魂のこと 《2009》
【目次】
「考える病」 「心の弱さ」 「病的な思考と健全な思考」 「信心の諸相」
「わたしの五聖教」 「念仏が先か信心が先か」 「念仏の利益」
「念仏の使い方」 「なぜ歴史を研究するか」 「念仏の称え方」
「刹那の念仏」
「刹那の念仏」 20091201 ⇒【目次】
これまで念仏について、様々な見方・考え方が表わされてきた。
例えばその代表的なものに、観念の念仏・称名の念仏・信心の念仏等があり、それぞれ傾聴に値する。
しかし念仏で最も重要な点は、そうした思弁的な事柄でなく、他でもない今この瞬間に、心から納得して、南無阿弥陀仏と称えているかどうかであろう。
できれば次の瞬間にも念仏し、また次の瞬間にもそうしている。
刹那刹那に念仏して、たとえ一時うっかり忘れていても、しばらくすればハッと気づき、また続けて行く。
念仏を意識して継続しようとするのではなく、その刹那にただ称えている。
阿弥陀仏とは何者か、浄土とはどこにあるのか、等々といたずらに穿鑿せず、ただ好きで念仏している。
念仏することで、どれだけ救われているか自覚し、また自分には、この他に採るべき道がない事実を、よく理解している。
そのため疑う気も起きず、命が続く限り好きなだけ念仏する。
実生活の中で、こうした念仏ができるなら、他のどんな高尚な教えも、まったく自分には必要でない。
「念仏の称え方 ―仏教における修行」 20091103 ⇒【目次】
現代の真宗教義では、他力の信心を重んじるあまり、念仏を称えることが、軽視されているように感じられる。
一例を挙げると、御寺で教えに感動し念仏する者を、叱りつける説教師がいるらしい。この間、大谷派の名古屋方面のお寺で、念仏しなさいといったら、お同行が「先生、ここでは念仏をしたら怒られるんですよ。お聴聞の最中に感極まって、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といったら、「やかましい」と布教使に怒鳴られました」という。親鸞さまと法然さまは、念仏して流罪に遭うた。生命を賭けたのですよ。なぜ今日の真宗者は念仏を称えないのですか。これではいったい何のために、真宗の教えを説いているのか、まったく分からない。
※信楽峻麿「浄土に往生するということ」6p(「ともしび 12月号(2006)」
真宗大谷派教学研究所編 真宗大谷派宗務所2006
信心だけを教義の要として説き、念仏の実践に触れないなら、いつしか真宗は煩わしい神学か、古くさい哲学の一種に堕してしまうだろう。ちょこまかと思弁を弄するだけで、すべて分かったようになり、現実の生活と完全に遊離してしまうのだ。通常の哲学や思想と、宗教が最も異なる点は、行法であろう。
仏教では一般に、これほど日常の修行が重んじられているのに、なぜ今日の真宗で念仏を軽視するのか、まったく理解できない。信心さえあれば念仏しなくても良いとか、信心がなければ念仏しても仕方ないとか、根拠薄弱な屁理屈を捏ねて、素直に念仏しない。
宗教は実践しなければ意味がなく、日々の生活で教えが実行できて、はじめてその真価が発揮できる。ふだん人が懐く悩みや苦しみを、何らかの具体的な方法で癒せないなら、宗教などほとんど無意味に近い。もうすでに世界観では物理学・天文学に及ばず、心身の病気では医学にとって代わられている。その上、精神的な苦悩も解決できないなら、実際に役立つ使い道がない。
各々の宗教において、生きる苦しみを解決するための、体系立った行動の規範が行法であり、これは悟りや救いの実現に、直結するものと言ってよい。
とりわけ仏教では釈尊以来、仏道を求めて修行すること(頭陀)が貴ばれ、教義を多く知ること(多聞)は、それに劣ると考えられている。
例えば周利槃特は、釈尊から箒を一本もらって、常にその名を唱えるよう教えられた。そして毎日唱えている内、箒は別名を除垢と言い、それが心の汚れを払う教えであったと知って、ついに阿羅漢となった (「朱利槃特」20010317参照)。このように、たった一つの教えを実践するだけでも、一心に修行すれば解脱できるとされている。
これは禅宗などで最も端的にうかがえ、不立文字・教外別伝等の教義が説かれている。
また禅宗では坐るばかりが禅でなく、行住坐臥すべてが禅であり、一定の期間だけ修行するのではなく、生涯坐禅しなければならない、とも教えられている。大事了畢した師家といえども、坐禅を怠るわけには行かない。
それほど念仏が嫌なら、浄土教から離れるべきであろう。法然上人や親鸞聖人が、念仏に命を賭けた事実を、重く受け止めなければならない。
確かに念仏は、よくいわれを知り、しっかり信心して称えた方が、功徳は優るだろう。信知の伴った念仏は不壊不変であり、浄土へ往生する(理想的な世界の住人になる)ことも、解釈によれば不可能ではない。
しかしそのような念仏を、入門者がいきなりできるはずはなく、とにかく素直に数回は称えて、自分に合うかどうか試してみる必要がある。そしてできる人なら、念仏に対する理解を深めつつ、以後継続して生涯称え続けるのが好ましい。
仏教とは本来、心身一如であり、心と身体を相互に調和させつつ、魂の向上を求めて行く営みであろう。ただ精緻な教義を構築すれば良いというものではなく、日々具体的な行を実践することが重んじられている。
真宗においても、心にある信心を日々念仏として身体へ現し、そうした念仏の体験を再び信心に反映させて行く、というような行き方が必要に違いない。
「なぜ歴史を研究するか」 20091010 ⇒【目次】
なにかのご縁で今、浄土真宗を主とした、仏教に関する地域史の研究を行っている。
歴史の研究は自分にとり、本来志望していた思想の研究や実践とは、少々異なる方向にある。歴史研究は端的に言えば対象的研究であり、自己の主体を外に置き、対象を科学的に調査研究する。自分自身が懐く人生上の問題を、直接解決できるものではない。
しかしこれまで、地域の歴史にまつわる、様々な事柄を調査した結果、歴史研究は人の具体的な営みを知る上で、非常に重要な意義があると考え、積極的に携わるようになった。
ここにすぐ思いつく範囲で、そんな歴史研究の意義を挙げると、次のようになる。歴史の科学的な研究は、それ自体に重要な意義があり、ある物事の歴史的事実が解明できれば、それで充分であろう。上記のようなものは、蛇足にすぎないとはいえ、こうした意義も見逃せない。
- 1.温故知新
- どの分野の歴史研究でも、その最も重要な意義の一つに、温故知新がある。過去の事実をよく調べて明らかにし、現在に活かすことは、歴史というものの本質と言ってよい。
- 2.沿革を明らかにする
- 物事の変遷を詳細に把握できれば、なにが変わらず、なにが移ろいやすいか明確にし、その実態に迫ることができる。
- 3.根源を明らかにする
- 物事の根源をしっかり捉えることで、その根本的な性格を解明できる。
- 4.陥穽を知る
- 過去に起きた、悪事や危険な出来事を知り、類似した事件を回避できる。
- 5.善悪を知る
- 過去の人々の善行を見習い、悪行を退けられる。
ちなみに日本の仏教史を研究することで、いま自分が接している仏教習俗(檀家制度や葬儀・法事のありかた等)の本質を知ることができる。また各宗派で説く教義を鵜呑みにせず、批判的に理解し、有効に取り入れることができる。さらに名僧などの事績を知り、その思想を深く学んで、心の糧とすることもできる。
