雨読










魂のこと 《2013》






   【目次】

 「念仏は心の杖」 「気づきの呼吸瞑想」 「わたしとは何者か

 「深く息して食べて寝る」 「心身と和む

 「ティク・ナット・ハンの意識的呼吸法」 「気づきの動作瞑想

 「リラクセーション」 「わたしとは何者か(答)」 「気功ヨーガ

 「気づきの瞑想生活」 「独りで生きる」 「浄化教 ―心が浄らかになる教え

 「如去」 「気功・ヨーガ・念仏」 「社会と自分」 「聖人と俗人

 「まわり道」 「たましいとは







  「たましいとは」 20131231   ⇒【目次】

 これまでいろいろ書きとめてきたこの記録は、いちおう「魂のこと」と名づけている。
 しかし、その「たましい」とは、いったい何なのかと聞かれたら、実は困ってしまう。
 「たましい」とは、はっきり定義しようのない言葉なのだから。
 たましいということは、意図的なあいまいさをもつ概念である…(中略)…そのあいまいさの故に、厳密には「概念」と言うこともできない。それは明確な定義を嫌う。
 ※河合隼雄『宗教と科学の接点』岩波書店 1986
  「第一章 たましいについて」「たましいとは何か」20p
 それなら、なぜこんな曖昧な言葉を、あえて使う必要があるのだろうか。
 通常、人間について科学的に研究するとき、精神面と物質面とに区別する。
 精神と肉体、心理と生理を、個々に独立したものとして扱う。
 しかしこうして分割してしまうと、生きものとしての人間は、死んでしまう。
 ただ精神のみ、肉体のみの人間など、現実として存在するわけがない。
 あくまでひとつの有機体として、心身は不可分・不可同な関係にある。
 そこで人間存在が心と体に分け切れない何かを称し、仮に「たましい」と言う。
 物と心、自と他などの明確な分割によって近代人は多くを得たが、そこに見失われたものを尊重しようとする態度を、たましいというあいまいな言葉を用いることによって明らかにしようというのである。
 ※同書 21p
 ところで、「たましい」の向上という場合、具体的に何が良くなって行くのだろうか。
 それは少なくとも、知識でも、知能でも、思考力でも、体力でも、運動能力でもない。
 何かの方法で計測可能な心身の能力は、「たましい」のことにあまり関係ない。
 たとえば、情緒が豊かになる、慈愛に溢れる、人格が円満になる、心が浄らかになる、等々。
 こうした数値では計れない美点が、総合的に改善されたとき、「たましい」が向上したという。
 そんな、「たましい」が意味するものとは、まぎれもなく人間存在の、もっとも重要な本質にほかならない。

 また「たましい」という言葉から、「霊魂」を連想する人も多いだろう。
 けれども、ここで考えている「たましい」は、いわゆる「霊」のことではない。
 生霊・死霊・亡霊・幽霊など、心霊的なものとは一線を画している。
 ただ「死」は重要な問題であり、またそれを扱うには当然、宗教の知見も必要になる。
 たましいは、物と心の切断からもれてきたものであるだけに、人間の身体と心の終焉である「死」と深く関係するし、従って、宗教とも関連してくる。自分の死をいかに受けとめるかについて、たましいはつねにファンタジーを送り続ける。身体と心とは、己れの死についてパースペクティブをもつことが出来ない。このように、たましいは死と強く関連し、あいまいさをもつ故に、すべてのものがいかに明確に、明白に見えようとも、その影の部分を見る。たましいの言葉は、従って時に非常に暗く、破壊的ですらある。
 ※同書 22p
 「魂のこと」でも、「死」について思索することが、大きな課題となっている。
 なんの因縁かこの世に生まれ、そう遠くない将来、必ず去って行かなければならない。
 この揺るぎない事実を、どうしたら納得できるか(「毎日の思索」20061024参照)。
 人生における、もっとも大きな目的のひとつは、こうした「死」の問題に、自分なりの解答を得ることだろう。
 そうして「死」に照らしながら、つかの間の「生」を、より有意義なものにして行く。
 このため多くの時間と労力を、仏教などの研究に費やし、得られた知見に従って、行法を修めてきた。
 そして最近ようやく、ひどく長いまわり道の末に、問題解決の筋道が、ちょっとだけ分かってきた。

 「死」そのものは、自分で体験することができず、あくまで想像するしかない。
 「死」について、どれだけ懸命に思索したところで、ほとんど妄想にすぎない。
 「死」の観念などに捉われず、ただ「今ここ」に集中し、行うべきことをする。
 どんな時でも動作に注意しつつ、できるだけゆっくりとした深い呼吸に気づく。
 そうして、意識が完全に失われる瞬間まで、心が浄らかになるよう精進したい。






  「まわり道」 20131201   ⇒【目次】

 二〇歳の頃、祖父の死をきっかけとして、学問に志した。
 いわゆる「爺ちゃん子」で、心がひどく動揺し、新たな支えが必要だった。
 爾来三〇年余、時間の許す限り研究に没頭し、少しばかり成果もあげた。
 ほとんど自費で小著を数冊出版し、いくつか解明できた事柄もあった。
 しかしそれで、自分自身がどうなったかと言えば、はなはだ心もとない。

 業績が認められ、給料や地位が上ることなど、まったくなかった。
 また体調が良くも、感情が穏やかにも、心が安らかにもなっていない。
 まして、人格が円満にも、精神が高尚にも、なったわけではない。
 ごく狭い専門分野で、多少の知識と技術を習得しただけだった。
 要するにどれだけ学問しても、わが身の向上にはあまり関係ないらしい。

 心身の状態を向上させるには、何らかの行法を修めるしかない。
 体を健康にする体操は、多種多様なものが、ちまたで流行している。
 心を鍛練する瞑想は、古来数多く世に伝えられ、今も修行されている。
 こうしたものを、知識として身につけるだけでは、ほとんど意味がない。
 自分に合う方法を探し、実際に行わなければ、心身は健全にならない。

 ところで去年から本格的に、呼吸法を修めるようになった。
 今年からは毎日欠かさず、気功とヨーガを実践している。
 まだ一年ほどの経験しかないのに、生活習慣が一変した。
 体調の管理や、感情の統制にも手ごたえがあり、ひどく気楽になった。
 以後、どれだけ進歩して行けるか、老い先が楽しみな気さえする。

 自分が求めていたのは、学問上の業績ではなく、魂の向上だった。
 良師に恵まれず、独学で道を求めたせいか、ほぼ三〇年もむだになった。
 しかしどれだけ悔んでも、失った時間をとり戻すことはできない。
 せめてこれからは、道に迷わないよう気をつけて、精々修行するしかない。
 今ここ、この瞬間の、動作と深い呼吸に気づき、日々精進して行きたい。






