雨読










魂のこと 《2011》






   【目次】

 「カウンセリングは代受苦か?」 「苦しみからの 脱出」 「苦しみの解決法

 「止・観の念仏」 「怒りの観察」 「念仏の身体性

 「今ここに生きる瞑想生活」 「心のモード」 「自分が幸せであること

 「わたしの幸せ」 「いまここにいる幸せ









  「いまここにいる幸せ」 20111212   ⇒【目次】

 ともすれば人は、幸せを求めて遠くへ旅する。
 けれどもどれほど遠くへ、長く旅をしても、必ずしも幸せが得られるとはかぎらない。
 自分にとりなにが幸せか、よく分かっていなければ。

 それより少々意識が変わると、今ここにいるということだけで、しみじみとした幸せが感じられる。
 日々無事でいられることが、どれほど奇跡的でありがたいか、とくと納得できるようになる。
 よく自己を観察して、妄想することなく、心が浄らかならば。

 『老子』 第四十七章 
 戸を出ずして天下を知り、牖(まど)を窺わずして天道を見る。
 その出ること弥々遠ければ、その知ること弥々少し。
 (不出戸知天下、不窺牖見天道。其出彌遠、其知彌少)






  「わたしの幸せ」 20111201   ⇒【目次】

 いま誰かに、
「幸せか」
と問われたら、
「たぶん」
と答える。
 しかし属性や境遇の点で、自分にとりたてて目立ったところはない。
 どこから見てもただ平凡な生き方をしており、どうして幸せと言えるのか、外見からはまったく分からないだろう。
 そこでふたたび、
「なにが幸せか」
と問われたら、
「幸せがなにか、分かったから」
と答えよう。

 とくになにがあるから、なにが得られたから、幸せなのではない。
 自分にとり幸せとは、心に怒ったり貪ったりする、愚かな気持ちがなくなり、浄らかになることだと、はっきり分かった。
 そしてそうなるための、明確な方法も実践できるようになった。
 心が浄らかになることは、諸仏による真実の教えであり、念仏などでそれが実現できる。
 幸せとはなにで、それを得るためにはどうしたら良いか、明らかになった。
 そうしてふだんから折にふれ、実際に幸福感を味わっている。
 これほど幸せなことは、人生でほかにないだろう。

 以前、英国の動物行動学者であるデズモンド・モリスの、『裸のサルの幸福論』(新潮新書)に感銘を受けた。
 そして幸福の定義を、いろいろ考えたことがある(「幸福論」20050924)。
 同書で引用されている諸説によれば、
「人生とは、短い幸福によって時々妨げられる、苦痛の連続」
にほかならない。
 したがって、
「幸福とは、不幸な季節の間に訪れる小休止」
にすぎないという。
 そして著者自身は、動物行動学的観点から幸福について、
「物事がよくなった時に我々が感じる突然わきあがってくる喜びの感情」
と定義している。
 あくまで幸福とは個人的な感情であり、自分の欲望が叶うかどうかで、その有無が決定される。
 これらを参考に私見として、
「幸福とはわがままな自分の欲望が、たまたま叶ったときに起こる、喜びの感情」
と定義した。

 しかし今あらためてふり返ると、幸福を感情的なものとする考え方は、まあ妥当だろう。
 ただし幸福感というものは、必ずしも欲望が叶ったときだけ起こる、とはかぎらないと思う。
 望みどおり、なにかを得ることだけが、幸せなのではない。
 ただ今、日常生活を淡々と営むこの場から、自然にしみじみとした充実感が、湧き出て来る。
 なにはなくとも、心が清々しく安らかで、満ち足りている。
 ごくふつうに起きて食べ、あれこれ仕事をこなし、ときどき遊び、疲れて寝る。
 そんな平々凡々とした生き様に、心からよろこびを感じる。
 たとえばこのように生きて行けたなら、まさしくそれが最高の幸福なのかもしれない。