これらは実際、非常に有益で、歴史研究者の役得だと思っている。
「念仏の使い方」 20090818 ⇒【目次】
真宗教義の影響か、今日念仏といえば、すぐ信心の内容まで問われることが多い。その上さらに、自力がどうの、他力がどうのと取りざたされて、うかつに念仏できないような印象がある。
しかし近年は坐禅など、仏教の瞑想法が医学的に評価され、とりたてて求道するという意識を持たずに、健康法の一種として体験してみる人が増えている。すべての入門者が、菩提心を発している必要はなく、一身上のささやかな悩み苦しみを解決しようと、坐禅に励むのは、決して誤りではないと思う。仏教が、あらゆる衆生を救済するための、宗教である限り。
同様に浄土教でも、あらゆる入門者が、必ず他力真実の信心を獲得した上でなければ、念仏できないわけではない。一身上の問題を解決するため、ささやかな自力の念仏から始めても、なんら差し支えない。
むしろ日々の生活で気軽に実践し、その効果のほどを体験してもらった方が、多くの人にとって有益であろう。
ちなみに一例を示すと、不眠症気味の時、眠れない夜に念仏を称えたらどうだろうか。
眠れないのに、むりして眠ろうとせず、「この際、試しに朝まで念仏してやろう」
と覚悟を決めて取りくんでみる。すると数百回も称えたかどうかの内に、すっと熟睡していることが多い。もし朝まで眠れなかったとしても、もともと不眠症気味だったのだから、少しも損ではない。
曽我量深師もある日の講演で、「南無阿弥陀仏を称えると、心が安らかになる。身心柔軟になる。安眠ができる。安眠が出来れば健康になる」と話したことがあるらしい。
※津曲淳三著『親鸞の大地 曽我量深随聞日録』(彌生書房1982)280p
「念仏の利益」 20090601 ⇒【目次】
ようやく昨日、妻が退院し家へ戻ってきた。いろいろあって、計画よりかなり長びいた。
ただこれで全快というわけではなく、主治医から次のような注意を受けている。ほんとうに、現代医学のおかげでなんとか恢復し、日常生活が送れるようになった。それだけでもお世話になった多くの方々へ、心から感謝を捧げなければならない。
自動車の運転は、しばらく控えること。 薬をきちんと飲んでいるか、確認すること。 がんばり過ぎないように、気をつけること。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ここ数年、念仏することでどのような効果があるか、あれこれ考えてきた。
それは当然、無病息災・家内安全・商売繁盛等々の、新興宗教が売り物とする、物質的な現世利益を求めるものではない。仏教では基本的に、世俗の欲望から離れることを目指しており、念仏にそうしたものを期待しても、お門違いであろう。
それなら念仏しても、現世でなんの利益もないかと言えば、決してそうではなく、精神的な方面では種々の有益な効果が現れる。このことについて、次の3点から考察したい。
※字体は、常用漢字の表記に従った。また踊り字は、仮名に改めた。
- 日本浄土教にみえる念仏の利益
- 真宗教義にみえる念仏の利益
- 現代における念仏の利益
1.日本浄土教にみえる念仏の利益いま実生活において、念仏を称えようとするなら、やはり日本浄土教の伝統を踏まえて行わざるをえない。そこで日本浄土教の歴史上、念仏の現世利益について言及した代表的な文献を挙げ、その内容を見て行くことにする。
(1)源信『往生要集 巻下』「大文第七(念仏利益)」
※『原典日本仏教の思想4 源信 往生要集』(石田瑞麿校注 岩波書店1991 220頁)による。『往生要集 下』岩波文庫(石田瑞麿訳注 岩波書店1992 54頁)『大正新脩大蔵経』第84巻(71頁b)参照。「大文第七に、念仏の利益を明さば、大いに分ちて七あり。一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来の勝利、五には弥陀の別益、六には引例勧信、七には悪趣の利益なり。
【利益】
(大文第七、明念仏利益者、大分有七。一滅罪生善、二冥得護持、三現身見仏、四当来勝利、五弥陀別益、六引例勧信、七悪趣利益)」
一、滅罪生善:犯した罪を滅して、善を生ずる。
二、冥得護持:神仏の加護を知らないうちに得ている。
三、現身見仏:この身のままで仏をまのあたり見る。
四、当来の勝利:来世で受ける勝れた利益。
五、弥陀の別益:弥陀を念ずる利益。
六、引例勧信:例を引いて念仏の信心を勧める。
七、悪趣の利益:悪道に堕ちたものが受ける利益。(2)源信『往生要集 巻下』「大文第八(念仏証拠)」
「大文第八に、念仏の証拠とは、問ふ、一切の善業は、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故に、ただ念仏の一門のみを勧むるや。答ふ。今、念仏を勧むるは、これ余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず。ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願ひ求むるに、その便宜を得ること、念仏にしかざればなり。
※『原典日本仏教の思想4 源信 往生要集』(石田瑞麿校注 岩波書店1991 250頁)による。『往生要集 下』岩波文庫(石田瑞麿訳注 岩波書店1992 109頁)『大正新脩大蔵経』第84巻(76頁c)参照。
(大文第八、念仏証拠者、問、一切善業、各有利益、各得往生。何故、唯勧念仏一門。答。今勧念仏、非是遮余種種妙行。只是男女貴賤、不簡行住坐臥、不論時処諸縁、修之不難、乃至、臨終願求往生、得其便宜、不如念仏)」【利益】
(3)永観『往生拾因』
男女・貴賤・行住坐臥・時処諸縁に係わらず、修めやすく、臨終時に往生を得る。
※『大正新脩大蔵経』第84巻(91頁b)による。「念仏の一行に開きて十因と為す。一には広大善根の故に。二には衆罪消滅の故に。三には宿縁深厚の故に。四には光明摂取の故に。五には聖衆護持の故に。六には極楽化主の故に。七には三業相応の故に。八には三昧発得の故に。九には法身同体の故に。十には随順本願の故に。
【利益】
(念仏一行開為十因 一広大善根故 二衆罪消滅故 三宿縁深厚故 四光明摂取故 五聖衆護持故 六極楽化主故 七三業相応故 八三昧発得故 九法身同体故 十随順本願故)」
『往生拾因』では、念仏すれば往生できるとする、論拠を列挙している。念仏に十種の功徳があるから、往生できると言明している。この功徳とは換言すれば、現世で得られる利益に他ならない。
一、広大善根:阿弥陀仏の名号にある万の功徳が得られる。
二、衆罪消滅:五逆・十悪等、どのような罪悪も消滅する。
三、宿縁深厚:阿弥陀仏との宿縁が深くなる。
四、光明摂取:阿弥陀仏の光明に摂取される。
五、聖衆護持:仏や菩薩など聖衆が守護する。
六、極楽化主:極楽の主から教化を受ける。
七、三業相応:身・口・意の三業が相応する。
八、三昧発得:心が散らず三昧が得られる。
九、法身同体:妄念がなくなり、法身と同体になれる。
十、随順本願:本願に随順し往生する。(4)法然(源空)『選択本願念仏集』「念仏利益之文」