  「聖人と俗人」 20131111   ⇒【目次】

 この肉体がある限り、自己保存のため、食欲・睡眠欲等の基本的欲求は、必須になる。
 いかなる聖人でも心身を健康に維持するため、能力の半分は使わざるをえない。
 自分より他人へ、より多くの力を費やすのは、相手へ病的に依存している場合だろう。
 さとりを開いた仏でも「自利利他円満」で、自分と他人の比率は半々となる。
 ただ盲目的に他人へ尽してさえいれば高い境地へ至れる、というわけでもない。

  自利 利他 状態 コメント
  5  5  聖人 自他の分別をしない仏の境地にある。 
  6  4  賢人 余力のほとんどを他人のために使う。 
  7  3  善人 だいたいいつも他人に気を配っている。
  8  2  俗人 ときどき他人のために働くこともある。
  9  1  悪人 自己中心的で他人にはまず関心がない。

 宗教の本質は、他人への慈悲にある。
 精神的境地は、個人の問題にすぎない。
 自分ひとりだけ救われても、苦しんでいる多くの人々に、何もできないなら意味がない。
 また、まわりの人が苦しんでいるのに、自分だけ幸せいっぱいで、いられるはずがない。
 正気の範囲内で、どれだけ自分のことを考えずに、他人のことを思いやれるか。
 その割合が、宗教の正否をはかる、もっとも分かりやすい尺度になる。






  「社会と自分」 20131101   ⇒【目次】

 社会と自分とは、家族・親類・友人などの付合いや、有償・無償の仕事などを通じて、関係を持っている。
 その中で、日々複数の相手に対し、頭脳・神経や肉体を使って労働している。
 それにより、賃金や物品、または心づかいなどで、さまざまな報酬を得ている。
 こうした個々の関係は、損得勘定でイメージすると対処しやすい。
 特定の相手に対し、自分はどれだけ働き、どれくらい報酬を得ているのか、概算してみよう。

 身心の労働 物心の報酬 評価 コメント
   5     5   無  労働がすべて報われることなどありえない。
   6     4   優  4割も報われるなら最高だろう。
   7     3   良  3割ほど報われるなら良しとする。
   8     2   可  2割しか報われないなら捨ててもよい。
   9     1   不可 1割も報われないならすぐに捨て去る。

 社会との関係は基本的に、自分の好きなことをする、という態度でかまわない。
 道義的に許されるかぎり、何でも好きにし、嫌ならしない、迷ったらやらない。
 それでもやはり、この世の義理や義務で、やらなければならない労働もある。
 そうしたものに損得をイメージして、2割も報われないなら捨てた方が良い。
 やればやるほど、こちらが消耗する一方で、しょせん長続きしないだろう。
 自分の好きなもの、納得のいくものに対してしか、真の実力は発揮できない。
 好きなことはそれをやること自体が報酬で、全力を尽くしても消耗などしない。
 この短い人生で、余計なものに労力を費やされるのは、できるだけ避けたい。






  「気功・ヨーガ・念仏」 20131010   ⇒【目次】

 以前にヨーガを実践するとき、「気」を意識すれば、より効果があるとした。
 ※ 「気功ヨーガ」20130707参照。
 ヨーガは、ゆっくりと行うのがコツで、その動作に呼吸も合わせる。
 このとき心身にわだかまる、病んだもの汚れたものも、いっしょに吐き出す。
 そして宇宙から、清浄な「気」を取り入れるイメージで、自然に息を吸う。
 こうした意識的な呼吸をするなら、日々心身は浄化されていく。

 ただ「気」という概念は、やはりちょっとつかみどころがなく、分かりにくい。
 それでついうっかり雑念が入り、ややもすれば「気」から意識が逸れてしまう。
 そうしたとき、念仏を称えながら行えば、集中がとぎれない。
 ヨーガや気功の深い呼吸に、「南無阿弥陀仏」の六字を入れるようにする。
 声を出しても、心で念じても、六字を続けても、適当に切ってもかまわない。
 念頭に名号があり、雑念さえ防げるなら、後は自分に合うようなやり方でよい。
 またどうしても阿弥陀仏に抵抗がある人は、何でも好きな言葉を念じてもよい。

 今年94歳になる時宗法主・他阿真円上人は、こうした健康法を長年実践されているという。
 この6月に著された自伝で、上人の長寿を支えた、「十二快健康法」を紹介している。
 ※他阿真円『捨ててこそ人生は開ける』東洋経済新報社2013 259p
 「十二快健康法」とは、阿弥陀仏の「十二光」にちなんだ、次の十二項目による健康法をいう。
「快信」 「快息」 「快活」 「快動」 「快感」 「快眠」
「快食」 「快便」 「快精」 「快身心」 「快清」 「快聖」

 とりわけ「快息」の「ナムアミダブ呼吸法」、「快動」の「ナムアミダブ体操」が興味深い。
 「ナムアミダブ呼吸法」では、六字の一音毎に深く吸ったり吐いたりする。
 「ナムアミダブ体操」では、ダンベルを持って体操しながら、念仏を称える。
 その動きは気功に近く、最初に太極拳の「スワイソウ」が取り入れられている。
 要するに念仏して、体に軽い負荷を掛けつつ、気功を行っている。
 これが毎朝の習慣になっているなら、健康増進に効かないはずがない。

 伝統的なヨーガや気功だけでも、毎日まじめに実践すれば、著しい効果がある。
 なにもヨーガに気功を交えたり、まして念仏を入れたりすることもない。
 ただこれまで様々な瞑想法を体験し、各々の長所短所がおおむね分かってきた。
 それらの長所を、みすみす捨てるに忍びず、自分に合うようアレンジしている。
 正統なヨーガや気功を修得した方から見れば、まさしく噴飯ものかもしれない。






  「如去」 20130921   ⇒【目次】

 「如来」・「如去」ということばがある。
 原語の「タターガタ」は、この両様に訳せる。
 如より来り、如へと去る、覚ったひと。
 迷いから離れ、あるがままに、去来する。

 生まれて来ることは、どうしようもない。
 気がついたら、この世にいた。
 いつしか穢れに染まって、悩みが尽きない。
 ただ去りぎわだけは、いさぎよくしたい。

 できるだけ人知れず、さわがずあわてず。
 また、心しずかに、おだやかに。
 そっと、そのまま去ってゆく。

 かくのごとく、「如去」でありたい。







  「浄化教 ―心が浄らかになる教え」 20130909   ⇒【目次】

 今まで二十年以上の歳月、浄土真宗を中心に、浄土教の研究をしてきた。
 しかしこれだけを研究対象として、生涯を終えるには、なにか違和感があった。
 既成の浄土教は、神話的要素が濃厚すぎて、現代人にはひどく分かりにくい。
 脱神話化するにしても、その象徴的意味は様々に解釈でき、一定しない。
 誰もが納得する事実として、浄土教神話を理解するのは、不可能に近い。
 そうしたものを、ただ信じるように求められても、困惑するばかりだ。
 また信心についても、その意味合いをめぐって、多くの学説がある。
 けっきょくどの説にもとづき、どんな態度を採ればいいのか、迷ってしまう。

