入るためだという。

 まず正確にアーサナを行い、それから楽な姿勢でリラックスする。
 この時、意識が大地と繋がるように、「アース」をイメージする。
 さらに宇宙まで到達するように、「ユニバース」をイメージする。
 ゆっくり呼吸しつつ、やすらぎながら「ピース」をイメージする。

 そうして「リラックス、アース、ユニバース、ピース」と念じる。
 それぞれ呼吸に合せ、なるべくはっきりとイメージを広げていく。
 とりわけ、吐く息に合わせてイメージすると、より効果的になる。
 リラックスし完全に脱力できれば、執着が解けて、苦悩も消える。

 これを日々折々実行すれば、瞑想が深まる。
 心が澄み、その構造や機能がはっきりする。
 そしてやがて、ほんとうの自分に出会える。







  「水波の瞑想」 20161001   ⇒【目次】

 数年前に、「水波の教え」を紹介したことがある。
 「生死と意識 —水波の教え」20140609参照。

 自分とは真理の大海から生まれた、ひとつの小波にほかならない。
 今現在もそこから離れておらず、神や仏をよそに探す必要はない。
 またその本質は清浄な水であり、大海とまったく異なっていない。
 高い低い、強い弱い、美しい醜いなどの差別は、元来意味がない。
 決して孤立した存在ではなく、生死の孤独など恐れるに足らない。

 この教えに基づいた、行いやすい瞑想法がある。
 好きな姿勢で楽に坐るか、または仰向けに寝る。
 まず目の前に広々とした、海岸をイメージする。

 ゆっくりと、波が打ち寄せてくる。
 自然なリズムで、波が引いていく。
 打ち寄せる波に吐く息を合わせる。
 引いていく波に吸う息を合わせる。

 こうして寄せては返すものを、無常の波と捉える。
 心にあるしこりやこだわりも、この波で消え去る。
 気持ちがしっかり落ち着くまで、数分間繰り返す。
 これを日々休憩時などに行うと、心が穏和になる。






  「意識の階層 -思考・感情・気分・体調」 20160919   ⇒【目次】

 意識は表層から深層へ至るまで、いくつか階層がある。
 その各層で、それぞれつかさどる働きが異なっている。
 実際には思考・感情・気分・体調等として意識される。
 それが脳の各部位と、概ね対応しているように思える。

  思考⇔大脳
  感情⇔大脳・間脳
  気分⇔間脳・脳幹
  体調⇔脳幹・小脳(および各器官)
  ※意識の深度順

 これらの各階層に注意すれば、問題を切り分けられる。
 原因の究明が容易になって、対処方法も明らかになる。

  思考⇔気づき
  感情⇔呼吸法
  気分⇔瞑想法
  体調⇔ヨーガ(および気功等)
  ※対処方法の強度順

 階層が深くなれば、より対処が困難になる傾向がある。
 各層でも問題が厄介なら、より強力な対処方法を採る。
 もちろんこれは、健康の範囲内で行う方法にすぎない。
 病気の域に入れば、迷わず医療機関へ行くべきだろう。

 妄想を止め、激情を鎮め、不快を和げ、不調を整える。
 こうして穏和に生きて行けたらこれ以上の幸せはない。
 そのためには日々怠らず、意識の働きをよく観察する。
 そして異常を感じたら、直ちに手当するようにしたい。







  「ヨーガと脳」 20160818   ⇒【目次】

 ヨーガを日々実践し、生活習慣になると、脳全体が活性化する。
 雑念や妄想が治まり、大脳が司る、思考力や記憶力などが増す。
 体の隅々まで神経が行届き、小脳が司る、運動能力が向上する。
 そうして特に脳幹(広義)の機能を、健全にしてくれるようだ。
 脳幹は、大脳辺縁系に囲まれ脊髄へとつながる、太い幹状の組織。大脳が意識的な活動の中枢であるのに対し、脳幹は無意識的な生命活動の中枢を担う。
 脳幹は狭義には、中脳、橋、延髄からなり、間脳を含める場合もある。呼吸や睡眠、体温調節、代謝などの生命維持をつかさどり、「命の座」とも呼ばれる。
※岩田誠監修『プロが教える脳のすべてがわかる本(史上最強カラー図解)』ナツメ社 2011 40p
 ヨーガの体験談に、健康増進や病気治癒の事例がよく見られる。
 これはおそらく、脳幹が司る「命の座」の改善によるのだろう。

