魂のこと 《2014》
【目次】
「観察するもの」 「同行二人」 「内観念仏 —こだわらない心」
「瑜伽念仏」 「氣に気づく」 「生死と意識 —水波の教え」 「永遠の今」
「老いさき」 「大阿闍梨の遺言」 「気づきの原理」 「学問とは 2」
「日常の心得」 「意識の構造」
「意識の構造」 20141221 ⇒【目次】
「瑜伽念仏」 の実践によって、このごろようやく瞑想が身についてきた。
そうしておぼろげながらも自分なりに、心の姿がつかめるようになった。
現時点において把握できた意識の構造を、かんたんに図示しておきたい。
a.自我:自分という組織の首長。意識的行為の決裁を行う。
b.意識:いわゆる「我思う、ゆえに我あり」の意識。
c.自己(前意識):「セルフ・トワイライトゾーン」
自己と外界がやりとりする場。
c’.自己(個人的無意識):精神分析でいう無意識。唯識でいう末那識。
d.日常世界:日常の社会生活を営む世界。
e.宇宙世界:地球や宇宙など、人間社会をとり巻く世界。
e’.自己世界(普遍的無意識):世界と通じる自己。唯識でいう阿頼耶識。
※横山紘一『やさしい唯識 心の秘密を解く』(NHKライブラリー)
日本放送出版協会2002
横山紘一『唯識 仏教辞典』春秋社2010
河合隼雄『無意識の構造』(中公新書)中央公論社1977 33p
河合隼雄『こころの声を聴く 河合隼雄対話集』(新潮文庫)
新潮社1998 253p →「セルフ・トワイライトゾーン」
「水波の教え」にあるとおり、世界の大海から波のように自己が生じる。
※「生死と意識 —水波の教え」20140609参照。
自己の中に、世界とはっきり区別された、個人的な意識が芽生える。
自己意識の中に、言葉やイメージなどを織りまぜ、自我が形づくられる。
また自己は、外界とやりとりする前意識と、無意識に区別できる。
無意識のはたらきに気づくと、自我意識が薄れ、執着や煩悩が弱まる。
無意識そのものは意識できず、その膨大な内容は、永遠に不可知であろう。
ただそんな小宇宙から、意識に絶えずはたらきかけてくるものがある。
感情や気分、ふとした思いつき、そうした微かな情報が意外と重要な兆候となる
無意識を通じて、他者や宇宙につながっているような感じがする。
また自分自身も、無意識からふと湧き起った泡沫のようにも思える。
そんな無意識を、たとえば「阿弥陀仏」と、呼んでもかまわない。
「日常の心得」 20141111 ⇒【目次】
この頃、ヨーガの先駆者・中村天風師の話が、よく分かるようになった。
以前は、なかなか良いことを言う人だと、好感を持っていただけだった。
師が説くことを、毎日まじめに行ってみよう、とまでは思えなかった。
ちょっと語り口がおもしろすぎて、やや眉唾だと疑ってしまっていた。
しかし実際、言う通りやってみると、その方法が正しいものだと納得できた。
短期間ではっきりとした効果が現れ、これを長く修めると必ず幸福になれる。
師は「本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいう」とする。
※中村天風『運命を拓く 天風瞑想録』(講談社文庫)講談社 1998 238p
そうした真の幸福がもたらされることを切に願い、これから日々実践したい。
師が提唱する行法の、真髄をまとめたものに、「日常の心得」がある。
折にふれて参照するため、その全文を掲載する。中村天風作「日常の心得」
寝ぎわの心がけ
(一)連想暗示法
●「悲しいこと」「腹のたつこと」「気がかりなこと」など消極的なことは寝床の中に一切もちこまない。明るく朗らかに生き生きとして勇ましい積極的なことを連想する。
(二)命令暗示法
●鏡に映る自分の顔に、自分のなりたい状態を命令的な言葉で、たとえば、「お前は信念が強くなる!」「お前はもっと元気が出る!」と発声する。
〔実行ポイント〕
・真剣であること。
・「つぶやき」くらいの声でよい。
・一回一事項であること(二回も三回も繰返さない)。
・命令したことが現実化するまで同一命令を続行すること(途中で他のものに変更しない)。
・一日中、折あるごとにやってよいが、寝ぎわにやるのが効果的。