 本音を言ってしまえば、そんな学術上の問題など、実際はどうでもいい。
 学者として、生計を立てているわけではなく、ほとんど趣味の領域でしかない。
 今現在、自分が抱えている難問を、わずかでも解決できなければ意味がない。
 どうすれば日常生活がうまく行き、対人関係が円満になり、人格が向上するか。
 こうしたことを実現する、何の具体策も示せない学問なら、もう捨ててしまってかまわない。

 浄土教において、念仏することで救われた人々は、かつて確かに存在した。
 たとえば妙好人と呼ばれる人たちは、念仏で回心し、人格が著しく向上した。
 しかしなぜそうなるのか、その原理は科学的に、まったく解明されていない。
 したがって自分が念仏しても、ほんとうに救われるかどうかほとんど分らない。
 その方法を実践して、はっきりとした効果が現れて、はじめて信じるに足る。
 短い人生でなんの良い変化も期待できないものに、長くつき合っていられない。

 もし念仏を、瞑想のひとつとして実践するなら、確実に効果があるだろう。
 念仏するとき、呼吸も合わせて、今ここにある心と体の状態に気づく。
 念仏と心身が一体化し、深い瞑想に入って、物事をありのままに観察する。
 それにより妄想や欲望から離れ、感情が穏やかになり、気持ちも落ち着く。
 ただ呼吸を意識するだけでは、雑念に捉われやすく、すぐ心がおろそかになる。
 念仏などをしていた方が、この瞬間瞬間で、気づきを維持しやすい。
 ゆっくりとした体の動きに呼吸を合わせて念仏すれば、心身もよく調ってくる。
 念仏を修めることで、心が浄らかになり、ほんとうの幸せがもたらされる。
 ※「新しい念仏」20120609「念仏の実践と呼吸」20120818
  「気づきの念仏」20120916参照。

 自分が求めるのは従来の浄土教でなく、「浄化教」とでも言うべきものらしい。
 自分が浄まり、家族が浄まり、友人が浄まり、ご縁がある方々まで浄まる。
 ほんとうの仏教とは、あらゆる人の心が浄まる、体系的な方法にほかならない。
 その真髄は、七仏通戒偈の「自浄其意」(自ずからその意を浄くす)にある。
 ※「自浄其意の幸福」20120802参照。
 今ここで気づきを失わず心が浄らかになる方法なら、何でも仏教と言っていい。
 このような教えを、この命が尽きるまで、日々精いっぱい実践して行きたい。

 ただし、浄らかになると言っても、決して潔癖症に陥ってはいけない。
 やみくもに、穢れを排除するような姿勢は、根本的にまちがっている。
 どれほど穢れて見えるものでも、まずはそのまま受け入れる。
 そうしてよく観察し、対象を深く理解しつつ、徐々に変化を促して行く。
 真の浄化には、こうした清濁併せ呑むような、大きな度量が必須になる。






  「独りで生きる」 20130814   ⇒【目次】

 以前、思秋期特有の孤独を感じ、これにどう対処したら良いか考察した。
 ※「孤独になじむ」20121001参照。
 まず孤独から目を逸らさず、自分をよく見つめ、心情をじゅうぶん理解する。
 そしていざという時、孤立しないように、最低限の友人は確保する。
 その上で、ふだん一人楽しく過ごせる方法を、見つけるべきだとした。
 基本的にこの考え方は、まちがってはいないとしても、ちょっともの足りない。

 自分というものが、ほんとうによく分かったら、おそらく孤独感などなくなるだろう。
 この世界で、ただ一人しかいない自分は、唯一無二の存在にほかならない。
 その個性が実現すればするほど、他人には理解しがたく、必ず孤独になる。
 個性的な人間なら誰でも心の奥底に、余人には窺い知れない聖域を持っている。
 自分が自分自身であろうとするほど、人と異なるのはやむをえない。
 孤独であるということは、同時に自分らしく生きていることでもある。
 この点をよく理解するなら、むしろ孤独は、望むところであろう。

 また淋しさなど感じるのは、独自のライフスタイルが、完成していないからだと思う。
 毎日をいかに過ごすかきちんと決まっていないから、気がゆるんで空しくなる。
 朝から夜まで何時に何をするか、しっかり計画していれば、心に隙はできない。
 そうした日課を、いつも淡々と実行するなら、他人のことなど眼中になくなる。
 後は自分も含め皆が幸せになれるよう祈りつつ、ただ独りで生きて行けば良い。
 『ブッダのことば —スッタニパータ—』より
 四七 われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め(19p)。
 五六 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め(20p)。
 六三 俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め(21p)。
 六七 以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め(21p)。
 六九 独坐と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め(22p)。
 七〇 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め(22p)。
 七三 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め(22p)。
※中村元訳『ブッダのことば —スッタニパータ—』(岩波文庫)
 岩波書店1984「犀の角」






  「気づきの瞑想生活」 20130727   ⇒【目次】

 この頃「気功ヨーガ」の実践を通し、ようやくライフスタイルが確立してきた。
 こうした行法を修めながら、朝起きてから夜寝るまで、行住坐臥に瞑想する。
 とりわけ、深い呼吸に気づきながら、ゆっくり身体を動かすと、効果が著しい。
 ただ漫然と、坐って瞑想するよりも、妄想や眠気が起りにくく、また楽しい。
 後学のため現時点における、そうした瞑想生活の日課を、大まかに記録しておきたい。
 ※参考文献
  佐保田鶴治『ヨーガ入門』ベースボール・マガジン社 2001 
  帯津良一『からだが整う呼吸法(だいわ文庫)』大和書房 2012 など

【平日の日課】

□午前4時半 起床
「気功ヨーガ」をはじめてから、自然に朝4時半頃、目覚めるようになった。頭がすっきり覚醒するまで、身支度をしたり、ネットニュースを見たりする。
□午前5時 ヨーガ
 自分に合った、ヨーガの体位を選んで、ひと通り行う。「簡易体操」「完全弛緩の体位」「クンバカ呼吸法」「瞑想法(蓮華坐)」など。
□午前6時 朝食・読書
 朝はコーヒーと牛乳に果物など、飢えをいやす程度に食事する。時間に余裕があれば、かるく読書する。
□午前7時 出勤
 深い呼吸に気づきながら、気功的な動作を意識して、日々の仕事をこなす。休憩時間にヨーガの「基本体操」や、気功の「時空」などを行なう。
□午後0時 昼食
 昼はおにぎりかパンを数個食べ、お茶かコーヒーを飲む。
□午後7時 夕食・入浴
 夜は野菜を中心として、しっかり御飯を食べる。菜食主義ではなく、動物性の食物も適宜とる。
□午後8時 読書
 行法改善のため、良書を選んで読む。パソコンであれこれ情報検索したり、動画を観たりしてもよい。
□午後9時半 就寝
 寝る前に、かるく気功で心身をほぐす。一日の無事に感謝し、みんなの幸福を祈り、安らかに眼を閉じる。