 瞑想する際、心の中で脳幹あたりに注意し、呼吸を調える。
 すると大脳のはたらきが静まり、無念無想に近づいていく。
 心身が完全にリラックスして、ごく安らかな気持ちになる。
 たわむれにこれを称して「脳幹瞑想」と呼ぶことにしよう。







  「微食 ―ほんとうの美食」 20160808   ⇒【目次】

 今日ふと思いつき、「微食」を実行することにした。
 これまでも少食に努め、一日一食を原則としていた。
 朝・昼はおやつ程度とし、夜に一日分の食事を採る。
 それでも体重がまったく落ちず、体調は良好だった。
 むしろちょっと暴飲暴食すると、すぐ太ってしまう。

 栄養的には、過不足なく摂取しているのだろう。
 このまま少食で過ごすなら、健康を維持できる。
 ただもう少し食事を減らしてもいい感じがする。

 近頃「不食」に関する本がよく売れているようだ。
 ほとんど飲まず食わずで、何年も活躍している人。
 一日に青汁を一杯飲むだけで、難病を克服した人。
 しかし誰にでもそんなことが、可能なのだろうか。
 やはり特別な人しかできないのではないだろうか。

 そこでためしに、一日一食以下で過ごしてみたい。
 朝・昼を飲み物で済ませ、夜もなるべく軽くする。
 自分に許される限り「不食」に近い少食をめざす。

 それをあえて名づけるなら、「微食」という。
 「微食」はいちおう、玄米菜食を基本とする。
 ただし決して肉食を、否定するわけではない。
 食べたいなら、良いものを少しだけいただく。
 旬の食材を厳選できて、自ずから美食になる。
 しかし飽食するわけではなく、節度を保てる。

 美味しい食べものを、少しだけゆっくり味わう。
 生きものの命を奪うことに、心から懺悔をする。
 そして感謝しながら、美しい所作で食事をする。
 その意味で「微食」はほんとうの美食といえる。







  「名言と意言、そして離言」 20160717   ⇒【目次】

 唯識思想に、「名言」「意言」という概念がある。
「名言」具体的な、顕在化したことば、もしくは、概念的思考。
「意言」心のつぶやきともいうべきもので、明確なことばになる前の、概念化をひきおこす状態のことば、あるいはことばの潜在的なエネルギーとでもいうべきもの。
※『唯識思想(新装版 講座・大乗仏教 第8巻)』春秋社 1995 168p
 これが奇しくも自分の瞑想体験とよく合致している。
 「心の深い底」20120603参照。

 思考には言葉だけなく、映像や音声などの心象も駆使されている。
 発達的には心象が先で、ある程度成長した後、言葉が主体となる。
 ふつうは自分の行為を、言葉で思考し決定していると感じている。
 しかしほんとうの意思決定は、もっと深層の意識で行われている。

 そこでは欲求・気分・体調など、心や体の様々な情報が集積されている。
 それらと頭で行った思考が、総合的に検討され、直感的に意思が定まる。
 はっきりとは意識できない、心の底に潜んだ暗い泉のような場所がある。
 それは言葉・心象や感情の嵐にも、まったく動じない心の最深部にある。
 ここから「意言」がたち現れてきて、まとまって固まり「名言」になる。

 日常において、「名言」で妄想し、「意言」で執着する。
 「意言」で執着しなければ、「名言」は妄想に陥らない。
 「意言」を手放していれば、「名言」は自然に生滅する。
 「意言」を常々観察し、その動きに注意する必要がある。
 そうすれば、妄想や執着から離れ、苦悩とは無縁になる。