 このようなわけで、
「幸福とは、心が浄らかになることで得られる充実感」
であると、再定義させてもらうことにしたい。






  「自分が幸せであること」 20111118   ⇒【目次】

 人生でいちばん大事なのは、もしかすると自分がほんとうに、幸せであることかもしれない。
 「しあわせ」を「幸福」という意味でとるなら、たとえば『日本国語大辞典 第二版』(小学館)では、
「【幸福】恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいこと。めぐりあわせのよいこと。また、そのさま。さいわい。しあわせ」
とある。
 自分で幸せを感じられず、不幸な気持ちが去らないなら、その満たされない思いを埋めるため、ほかのものに依存するようになる。家族・友人・仕事・趣味などのまともなものから、賭事・酒・薬物などの有害なものまで、世の中には多くの依存対象がある。
 しかし、いずれも依存しているかぎり、ほんとうの満足は与えてくれない。依存対象に執着すればするほど、心にぽっかり穴でも空いたような、むなしい気持ちにさいなまれることになる。最悪の場合、そうしたむなしさに耐えきれず、心が病んで、生活が破綻してしまう例も少なくない。
 精神的に充実し、境遇にかかわらず、ただ今ここに生きているだけで、しみじみとした喜びが、感じられるようになるまでは。

 理想的な姿をいうなら、ふだん特に問題のないときは、いつも心が静かに澄んでおり、あれこれ妄想せず、落ちつきていねいに日常生活を営んでいる。また、艱難辛苦のまっただ中にあり、眼前に困難な課題がぶら下がっているときでも、それを解決するため、懸命に努力し精神を集中させているので、心が怒りなどの暗い感情に、少しも穢されない。平穏無事な日常でも、苦難の多い非常時でも、怒ったり貪ったりする、愚かな気持ちに捉われず、澄みきった小川のような、さらさらとした心境でいる。
 このように浄らかな生き方をしていれば、もうなにも悩み苦しむことなく、日々喜びに満たされて過ごせるようになる。
 一言で表せば、
「真の幸せとは、心が浄らかになること」
だと思う。
 こうした幸せを、自分が実感していないかぎり、ほんとうに他の人を慈しむこともできない。逆にいつも自分がこのように幸せなら、ことさら努力しなくとも、自ずと人に善い影響を与えられるようになる。

 じつは幸せが伝播する、という調査報告がある。
 それは「フラミンガム・スタディ」という、アメリカで長期間実施された有名な疫学調査のうち幸福に関するもので、次のようなことが実証された。
 幸せと感じている人のまわりには、同じように幸せと思っている人がいて、それがかたまりをつくる。この現象は「幸せが幸せを呼ぶ」と呼ばれ、幸せな人の周囲は友だちの友だちの友だちまで、3段階にわたり幸福を感じていることが、データ上に示唆された。
 幸せは伝播することが証明された実験で、この調査では幸せな人に囲まれていると、今は幸福感が薄くても、時間の経過によって幸せを感じる頻度が増える、ということも分かった。
 ※白澤卓二『老いに克つ百寿の生き方』KKベストセラーズ 2011 187p
 ほんとうに自分が幸せなら、自然にまわりの人も幸せにできる。人生でこれほど大事なことは、ちょっとほかに見当たらない。






  「心のモード」 20111003   ⇒【目次】

 いつも心を観察し、その時々にどんな状態か意識するようにしていると、衝動的な行為がなくなり、精神が安定する。このような心の状態にはある種の型があり、それをパソコンなどの「モード」に譬えると分かりやすい。
 「モード」とは一般に、作業の状態や動作の体系を意味し、「セーフモード」「省電力モード」「日本語入力モード」等、多くのパターンがある。これをヒントに、日々心の中で現れている、主な「モード」を列挙すると、次のようになる。

妄想モード
 自分に執着して善悪をとわず、あれこれ思いにふけること。妄想はだいたい感情的な要素をともない、さらに、喜・怒・哀・楽などを基調とした、感情のモードに分けられる。自分がどのような感情を帯びて、妄想しているか気づけたなら、すぐ正気に戻ることができる。
思想モード
 現実に対処するため、具体的にあれこれ考えること。思考。これはさらに、真理や法則等の究明を対象とした、学問的・科学的なものと、日々の生活を営む際に求められる、日常的なものに分けられる。
瞑想モード
 言葉から離れ、身体感覚を重んじて、今ここに生きること。これはさらに、集中して心を静める「止」と、物事をありのままに捉える「観」のモードに分けられる。