【休日の日課】
□午前4時半 起床
 休日は身支度の必要がないので、少々寝坊してもかまわない。すっきり目覚めるまで、ネットニュースを見たり、かるく読書したりする。
□午前5時 ヨーガ
 次のように思う存分、ヨーガの好きな体位を楽しむ。
 まず「簡易体操」と「基本体操」をひと通り行う。次に「らくだ」「ねじり」「すき」「コブラ」「背中を伸ばす」等の体位を行う。また「完全弛緩の体位」と「クンバカ」「浄化」等の呼吸法をていねいに行う。終りに「瞑想法(蓮華坐)」をしっかりと修める。決して無理をせず、疲れが残らないよう、リラックスを大切にする。
□午前7時 朝食・散歩
 朝はコーヒーと牛乳に、果物などですます。食後、近所の公園などへ、小一時間ほど散歩に行く。
□午前8時 研究
 ノートの整理や文献の調査・精読を行い、Webサイトのコンテンツを更新する。また、たっぷり時間をかけて本格的に、ヨーガの呼吸法を行い、瞑想法を修める。
□午後0時 昼食
 昼はそば・うどんなどの麺類を、腹八分に食べる。
□午後1時 家事・行楽
 深い呼吸に気づきながら、気功的な動作を意識して、用事をこなす。
□午後6時 夕食・入浴
 休日の夜は、好きなものを食べて、適宜飲酒してもよい。
□午後7時 研究 
 午前中にひき続き、調査や精読などを行う。また「時空」「簡化外丹功」「宮廷21式呼吸法」等の気功を、ひと通り行う。
□午後9時半 就寝
 寝る前にかるく気功で心身をほぐし、一日の無事に感謝して、安らかに眼を閉じる。

【日課の要点

  • 時間はあくまで目安であり、小一時間ほどずれても気にしない。
  • 食事は、野菜中心で腹八分に止め、余計なものを口にしない。
  • 朝起きてから夜寝るまで、できるだけいつも、深い呼吸に気づく。
  • 行住坐臥において、気功的な動きを意識し、心身に無理をかけない。
  • 折りにふれていつでも、みんなの幸福を祈り、感謝して念仏する。






  •   「気功ヨーガ」 20130707   ⇒【目次】

     ただふつうにヨーガを行うより、気功のイメージを取り入れた方がよく効く。
     ヨーガの体操は、毎日続けることで、心身の健康にめざましい効果を及ぼす。
     しかし一般に体のポーズばかり注目され、心の持ち方がおろそかになっている。
     気功では自然の気をイメージし、その流れを意識しつつゆっくり体を動かす。
     このとき動作に呼吸を合わせ、気持を調えて行く、「調身」「調息」「調心」が極意とされる。

     手の動きに呼吸を合わせ、大空からいっぱい気をとり入れ、ゆっくりはき出す。
     足の動きに呼吸を合わせ、大地からたっぷり気をすい上げ、じっくりふみ下す。
     手足の動きを意識して、大宇宙から気を体に満たし、きれいに流してしまう。

     ここで「気」とは何か、ほんとうに存在するか、などと頭であれこれ考えない。
     元気・気分・雰囲気など、なんでも好きな「気」を思えば良い。
     イメージトレーニングだと割り切って、むだな穿鑿はしないでおく。
     いろいろ豊かなイマジネーションを働かせながら、ゆるやかに心と体を動かす。
     そしてさらにヨーガの、伝統的なポーズを決めるなら、効果は抜群だろう。

     ヨーガは座位と臥位のポーズが多く、朝晩家の寝室などで行うのに適している。
     気功は立位が多く、いつでもどこでも、気が向いたときに行える。
     また動きも穏やかで、休憩時間など、心身をリラックスさせるのに適している。

     朝起床後すっきり目覚めたら、そのまま自分に合ったヨーガを、ひと通り行う。
     昼間は呼吸に気づきながら、気功的な動作を意識し、日常の用事を済ます。
     夜就寝前かるく気功で心身をほぐし、一日の無事に感謝し安らかに眼を閉じる。
     余暇があれば、イマジネーション豊かに、ヨーガの好きなポーズを、じっくりと楽しむ。
     余裕があれば、さらにしっかりと呼吸法を行い、本格的な瞑想法を修める。

     日々こうした生活ができれば、かならず体は若返りいつまでも健康でいられる。
     そうしていつしか心も浄らかになり、自ずとほんとうの幸せがもたらされる。
     これを名づけて、「気功ヨーガ」という。







      「わたしとは何者か(答)」 20130624   ⇒【目次】

     以前、 「わたしとは何者か」(20130205) と自問した。
     これに最近、答えが見つかったようだ。
     わたしとは、「行者」らしい。

     長い間、本に埋もれて学問することを、人生の目的としていた。
     しかし正直言って、いつもなにか、もの足りない感じがしていた。
     知識や見識をどれだけ獲得しても、直接心を満たすことはできない。
     まして感情が穏やかになるわけでも、体調が良くなるわけでもない。
     心身の状態を向上させるには、やはり何らかの修行をするしかない。

     それでここ何年も、あれこれ行法を模索してきた。
     その結果、「気づきの瞑想」が、もっとも自分に向いていた。
     とりわけヨーガや気功を取り入れた、呼吸瞑想法を得意とする。
     また、仏教の瞑想として、念仏も称えている。
     要するにわたしとは、「気づきの瞑想行者」ということになる。
     いささか語呂が悪く、なにかすっきりしない。
     でもまあこれで、おおむねのところ納得している。

     「行者」と言うなら、日々どのように暮らしているか。
     毎朝早く、ヨーガをひと通り行い、心身をよく調える。
     日中は、気功的な動きを意識して、種々の仕事をこなす。
     食事は、野菜中心で腹八分に止め、余計なものを口にしない。
     起きてから寝るまで、できるだけいつも、深い呼吸に気づく。
     折りにふれて、みんなの幸福を祈り、感謝して念仏する。
     暇があれば行法改善のため、以前のように本も読む。

     このように生活していると、明らかに心と体が調子良くなった。
     なにかもめごとが起きても、あまり傷ついたり悩んだりしない。
     ものごとに執着しなくなり、なんでも手放して気楽になった。
     そうして時々わけもなく、しみじみとした幸せを感じている。
     いま自分がやっていることは、たぶんまちがっていないと思う。





      「リラクセーション」 20130603   ⇒【目次】

     去年から罹っていた五十肩が、最近ようやく治ったようだ。
     このごろ毎朝、ヨーガを実践しているうちに、すこしずつ良くなってきたような感触はあった。それがあるきっかけで、一挙に治った。
     数日前ふと思いついて、ヨーガの「わしの体位」を試した。立位で両足を絡ませてから、両手も絡ませ、背筋を伸ばして前屈する。実際やってみると意外なことに、手の動きが肩に対する、絶好のストレッチになっていた。
     肩の筋肉が、自力で伸ばせないほどひどく強ばっており、無理に動かすと激痛がはしった。
     そこで痛む場所を意識しながら、ある程度がまんして、ごくゆっくりストレッチした。痛みが増したらすぐに止め、治まったらまた動かすようにしつつ、めいっぱい伸ばした。すると、まるで春の淡雪みたいに痛みは消え、自由自在に腕が動かせるようになった。