 このような「意言」は、覚りの境地に至る契機となるらしい。
 『摂大乗論』では、「意言」により唯識の真理を悟るとする。
 実に、ただ表象のみということに悟入しようとして以上のように〔如実に〕修行につとめているかの菩薩は、文字やその意味として現れるかの意言において、文字によるかの名まえも、ただ意言なるのみと観察し、文字〔すなわち名まえ〕の上に立てられているかの事物もまた、ただ意言にほかならないと観察し、その名まえ〔や物〕は、自体としてまた属性として設定されているに過ぎないと観察するのである。
 次にただ意言のみであると見るとき、名まえも物もともに見ることなく、自体と属性との設定もともに見ることなく、自体や属性を具えている〔と誤認されるような〕対象の相も見ることがない。かくして四種の考察と、四種のあるがままに遍く知ることによって、文字や意味として現れるそれら意言において、ただ表象のみなることに悟入するのである。
※長尾雅人『摂大乗論 和訳と注解 下(インド古典叢書)』講談社 1987 33p/『唯識と瑜伽行(シリーズ大乗仏教7)』春秋社 2012 122p
 「意言」で「ただ表象のみなること(唯識)に悟入する」
 唯識を覚り、意識の分別作用が止むと、凡夫が聖者となる。
 ※『唯識と瑜伽行』123p
 そして物事の本質に関する、「離言」という概念がある。
 「離言」とは、「言語表現されえないこと」を意味する。
 真の道理は言語を超越しており、「離言」の世界にある。
 ※『唯識と瑜伽行』135p
 『瑜伽師地論』では「諸法は離言が自性」であるという。
 是の如く証成道理に随順して、応に諸法の離言の自性を知るべく、復至教に由つて、応に諸法の離言の自性を知るべし。仏世尊転有経の中に、此の義を顕はさんが為めに頌を説いて曰ふが如し。
 彼彼の諸名を以て、彼彼の諸法を詮す、此の中に彼有ること無し、是れ諸法の法性なり (如是隨順證成道理。應知諸法離言自性。復由至教。應知諸法離言自性。如佛世尊轉有經中。爲顯此義而説頌曰。以彼彼諸名 詮彼彼諸法 此中無有彼 是諸法法性)。
※『大正新脩大藏經 第三十卷  中觀部・瑜伽部』「瑜伽師地論」卷第三十六 本地分中菩薩地第十五初持瑜伽處 眞實義品第四 489ap
※『国譯一切經 印度撰述部137 瑜伽部二 瑜伽師地論二』大東出版社 1977 311p/『唯識と瑜伽行』136p
 仏の智見とは、一切法が「離言」であると覚ることらしい。
 「名言」を手放し、「意言」に気づき、「離言」を究める。
 ヨーガを行い、唯識を学ぶ目的は、そんなところだろうか。






  「慈気とは」 20160612   ⇒【目次】

 「慈気」とは、要するに慈しむ気持のことをいう。
 ただし単なる心理的な気持を意味するのではない。
 いわゆる「氣」であり、何かのエネルギーがある。

 対象を慈しむ気持により、癒しの効果が発生する。
 動植物の成長や病気の治療等で、事例が多くある。
 その際、慈しむ主体から、対象へ働く何らかの力。
 それを仮に名づけて、「慈気」と呼ぶことにする。

 これは造語であり、まだひろく認知されていない。
 しかしその働きは実在して、度々体験もしている。
 今からそれがどのようなものか検証していきたい。






  「苦痛は好機」 20160606   ⇒【目次】

 体のどこかに苦痛を感じるとき、その部位をよく観察する。
 いたい、つらい、しんどい感覚が、どこにどれだけあるか。
 この生・滅・盛・衰をしっかり見つめて、正確に把握する。
 そうすると、苦痛の感覚が分解されて、しのぎやすくなる。
 そこへ慈しむ気持(慈気)を集めると、治りがはやくなる。
 怪我や病気で、同じ治療をしていても、速やかに快復する。

 心も体とまったく異ならず、同様な方法で対処できる。
 どのような妄想が、どれだけ強くわき起こっているか。
 どのような感情が、どれだけ激しくうず巻いているか。
 この生・滅・盛・衰をくわしく観察し、よく内省する。
 しばらくそうすれば気持が鎮まり、苦痛も緩和される。
 そして「慈気」を心中に満たすと、すぐ穏和になれる。

 このような過程を通じ、体と心の仕組みが深く理解できる。
 心身がどんな部位で構成され、どう働いているかよく分る。
 そしてその部位がみな、生滅する存在にすぎないと気づく。
 この世界では、永遠にあり続ける実体など、どこにもない。
 すべてが無常であり、ただ生じては滅しているにすぎない。
 しかし意外にもこの事実を納得できた時、心が平安になる。