 以上のとおり心の状態を、喜・怒・哀・楽(妄想)、学術・日常(思想)、止・観(瞑想)という、8相のモードから捉えるようにすると、自分の精神状況が的確に把握しやすい。
 これを道路の信号機に譬えるなら、妄想モードは「赤」、思想モードは「黄」、瞑想モードは「青」といったところだろうか。
 気づいた時点で、「赤」の妄想ならただちに停止し、「黄」の思想ならよくよく注意し、「青」の瞑想ならますます前進するように心がける。目標としてまず均等に、三割から四割ほどを「青」に当て、三割が「黄」として、「赤」は三割以下に押さえたい。これができるようになったら、徐々に「青」の割合を上げ、「赤」を下げる。そうして意識がある時間の半分以上を、止・観の瞑想で過すことができれば、理想的であろう。
 それを達成すれば、かならず心が正しく調い、浄らかになって、日々幸せに暮らせるようになる。






  「今ここに生きる瞑想生活」 20110909   ⇒【目次】

 テーラワーダ仏教では、日々「ヴィパッサナー瞑想」などを熱心に修めている。
 アルボムッレ・スマナサーラ師は、そうした瞑想の本質を、ただ一言で次のように語る。
 瞑想とは、「いま現在に生きること」
 —『現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4(サンガ新書)』   サンガ 2007 67p
 しかしこれは、なにも上座仏教だけに限ったことではない。
 この世にある、他のさまざまな瞑想でも、まったく同様であろう。
 過去・未来にまつわる、あらゆる妄想・空想などから、すみやかに離れる。
 そしてこの場所で、いま現在に集中し、ただ精いっぱい生きる。
 このような心がまえで、今ここに生きることができていれば、身体の姿勢がどうであれ、正しく瞑想していると言ってよい。
 念仏であれ坐禅であれ、その他あらゆる修行法でも、とどのつまりはただ妄想から離れ、今に生きるため行っているのだろう。
 そうして自分が持っている能力を、遺憾なく発揮していれば、悔いの残らない、充実した人生を送れるようになる。
 運・不運や幸・不幸に関係なく、やれるだけのことをやり遂げ、納得して人生を終えられたなら、これ以上の幸福はないだろう。
 このような「今ここに生きる瞑想」を、毎日の生活で一時も欠かさず行いたい。
 ついうっかり忘れても、できるだけすみやかに気づき、今ここに生きるよう心がける。
 そんな「瞑想生活」を、これから日々実践したい。






  「念仏の身体性」  20110822   ⇒【目次】

 現代日本で念仏について考えるとき、ともすれば信心の有無がどうのと、心の在り方ばかり問題にされる。そしてその身体性については、ほとんど無視されているようだ。
 しかし日本の仏教史をふり返るなら、念仏とは明らかに仏の教えを具体的に実践するための、行法にほかならなかった。心の中で念じるだけでなく、口で称え、体も調えて行うものだった。
 今日、念仏の主流となっている浄土真宗等では、原則として身体的な修行は禁止されている。雑行雑修は正しい信心を妨げる、有害なものとして退けられている。そうして念仏から身体で行う要素を削り、頭の中でしっかり領解するだけで良いとしている。

 これは考えてみれば、かなり知的な態度であって、浄土教の布教対象とされる、一文不知であまり思索する習慣のない者には、かえって難しいかもしれない。またこうした観念的な方向から、きわめて思弁的な「真宗神学」のようなものまで形成され、実際どのように念仏したらいいのか、理解困難になってきている。

「念仏とは何であり、念仏すると、どんな良いことがあるのか?」

 この単純な問いに、仏教神話を持ち出さず、現代人にもきちんと納得できるように答えようとすると、今の真宗教義ではひどく難しいだろう。
 それより実際に念仏を称え、自分がどう変化するか体験してもらった方が良い。