     実はこのように、少々無理してまで肩を動かそうとしたのには、わけがあった。
     ちょっと前に、成瀬悟策氏の『リラクセーション』という本を読むと、「恒常緊張」という概念が紹介されていた。

     こうした不全な緊張や残留する緊張は、からだのあちこちの部位や関節にだんだん蓄積され、習慣化し、挙げ句の果てには慢性化して、目指す動きを妨げたり、必要な緊張に干渉したりしかねません。
     このように、からだのある部位に盤踞して緊張や動きに重要な影響を与える緊張を『恒常緊張』と呼ぶことにします。
    ※成瀬悟策『リラクセーション 緊張を自分で弛める法』(ブルーバックス)講談社 2001 20p
     とりわけ四十肩・五十肩は、その中でもしぶとい「居すわり緊張」によるものらしい。これに対する解消法も、懇切丁寧に記されている。
     微緊張を維持しながら、さらに肩をあげていくと、抵抗が現れますが、その抵抗はそれまでとは違う突っ張りか痛みの感じを伴っています。…(中略)…この突っ張りや痛みの感じが出たところが、実はこの肩挙げコース内に居すわっている習慣性ないし慢性的な緊張の位置なのです。…(中略)…停止したまま、その痛みに注意を向けてしばらくすると、その痛みの感じがジワーと変質してくるのがわかります。そのままなお注意を向けていると、先ほどまでの痛みの感じはだんだん軽減して、一種の残効の後、消え去ってしまうのがふつうです。
    ※同書74p
     こうした知識を得たときに、タイミング良くヨーガで患部をストレッチできて、一挙に五十肩が治った。これまで湿布したり、マッサージしたり、体操したり、種々の苦労を重ねてきたのが、まるで嘘のようだ。
     たぶんあえて無理はせず、そっとヨーガを続けただけでも、しばらくすれば完治したにちがいない。ただそれだけでは、なぜ治ったかメカニズムまできちんと理解できず、ぶり返すおそれがある。今回しっかりと、理論的な背景も押さえられたので、また他の場所が痛んだときも、すぐに応用できる。
     何事もほんとうの時機が訪れなければ、根本的に解決しないという好例だろう。






      「気づきの動作瞑想」 20130525   ⇒【目次】

     以前「気づきの呼吸瞑想」(20130115)と題して、日常で意識的に深い呼吸をすれば、瞑想効果が現れると考察した。
     確かに、数か月ほど実践してみたところ、呼吸瞑想は感情を鎮める効果が顕著だった。どんな感情でも、それに気づいて深く呼吸すれば、自ずと鎮静化する。ただそれで様々な欲望まで、うまく宥めることは困難だった。むしろ感情が穏やかになったためか、心中でうごめく欲望の存在にはっきり気づき、対応を迫られる。
     それが、ちょっとしたきっかけでヨーガを始め、毎日少しの時間、意識的にゆっくりとした動作を行ったら、動物的な衝動まで、だいたい抑えられるようになった。
     この点について、近年タイの上座仏教を日本で普及させているプラユキ・ナラテボー師と、脳の覚醒下手術において第一人者の篠浦伸禎氏が、興味深い対談をしている。
    【三次元の悩】
    (篠浦)三次元の脳というのは、脳の上部にある頭頂葉や前方にある前頭葉に大きく関係します。この脳は場所も脳のてっぺんにありますが、機能としても、多くの 情報を統合して、脳全体を俯瞰して見て統率する役割があります。まさに人間ならではの脳なのです。…(中略)…手や足の動きを意識するということは、とりもなおさず三次元の脳を意識的に刺激して動物脳から離れるということと同じですから。
    ※「サンガジャパン Vol.11 特集 なぜ、いま瞑想なのか」サンガ 2012 100p

    【チャルーンサティ瞑想(手動瞑想)】
     手を上げてリズムを作っていきながら、ひとつひとつの手の動作を中心に気づいていく瞑想です。ブッダは、気づき、つまり覚醒力を培うことが、苦しみからの解放を得る一番の方法だ、と言っています。そこでこの瞑想では覚醒力を培うことに重点を置いています。
    ※同書79p
    (篠浦)「気づき」というものも、脳全体をまずリラックスさせて、どんな方向にも対応できるようにしているということなんでしょうか。
    (プラユキ)そうかもしれませんね。チャルーンサティ法では、まず、手や足に気づく。と、この手は昨日の手でもなく、明日の手でもない。イメージで描かれた手でもなく、今、ここのリアルな手ですから、この手足に意識をパッと戻せば、自然と「今、ここ」の現実に立ち戻って来られる。そういう原理です。
    ※同書110p 
     この対談は、仏教の瞑想ばかりでなく、ヨーガや気功が、なぜ心身に良い効果を及ぼすかについて、重要な示唆を与えてくれる。
     手や足の動きを意識することで、動物脳から離れ、人間らしい脳の使い方が可能になる。それは動作の意識化により、自然と「今、ここ」の現実に立ち戻り、脳全体をリラックスさせる、「気づき」の原理による。そうして脳がリラックスし、活性化されたら、心身の活動も自ずと健全化するようになる。

     ちなみにヨーガを実践する際は、ゆっくり、気づきながら、しっかり呼吸し、しめたらよくゆるめる、ということが重要らしい。
     日本におけるヨーガの普及に大きな功績のあった、佐保田鶴治氏が提唱する四原則では、次のようになっている。
    「四原則
     一、動作はゆるやかに
     二、動作に意識を向けて
     三、動作に呼吸を結びつけて
     四、緊張とリラックスの適度な交替
       (特にリラックスを大切に)」
    ※佐保田鶴治『ヨーガのすすめ 現代人のための完全健康法』ベースボール・マガジン社 2002 口絵
     様々な瞑想で、効果が現れるかどうかは、「気づき」にかかっている。
     それは、「今、ここ」に「気づき」、三次元的に悩を使って活性化させる、という原理によっている。日常でこの原理を活かすためには、ただじっと集中して坐っているより、何らかの動作を交えた方が、安全でやり易い。あまり強く心を集中させると、知覚が過敏になったり、幻覚を見たりして、精神に異常をきたす恐れがある。「今、ここ」で動いている身体に「気づき」、現実から意識が離れなければ、それほど心が変な世界へ飛んでしまうこともない。
     この時、心身を動かすコツは、
    「ゆっくり、気づきながら、しっかり呼吸し、しめたらよくゆるめる」
    ことにある。






      「ティク・ナット・ハンの意識的呼吸(呼吸瞑想)法」 20130505    ⇒【目次】

     ここ数年、ベトナムで生れ、世界的な活躍で知られる禅僧、ティク・ナット・ハン師の言葉に注目している。
     ようやく日本でも知名度が上がり、多くの著書が翻訳されるようになった。代表作の一つに、『微笑みを生きる(Peace Is Every Step)』があり、「行動する仏教」(Engaged Buddhism)に関する、師の講話がまとめられている。
     なかでもとりわけ有名な話を、一つそのまま掲載したい。
      いまこのときがすばらしい一瞬(ひととき)