 タイの名僧・アーチャン・チャーは次のように説いている。

 このように、ブッダは今この瞬間を見つめ、心と身体の無常を観察し、あらゆる現象が生じては滅することを知り、それらの何にも執着しないことを説きました。もし、これを実行できるのなら、私たちは平安を体験することでしょう。この平安は、手放すことによって生じるものです。手放すことは、智慧によって生じるものです。智慧は存在の真理である、無常、苦、無我を私たち自身の心の内に観察することによって生じるものです。
※アーチャン・チャー著 星飛雄馬訳『無常の教え 手放す生き方2 苦しみの終焉』サンガ 2013 111p

 無常の真理に気づくことで智慧が生じ、人は幸せになれる。
 総じて苦痛が起った時は、真理を知る好機だと考えて良い。






  「いやな奴 -権化の菩薩」 20160515   ⇒【目次】

 誰にでも、「いやな奴」がいる。
 顔を見るだけで、不愉快になる。
 その言動に、いちいち腹が立つ。

 できるなら会いたくなく、早く失せてほしい。
 しかしそうした人間こそ自分を育ててくれる。
 放っておいてくれさえすれば、幸せを感じる。
 日々平穏で、適当に暇をつぶせる仕事もある。
 もしそんな生活が続いたらすぐ呆けてしまう。
 また悟ったように勘違いして、成長が止まる。

 偽の幸福を破壊するのが「いやな奴」なのだ。
 お陰様でありのままの至らない自分に気づく。
 まだ心中に、克服すべき課題があると分かる。
 わざわざそんなことを懇切に教えてくださる。
 まるで自分を、救いに来てくれたかのようだ。
 「いやな奴」とは「権化の菩薩」なのだろう。

 禅に「菩薩願行文」という和讃がある。
 近代の名僧・間宮英宗老師の作による。
 短いものであり、その全文を掲載する。

 謹んで諸法の実相を観ずるに、皆是れ如来真実の妙相にして塵々刹々一々不思議の光明にあらずと云ふことなし。之れに因って古へ先徳は鳥類畜類に至るまで、合掌礼拝の心を以て愛護し給えり。 かかるが故に十二時中、吾等が身命養護の飯食衣服は素より高祖の暖皮肉にして、権現慈悲の分身なれば、誰か敢て恭敬感謝せざらむや。無情の器物猶然り。況んや人にして愚かなる者には、ひとしお燐愍眷念し、設え悪讐怨敵と成って吾を罵り吾を苦しむることあるも、此れは是れ菩薩権化の大慈悲にして、無量劫来我見偏執によって造りなせる吾身の罪業を消滅解脱せしめ給ふ方便なりと一心帰命言辞を謙譲にして深く浄信を起さば、一念頭上に蓮華を開き一華一佛を現じ随処に浄土を荘厳し、如来の光明脚下に見徹せん。願くばこの心を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と同じく種智を円かにせんことを。
※間宮英宗(1871-1945)
 臨済宗・方広寺派管長で、愛知県に生れ、青龍窟と号し、昭和20年75歳で寂す。
 http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-394.htm
 悪い敵が来てひどく自分を苦しめても、
「此れは是れ菩薩権化の大慈悲にして、無量劫来我見偏執によって造りなせる吾身の罪業を消滅解脱せしめ給ふ方便なり」
 と思い謙虚に接するべきであると言う。
 これはまさしく、至言にほかならない。

 ただ「いやな奴」に会うと正直疲れる。
 四六時中鍛錬されても、逆効果になる。
 ぜひご鞭撻は、時たまにお願いしたい。






  「少食知足 -ミニマル・ライフ Minimal Life」 20160505
   ⇒【目次】

 最近「ミニマル・ライフ」という言葉が流行っている。
 できるだけ物を持たず、質素に暮らすスタイルをいう。
 『阿含経』の「少欲知足」に、やや通じるものがある。
※『仏説長阿含経 巻十二 自歓喜経 第十四』(『大正新脩大蔵経 第一巻』79a頁)など参照。
「汝は当に世尊の少欲知足を観ずべし。今我大神力有り大威徳有りて、少欲知足し楽(ねが)ひて欲に在らず(汝當觀世尊少欲知足。今我有大神力有大威德。而少欲知足不樂在欲)」
 それをちょっとだけ変えて、「少食知足」を実践したい。
 衣・食・住における「少欲」は、「少食」が基本だろう。
 生活習慣では食欲を節制するのが、もっとも難しいのだ。