目ざめ直後の心がけ
(三)断定暗示法
●前夜、命令したことを、すでに具体化された状況で、断定した言葉で表現する。
例えば、前夜「お前は信念が強くなる」と命令したら、それを「私は、きょうは信念が強くなった」と自分の耳に聞こえるように言う。
〔実行ポイント〕
・目ざめた直後にやること。
・鏡を用いても用いなくてもよい。
・一日中、回数多くやる方がより効果的。
日常の心がけ
(四)言葉づかい
●「困った」「弱った」「情けない」「悲しい」「腹が立つ」「助けてくれ」…など、消極的な言葉は絶対に口にしない。
(五)感謝一念
●不平不満を言わず、「正直・親切・愉快」(三行)を生活のモットーとする。
(六)三つの禁止(三勿)
●「今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず」の実行。
(七)内省検討
●心が積極的か、消極的か、常に客観的に検討し、少しでも消極的なものは追い出す。
(八)暗示の分析
●他からの暗示事項を常に分析し、積極的なものは取り入れ消極的なものは拒否する。
(九)交人態度
●明るく朗らかに、生き生きとして勇ましい態度で何人にも接する。
〔実行ポイント〕
・特に不健康・悲運の人に対しては、鼓舞、奨励以外の言葉は口にしない。
(十)取越苦労厳禁
●「さしあたる、その事のみをただ思え、過去は及ばず、未来知られず」
(十一)正義の実行
●本心良心に悖った言動は絶対にしない。
有事の心がけ
(十二)クンバハカ法
●感情、感覚の刺激、衝動を受けた瞬間、まず第一に肛門を締め、同時に、肩の力を抜いて、下腹部に力を充実させる。
(十三)呼吸法
●クンバハカ体勢をとりながら、まず肺の中の残気を十分に吐き出してから、息を深く吸い込む。
〔実行ポイント〕
・静かに、深く、長く行う。
・日に何度でも意識的に行う。
※中村天風述『君に成功を贈る』日本経営合理化協会出版局 2001 268p
「学問とは 2」 20141022 ⇒【目次】
以前、真言律宗の祖・叡尊の言葉に感動し、所感を記したことがある。
以後、おりにふれその意味するところを考察し、最近少々発見があった。
そこであえて原文を再掲し、汲めども尽きぬ言葉の深意を玩味したい。
「学問スルハ心ヲナヲサム為ナリ。当世ノ人ハ物ヲヨク読付ムトノミシテ心ヲナヲサムト思ヘルハナシ。学問ト申ハ、先其ノ義ノ趣ヲ心得テ常ニ我心ヲ聖教ノ如クナリヤ否ト知ナリ。我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニススムヲ学問トハ申ナリ。只暫ク文字ヲバイツモ読付ラレヨ。先イソギ各心ヲ直サルベシ。心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル」「学問スルハ心ヲナヲサム為」であり、「我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ」、「背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニススム」ことが、本筋であるとしている。
※『興正菩薩御教誡聴聞集』(『日本思想大系15 鎌倉旧仏教』岩波書店 1971 190p) ➡「学問とは」20040209
自分の生き方が、正しいか誤っているかは、学問しなければ分からない。
はばひろく読書し、よく比較検討して、自分がほんとうに納得できる教えを見つける。
その教えと心が一致するかどうか、日々じっくり観察し間違わないようにする。
そうした実践で、心が直り正しくなれば、自ずと浄らかになって行く。
誤っていれば、どうしてもさらにねじ曲がり、汚れを増してしまう。
まさしく『論語』(為政第二)の、
「子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)く、思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し(子曰、學而不思則罔、思而不學則殆)」
ということだろうか。
学問するのは、心を正しく直して、浄めるためにほかならない。