 日々の生活でどのように念仏するか、具体的な方法を示して、それを一定期間、有無を言わずにやってみる。それでまったく、なんの変化も感じられない、と言うなら、残念ながらその方に、念仏は向いていないので、他の方法を探してもらう。
 仏教には八万四千の法門があるとされ、なにも念仏が唯一絶対の教えであるわけではない。それを行うことで人格が向上し、心が豊かになり他者を慈しめるなら、べつに宗教でなければならないわけでもない。
 ただ念仏は、心をこめて行えば、必ずこうした効果が現れる。それを実体験し、納得した上で、人生を歩むための目や足として、選び取るのでなければ、けっして長続きしない。
 もし現代で念仏を研究するなら、それが心身にどのような変化をきたし、人生にどんな利益をもたらすのか、科学的に解明する、という方向性が必要だろう。






  「怒りの観察」  20110618   ⇒【目次】

 アルボムッレ・スマナサーラ師の、
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1(サンガ新書03)』サンガ 2006
『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話11(サンガ新書43)』サンガ 2010
を読んだ。実に感動的だった。
 『怒らないこと』から、強く印象に残った点を列挙すると、次のようになる。
  • 仏教では本来、怒りを根本的に否定しており、正しい怒りなどない。けっきょく自分が正しいと、かんちがいするから怒るのであり、物事を的確に判断でき、反省する力のある人なら、決して怒ったりしない。
  • 怒りの原因は「我=エゴ」で、ここから無智が生まれ、心が汚れる。
  • 怒りは自分を焼き尽す火であり、体の具合を悪くし、病気を起こし、心を壊す、猛毒にほかならない。
  • 怒りは観察することで消滅し、たとえノコギリで体を切り刻まれるようなことがあっても、決して怒りを懐いてはならない。
  •  また、『怒らないこと 2』の要点は、次のようだった。
  • 人間の感覚そのものが「苦」であり、生きることは「苦」にほかならない。これをよく観察して、執着がなくなった心を「覚り」という。
  • 怒りは気づいた時点ですぐ消す必要があり、心に明るさがなくなってきたら、怒っていないか注意する。怒りに気づいたらよく観察し、とにかくあれこれ考えず、すぐ心を停止させる。
  • 怒りをほんとうに克服するためには、自分というものを根本から知る必要がある。けっきょく自我そのものが錯覚で、ただ感覚の変化を感じて流れているだけであり、実体としては何もない。これを心から理解できれば、怒りというものはありえなくなる。
  • 一切の生命は苦しんでおり、このことに気づいて慈しむ心が起これば、怒りが入り込むすきまもなくなる。
  • 慈悲により怒りが完全に克服され、これを完璧に行うと、最終的な「覚り」に達する。
  •  以上の2冊では要するに、
    「怒りを完全に克服すれば、覚ることができる」
    という、驚くべき事実が説かれていた。
     仏教的な視点から心を分析するなら、暗い感情や否定的な感情は、すべて何らかの怒りから生じているとはっきり分かる。

     思えば、自分は20年ほど前に、田舎へ帰ってきてから、ずっと何かに怒り続けてきた。それをへりくつで正当化し、心から反省することがなかった。
     また自分はもともと短気な方で、カッと怒ると頭に血がのぼって、心中まっ白になり、思考や感情をコントロールできなくなる。ひどいときは、体がふるえ言葉も出なくなり、冷静さがまったく失われてしまう。ほんとうに自分は、怒ったら負けなタイプだった。

     怒る人を好きな者など誰もおらず、怒れば必ず人から嫌われ、また自分も見失うので、よくよく慎むべきだろう。
     今ようやく、この根強い怒りに気づき、心が軽くなって、多くの苦しみから解放されたように感じている。怒りをしっかりと観察し、根本から解消することができれば、まさしく人は救われるにちがいない。






      「止・観の念仏」  20110510   ⇒【目次】

     常行三昧を内容とする、天台宗の止観念仏ではなく、仏教古来の止観行を内包する念仏が、今日求められているのではないだろうか。
     止観行のうち、「止」の原語は「サマタ」で、対象を決め、心を集中させる行であり、「観」とは「ヴィパッサナー」で、分別や判断など入れず、心をありのままに観察する行のこととされる。上座仏教などで懇切丁寧に、その具体的な方法が教えられている。