     毎日の繁雑な生活のなかで、ときどき息に気づいてみることはすばらしい体験です。意識的な呼吸の練習は瞑想室だけで行なうものではなく、会社にいるときでも、家庭にいるときや、車を運転したりバスに乗っているときでも、一日じゅう、いつでもどんな場所でもできるのです。
     意識的な呼吸法は、ほかにもいろいろな方法があります。簡単な「入出息」の練習のほかに、息を吸ったり吐いたりするときに、次のような詩をくちずさんでみることもできます。
     息を吸って 私はしずか
     息を吐いて 私は微笑む
     このいまに生きることこそが
     私には すばらしい一瞬(ひととき)
     「息を吸って 私はしずか」。この行をくちずさむと、暑い夏の日に冷たく冷えたレモネードを飲んだときのように、涼しさが体に汲みこんできます。私は息を吸いながらこの一行をくちずさんでいると、本当に息が体とこころを静めてゆくのを感じることができます。
     「息を吐いて 私は微笑む」。微笑みは何百という顔面の筋肉を緩めます。顔面いっぱいの微笑みは、あなたがあなた自身の主人であることの証拠なのです。
     「このいまに生きることこそが」。私はこうしてここに坐っているとき、ほかのことは何も考えません。私はここに坐って、私がこうしてここにいることに気づいているだけです。
     「私には すばらしい一瞬」。しっかりと落ちついて坐り、自分の息と微笑み、そして自分の真のすがたに立ち戻ることは喜びです。いま、この瞬間こそが、私たちのいのちの実在の瞬間です。私たちは、いま、ここ、この暖間でしか生きられません。いま、このときにしずかなこころと喜びを味わうのでなければ、いつそのような時が来るのでしょうか。明日、それとも明後日でしょうか。いまこのときの幸せをさまたげているものはなんでしょうか。自分の息に気づいていつも離れずにいられたら、「身もこころもしずかに微笑む、いま、このままが、すばらしい一瞬」と、こころからいえるのです。
     この練習は初心者だけのものではありません。四〇年、五〇年と意識的呼吸法や瞑想を修行してきた人でも、この同じ練習をたゆまずつづけています。この息に気づく練習は、それほどに大切なものであり、しかも、だれにでも容易にできる練習なのです。
    ※ティク・ナット・ハン著 池田久代訳『微笑みを生きる 〈気づき〉の瞑想と実践』春秋社 1995 10p
     ごく平易な表現の中に、仏教の極意と日々の実践方法を、余すところなく説き明かしている。
     「入出息」を観察すること(入出息念)は、初期の経典からしばしば説かれており、アーナパーナサティ・安那般那念・安般念・安般守意・数息観などとも言われる。釈尊の直説と考えられ、仏教における瞑想法の真髄を伝えている。
    ※『増壹阿含経 巻第七』安般品第十七之一(『大正新脩大蔵経』第二巻)『仏説大安般守意経』(『大正新脩大蔵経』第十五巻)など。ティク・ナット・ハン師も『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』(島田啓介訳 野草社 2012)で、これらの経典を詳細に解説している。
     ここではそうした仏説を、現代の日常生活でどのようにしたら実践できるか、きわめて具体的に教示している。
     今ここで、この暖間に、自分の息に気づき、離れずにいられたら、しずかな喜びを、味わうことができる。この幸せを、今ここで感じなければ、いつそのような時が、来るのかという。
     こうした意識的呼吸法は、だれでも容易に実行できる。しかし、決して初心者だけではなく、数十年も修行を重ねてきた熟練者でも、同じように実践している。
     文中の詩偈はとくに重要なもので、ティク・ナット・ハン師の数ある教えが、端的に示されている。別の翻訳書に、その原文が紹介されていた。
     息を吸い、体を鎮める。  Breathing in,I calm my body.
     息を吐き、ほほえむ。   Breathing out,I smile.
     この瞬間に生きる。    Dwelling in the present moment
     素晴らしい瞬間だと知る。 I know this is a wonderful moment.
    ※ティク・ナット・ハン著 棚橋一晃訳『仏の教え ビーイング・ピース ほほえみが人を生かす』(中公文庫)中央公論新社 1999 12p
     今年になってようやく、呼吸の大切さを思い知るようになった。
     そこであれこれ呼吸法を模索し、この頃なんとか自分に合ったやり方が、だいたい分かってきた。
     しかしそれは、もうすでに数十年も前から、師が提唱してきた方法と、あまり変わらないものだった。
     これをもう少し早く知っていれば、ここ20年ほどの間に、学問研究で重ねた苦労は、ほとんどしなくて済んだかもしれない。
     なんとも多くの時間と費用を、むだに使ってしまったものだと、ひどく悔まれる。
     それでこれから、意識的呼吸(呼吸瞑想)法を、日々実践する決意表明の意味で、蛇足と知りつつ拙い詩を自作した。
      気づきの呼吸
       ―ティク・ナット・ハンを拝して

     息をすって 身も心も浄まり
     息をはいて ゆったりと和む
     いまここに 気づいて生きる
     この時こそ ほんとうに幸せ






      「心身と和む」 20130408   ⇒【目次】

     自分の心や体と、争ってはならない。
     けっして心身は、敵ではない。
     受け容れがたい感情や欲望が、わき起こることもしばしばある。
     また思いがけない病気に罹ったり、時々怪我したりもする。

     それでも愚かに怒ったり、嘆き悲しんだりする必要はない。
     自分の意に沿わない出来事には、往々にして深いわけがある。
     きちんと観察して、よく原因を解明すれば、必ずその真意が理解できる。
     ただいろいろ嫌なことが身に起ったとき、漫然と受けとめるだけでは憔悴する。
     うまく不快な思いをかわし、すぐ正気に戻れる方法を修得しておくべきだろう。

     その原則的な方法は、「今ここに気づく」ということに尽きる。
     しかし、分かってはいても意馬心猿で、なかなか思うように行かない。
     ともすれば意識は「今ここ」から逸れ、過去や未来に飛んでしまう。
     また「気づく」状態を維持するのも困難で、つい種々の妄想に耽ってしまう。
     やはり何らかの体系的な行法を修め、日々実践しなければ、正気を保てない。

     実はこの正月、ふと思い立ち、呼吸法の訓練を本格的に始めた。
     ※「気づきの呼吸瞑想」20130115参照。
     これにより、明らかに一日の中で、「今ここ」に立ち返る時間が増えた。
     その時々で、自分の状態に「気づく」ため、怒りなどの暗い感情に捉われない。
     なにか生きているのが、これまでになく楽になった。

     ただそれで、感情的な問題はほぼ解決しても、まだ心の平安は得られていない。
     依然として内心には、様々な欲望が渦巻き、疼くような感覚に苛まれる。
     とりわけ動物的な欲望は熾烈で、衝動的な行動を抑制することが難しい。
     今年から始めた呼吸法でも、なかなか欲望をうまく鎮められなかった。