「気づきの原理」 20141001 ⇒【目次】
禅宗の高僧(臨済宗佛通寺派管長)でありながら、一念発起し51歳で医師になった、僧医・対本宗訓師が、思いというものの本質について、端的に語っている。中国人の考えたパチンとまばたきをする一瞬にしても、インド人の考えたパチンと指をはじく弾指にしても、極めて短い時間です。追いかけることも、把捉することもできない。それが念、思いの持続する時間なのです。ですから、思いというものは放っておきますと、すぐに消えてしまう性質を持っています。思いは放っておけば、極めて短い時間しか持続せず、瞬間的に生滅する。
…(中略)…
思いは心の中にずっととどまっているように感じられます。しかしそれは、実は思いがいすわっているのではなくて、私たちの方が思いを引っ張っているのです。私たちが思いを追いかけている。思いを引きとどめている。それが事実なのです。思いそのものは放っておくと、すっとすぐに消えてしまうものです。
※対本宗訓『坐禅 〈いま・ここ・自分〉を生きる』春秋社 2006 75p
自分が追いかけ、引きとどめ、こだわらなければ、すぐに消えてしまう。
この性質に気づき自然にまかせておけば、思いにとらわれず無心でいられる。
心中に沸きおこるどのような煩悩でも、気づいてこだわらなければ、すぐになくなる。
これが「気づき」によってあらゆる悩み苦しみから解放される、原理であろう。
「大阿闍梨の遺言」 20140915 ⇒【目次】
2013年9月23日、比叡山の千日回峰行を2度も成し遂げた大阿闍梨・酒井雄哉(哉は右上から下へのはらいがなし)師が、心不全により飯室不動堂長寿院(大津市坂本本町)で逝去した。享年87歳。
大阿闍梨最晩年の言葉を集めた『続・一日一生』(朝日新聞出版)が、2014年3月に発刊されている。いつも動いていて、すべてがつねに変わっている。諸行無常なんですな。いまこうしてしゃべっていても、「あ」といった瞬間に過去になっていく。そんなものだから、いろんなことをあまり考え過ぎてもしょうがないんとちがうの。いま自分が幸せだなあと思ったら幸せだしね。だけども、自分は幸せはどこかよそのところにあるんだと思って目の前を見ずにいたら、単純に幸せだなあと思っている人からみたら不幸かもわかんないよ。すべてが諸行無常だから、あまりあれこれ考えすぎても意味がない。今現在、自分が幸せだと感じたら、間違いなく幸せなのだ。済んでしまった過去や、ありもしない未来に捉われない。物事をありのままに観て、「いま」「ここ」を大切にしながら、死ぬ瞬間まで生きて行くしかないという。
この瞬間の、目の前のものをありのままの姿で見なさいってこと。仏さまは言っているし、「いま」「ここ」にいる、という以外に何もありませんよってことだね。
いま死ぬかもしれないんだもの。過去は変えられないし、先はわからない。なるようにしかならない、死ぬ瞬間まで「いま」「ここ」を大切にして、いよいよ死ぬってときになったら、取り乱さないで、ああ来たんだなあと思いなさいってことだよな。
※酒井雄哉『続・一日一生(朝日新書)』朝日新聞出版 2014 25p
生死に対して、こうした姿勢を貫きつつ、さらに日常生活をうまく営むコツも伝授している。大変なことであっても、全体を一気にやるって考えないで、頭のなかで小刻みにしていくのがいいよ。いっぺんにこんなに距離を歩くのかと思うと、とても無理だと思う。細かく細かく区切って、その間を集中してやる、次のところに来たらまた集中してやる…っていうふうに進んで行ったら、ちゃんとできちゃうものだよ。たとえばあれこれ考えるのは、この先一時間ほどの事柄に限定する。そして目前の一分間に集中し、できるだけていねいに物事を行う。一日の終わりには、あらゆることを手放し、心を空にして就寝する。
※『続・一日一生』83p
日々こうした心がまえで生活できれば、今すぐ幸せになれるだろう。
そうしてとうとう死に臨んだ時でも、次のとおり落ち着いた心境でいられるようになる。—これをしておきたかったというようなことはございますか。酒井大阿闍梨は、まさしく言行一致の一生を終えられた。
酒井 もうね、欲もとくもなくなっちゃったの。
—欲は何もない?