     ところで以前に詳述したとおり(「念仏の種類と方法」20100404)、遅い念仏には「止」の、早い念仏には「観」の効果がある。これを心理状態にあわせて、適切に使いわけることで、精神が安定し、心が浄められる。
     いま現在、苦しい感情がつよく現れているなら、遅い念仏を行い、気持を鎮める。また心身のリフレッシュをはかり、定期的にゆっくり時間をかけて念仏すると、より効果が上がるだろう。
     日常では、朝起きてから夜寝るまで、時と場所を選ばす、いつでも早い念仏をするよう心がけ、心身をありのままに観察し続ける。そうすれば、激しい感情や頑固な妄想が起きても、ただちに気づいて解消でき、心の平静を保ちやすくなる。
     そうしていつも念仏するようにしていれば、悩み苦しみにとらわれることがなくなる。自分自身をありのままに知って、心が根本的に浄化されるようになる。

     ただし人前で、これ見よがしに念仏すると、どうしても邪念が入り、効果が半減するので注意を要する。






      「苦しみの解決法」 20110309   ⇒【目次】

     「苦」とは仏教的にいえば、「せまり悩ます、という意」で、「思いどおりにならぬこと」をいう(『仏教語大辞典』)。
     これを大まかなに分けて考察すると、身体的なものと精神的なもの、感情的なものと思考的なもの、短期的なものと長期的なもの、などがある。

     このうち身体的なものは、ただちに医療の対象となり、誰でも経費が許すかぎり現代医学の水準で、治療を受けることができる。精神的なものでも、明らかな神経症や精神病なら、専門の医師に診てもらう方がよい。
     しかし、現在でもあらゆる苦しみが、医学で解決できるわけでなく、原因不明の症状が出て医師に見放され、孤独な闘病をしいられることもある。また、明らかに心身が不調でも、病気とまでは言えず、治療の対象にならないことも多い。これには、どのように対処したら良いだろうか。

     肉体的な苦痛に対しては、鎮痛剤などを使って、とりあえずペインコントロール(疼痛管理)を行う。原因が分からないのだから根治はできず、対症療法的に症状を抑えるしかない。それがある程度治まり、肉体的苦痛が耐えられるようになったら、今度は精神的な苦痛が襲ってくる。わが身の不幸を嘆き、まわりの人に怒りをぶつけ、世をうらむ等々、どす黒い思いは尽きることがない。これを克服するには、ある種の意識改革が必要になると思う。
     苦しむこと、つまり思いどおりにならない出来事に遭遇し、圧迫され責め苛まれるような、つらい気持になること。これには大別して、感情的な面と思考的な面がある。前者はおおむね短期に解消し、自然に忘れ去られるのに対し、後者は長期におよび心身へ悪影響を与えることが多い。感情は一過性で長続きせず、長期にわたる苦しみには、概して思考的な誤りが見られる。

     感情的な苦しみが起った場合、できるだけ巻き込まれないようにし、その気持をじっくり見つめて、どこから生じ、どのような起伏があるか、よく観察する。感情は、それがどんな種類でどの程度のものか、しっかり気づくことで解消される。どれほどの激情でも、必ず波があり、ほんとうにつらい状態は、1時間も続かないだろう。それを冷静に観察・点検しているうちに、苦しさは自然消滅する。
     これに対し、思考的な苦しみは、必ずある種の妄想から起っている。どうにもならない過去や、ありもしない未来にこだわり、非現実的で堂々めぐりする思考から離れられない。
     こうした妄想を解消するためには、まずなんらかの瞑想的な方法を駆使し、現実の自分をありのままに見すえ、その誤った思考法に気づく必要がある。
     それからさらに自分なりの、正しい世界観や人生観を構築することが求められる。この世でどのような生き方をするか、心から納得できる考え方を見出すまで、苦しみは根本的に解決しない。そのためには、とうぜんかなりの人生経験が必要であり、一朝一夕に解決する問題ではない。しかし、あきらめずにじっくり考えつつ、一歩一歩まじめに進んで行くなら、必ずいつか契機が訪れ、苦しみから開放される時がくる。