     ところが最近、呼吸法をいろいろ研究するうち、ヨーガや気功に出会えた。
     当然以前から一般論として、そうしたものが有効であることは知っていた。
     ずっと気にはしつつヨーガも気功も多種多様で、どれが良いか分からなかった。
     それがふとしたきっかけで、故・佐保田鶴治(1899〜1986)氏の著書を読んだ。
     88歳で亡くなる1週間前に脱稿した、文字通りの絶筆だった。
     ※佐保田鶴治『八十八歳を生きる ヨーガとともに』人文書院 1986
     めずらしいほど感動して、氏が推奨したヨーガを、実践してみることにした。

     まず毎日欠かさず、「簡易体操」と「基本体操」を実行する。
     そして時間に余裕があれば、いくつか好きな「体位体操」も交える。
     ※佐保田鶴治『ヨーガ入門』ベースボール・マガジン社 2001 参照。
     たったひと月ほど実践しただけで、氏が説く通り、はっきりした効果があった。
     日々の体操を通じて、様々な心身の不調を、ただちに察知することができる。
     病気になる以前にすぐ手当し、いつも体が好調で、心も明朗になる。
     その上、意外にも衝動的な欲望がいつの間にか緩和され、しのぎやすくなった。
     気功にも同様な効果があるらしく、目下鋭意研究している。
     ヨーガや気功の流派に捉われず、自分に合った行法を、模索して行きたい。

     どうやら「今ここ」にいるコツが、なんとなく分かってきたようだ。
     それは、呼吸をはじめ身体の動きに、いつも「気づく」ことらしい。
     そしてようやくこの頃、心と体のすべてを、受け容れられるようになった。
     誰とも争わず、いつもほんとうに和んでいられる、めどがついた。






      「深く息して食べて寝る」 20130313   ⇒【目次】

     幸せになるため、何かを求めて、遠くへ彷徨い歩く必要はない。
     今ここで深く息を吐き、毎日腹八分に食べ、夜決まった時に寝れば良い。
     深く吐く息に、いつも気づいて生活していれば、妄想や感情に捉われない。
     日常のこまごまとしたことが、いつも新鮮な気持ちで、ていねいに行えるようになる。
     そうして折々、心の中にしみじみとした喜びが生まれ、この上ない生きがいを感じる。
     これほど幸せなことは、他にない。

     ここで言う幸せとは、欲しいものを得た、満足感を意味するのではない。
     幸せは、大きく二種類に区別できる。
     一つは勝ち取る幸せで、求める対象が得られたことで起る、満足感をいう。
     もう一つは湧き出る幸せで、浄らかな心の中から生まれて来る、充実感をいう。

     財産・地位・名声・恋愛など、欲しかったものを得た喜びは、すぐに消え去る。
     それらは、少し状況が変わるだけで失われ、後々ひどい喪失感に苛まれる。
     そんなにたやすく、失われてしまうようなら、本物とはいえない。

     いったん手にした後は、生涯なくならない、ほんとうの幸せ。
     それはなにも、特別なものではない。
     心が浄らかにさえなれば、生きているだけで幸せを感じる。
     何がなくとも、今ここでしっかり息をしていれば、それで充分。
     何かを求めて、わざわざ他所へ行く必要などはない。
     ※「いまここにいる幸せ」20111212 参照。







      「わたしとは何者か」 20130205   ⇒【目次】

     時々「わたしとは何者か」と、自問することがある。
     ふつう人は他人のことを、いちいちくわしく覚えてはくれない。
     名刺の肩書のような、一言で済ましてしまう。
     それなら自分は端的に、人から何と言われるのが、最も意にかなっているのだろうか。

     わが身の来し方をふり返り、修得している技術や知識を点検してみる。
     また内心の意欲や意志を考慮して、総合的にどのような言葉で表現するか。
     これが、なかなか容易ではない。

     現在の職業は、生活の糧を得るための手段にすぎず、自分の本質とはあまり関係ない。
     学生の頃にめざした、東洋思想研究者の道は、とうに閉ざされている。
     田舎に帰り、趣味ではじめた仏教研究も、だいたい先が見えてしまった。
     これから積極的に、研究活動を展開する予定はない。
     一時期傾倒した浄土真宗とも、今はやや距離を置いている。
     本願寺教団がもてはやすような、篤信の念仏者には、とてもなれない。

     それでも人が、より良く生きる道を求める熱意は、決して衰えていない。
     むしろ長年模索した結果、自分に合った方法論を見出し、日々実践している。
     生きる道を探し求めて、なんとか進めそうな道を見つけ、実際にその道を歩んでいる。
     求道者が見道して、得道するよう努力している。
     あえて名づけるなら、「道人(どうじん、みちのひと)」だろうか。
     しかしこれでは誰も、その意図を理解してくれないだろう。

     ふつう人は、所属する組織や流派によって判断される。
     しかし自分は残念ながら、「研究者」というにはどの機関にも属していない。
     「宗教家」というにはどの宗派にも、「哲学者」というにはどの学派にも属していない。
     これまでの実績から言えば、「東洋思想家」という名称が、まあ適当だろうか。
     しかし「思想家」などと、自分で言うのは、ひどくおこがましい。
     また世に問えるような、独創的で体系的な思想などは、ほとんど持ち合わせていない。

     もう少し、すっきりとした言い方はないかと、あれこれ考えあぐねている。







      「気づきの呼吸瞑想」 20130115   ⇒【目次】

     気づきながら深く呼吸すれば、常時瞑想できる。
     呼吸では腹から吐く息が大切で、吸うのは自然にまかせておけばいい。
     意識してながく息を吐いていれば、しだいに落ち着き、体調も整う。
     とりわけ息といっしょに、雑念を吐き出すようにするといい。
     ひと息ひと息、心が浄らかになっていく。
     他のあらゆる瞑想に、勝るとも劣らない効果がある。

     呼吸は意識的に行えば、心身のバランスを整える予防医学的なテクニックになる。ある実験によると、腹式呼吸で20秒間息を吐き続けたら、ストレスが激減するという。
     「息を吐く時間を長くすることで副交感神経が活発に働き」「自律神経系のバランスがノンストレスの状態」になるらしい。
     ※永田晟『呼吸の極意(ブルーバックス)』講談社 2012 70p
    「具体的には10秒以上の時間をかけることが必要です。ゆっくりと深く多く息を吐くわけです。そして、少しずつ息を吐くことで呼息時間をできるだけ長く延ばすことが大切です」(同書58p)
     こうすることで「副交感神経が活発になり、内蔵の働きが促進」(同)される。

     それなら毎日、どれくらい深い呼吸ができるだろうか。
     だいたい吐く息に20秒、吸う息に10秒ほどかかるとする。すると1分間に2回、1時間で120回の呼吸となる。1日では、120回×24時間=2,880回におよぶ。
     しかし、寝ている間は意識できないので、8時間を差し引くべきだろう。また、食事や休息時間も必要なので、さらに2時間を除いておく。
     したがって実質、120回×14時間=1,680回となる。
     ただし、1分で2回というのは、かなり遅い呼吸で、ずっと続けるのは難しい。本気で実践しても、1日1,500回くらいが限度だろう。