酒井 そう。なんにもないよな。
—無の境地ですか。
酒井 そうやね。人間、何か持ってるようで、なんも持ってないんだよねえ。
—とても自然ですね。以前、命はみんなつながっているとおっしゃっていましたが…。
酒井 そうやね、自然のなかでな、ねえ、自然の…。
—とても穏やかな気持ちでいらっしゃるんですね。
酒井 みんな夢みたいなもんかもわからないよね。
—悟りの境地、でしょうか。
酒井 ただ、感謝の気持ちだな…。
※『続・一日一生』209p
衷心よりご冥福をお祈りいたします。
「老いさき」 20140808 ⇒【目次】
人生の秋を迎えたと自覚したら、もうじたばたしてもはじまらない。
そろそろ半生をふり返って、後始末のことも考えておくべきだろう。
新たな分野を開拓するのではなく、これまでの経験を総括しておく。
新天地を求めて旅立つのではなく、終の棲家をどこにするか決める。
自分の限界を見きわめ、無理なこと、余計なことには手を出さない。青春まっ盛りの人には後ろ向きで、唾棄すべき態度に見えるかもしれない。
しかし残された時間を有意義に過ごすには、こうした養生法が欠かせない。
分をわきまえ、やるべきことだけをやり、後はそっとそのままにしておく。
この辺の事情を、現代の妙好人・榎本栄一さんが、うまく詠んでおられる。「おゆるし」自分ができること、できないこと。
残りのいのちが
すくないので
よみたい本だけよみます
耳がわるいので
きこえる話だけききます
おゆるしください「養生法」
「そっと」
今は馴れないことはしない
遠くへはゆかず
家と店のあいだを
往復して
ここで坐っている
これが私の養生法
どうにもならんことは
そっと
そのままにしておく
※榎本栄一『詩集 群生海』東本願寺難波別院 1974 130-131p
したいこと、したくないこと。
意味があること、ないこと。これらをはっきり区別し、むだなことはしない、迷ったらやらない。
ただし人生は、臨終までなにが起るか、ほんとうに分からない。
日々の生活を営む上で、ほんとうに必要なことなど、意外に少ない。
できること、やりたいこと、意味があることを選び、他は捨て去る。
そうして目の前にあることだけ、少しずつていねいに今ここで行う。
こうしていればくよくよ悩まず、いつも幸せに生きることができる。
独自の養生法で、日々気をつけて生活していた榎本さんに、大波がやって来た。
平成6年(1994)3月に、仏教伝道文化賞を受け、飛行機で東京の会場へ向った。
機内では傍目にも緊張しており、受賞の1か月後、脳出血で倒れてしまった。
それから4年半におよぶ、寝たきり生活の末、平成10年10月に94歳で逝去した。
発病後3年半ほど経過した、最晩年の心境を語る、貴重な記録が遺されている。「絶えず念仏申すれば、自分が見える」と、私は書きもし話もしたが絶えず念仏というのは不可能なことで、雑念妄想にボーッとしている時もあれば、人と話している時もあり、痛くて泣きたくなってうめいている時もあり、私はまあ時々念仏申すのが精一杯でございました。長年の闘病生活を経ながらも、自分を見つめる眼が衰えない、この態度は称讃に値する。
…(中略)…
念仏はやはり自分が見えるということでしょう。それも絶えずではなく時々念仏申しながらここまでやって来たということが、やっと分かりかけました。自分が見えればぐるりが見える。痛み苦しんで最後はやはり南無阿弥陀仏で自分を見、ぐるりを見るべき他にはございません。
※榎本栄一・述 櫛谷宗則・記『コトリと息がきれたら嬉しいな 榎本栄一いのち澄む』探究社 2001 70p
また、その境地を端的に詠んだ、宗教詩も掲載されている。「安らい」インタビュアーの櫛谷さんがコメントして、
時おり
念仏もうしながら
ここまできたが
死ねばそこが浄土や
なむあみだぶつ
※『コトリと息がきれたら嬉しいな』113p
「榎本さんは寝たきりになられたことによって、その信心を一層深められた」