「無量寿経の下に云く『仏、弥勒に語げたまはく、それ彼の仏の名号を聞くを得ること有りて、歓喜踊躍し乃至一念せん。当に知るべし、此の人は大利を得と為す。則ち是無上の功徳を具足す』。善導の礼讃に云く『それ彼の弥陀仏の名号を聞くを得ること有りて、歓喜して一念を至すに、皆当に彼に生ずるを得べし』…中略…此の大利とは、是小利に対するの言なり。然らば則ち菩提心等の諸行を以て小利と為し、乃至一念を以て大利と為すなり。又無上功徳とは、是有上に対するの言なり。余行を以て有上と為し、念仏を以て無上と為すなり。…中略…然らば諸の往生を願求するの人、何ぞ無上大利の念仏を廃して、強て有上小利の余行を修せんや。
※石井教道編『昭和新修 法然上人全集』(平樂寺書店1955 324頁)による。『選択本願念仏集』岩波文庫(大橋俊雄校注 岩波書店1997 72頁)『大正新脩大蔵経』第83巻(8頁a)参照。
(無量寿経下云『仏語弥勒、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足無上功徳』。善導礼讃云『其有得聞彼弥陀仏名号、歓喜至一念、皆当得生彼』…中略…此大利者、是対小利之言也。然則以菩提心等諸行而為小利、以乃至一念而為大利也。又無上功徳者、是対有上之言也。以余行而為有上、以念仏而為無上也。…中略…然者諸願求往生之人、何廃無上大利念仏、強修有上小利余行乎)」【利益】
(5)法然(源空)『選択本願念仏集』「六方諸仏護念念仏行者之文」
大利を得て、無上の功徳を具え、浄土へ往生できる。
※石井教道編『昭和新修 法然上人全集』(平樂寺書店1955 346頁)による。『選択本願念仏集』岩波文庫(大橋俊雄校注 岩波書店1997 169頁)『大正新脩大蔵経』第83巻(18頁a)参照。「観念法門に云く『又弥陀経に説くが如く、若し男子・女人有りて、七日七夜及び一生を尽して、一心に専ら阿弥陀仏を念じ、往生を願へば、此の人は常に六方恒河沙等の仏、共に来りて護念するを得。故に護念経と名づく。護念の意は、亦諸の悪鬼神をして便を得しめず、亦横病・横死、横に厄難有ること無く、一切の灾障自然に消散す。不至心を除く』此は是亦現生護念増上縁。往生礼讃に云く『若し仏を称して往生する者は、常に六方恒沙等の諸仏の護念する所と為る。故に護念経と名づく。今既に斯の増上の誓願の憑むべく有り、諸の仏子等、何ぞ意を励まさざるや』私に問ひて曰く、唯六方如来有りて、行者を護念するは如何。答へて曰く、六方の如来に限らず、弥陀・観音等、亦来りて護念す。…中略…又観経に云ふが如く、若し阿弥陀仏を称礼して、彼の国に往生せんと願へば、彼の仏即ち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念す。復前の二十五の菩薩等と、百重千重に行者を囲繞して、行住坐臥を問はず、一切の時処に若しは昼・若しは夜、常に行者を離れず。今既に斯の勝益の憑むべく有り、願はくは諸の行者、各々須く至心に往くを求むべし。
【利益】
(観念法門云『又如弥陀経説、若有男子女人、七日七夜及尽一生、一心専念阿弥陀仏、願往生者、此人常得六方恒河沙等仏共来護念。故名護念経。護念意者、亦不令諸悪鬼神得便、亦無横病横死横有厄難、一切灾障自然消散。除不至心』此是亦現生護念増上縁。往生礼讃云『若称仏往生者、常為六方恒沙等諸仏之所護念。故名護念経。今既有斯増上誓願可憑、諸仏子等、何不勵意者也』私問曰、唯有六方如来、護念行者如何。答曰、不限六方如来、弥陀観音等、亦来護念。…中略…又如観経云、若称礼阿弥陀仏、願往生彼国者、彼仏即遣無数化仏、無数化観音・勢至菩薩、護念行者。復与前二十五菩薩等、百重千重囲繞行者、不問行住坐臥、一切時処若昼若夜、常不離行者。今既有斯勝益可憑、願諸行者、各須至心求往)」
六方の諸仏・菩薩等が来て守護し、諸の悪鬼に付けこまれず、横病・横死や厄難がなくなり、一切の災難が消散する。(6)親鸞『顕浄土真実教行証文類』信文類三 「現生十益」
「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超へ、必ず現生に十種の益を獲。何者か十と為す。一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称讃の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には入正定聚の益なり。
※『増補 親鸞聖人眞蹟集成 第1巻』教行信證 上(法藏館2005 234頁)による。『原典校註 真宗聖典』(法蔵館1975 234頁)『大正新脩大蔵経』第83巻(607頁b)参照。
(獲得金剛真心者、横超五趣八難道、必獲現生十種益。何者為十。一者冥衆護持益、二者至徳具足益、三者転悪成善益、四者諸仏護念益、五者諸仏称讃益、六者心光常護益、七者心多歓喜益、八者知恩報徳益、九者常行大悲益、十者入正定聚益也)」【利益】
【参考】
一、冥衆護持:諸天善神が常に護っている。
二、至徳具足:この上ない名号の功徳を具える。
三、転悪成善:悪を転じて善とする。
四、諸仏護念:諸仏が思いをかけて護る。
五、諸仏称讃:諸仏がほめ讃える。
六、心光常護:仏の智慧の光明に常に照され護られる。
七、心多歓喜:未来に往生することが決定して心に歓びが多い。
八、知恩報徳:仏の恩と徳を知って報いようとする。
九、常行大悲:常に衆生を利益する仏の大慈悲行を行ずる。
十、入正定聚:正しく仏果に至ることが決まった位に入る。
『教行証文類』の「現生十益」は、『楽邦文類』を参照したものとされている。
宗曉編『楽邦文類』巻第二 ※『大正新脩大蔵経』第47巻(168頁a)「若しよく暫く三宝に帰し、一仏の名を受持する者は、現世に当に十種の勝利を獲べし。一には昼夜常に、一切の諸天・大力の神将・河沙の眷属、形を隠して守護するを得。二には常に、二十五大菩薩の観世音の如き等、及び一切の菩薩、常に随ひて守護するを得。三には常に諸仏に昼夜護念され、阿弥陀仏常に光明を放ち、此の人を摂受す。四には一切の悪鬼、若しは夜叉若しは羅刹、皆害す能はず、一切の毒蛇・毒龍・毒薬、悉く中る能はず。五には一切の火難・水難、寃賊・刀箭、牢獄・枷柚、横死・枉死、悉く皆受けず。六には先に作る所の罪、皆悉く消滅し、殺す所は寃命し、彼は解脱を蒙り、更に執対する無し。七には夜の夢正直にして、或は復夢に阿弥陀仏の勝妙の色像を見る。八には心常に歓喜し、顔色光沢あり、気力充盛し、所作吉利なり。九には常に一切の世間人民に、恭敬して供養され、歓喜して礼拝されること、猶仏を敬ふが如し。十には命終の時、心に怖畏無く正念にて歓喜し、現前に阿弥陀仏、及び諸の聖衆の、金の蓮台を持するを見得て、接引して西方浄土に往生し、未来の際を尽して勝妙の楽を受く。
【利益】
(若能暫帰三宝、受持一仏名者、現世当獲十種勝利。一者昼夜常得、一切諸天・大力神将・河沙眷属、隠形守護。二者常得、二十五大菩薩如観世音等、及一切菩薩、常随守護。三者常為諸仏昼夜護念、阿弥陀仏常放光明、摂受此人。四者一切悪鬼、若夜叉若羅刹、皆不能害、一切毒蛇・毒龍・毒薬、悉不能中。五者一切火難・水難、寃賊・刀箭、牢獄・枷柚、横死・枉死、悉皆不受。六者先所作罪、皆悉消滅、所殺寃命、彼蒙解脱、更無執対。七者夜夢正直、或復夢見阿弥陀仏勝妙色像。八者心常歓喜、顔色光沢、気力充盛、所作吉利。九者常為一切世間人民、恭敬供養・歓喜礼拝、猶如敬仏。十者命終之時、心無怖畏正念歓喜、現前得見阿弥陀仏、及諸聖衆、持金蓮台、接引往生西方浄土、尽未来際受勝妙楽)」
一、一切の諸天・神将が守護する。
二、一切の菩薩が守護する。