 実はこれまで「レコーディング・ダイエット」をしてきた。
 恥ずかしながら10年前、体重が100kgを超えていた。
 それをおかげさまでなんとか、20kgばかり減量できた。
 これからさらに原則一日一食で、なるべく「少食」にする。

 「少食」の神髄は、空腹を楽しむことにある。
 心身とも恵まれていないと空腹は楽しめない。
 まず体が健康で、食べものが豊富にあること。
 また心が成熟し、空腹感に翻弄されないこと。
 そうでなければ、空腹はすぐに飢餓感となる。
 空腹を楽しめるならば、肥満とは無縁になる。
 ある意味では、究極のダイエット法だと思う。

 人が生きて行くために、あまり多くのものはいらない。
 寒暑を防ぐ着物、空腹を癒す食物、雨露を凌ぐ寝場所。
 健康が維持できる程度に、着て食べて住むだけでいい。
 それ以上に何かを求めると、欲望と妄想の世界に陥る。
 阿修羅のように争い貪って、殺生を重ねることになる。
 悪業のため不運が付きまとい、どこにも逃れられない。

 「少食」を実行すれば、知らないうちに陰徳が積める。
 ものを食べなければ、その分だけ殺生をしないで済む。
 生類を憐れむ慈悲行に、日々勤しんでいることになる。
 幸運に恵まれ、物事が順調に進み、生活しやすくなる。
 幸福な「ミニマル・ライフ」は、「少食」が要となる。
※甲田光雄『あなたの少食が世界を救う 愛と慈悲の心で生きる 少食健康法のすべて』春秋社 1999「第三章『いのち』を考える 4すべての『いのち』に愛と慈悲を!」など参照。






  「私のヨーガ」 20160408   ⇒【目次】

 毎日コツコツ、まる3年ほどヨーガを実践してきた。
 それでようやくこの頃、自分のスタイルが確立した。
 いま日課にしているアーサナの詳細等を記しておく。
 これからもほそくながくゆっくりと続けて行きたい。
 ※佐保田鶴治『ヨーガ入門』(ベースボール・マガジン社 2001)
  佐保田鶴治 『ヨーガのすすめ』(ベースボール・マガジン社 2002 )
  帯津良一『からだが整う呼吸法』(大和書房 2012) など参照。

 ◎毎日:15アーサナ
 簡易体操 基本体操 完全弛緩 合蹠前屈 マタを開く前屈 ガス抜き 背骨をねじる
 脚に顔をつける 背中を伸ばす コブラ 足指回 牛の顔 ヨーガ・ムドラー
 呼吸法 瞑想法

 ◎毎週:15アーサナ
 三角 わし ねじり らくだ わに ばった 弓 魚 ライオン すき 逆転 肩で立つ
 頭で立つ 太陽礼拝 時空(気功)

 ◎詳細:50アーサナ
 01 瞑想法(パドマ シッダ)
 02 呼吸法(アヌローマヴィローマ カパーラ・バーティ ウジャーイ スーリア・ベーダナ
 シートカーリー)
 03 完全弛緩(シャヴァ)
 04-08 簡易体操:5アーサナ(ヴァジュラ ウッティタ・バーラ スプタ・ヴィーラ等)
 09-22 基本体操:14アーサナ(ターダ ウットゥカータ等)
 23 足指回
 24-25 ヨーガ・ムドラーⅠ・Ⅱ
 26-27 背骨をねじる基本体操Ⅰ・Ⅱ
 28 合蹠前屈(バッダ・コーナ)
 29-30 マタを開く前屈(ウパヴィスタ・コーナ)Ⅰ・Ⅱ
 31 脚に顔をつける(ジャーヌ・シールシャ)
 32 背中を伸ばす(パシュチモッターナ)
 33 牛の顔(ゴームカ)
 34 ガス抜き(パヴァナムクタ)
 35 コブラ(ブジャンガ)
 36 わに(ジャタラ・パリヴァルタナ)
 37 らくだ(ウシュトラ)
 38 ねじり(アルダ・マッチェンドラ)
 39 三角(トリコーナ)
 40 わし(ガルダ)
 41 ばった(シャラバ)
 42 弓(ダヌル)
 43 魚(マツヤ)
 44 すき(ハラ)
 45 逆転(ヴィパリータ・カラニ)
 46 肩で立つ(サルヴァンガ)
 47 頭で立つ(シールシャ)
 48 ライオン(シンハ)
 49 太陽礼拝(スーリヤ・ナマスカーラ)
 50 時空(気功)