と言っている(同書122p)。
これはまさしくそのとおりであり、さらにまた、
「後から来る人々が、老死におびえず少しでも通りやすいように、一本の道をつけて下さった」
とも解釈できる(同書121p)。わが身を省みても、どのような晩年になるかは、まったく分からない。
とうぜんある程度の予測はあって、なにがしかの生活設計もしている。
しかしそれらは、付け焼き刃にすぎず、しょせん老病死の厳しさに太刀打ちできない。
この先、実際に体験してみなければ、ほんとうのことは、なにひとつ分からないだろう。
それでも榎本さんの言葉で、迫り来る生死の苦しみを、少しは緩和できそうに思える。
「永遠の今」 20140721 ⇒【目次】
過去はすべて記憶の中にしかなく、未来はただの幻想にすぎない。
実際に行動できるのは「今ここ」しかないと、たびたび記してきた。
これはまさしく事実であり、動かしがたい真理にほかならない。
ただそれでは、現在と過去・未来の関係について、やや考察が乏しい。
今を重んじるあまり、他の時間を切り捨て、うまく取り扱っていない。現在をしっかり観察すれば、そこにこれまでの過去も含まれている。
世界的な宗教学者だった故・岸本英夫氏は、晩年癌に苦しんだ。
また未来に対しまったく無計画では、そのうちに行き詰ってしまう。
よりよく生きようとすれば、過去を省み未来も考える必要がある。
現在の中で、遥かな過去までふり返り、遠い将来をも見透す。
そこでは来し方行く末に至る、悠久の時間が現れている。
そうして死を深く見つめ、「永遠なる今」について詳しく考察している。生命を時間的に引き伸ばそうと努力する代りに、現在の刻一刻の生活の中に、永遠の生命を感得せんとするものである。「永遠なる今」を、じっさいの体験として把握する。現在が即ち永遠として感得されるが故に、死の煩いから超脱する。生死の問題もおのずから解決されるのである。過去も未来もしっかり意識した現在、それを「永遠の今」という。
…(中略)…
世界を忘れ、人間を忘れ、時間を忘れたかのような境地に没入する時、人間の心の底には、豊かな、深い特殊な体験がひらけて来る。永遠感とも、超絶感とも、あるいはまた、絶対感ともいうべきものである。この輝かしい体験が心に遍満する時、時の一つ一つの刻みの中に永遠が感得される。現在の瞬間の中に、永遠が含まれている。
※岸本英夫『死を見つめる心』(講談社文庫)講談社 1973 112p
こうした深遠な時間を過ごせるなら、生死の問題も達観できるようになる。
「生死と意識 —水波の教え」 20140609 ⇒【目次】
自分が生れ、やがて死ぬという事実を、しっかり受け止められるかどうかは、深い意識の自覚にかかっている。
自分という意識がどこから生じ、今どこでどのようにはたらいているか、はっきり気づくことができれば、死は帰するところにすぎなくなる。
古来このことについて、大海などに発生する大波小波と、水そのものの性質に喩えた、「水波の教え」がある。
おそらく初出は、大乗仏教の教義を要約した著名な論書『大乗起信論』(馬鳴作?)であろう。一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきに非ず、壊すべからざるに非ず、(なお)大海の水の風に因りて波動するとき、水相と風相とは相捨離せざるも、而も水は動性に非ざれば、若し風にして止滅するときは、動相は則ち滅して、湿性は壊せざるが如く、是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に因りて動ずるとき、心と無明とは倶に形相無くして、相捨離せざるも、而も心は動性に非ざれば、若し無明にして滅するときは、相続は則ち滅して、智性は壊せざるが故なり。一切の意識は無明であっても、覚りの性質から離れておらず、大海の水が風により、波立つようなものである。もし風が止み、波も静まると、もとの海にもどる。衆生の本来清浄な心が、無明の風で波立っても、その風さえ止めば、もとの性質にもどるという。