     もちろん個人差があり、20秒とはあくまで目安にすぎない。今この瞬間、自分の深い腹式呼吸に気づくことが重要で、秒数の問題ではない。
     10秒から20秒ほどの間で一日千回を目標とし、無理せず息を吐くようにする。ただし千回という数にも、あまりこだわる必要はない。千回できたら成功で、数百回なら失敗というわけではない。要するに朝起きてから夜寝るまで、時と場を選ばず実行するという意志表示のため、仮に千回という数を決めておく。
     この深い呼吸に気づきながら、心中の雑念もいっしょに吐く。怒りや悲しみ、落ち込みなどの感情や妄想を、意識して息に乗せ、外へ出すようにする。ひと息ひと息、心が静まり落ち着いて、浄らかになって行く。
     試みに数日継続するだけで、その大きな効果を実感できるにちがいない。

     ヨガにも「浄化呼吸法」という、イメージで気を誘導し、浄化する方法がある。
    「吐息
     口をとがらせ、唇のあいだを『邪気が出ていく、邪気が出ていく』とイメージする。イメージを強く描けたほうがそれだけ高い効果が得られるので、意識をより濃くイメージ化するために吐く息は3分の1ずつに分けておこなう。
     吐く息に乗せる邪気は、疲れや痛み、苦しみの毒など、場合によって使い分ける」
     ※龍村修『深い呼吸でからだが変わる』草思社 2001 165p
     10分ほど行うだけで、疲れや痛みなどが、大幅に軽減される。およそ1日2万回にもおよぶ無意識的な呼吸のうち(『同書』14p)、決して無理せず、毎日千回ほどを意識的に行えば、心を浄化する効果は計り知れない。

     このような意識的な呼吸は、精神医学の分野にも取り入れられつつある。近年アメリカで、「コンシャス・ブリージング」という心理療法が提唱されている。
    「癒しやストレス軽減、または人間的成長のための手段として呼吸を意識的に活用する」
    という主旨で、正しい横隔膜呼吸を身につけるための実用的なプログラムが、数多く開発されている。
     ※ゲイ・ヘンドリックス著『「気づき」の呼吸法』上野圭一監修 鈴木純子訳
     春秋社 1996 序文
     「コンシャス・ブリージング」を実践することで、短期間に次のような効果が現れるという。
     「ストレスと緊張を解き放つ」(同書10p)「感情をコントロールする」(14p)「病気を予防・治癒する」(19p)「痛みをコントロールする」(25p)「集中力と行動力を高める」(29p)など。
     ところで、意外にもこうした呼吸法を行うとき、特定の宗教や思想などの背景は、一切必要ないらしい。ただ納得して日々継続すれば、それだけでめざましい効果が現れる。

    「(呼吸法の)恩恵に浴するためには、神秘的な教えを信じたりする必要は一切ありません。過度に哲学的であったり、カルト的なたわごとを引きずっていたりするせいで、呼吸法の実践に拒否反応を示す人々に私はたくさん出会ってきました。しかしこの呼吸法は、あなたの信念や信仰、食習慣やライフスタイルなどを変えることを要求しません。ただ実践すればいいのです」( 『「気づき」の呼吸法』序文)

     ちなみに東洋思想において、呼吸の極意は、踵で息をすることにある。
     『荘子』大宗師篇 第六
    「古えの真人は、其の寝ぬるや夢みず、其の覚むるや憂いなく、其の食らうや甘しとせず、其の息するや深深たり。真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす(古之真人、其寝不夢、其覚无憂、其食不甘、其息深深。真人之息以踵、衆人之息以喉)」
     ※『荘子 第一冊 内篇(岩波文庫)』金谷治訳注 岩波書店 1971 174p
     深い息をするとき、胸式呼吸より腹式呼吸の方が良い。さらに伝統的には、通常の腹式呼吸より、臍の下あたりにある丹田呼吸の方が、優れているとされている。真人の呼吸はさらに下って、踵で行うという。胸より腹、腹より丹田、丹田より踵と、意識をより大地に近く持って行くと、理想的な呼吸ができるらしい。

     瞑想とは要するに、心を訓練する方法のことにほかならない。そしてその本質は、「今ここ」で「気づき」を失わないことにつきる。
     それなら呼吸を意識するだけで、時と場を選ばず、いつでも瞑想できる。
     こうした「気づきの呼吸瞑想」により心も浄まり、ほんとうの幸せが訪れるようになる。







      「念仏は心の杖」 20130105   ⇒【目次】

     いまの自分にとって念仏とは、生きて行く道で頼りになる、杖のようなものだろうか。
     ふだん心身ともに元気で、独り立ちできる時は、正直さほど必要と感じない。
     何にも頼らず、この身ひとつさえあれば良い、くらいに思っている。
     けれどもいったん、心や体の調子が悪くなると、自分などはまったく当てにならない。
     頼れる何かにすがらなければ、一歩も前へ進めなくなる。
     そして遅かれ早かれ、病や老いのために、その時は必ず訪れる。
     まだ元気な内から、頼りとなる杖を手元におき、よくなじんでおくべきだろう。

     これまでご縁があり、浄土真宗の教義について、あれこれ研究してきた。
     それで信心の伴った念仏が、自分にはもっとも適している、と納得できた。
     ただどれほど愛着あるものでも、それを見つめるだけでは、よく理解できない。
     幅ひろく周辺を見渡して、類例と比較しなければ、本質は明らかにならない。
     真宗だけでは念仏の本質を理解しがたく、念仏だけでは仏教瞑想の本質を理解しがたく、仏教だけでは瞑想の本質を理解しがたい。
     あれこれ調べてみたところ、瞑想には気づきと集中の型があり、仏教は気づきに特徴があり、念仏は仏教瞑想の一種で、真宗は念仏の行法より信心に傾いている。
     極論すると「今ここ」にいることさえ気づいていれば、何をしようが正しい瞑想になる。
     瞬間瞬間に心身の状態と動作を意識し、雑念に捉われず、余計な妄想に煩わされない。
     いつでもそれができれば、やがて心は浄らかになり、ほんとうの幸せが訪れる。

     けれども人生では、しばしば正常な心理状態でいられない、修羅場に遭遇する。
     そんな時、正気に返るための、合言葉を決めておくと心強い。
     荒れ狂う嵐の中、合言葉を称えることで、危険な妄想に陥らず、なんとか忍んで行く。
     合言葉を心の杖として、悪路をくじけずに、一歩一歩進み続ける。
     そうこうするうち、必ず状況が好転して、いつもの平穏な気持に戻れるだろう。
     このような合言葉に、念仏は最適だと思う。

     現代日本において、法蔵菩薩神話は、すでに現実性を失っている。
     従来の浄土教学に、どうしても拘るべき理由は、もはや見出しがたい。
     それでも念仏自体は、正統で容易な仏教の行法として、ますます重要性を増している。