◎要点:四原則と心がまえ
 正しいヨーガには、必ず「四原則」がそなわっている。
 またアーサナを実践する際、気をつけたいコツがある。

 四原則
  一、動作はゆるやかに
  二、動作に意識を向けて
  三、動作に呼吸を結びつけて
  四、緊張とリラックスの適度な交替
    (特にリラックスを大切に)
  ※佐保田鶴治『ヨーガのすすめ』口絵より

 心がまえ
  毎日実践する
  がんばらない
  体の力を抜く
  手を抜かない
  よく気を配る

◎目標:ヨーガの定義と勧戒
 ヨーガは妄想や感情など、心のはたらきが止まることを目指して実践する。
 そのためには、清浄・知足・苦行・読誦・自在神への祈念が必要とされる。

 「yogaḥ citta-vṛtti-nirodhaḥ」
 (ヨーガハ チッタ ブリッティ ニローダハ)
 ヨーガとは、心のはたらきが止むことである。
 ※ヨーガ・スートラ 第1章 第2節

 「śauca-saṃtoṣa-tapaḥ-svādhyāyeśvara-praṇidhānāni niyamāḥ」
 (シャウチャ サントーシャ タパハ スヴァーディヤー イーシュヴァラ・プラニダーナーニ
 ニヤマーハ)
 清浄(シャウチャ)・知足(サントーシャ)・苦行(タパス)・読誦(スヴァーディヤーヤ)
 ・自在神への祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)が、勧戒(ニヤマ)である。
 ※同 第2章 第32節

 これに基づき、自分にも実行できるよう、少々アレンジしたい。

  清浄:日々心身をきれいに調える。
  知足:少欲を心がけ折々感謝する。
  修行:ヨーガのアーサナや気功を毎日実行する。
  読書:仏教やヨーガ・気功等の良書を味読する。
  念仏:常日頃「南無阿弥陀仏」と称名念仏する。

 それが至道無難禅師の至言を、実現する生き方になる。
 「常に何もおもはぬは、仏のけいこなり」
 ※『至道無難禅師集(新装版)』公田連太郎編著 春秋社 1989 31p
  「何もしない、思わない」20150205参照。






  「一息の幸せ」 20160310   ⇒【目次】

 以前「一分間の幸せ」について、いろいろ考えたことがある。
 「一分間の幸せ」20120624参照。
 幸せは過去・未来にも他所にもなく、いつかどこかでなるものではない。
 「今ここ、この瞬間」が幸せでなければ、そうなれる機会など他にない。
 この点に関しては、現在でもまったく異論はなく、幸福の原理と言える。

 そして「今ここ、この瞬間」を実感するため、意識を一分間に区切った。
 まずこの一分間だけしっかり注意して、次の一分間もそれを続けて行く。
 さらには30秒、15秒、5秒と、より短い時間に気づくよう努力する。
 しかしいま改めて反省すると、この方法はあまり有効でなかったようだ。

 時間の感覚はかなり恣意的で、一分間の感じ方も、その折々で異なる。
 また突きつめて考えれば、時間の観念そのものが妄想分別の類だろう。
 特定の時間を区切り、気づきを養おうとするのは、あまり意味がない。
 むしろ各人の自然な呼吸を、一単位として意識した方が確実だと思う。

 過去も未来も思わず、他所事も考えずに、ただこの一呼吸へ集中する。
 心と体がどんな状態で、何を感じどうしようとしているか、観察する。
 その中で妄想を手放し、物事に執着せず、なるべく心を浄らかに保つ。
 このときヨーガや坐禅・念仏などの、瞑想法を活用するのが好ましい。
 しつこい妄想から脱出しやすく、いわゆる魔境に陥る心配もなくなる。