三、諸仏に護念され、阿弥陀仏が摂受する。
四、一切の悪鬼・夜叉・羅刹に害されず、毒蛇・毒龍・毒薬が中らない。
五、一切の火難・水難・寃賊・刀箭・牢獄・枷柚・横死・枉死を受けない。
六、先の罪が皆消滅し、殺した者は解脱して敵対しない。
七、正夢や、夢に阿弥陀仏を見る。
八、心歓喜し顔色に光沢があり、気力充満し所作に吉がある。
九、一切の人民に供養され礼拝される。
十、命終時に怖畏なく歓喜し、阿弥陀仏を見て西方浄土に往生する。(7)親鸞『淨土和讃』現世利益和讃 十五首
「一 阿弥陀如来来化シテ 息災延命ノタメニトテ 金光明ノ寿量品
※『増補 親鸞聖人眞蹟集成 第3巻』三帖和讃 浄土三経往生文類(法藏館2007 120頁)による。『大正新脩大蔵経』第83巻(659頁a)参照。
トキオキタマヘルミノリナリ
二 山家ノ伝教大師ハ 国土人民ヲアワレミテ 七難消滅ノ誦文ニハ
南无阿弥陀仏トトナエシム
三 一切ノ功徳ニスクレタル 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 三世ノ重障ミナナカラ
カナラス転シテ軽微ナリ
四 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ コノ世ノ利益キワモナシ 流転輪回ノツミキエテ
定業中夭ノソコリス
五 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 梵王帝釈帰敬ス 諸天善神コトコトク
ヨルヒルツネニマモルナリ
六 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 四天大王モロトモニ ヨルヒルツネニマモリツツ
ヨロツノ悪鬼ヲチカツケス
七 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 堅牢地祇ハ尊敬ス カケトカタチトノコトクニテ
ヨルヒルツネニマモルナリ
八 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 難陀跋難大龍等 无量ノ龍神尊敬シ
ヨルヒルツネニマモルナリ
九 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 炎魔法王尊敬ス 五道冥官ミナトモニ
ヨルヒルツネニマモルナリ
十 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 他化天ノ大魔王 釈迦牟尼仏ノミマヘニテ
マモラムトコソチカヒシカ
十一 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 観音勢至ハモロトモニ 恒沙塵数ノ菩薩ト
カケノコトクニミニソヘリ
十二 无㝵光仏ノヒカリニハ 无数ノ阿弥陀マシマシテ 化仏オノオノ无数ノ
光明无量无辺ナリ
十三 南无阿弥陀仏ヲトナフレハ 十方无量ノ諸仏ハ 百重千重囲繞シテ
ヨロコヒマモリタマフナリ
十四 天神地祇ハコトコトク 善鬼神トナツケタリ コレラノ善神ミナトモニ
念仏ノヒトヲマモルナリ
十五 願力不思議ノ信心ハ 大菩提心ナリケレハ 天地ニミテル悪鬼神
ミナコトコトクオソルナリ」【利益】
一、息災で延命できる。
二、七難が消滅する。
三、三世の重障がみな軽微になる。
四、流転輪迴の罪が消え、夭折しない。
五、梵王・帝釈天が敬い、諸天・善神が常に護る。
六、四天王が常に護り、万の悪鬼が近づかない。
七、地神が尊敬し、常に護る。
八、無量の龍神が尊敬し、常に護る。
九、閻魔王が尊敬し、常に護る。
十、大魔王が護る。
十一、観音・勢至や諸菩薩が随従する。
十二、阿弥陀仏の無量無辺の光明をさずかる。
十三、十方の諸仏が、百重千重に囲んで護る。
十四、天神・地神や鬼神等の善神が護る。
十五、天地の悪鬼神がみな恐れる。
2.真宗教義にみえる念仏の利益近現代の代表的な真宗学者が、念仏の利益について言及した論説の中で、特に重要と思われるものを次に挙げる。
(8)清沢満之「信念」
「我は此の如く如来を信ず(我信念)」
※『清沢満之全集 第六巻 精神主義』(岩波書店2003 330頁)
「信心の救済的効能」20080818参照。「先づ其效能を第一に申せば、此信ずると云ふことには、私の煩悶苦悩が払ひ去らるゝ效能がある、或は之を救済的效能と申しませうか、兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの為に、煩悶苦悩する場合に、此信念が心に現はれ来る時は、私は忽ちにして安楽と平穏とを得る様になる、其模様はドーかと云へば、私の信念が現はれ来る時は、其信念が心一パイになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしむることである、如何なる刺戟や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、其刺戟や事情がチットモ煩悶苦悩を惹起することを得ないのである」
【利益】
煩悶や苦悩を払い去る、救済的效能がある。
※ここでは、直接「念仏」という言葉は使われていない。しかし如来を信念する(信じて念じる)こととは、念仏以外のなにものでもない。(9)曽我量深「浄土の功徳」
「念仏する者は、浄土の功徳をその身に賜わる、こう了解してよろしいでしょうか」
※寺川俊昭「曽我量深師はこう語った」(「大法輪」2006年12号38頁)より。寺川俊昭『往生浄土の自覚道』(法蔵館2004 128頁)参照。
先生は言下に、「それはいけません」こうおっしゃった。…中略…
「『賜わる』という言い方は弱うございます。『わがものにする』と、おっしゃいませ」
※「念仏して得られるもの」20080108参照。【利益】
(10)信楽峻麿『真宗の大意』(法藏館 2000)
浄土の功徳をわがものにする。「私たちが、毎日の日暮らしの中で、教法の聴聞とともに、ひとすじに仏の名前を呼ぶ、称名念仏するということは、私の生き方が、次第に仏の方向に向いていくということであります。そしてそのような称名念仏が深まっていくならば、やがてそれが逆転して、その称名念仏とは、私が仏に向かって、仏の名前を呼び、仏を憶念していることであるが、それはそのまま、仏が私に向かって、自分を名のり、私に呼びかけている、仏の声だという、逆転の『めざめ』体験が生まれてくるのです。そのように、自己の意識のもっとも根源的なところの自覚として、超越的、宗教的な経験が成りたってくる、開発してくるのです(76p)」
【利益】
「このような救いを説くところの仏教では、上に見たように、この世界と人生に普遍する根本原理、ダルマについての覚醒、『めざめ』体験を教え、その覚醒、『めざめ』体験をえたものには、このような救いが成立するというのです。そしてそれについては、出家者中心の聖道教、在家者中心の浄土教、そのいずれの救いも、本質的には同じ内容をもつもので、その『めざめ』体験において、新しい人格主体を確立し、それにもとづいて、現実の人生におけるさまざまな苦難、障害をよく済度し、克服していくことができるというのです(164p)」