(以一切心識之相皆是無明、無明之相不離覚性、非可壊、非不可壊、如大海水因風波動、水相風相不相捨離、而水非動性、若風止滅、動相則滅、湿性不壊、如是、衆生自性清浄心因無明風動、心与無明倶無形相、不相捨離、而心非動性、若無明滅、相続則滅、智性不壊故。)
※宇井伯寿 高崎直道 訳注『大乗起信論』(岩波文庫)岩波書店 1994 32p
世界的な禅者であるティク・ナット・ハン師は、この喩えを発展させ、海の波と水にまつわる、美しい教えを説いている。海の表面を見ると、波が盛りあがっては沈んでいる。私たちはこれを、波が高い・低い、大きい・小さい、力強い・弱々しい、美しい・美しくない、などと言う。あるいは、波の始まりと終わり、波の生と死と表現するかもしれない。このような説明は、歴史的次元に喩えられる。歴史的次元においては、私たちは生や死、強さや弱さ、美や醜、始まりや終わりに関心をいだいている。自分が真理の大海から生まれた存在であり、今現在もそこから離れていないと納得できれば、生死の難問が解決する。
もっと深く見つめると、私たちは波が同時に水であることに気づくだろう。
…(中略)…
水は波の生死から解放されている。水には高いも低いもなく、美しいも醜いもない。波の立場にいるから、美しい・醜い、高い・低いと考える。水として考えれば、これらすべての観念は意味を失う。
私たちの命の真実には、生も死もない。私たちは自分の本質に触れるためにどこかに行く必要はない。波は水を探す必要はない。なぜなら波は水だから。私たちは神も、究極の次元も、涅槃も探す必要はない。私たち自身が涅槃であり神であるからだ。
※ティク・ナット・ハン『死もなく、怖れもなく 生きる智慧としての仏教』春秋社 2011 27p
救いを求めて、神や仏をよそに探す必要はなく、今ここに真実がある。
現代の妙好人・榎本栄一さんにも、このような波を詠んだ詩がある。「いのちの波」自分とは、大いなる海の中に生れた、ひとつの小波にほかならない。
いのちの波は
世々生々の 親から
子へとつたわり
私も この一波となり
うねり光っている
いのちの波のゆくえはしらず
※榎本栄一『念仏のうた 常照我』樹心社 1987 70p
その本質は清浄な水であり、大海とまったく異ならず、決して孤立していない。
この真実をほんとうに会得できれば、生死の孤独や恐怖などから、根本的に解放される。
「氣に気づく」 20140505 ⇒【目次】
このごろ「氣」というものが、ちょっと分かるようになった。
「氣」とは一般に、
「人間と自然を成り立たせている生命・物質の動的エネルギー」
と考えられている。
※『気の思想』東京大学出版会 1978 序6p
語源としては、立ちのぼる雲気(雲または雲となる気体)に由来する(同書14p)。
それが派生し天気・元気・人気・士気・活気、気運・気配・気質・気分・気持、等々の意味がある。
日本では一般に、情緒的な傾向が強く、あいまいで流動的な性格をもつ。
中国では動的なエネルギーとして、具体的な実質を含むものとする(同書序4p)。「氣」を集める場所として、古来「臍下丹田」が重視されている。
ここ数年ほど呼吸法にはまり、出入りする息に気づくよう、日々心がけてきた。
臍の下三寸ほどにある「丹田」へ力を込めれば、健康と勇気が得られるという。
しかし、下腹をむりに力ませると、血圧が高まってのぼせたり、腹痛が起きたりする。
そこで「心身統一合氣道」の創始者・藤平光一氏は「臍下の一点」を提唱する。
下腹部全体でなく、恥骨の上あたりを目安とし、一点で心を静めると安定する。
そうして、姿勢を正し一点を保持すれば、常に心身統一の状態で何事にも応じられる。
※藤平光一『氣の呼吸法』(幻冬舎文庫)幻冬舎 2008 83p
それだけでも心身の健康に、はっきりとした効果があった。