 まず一息、心正しく浄らかに過ごし、また一息一息と、それを続ける。
 ふと何かに動揺して、集中が途絶えても、あまり気にすることはない。
 そのつどそのつど 呼吸に注意を戻し、正気に帰ればそれでかまわない。
 こうした一息の中に、穏やかで和やかなほんとうの幸せがあると思う。






  「批判しない愚痴らない」 20160205   ⇒【目次】

 批判とは、自分が正しいと思い込んで、他を否定すること。
 愚痴とは、満たされない思いからあれこれむだに嘆くこと。
 自分が絶対に正しいことも、完全に満たされることもない。
 他を否定する前に自ら反省し、別な見方がないかよく考える。
 むだに嘆く前に不満の原因を追究し、解決する道を模索する。
 ただ批判しても愚痴っても、一時的に慰められるだけだろう。

 批判や愚痴の根底には、暗い怒りの感情が流れている。
 批判も愚痴も、自己防衛の隔壁を作り、他を拒絶する。
 ついにはまわりとの交流を閉鎖し、孤立して腐敗する。
 批判や愚痴は世界との繋がりを断ち、自ら不幸を呼ぶ。
 批判せず愚痴らず、いつも広々と心を開放していたい。

 気功師として世界的に活躍している、望月勇さんは言う。
 私は、この体験で、心は深い所では、地下水脈のように、一つにつながっていることを実感したのです。
 ですから、心の中で他人を批判することは、自分を責めることになり、反対に、他人への批判をストップすることは 、自分を大切にして、受け入れることになることを、身を持って体験したのでした。
※『いのちの力 気とヨーガの教え』平凡社 2004 18p
そうすると時折、思いがけない幸運も、訪れてくるらしい。






  「日頃のヨーガ」 20160111   ⇒【目次】

 ヨーガを毎日実践しようと決意してから、早くも3年が経過した。
 富山市にあるヨーガ講座へも、かれこれ2年は通ったことになる。
 それで最近「日頃のヨーガ」が、ようやく身についてきたようだ。
 これは故・佐保田鶴治先生が提唱された、ライフスタイルをいう。
 近頃私は「日頃のヨーガ」ということをスローガンにしているんです。美容術ヨーガじゃなくて、日頃の心がけとして持っているヨーガでなくてはならない。ということは毎日やらなきゃならない。たとえ十分でも十五分でも毎日必ずやる。そうすると日がたつにつれて、いろんな変化がでてくる。毎日々々体と心が変わっていくんですね。さらに毎日やっていると習慣になり、ついには一日の生活が全部ヨーガになってしまう。こういう状態にまでならないと駄目です。
※佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』人文書院 1982 174p
 また佐保田先生は、ヨーガの理想的境地を「不退の位」と表現している
 (ヨーガの最終目的である解脱には、天才的な出家者しか到達できない)。
 毎日毎日ヨーガをやる、そのうち、やりたくない日もありますね。今日は体がえらい、ゆうべはよく寝なかったという日もあるが、それでもやる。それには努力がいりますが、何年か、あるいは人によっては何十年かかるか、ともかく毎日やっていると、ヨーガが身についてくる。毎日やっていることがみんなヨーガになってくる。歩いているのもヨーガ。坐っているのもヨーガ。仕事をするのもヨーガ。呼吸が整ってきて、高ぶったり、しょげたりしない。同じリズミカルな呼吸ができていく。しようと思わなくてもヨーガ的な呼吸をしているんです。
 心はずっと変わっていって、静かにおだやかになって興奮しなくなる。人に対する怒りとかうらみとか、そんなものがなくなってくる。……
 これがヨーガですよ。「日頃のヨーガ」を続けていくとしまいにはその人の朝から晩までの行いが全部ヨーガになってしまうのです。……ここまでやってください。毎日毎日やる。それはつまりヨーガの不退の位まで達したわけです。
※佐保田鶴治『続 ヨーガ禅道話』人文書院 1983 73p
 この調子で、「一日の生活が全部ヨーガ」になるよう精進したい。
 気分や体調などに、一々こだわらず、とにかく毎日ヨーガをする。
 さらにアーサナ以外の動作でも、呼吸を整え、気づきを失わない。
 そうすればおのずから、体が健やかに、心が安らかになっていく。
 何十年後には「ヨーガの不退の位」へ、達しているかもしれない。