「信心に生きるということは、私が新しく『めざめ』体験をえて生きるということですが、その『めざめ』とは、私の生命の上に、仏の生命がいたりとどき、私の生命は、仏の生命につながっているということに、深く気づき、その事実を発見していくということでもあります。そしてまた、そのことを通して、仏の生命は、私以外の、その他のすべての生命、生きとし生けるものの生命にまで、ひろくつながっているということにめざめていくということでもあります(179 - 180 p)」
「めざめ」体験が生まれて、それにより新しい人格主体を確立し、現実の人生におけるさまざまな苦難、障害をよく済度し、克服していくことができる。
※「めざめ」体験とは、自己の意識のもっとも根源的なところの自覚で、超越的・宗教的な経験。またその『めざめ』とは、私の生命が、仏の生命につながっていることに深く気づき、また仏の生命は、その他のすべての生命にまで、ひろくつながっているということにめざめていくもの。
3.現代における念仏の利益
このように古来、念仏の利益について言及された著述の中から、管見のおよぶ範囲で、特に注目すべき文章を、十例示した。その利益をここにまとめて列挙すると、次のようになる。(1)『往生要集』の「大文第七」
念仏の利益とは端的に言えば、「浄土へ往生できる」ということに尽きる。そして真実の浄土(方便化土でなく)へ生まれたら、すぐにそこで成仏できる。しかしこの利益は、現代人にとってひどく神話的であり、その象徴するところを努めて色々解釈しても、実際どのような効果を意味するのか、理解が非常に難しい。
一、罪を滅し善を生ずる。二、神仏の加護。三、仏をまのあたり見る。四、来世で受ける利益。五、弥陀を念ずる利益。六、念仏の信心を勧める。七、悪道に堕ちた者の利益。
(2)『往生要集』「大文第八」
誰でもいつでも修めやすく臨終時に往生できる。
(3)『往生拾因』
一、名号の功徳が得られる。二、どのような罪悪も消滅する。三、阿弥陀仏との宿縁が深くなる。四、阿弥陀仏の光明に摂取される。五、仏・菩薩等が守護する。六、極楽の主から教化を受ける。七、身・口・意の三業が相応する。八、心が散らず三昧が得られる。 九、妄念がなくなり法身と同体になれる。十、本願に随順し往生する。
(4)『選択本願念仏集』「念仏利益之文」
大利を得て無上の功徳を具え浄土へ往生できる。
(5)『選択本願念仏集』「六方諸仏護念念仏行者之文」
諸仏菩薩が守護し悪鬼に負けず一切の災難が消散する。
(6)『教行証文類』「現生十益」
一、諸神が常に護る。二、名号の功徳を具える。三、悪を転じて善とする。四、諸仏が護る。五、諸仏が讃える。六、仏の智慧の光明に常に照される。七、未来に往生することが決定し心に歓びが多い。八、仏の恩と徳を知って報いようとする。九、常に衆生を利益する仏の大慈悲行を行ずる。十、正しく仏果に至ることが決まった位に入る。
(7)『淨土和讃』現世利益和讃
一、息災で延命できる。二、七難が消滅する。三、三世の重障がみな軽微になる。四、輪迴の罪が消え夭折しない。五、梵王・帝釈天が護る。六、四天王が常に護り悪鬼が近づかない。七、地神が常に護る。八、龍神が常に護る。九、閻魔王が常に護る。十、大魔王が護る。十一、諸菩薩が随従する。十二、阿弥陀仏の光明をさずかる。十三、諸仏が護る。十四、善神が護る。十五、悪神が恐れる。
(8)清沢満之の「信念」
煩悶や苦悩を払い去る救済的效能がある。
(9)曽我量深「浄土の功徳」
浄土の功徳をわがものにする。
(10)信楽峻麿『真宗の大意』
「めざめ」体験が生まれて、それにより新しい人格主体を確立し、現実の人生におけるさまざまな苦難、障害をよく済度し、克服していくことができる。
また現代人には、諸仏・諸菩薩や神々等が守護すると言われても、なかなかそのまま信じられない。そして仏の光明に摂取されるとか、照らされるとか言われても、その意味を理解できない。さらに災難を受けず、病気に罹らず、長生きする等の、いわゆる現世利益があると言われても、科学的根拠がなく納得できない。
従ってこれらの利益から、そうした要素を除くと、次のような事柄が抽出できる。(1)『往生要集』「大文第七」
これを見ると、伝統的な文献に出てくる利益では、罪悪や功徳、仏に関わる要素が多い。しかし現実的に考えるなら、ほんとうに罪が消えたか、功徳があったかは確認困難であり、また仏に関することも、具体的な利益の内容がよく分からない。
一、罪を滅し善を生ずる。三、仏をまのあたり見る。
(2)『往生要集』「大文第八」
誰でもいつでも修めやすい。
(3)『往生拾因』
一、名号の功徳が得られる。二、罪悪が消滅する。七、身・口・意の三業が相応する。八、心が散らず三昧が得られる。九、妄念がなくなり法身と同体になれる。
(4)『選択本願念仏集』「念仏利益之文」
無上の功徳を具える。
(5)『選択本願念仏集』「六方諸仏護念念仏行者之文」
該当なし。
(6)『教行証文類』「現生十益」
二、名号の功徳を具える。三、悪を転じ善とする。七、心に歓びが多い。八、仏の恩徳に報いる。九、仏の大慈悲行を行ずる。十、仏果に至ると決まった位へ入る。
(7)『淨土和讃』現世利益和讃
二、七難が消滅する。三、重障がみな軽微になる。
(8)清沢満之「信念」
煩悶や苦悩を払い去る救済的效能がある。
(9)曽我量深「浄土の功徳」
浄土の功徳をわがものにする。
(10)信楽峻麿『真宗の大意』
「めざめ」体験が生まれて、それにより新しい人格主体を確立し、現実の人生におけるさまざまな苦難、障害をよく済度し、克服していくことができる。
要するに、現代人でも比較的すなおに納得できる、念仏の利益と言えるのは、《1》誰でもいつでも修めやすい。 ―(2)『往生要集』
ということではないだろうか。
《2》身・口・意の三業が相応して、心が散らず三昧が得られ、妄念がなくなる。
―(3)『往生拾因』
《3》心に歓びが多い。 ―(6)『教行証文類』
《4》煩悶や苦悩を払い去る救済的效能がある。 ―(8)清沢満之
《5》「めざめ」体験で新しい人格主体を確立し、人生での苦難・障害を克服できる。
―(10)信楽峻麿
この中でも近代に入ってから見出された、《4》救済的效能や《5》「めざめ」体験は、念仏の今日的な意義を明らかにした点で、特筆に値する。
誰でもいつでも称えやすい念仏により、心が定まり妄念もなく、歓びが多くなる。また念仏には、煩悶や苦悩を払い去る救済的效能があり、「めざめ」体験で新しい人格主体を確立して、人生の苦難・障害を克服できる。
もし、ほんとうに念仏を称えて行くことで、生きている間にこうした精神的な効果が得られるのなら、この上ない利益ではないだろうか。妄想や苦悩を払拭して、いつも心が定まり、「めざめ」を体験し、人生苦を克服できる。罪業の消滅や功徳の獲得、仏行・仏果等々は、なにかもうひとつ具体的な効果がはっきりしない。しかしここで集約したような精神的効果なら、今後の人生で自分が一心に念仏を行えば、なんとか現実に得られる可能性が高い。
それに比べると、無病息災・家内安全・商売繁盛などの物質的な現世利益は、実際にはなかなか得られそうにもなく、あまり魅力的と思えない。
―(20100531 脱稿)
「念仏が先か信心が先か」 20090520 ⇒【目次】
古来、念仏と信心について、種々に議論されてきた。
念仏や信心とは、各々どういうものなのか、両者にどのような関係があるのか、何れが重要か等々、微に入り細を穿ち論じ尽くされている。しかし各宗の各派において、その答えはまちまちで、結局のところ念仏や信心をどう考えるのが正しいか、結論は容易に出そうもない。