     ちなみに、こうした人生の問題が解決して、疑いが根本的になくなり、浄らかになった心の状態を、信心という。






      「苦しみからの 脱出」 20110201   ⇒【目次】

     なにかつらい出来事があり、苦しくてしかたないとき、嵐のような感情から逃れたくて、あれこれ気晴らしする。
     そうしてうまく気が紛れたら、時間とともに心も静まり、ふだんどおり過ごせるようになる。
     けれどもこれでは、まだ根本的に苦しみが解決しておらず、ただ問題を心の底へ沈めたにすぎない。
     そのうちなにかのきっかけで、また感情が再燃し、同じように悩み苦しまなければならなくなる。

     どんなにつらい感情の波が押しよせて来ても、逃げてばかりはいられない。
     はじめは、足元をすくわれ流されても、後で必ず踏みとどまり、正面から立ち向かう。
     いくたび打ちのめされても、まっすぐ感情の波を見すえ、それがどこから起ってくるか、冷静に探ってみる。
     しだいにそのまなざしが、心の深い底まで達して、感情が生じる場所を、見極められるようになる。
     どこから感情が起り、どのように心の中をめぐって、どこで消え去るのか、把握できるようになる。
     こうして感情の生滅を、しっかり観察できるようになれば、もう圧倒的な苦しさは感じなくなっている。
     このように感情の根元を見切るのが、苦しみから脱出するもっとも確実な方法だろう。

     その本質を端的に言えば、苦悩とは、一種の妄想にほかならない。
     すでに失なわれた過去や、ありもしない未来について、あれこれむだに思うから、つらくなってしまう。
     ただこの一分間程の、現在に集中し生活していれば、苦悩など生じる暇がない。
     一瞬一瞬の身体感覚を、大切に味わっていれば、妄想にとらわれることもない。
     それさえできていれば以後も時折、肉体的な苦痛を感じることはあっても、悩んだり苦しんだりすることは、もうなくなるだろう。
     「日々是好日経」

     過去を追いゆくことなく また未来を願いゆくことなし
     過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに

     現に存在している現象を その場その場で観察し
     揺らぐことなく動じることなく 智者はそを修するがよい

     今日こそ努め励むべきなり 誰が明日の死を知ろう
     さらば死の大軍に 我ら煩うことなし

     昼夜怠ることなく かように住み、励む
     こはまさに「日々是好日」と 寂静者なる牟尼は説く

     ※『悩みと縁のない生き方「日々是好日」経』
      アルボムッレ・スマナサーラ サンガ 2009 3p







      「カウンセリングは代受苦か?」 20110115   ⇒【目次】

     いま必要に迫られ、カウンセリングについていろいろ勉強している。
     心理療法を少しでもかじったことのある人なら、カール・ロジャーズが説いた、カウンセリングの三条件について知っているだろう。その要点を挙げると、次のようになる。
    1. 積極的な関心:無条件に相手の感情・考え・行動を受容する。
    2. 共感的理解:主観的に相手の世界を感じつつ理解する。
    3. 自己一致:心に感じたことと態度が一致している。
     つまりほんとうに真心をこめて、相手の話をすべて聴き、その気持ちを丸ごと受けとめる態度にほかならない。
     しかし、このように心から人の話を聴くのは、想像以上につらいものだ。苦しんでいる人の話を、真剣に聴けば聴くほど、彼のどす黒い感情がこちらにも流れ込んで、自分も同じようにつらくなってしまう。相手の苦しみに、巻き込まれることになる。

     ただそれでも決して動揺せず、その気持ちをしっかり受けとめ、いっしょに苦しむようにしていると、しだいにつらさが緩和される。そうして苦しみの原因に対する自覚が生まれ、おのずから解決方法も見出されてくる。
     実際は、ただ話を聴いているだけでも、人と苦しみを分かちあうことで、相手の心が救われていく。そうした事実を多く知ると、カウンセリングとは他人の苦しみをあえて自分が肩代りして受けるという、「代受苦」(菩薩が衆生に代り地獄の苦を受けること)に等しいのではないかと思えてくる。

     この点について國分康孝氏は、
    「己未だ救われざるに人を救わんと一念発起した人間、すなわち菩薩の行を積もうとする人間―これがカウンセラーである」
     ※『カウンセリングの技法』誠信書房1979 130p
    と明言している。