風邪をひかなくなり、鼻が通り匂いに鋭くなり、夜安眠し朝爽快に起床できる。しかしまだまだ経験に乏しいせいか、いろいろと問題点が残っていた。
こうした課題が、「氣」の概念をとり入れることで、みな解決できる。
深く呼吸する際には、手足を除いた、ほとんど全身を使うことになる。
呼吸に気づき続けようとするとき、体のどこに注意すればいいか迷う。
体のある部分にのみ、意識を集中させると、つい心がおろそかになる。
従来の呼吸法では、自分ばかり意識して、外界へ注意が向かなくなる。
呼吸ばかりでなく「氣」の状態を意識し、「臍下の一点」に注意する。
一点に集中しているので、「気づき」が持続し、心が散漫にならない。
また「氣」を通じて、体全体のみならず、心の状態までも察知できる。
さらに「氣」は宇宙に満ち満ちており、そのまま外界とも交流できる。しばらく続けると、心も体も活性化し、生命力が湧き上がってくる。
常時一点で「氣」の状態を観察しているため、内外の変化にすぐ対応できる。
物事に適応する力が最大限に発揮され、日常の禍福や幸不幸に動じなくなる。
そうして自ずと生活が豊かで安らかになり、ほんとうの幸福がもたらされる。
「氣に気づく」このよう呼吸法が、自分にはもっとも合っているようだ。
「瑜伽念仏」 20140421 ⇒【目次】
気功・ヨーガ・念仏を実践し、以前に比べかなり瞑想が深まってきた。
すると意識の構造が、おぼろげながら把握できるようになった。心の中で、思考・感情・欲求などの生滅する様子が、はっきりと見える。
おそらく古来の念仏で、憶念する対象の正体は、こうした意識なのだろう。
それは外界の刺激や、体内の感覚と直結して、一時も止まることをしらない。
こうした自我と呼ばれる部分を、ぐるりと取りまくように観察する意識がある。
自我がどれだけ荒れ狂おうと、まったく影響されず、その様子を見極めている。
清濁あわせ呑み、善悪にこだわらず、すべてを受け容れて、微動だにしない。
大海とも宇宙とも、また神とも仏とも言っていい、絶大なはたらきがある。
思えば遥かむかし、ヨーガは仏教に取り入れられ、瑜伽行唯識派を形成した。
人間意識の様相を根本的に解明し、心の根底に阿頼耶識を発見した。
それは今日の深層心理学で、ユング派などが説く、集合無意識まで捉えている。ヨーガのような瞑想を修めると、自ずから意識の構造が理解できるようになる。
こうした深い意識まで気づいて、ようやく念仏がほんとうに分かってくる。
奇しくもその心境が、榎本栄一さんのいう「内観念仏」に、酷似している。
気功・ヨーガで体を整え、「内観念仏」で心を調える。
これを総称して、「瑜伽念仏」と名づけたい。
「内観念仏 —こだわらない心」 20140331 ⇒【目次】
榎本栄一さんという、市井の詩人がいた。
現代の妙好人と称され、念仏にまつわる、多くの短詩を遺している。
榎本さんは、みずから日々申す念仏を、「内観念仏」と呼んでいた。
如来の光に照らされつつ、自分の心中を、ありのままに観察する。
そうすると自分の煩悩がはっきり見え、巻き込まれないようになる。
人生の大波小波に遭っても、あまり翻弄されず、心が落ちつく。
このような心境を端的に示した、晩年の詩(平成元年85歳)がある。「念仏申しもうし」生活上の幸不幸や、心身上の好不調に、いちいちこだわらない。
照らされて
自分の煩悩がみえはじめたら
すこし浄土へ
近づいている証拠です
※『念仏のうた 無辺光(新装版)』樹心社 1998 142p
明治36年10月、淡路島三原郡阿万村に生まれる。5歳の時、大阪に出て西区新町で父母が小間物化粧品店を始める。15歳、高等小学校卒業、父死亡。以後、病弱なりしが19歳の頃から母と家業に精を出す。このころ生田春月の『詩と人生』へ投稿を始めたが、まもなく廃刊。昭和20年3月の大阪大空襲でまる焼け無一物、家族7人淡路島へ逃れる。終戦後、大阪ミナミの焼野原に、いちはやく知人Wさんの仮店舗が復興し、単身住込み自炊生活3年、化粧品部担当。昭和25年2月、東大阪市(当時布施市)高井田市場で化粧品店開業。昭和54年12月末、閉店廃業(76歳)。平成6年度「仏教伝道文化賞」を受賞する。平成10年10月12日、94歳で往生(樹心社ホームページより)。