多忙な現代人には、そんな「真宗神学」などと付き合っている暇はなく、要するに各人が自らの人生観・世界観や宗教経験等を通し、必要に応じて念仏や信心に対する捉え方を、模索して行くしかない。ちなみに自分は今のところ、念仏そのものを重視した考え方に傾いている。
むしろ今は、例えば坐禅体験会のように、信心など精神面はとりあえず置いておき、単なる行として念仏を試す方が、受け入れやすいように思う。
もちろん信心を軽んじているわけではなく、最終的に真実信心が得られるなら、他の何も必要でない。ただ少しでも浄土系の仏教に関心を持ち、その教えを日々の生活で実際に試してみたいと思うなら、念仏を重んじるべきではないかと考えている。
今日、ただ浄土の教えを聞いただけで、直ちに信心を起こし、以後念仏も怠らない、というような人はごく稀だろう。念仏している人のほとんどは、信心する以前になんらかの形で、それに接する機会があったと思う。
はじめは時折なんとなく口真似してみて、歳月の経過に伴い理解も深まり、いつしか真実の信心に目覚める、というのがふつうではないだろうか。信心決定していなければ、念仏はできないというのなら、現代人はいつまで経っても、「南無阿弥陀仏」と称えられないに違いない。
念仏すれば心が落ち着くとか、ストレスが緩和するとか、現実的な効用を示し、とにかく実際に称えてみるよう勧めるのが重要であろう。そうして念仏を継続できるようになってから、そのあるべき形について考えを深め、信心に目覚めて行く、というような方向で進まないかぎり、ほとんど一般には理解されないと思う。
かつて実存主義の哲学が流行っていた時、
「実存は本質に先立つ」
という言い方をよく耳にした。これをすこし借りるなら、念仏が実存で信心は本質であり、
「念仏が信心に先立つ」
と言って良いかもしれない。
「わたしの五聖教」 20090515 ⇒【目次】
これまで仏教に関する、様々な文献に目を通してきて、日々拝読したいと思う経典が、いくつか定まってきた。
それを切りの良いところで五点選び、私用の聖教として列挙すると、次のようになる。
※字体は、常用漢字の表記に従った。また踊り字は、仮名に改めた。
一、四法印一、四法印
二、七仏通戒偈
三、善導 観経疏
四、法然 一枚起請文
五、親鸞 自然法爾章「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」
【出典】
『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店2002)など。
早い用例では「四法本末」と言い、『増一阿含経』巻十八(『大正新脩大蔵経』第2巻640頁b)等に見える。
「今四法本末有り、如来の所説なり。云何が四と為す。一切諸行無常、是初法本末と謂ひ、如来の所説なり。一切諸行苦、是第二法本末と謂ひ、如来の所説なり。一切諸行無我、是第三法本末と謂ひ、如来の所説なり。涅槃爲永寂、是第四法本末と謂ひ、如来の所説なり。是諸賢の四法本末と謂ふ。
(今有四法本末、如来之所説。云何為四。一切諸行無常、是謂初法本末、如来之所説。一切諸行苦、是謂第二法本末、如来之所説。一切諸行無我、是謂第三法本末、如来之所説。涅槃爲永寂、是謂第四法本末、如来之所説。是謂諸賢四法本末)」
【付言】
これは仏教における、根本的な世界観と言うことができる。後世になり、各国の各宗派で、種々の教義が説かれるようになった。しかしこの四法印に抵触する思想は、いついかなるものでも仏教とはいえない。
二、七仏通戒偈「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
【出典】
『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店2002)など。『法句経』巻下(『大正新脩大蔵経』第4巻567頁b)の原文では、
「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」
とあり、衆善でなく諸善としている。しかし、意味には大差ない。
【付言】
これは仏教における、根本的な倫理観と言うことができる。四法印のような世界観を受けて、実際どのように生活して行けば良いか、明確に示されている。この中でもとりわけ「自浄其意」が重要であり、仏教のあらゆる修行はこのためにある。浄土系仏教でも同様で、念仏すれば心が浄まる。
三、善導 観経疏「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」
【出典】
中国浄土教を大成した、善導の主著『観経疏』(観無量寿仏経疏)巻第四(観経正宗分散善義)にみえる著名な一文。『淨土真宗聖典 七祖篇 −原典版−』(本願寺出版社1992 524頁)による。『大正新脩大蔵経』第37巻272頁bも参照。
「次に行に就きて信を立つといふは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言ふは、専ら往生経の行に依りて行ずるは、是を正行と名づく。何者か是なるや。一心に専ら此の観経・弥陀経・無量寿経等を読誦し、一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、若し礼するには即ち一心に専ら彼の仏を礼し、若し口に称するには即ち一心に専ら彼の仏を称し、若し讃歎供養するには即ち一心に専ら讃歎供養す、是を名づけて正と為す。又此の正の中に就きて復二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念念に捨てざるは、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故なり。若し礼誦等に依るを即ち名づけて助業と為す。此の正助二行を除きて已外の自余の諸善は悉く雑行と名づく。
(次就行立信者、然行有二種。一者正行、二者雑行。言正行者、専依往生経行行者、是名正行。何者是也。一心専読誦此観経弥陀経無量寿経等、一心専注思想観察憶念彼国二報荘厳、若礼即一心専礼彼仏、若口称即一心専称彼仏、若讃歎供養即一心専讃歎供養、是名為正。又就此正中復有二種。一者一心専念弥陀名号。行住坐臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。若依礼誦等即名為助業。除此正助二行已外自余諸善悉名雑行)」
【付言】
古来より日本の浄土教では、この一文(「就行立信釈」)を重んじてきた。とりわけ法然上人においては、念仏を信じるに至った回心の契機として、非常に重要な意味を持つ。ある意味では「浄土宗発祥の文」と、言えるかもしれない。
その経緯について記した一節を、参考資料として次に挙げる。
【参考資料】
※「聖光上人伝説の詞 其三」(石井教道編『昭和新修 法然上人全集』平樂寺書店1955 459頁)による。また「聖光房に示されける御詞 其二五」(同751頁)では、漢文で綴られている。
『黒谷上人語灯録』巻十五「和語第二之五」(『大正新脩大蔵経』第83巻237頁a)参照。
「ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつは物にあらず、この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。しかるあひだなげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の観経の疏にいはく、一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故といふ文を見えてのち、われらがごとくの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふべし。ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましゐにそみ、心にとどめたる也」
四、源空(法然)述 一枚起請文(全)「もろこし我かてうにもろもろの智者達のさたし申さるる観念の念ニモ非す、又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非す、たた往生極楽のためニハ南無阿弥陀仏と申て疑なく往生スルソト思とりテ申外二ハ別ノ子さい候はす、但三心四修と申事ノ候ハ皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルソト思フ内二籠り候也。此外におくふかき事を存セハ二尊ノあはれみニハツレ本願ニもれ候へし。念仏ヲ信セン人ハたとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道ノ無ちノともからニ同シテ、ちしやノふるまいヲせすして、只一かうに念仏すへし」
【出典】
浄土宗・金戒光明寺本による(『一枚起請文 宗祖七百年回御忌記念』大本山黒谷金戎光明寺準備局1911 写真複製版)。
【付言】
法然上人の絶筆とされる起請文で、浄土教の極致ともいうべき教えを説いている。
ここに「疑なく往生スルソト思とりテ」や「決定して南無阿弥陀仏にて往生スルソト思フ」とあるように、往生を信じて念仏することの大事さが、懇切に教示されている。
今日の真宗では、信心さえあればことさら念仏に励まなくても良い、というような風潮が見られる。そればかりか、あからさまに念仏していると、自力であると叱られるようだ。しかし少し歴史を顧みれば、やはり浄土教の根本は「只一かうに念仏」することにあり、この点を肝に銘じる必要がある。
五、親鸞 自然法爾章(全)「獲字ハ因位ノトキウルヲ獲トイフ。
【出典】
得字ハ果位ノトキニイタリテウルコトヲ得トイフナリ。
名字ハ因位ノトキノナヲ名トイフ。
号字ハ果位ノトキノナヲ号トイフ。
自然トイフハ自ハオノツカラトイフ。行者ノハカライニアラスシカラシムトイフコトハナリ。然トイフハシカラシムトイフコトハ、行者ノハカライニアラス、如来ノチカヒニテアルカユヘニ。法爾トイフハ如来ノオムチカヒナルカユヘニシカラシムルヲ法爾トイフ。法爾ハコノオムチカヒナリケルユヘニ、スヘテ行者ノハカラヒノナキヲモテ、コノ法ノトクノユヘニシカラシムトイフナリ。スヘテ人ノハシメテハカラハサルナリ。コノユヘニ他力ニハ義ナキヲ義トストシルヘシトナリ。自然トイフハモトヨリシカラシムトイフコトハナリ。
弥陀仏ノ御チカヒノモトヨリ行者ノハカラヒニアラスシテ、南无阿弥陀トタノマセタマヒテムカヘムトハカラハセタマヒタルニヨリテ、行者ノヨカラムトモアシカラムトモオモハヌヲ自然トハマフスソトキキテ候。チカヒノヤウハ无上仏ニナラシメムトチカヒタマヘルナリ。无上仏トマフスハカタチモナクマシマス。カタチノマシマサヌユヘニ自然トハマフスナリ。カタチマシマストシメストキニハ无上涅槃トハマフサス。カタチモマシマサヌヤウヲシラセムトテ、ハシメテ弥陀仏トソキキナラヒテ候。ミタ仏ハ自然ノヤウヲシラセムレウナリ。コノ道理ヲココロエツルノチニハ、コノ自然ノコトハツネニサタスヘキニハアラサルナリ。ツネニ自然ヲサタセハ義ナキヲ義トストイフコトハナホ義ノアルニナルヘシ。コレハ仏智ノ不思議ニテアルナリ」
真宗高田派・専修寺所蔵の顕智本による(高下恵著『自然法爾考』百華苑1989 掲載写真/石田瑞麿『親鸞とその弟子』毎日新聞社1972 図版44)。
【付言】
親鸞聖人が最晩年に、念仏の対象である、阿弥陀仏の本質について明言した法語。
ここで、
「チカヒノヤウハ无上仏ニナラシメムトチカヒタマヘルナリ」
とあるように、真宗の目的は、阿弥陀仏の誓いにより、無上仏となることに他ならない。
そして、
「无上仏トマフスハカタチモナクマシマス。カタチノマシマサヌユヘニ自然トハマフスナリ」
とあるように、無上仏は形がなく、おのずからそうなる、自然法爾のはたらきそのものとされている。
また、
「カタチモマシマサヌヤウヲシラセムトテ、ハシメテ弥陀仏トソキキナラヒテ候。ミタ仏ハ自然ノヤウヲシラセムレウナリ」
とあるように、阿弥陀仏とは、ただそうした自然の様子を知らせるための、方便のひとつにすぎない。
浄土教において時折、阿弥陀仏を実体視するような言説が見られる。多くの人々が理解しやすいように、自然の様相を神話的な象徴で表現するのは、過去の歴史上やむをえないことでもあった。しかし今日的に見れば、象徴的な意味合いを逸脱し、無量の寿命を持つ仏が、現実世界で実在するかのように説くのは、やはり根本的な誤りで、上記の四法印に悖り、もはや仏教とは言えない。
「信心の諸相」 20090408 ⇒【目次】
かれこれ十年ほど前、真宗において信心とは、どのような意味で捉えられているのか、考察したことがある (「真宗の信」19970121)。 真宗では一般に信じる態度として、知的に教えを理解して得る「解信」(ゲシン)より、知識や見解を加えず無心に得る「仰信」(ゴウシン)の方が、教学上重んじられている。
智慧により解脱することを尊ぶ、聖道門の仏教と対抗する意味でも、こうした立場を採るのは、やむをえないかもしれない。
しかし、高度情報化社会に生きる現代人にとって、知性を交えずに無心でいることは、かえってひどく難しい。そもそも無心とは、どんな精神状態を指しているのかとか、無心という言葉の定義はどうなのか等々と、ついつい穿鑿し、およそ無心とかけ離れた態度になってしまう。すなおで無心な「仰信」など、現実には得られそうもない。
むしろ信じる対象を冷静に見極め、心から納得した上で得る「解信」の方が、はるかに親しみやすい。
それなら本来仏教では、信じるという行為をどんな言葉で表し、どんな意味内容を示してきたか、きちんと調べ直した上で、改めて真宗の信について考えてみたい。
仏教では古来、信じることに対して、「信心」「信解」「浄信」等の用語が用いられていた。各々の語義を明らかにすると、次のようになる。
※『仏教思想11 信』(平楽寺書店 1992)参照。1.信心(śraddhā シュラッダー)これを見ると3は、1・2のように信じた後に得られる、澄み切った精神状態と捉えることができる。要するに、仏教本来の信心とは、あるものが真実であると理解して、疑わない態度と考えて良い。それは決して自分の外にある対象を崇拝し、盲信するようなものではない。
語源は、真実を置くという意味。真実であるものとして信頼すること。
2.信解(adhimukti アディムクティ)
語源は、上へ放つことから、あるものに注意する意味。対象に注意し理解して得る確信のこと。
3.浄信(prasāda プラサーダ)
語源は、完全に静まっている意味。信じて心が静まり清らかなこと。