詩集:『群生海』『煩悩林』(東本願寺難波別院)『難度海』『光明土』『常照我』『無辺光』『尽十方』『無上仏』(樹心社) 詩文集:『いのち萌えいずるままに』(伯樹社)『コトリと息がきれたら嬉しいな』(探究社)
この世で、嫌なこと・つごう悪いことは、あって当りまえ。
好きなこと・つごう良いことは、すぐさま終わってしまう。
ただしずかに見つめ、淡々と接して、生滅するままにしておく。
生じて、盛んになり、衰えて、滅する、その過程をただ観察する。
そうするとむだに消耗することなく、生命力が枯渇しない。要するに常時、気づきを失わず、自分自身を注意して観察する。
いつも心の中で自分に気づいていれば、悩み苦しみに煩わされなくなる。
どこで思考が渦巻くか、感情がわき起こるか、しっかりとみる。
ときおり生じる、心や体の欲求や異常も、見逃さないようにする。
好悪や善悪に関係なく、あらゆる思いをそのまま受け容れる。
ことさらにむだな計らいはせず、自然の流れにまかせてしまう。
そうして今、ぜひともやるべきことだけを、ただ無心に行う。
しかし実際は、しぶとい妄想や激情に翻弄され、なかなかうまく行かない。
やはり心を静め浄らかにする、何らかの瞑想法を修める必要がある。
そのもっとも易しい方法のひとつが、南無阿弥陀仏と称える念仏だろう。
「同行二人」 20140205 ⇒【目次】
孤独感の最たるものとは、ひとりで死ぬことへの恐れだと思う。
まわりに誰もいない場所で、永遠に自分の意識が消滅する。
この状況を思うと、居ても立ってもおられず、たまらなく怖い。
せめて誰かに看取られ、恐怖を慰めてもらいながら死にたい。
そう思うのは、人として当然の願いだろう。ただ自分を心底まで観察するなら、独りではないとはっきり分かる。
自分の心底には、広大な他者が控えており、決して孤独ではない。
「我思う、ゆえに我あり」の自我と、それを観察する「たましい」がある。
「たましい」は、それ以上もう探れない、意識の根底に潜んでいる。
ここから自我を照らしだす、はたらきが起っており、まだ先に何かある。
しかし自分がどうあがこうと、無意識の領域まで、捉えきれるものではない。
その大いなるものと自分は、いつもふたりで共に生きている。
自意識が消滅し、死に至る瞬間まで、必ずいっしょにいてくれる。
このことがしっかり体得できれば、孤独感は根本的に解消する。
「観察するもの」 20140111 ⇒【目次】
今ここで、心身の状態を観察することが、瞑想の基本であろう。
それなら、このように観察する者とは、いったい誰なのか。
心でも体でもなく、そこから一歩離れて観察する者。
おそらくこれこそ、「たましい」なのではないだろうか。
※「たましいとは」20131231 参照。「たましい」とは、定義できない言葉らしい。
そうした「たましい」が、瞑想において、心や体を観察する主体になる。
それをあえて端的に言えば、「物と心の切断からもれてきたものである」
※河合隼雄『宗教と科学の接点』岩波書店 1986 22p
しかし「たましい」は、ただ「もれてきた」、微々たるものではない。
むしろ、自分をはるかに超えた、ひろく大きな世界をもつ。
それは「いのち」の根源であり、心と体のよりどころにほかならない。
心身の方が、「たましい」から生じてきた、泡沫のようなものなのだろう。
刻一刻と変化する心身の状態を、不動の場所から、ありのままに見つめる。
気づいてさえいれば、すべてが明白に姿を現し、ごまかすことなどできない。
ただ決して冷徹な目で見下すわけではなく、どんなことでも受け入れてくれる。
それで心のわだかまりが自然にほぐれ、静かで安らかな気持ちになれる。
これが自ら心身を観察することで癒される、瞑想の原理にちがいない。