ところでヒンドゥー教には、4.信愛(bhakti バクティ) 神を熱烈に崇拝する信仰。があり、こちらの方が日常語の「信仰」に、近い意味内容を持っている。
通常、真宗の信心は「仰信」を重んじる関係上、4に近いものと思われている。
「一心に阿弥陀仏を信じて」
等々という表現が、真宗の書物には多用され、そこに知性や理性の介入を許さない語気が感じられる。
しかし親鸞聖人の和讃には、次のような言葉が見られる。「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなりこれによれば明らかに、智慧のない信心では(往生し)覚りにいたることなどできない、と考えられている。
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」
※「正像末和讃」。『原典校註 真宗聖典 第2版』(法蔵館1975 558p)より。
他の仏教と同じく真宗でも、最後には完全な覚りを得、仏になることを目指して、行を修めている。念仏は確かに仏道を歩むための行であり、その目標は浄土へ往生して、成仏することに他ならない。そこのところは和讃にも、「念仏成仏これ真宗」と明記されている。
※「浄土和讃 大経意」。『原典校註 真宗聖典』(525p)より。
この一節は唐・法照の『浄土五会念仏略法事儀讃』から引用したもの(『大正新脩大蔵経』弟47巻479c頁)。ここで「真宗」という語の意味は、「真実の教え」ということ。
極論すれば、覚りを得て成仏するために信心しているのであり、また徹底した信心は覚りと同等なものでもあり、智慧のはたらきを無視した信心などありえないことになる。
真宗における信心とは、決して「鰯の頭も信心から」というように、智慧を停止させて盲信する類のものではない。いろいろ考え尽くした末に、念仏にはもう疑いをはさむ余地がないと、心から納得した上で、初めて得られるものにちがいない。
必ずしも経典に描かれているとおり、極楽浄土や阿弥陀仏を実体視して、伏し拝まなければならないわけではない。それらをひとつの手がかりとし、とにかく念仏することで、救われる覚れると納得して、疑いがまったくなくなれば、少なくとも真実の仏教(「真宗」)において、正しい信心を得たと言っても、なんらさしつかえない。
「病的な思考と健全な思考」 20090222 ⇒【目次】
何かを思ったり考えたりすることは、人間にとり最も本質的な行為に他ならない。ただこれには、物理的な制約がほとんどないので、はてしなく行うことができる。実はそこに大きな陥穽があり、ある種の思考を際限もなく続けると、精神に悪影響を及ぼし、場合によっては心の病を引き起こす原因ともなる。
そこで以下、病的な思考と健全な思考を、思いつくままいくつか列挙し、互いに比較してみたい。
《病的な思考》 非現実的 過去にこだわる 未来を空想する 執着が強い 感情的 利己的 自己中心的 閉鎖的 殺伐としている 猥褻 嘘 《健全な思考》 現実的 現在に即する 具体的な事柄にかかわる こだわらない 冷静 利他的 思いやりがある 開放的 慈悲がある 愛情がある 正直
以上で明らかな通り、要するに心を健全にする思考とは、現実に即し、物事に執着せず、開放的で、思いやりがあるもの、と言って良い。こうした思考から外れたら、なるべくすぐに気づいて、心が病に侵されないよう、よく注意したい。
「心の弱さ」 20090205 ⇒【目次】
妻の精神状態が悪化し、妄想が出て、記憶や思考に障害がみられ、感情も不安定なので、とうとう高岡の病院へしばらく入り、治療することになった。
病院でもらった「入院診療計画書」には、2か月の治療を要するとあった。これから春まで、入院していなければならない。まだ保育園に通う幼い息子もおり、たいへんなことになってしまった。
弱い心とは、少しばかりのストレスで、すぐ病んでしまうものをいう。また、病んだ心とは、心理的な原因から日常生活になんらかの支障をきたす状態をいう。
心にも体同様、先天的な強弱がある。心が強い者は、特に何も気をつけなくても、生涯精神が病むことはない。これに対し心弱い者は、他人が容易に乗り越えられるストレスにも耐えられず、ひどく落ち込み、時には明らかな神経症に罹ってしまう。
その原因として、もって生まれたストレス耐性など器質的な事柄以外に、ある種の心的態度、例えば気分転換の巧拙等も重要な要素と考えられる。
心がすぐ病んでしまう人には、少々嫌なことがあると、いつまでもぐずぐず悩む傾向がある。嫌なのにそれが頭から離れず、気持ちを他へ向けることができない。その内、変な妄想さえ現れるようになり、実生活に支障を来す。
気分転換が上手な人は、直接ストレスがかかる状況から離れたら、すぐ別のことに気を向け、ダメージを最小限に抑えることができる。同じストレスがかかっても、心が病む人とそうならない人に分かれるのは、受けたダメージをいつまで引きずるかによる。
こうした気分転換が自然にできない人は、気持ちを意識的に切り替える、何らかの方法を持たなければ、いつも精神が危機的状況に陥ってしまう。ある程度の努力は要しても、自分の気質をよく理解し、異常を感じたら、直ちに心の執着を断ち、気持ちを他へ向けて休息させなければならない。こうした気休めに、各種の瞑想やヨガ、伝統的な坐禅・念仏等が有効であり、気分転換が苦手な人は、どれか一つでも習得しておくと、ストレスに負けなくなる。
もしかすると宗教とは、心を病気から守るため人類が無意識のうちに産み出した、気休めの手段なのかもしれない。
「考える病」 20090127 ⇒【目次】
先週頃から、妻がノイローゼになったようで、時々不自然な言動がみられ、また夜よく眠れないらしい。仕事上のトラブルがあり、少し考えすぎているのだろう。しばらく注意して、様子を見守る必要がある。
生活全般がひどく多忙で、頭脳の働きを偏重する現代社会では、四六時中なにか考えていることが、当然のように思われている。むしろ特別に瞑想でもしない限り、頭を使わず、無心でいる方が困難なようだ。
しかし、言葉で考えるという行為は、心にとってもろ刃の剣で、非常に危険な側面がある。
考えるという行為は、ふつう言葉により頭の中で実行される。その言葉は、現実を抽象化し、人工的に体系づけられたものであり、それ自身が実体を持つわけではない。従ってほとんど物理法則と無関係で、実世界において実現可能な限界を超え、際限なく展開することができる。またえてしてそれは自分にとり、都合の良い方向へ流れ、結局のところ全く現実から遊離した、甘美で自己中心的な世界へ幽閉されることになる。
改めて言うまでもなく現実と連結した思考なら、人間が生きていく上で、必要不可欠なものに違いない。具体的な何かに取り組むため、あれこれ考えるのであれば、心に有害な要素はほとんどない。しかしただ頭の中で際限なく膨張して行く、言葉遊びのような思考は、現実的になんの意味もなく、むしろ心をひどく消耗させ、病ませることになる。
現代の社会では、各種のマスメディアやパソコン・ビデオ・ゲームなど、現実から離れた空想を助長する道具に満ちている。こうしたものに耽り、いつも考えてばかりいると、現実感覚を喪失し、すぐ心が病んでしまう。とりわけ生きている自分の身体を感じとる、生命感覚を失うと、たちどころに妄想の虜となって、迷宮のような世界から、なかなか出て来られなくなる。
概ねこれが、考えるという病の実態だろう。