雨読
魂のこと 《1997》
《目次》
「過去・現在・未来」 「すかさず感謝」 「真宗の信」 「生老病死の人生観」
「念仏で救われるか T」 「念仏で救われるか U」 「宗教の分かれ目」
「がのことに」 「パソコン」 「念仏で救われるか V」 「信仰心」
「大正新脩大藏經」
「大正新脩大藏經」 19971114 ⇒TOP ほんとうに長い間の夢だった『大正新脩大藏經』(全百巻)を、今日発注した。知人を通じ、直接出版社へ申し込んだ。少なくとも十五年間は、いつか手に入れたいと願い続けて来た、非常に高価な叢書だった。 これを得たからには、もう他に求むべき本などない。あと残りの人生をかけて、これを読みこなして行くだけだ。 親鸞聖人の『教行信証』などを道しるべとして。 しかしどんな因果からか、御寺の産れでもないのに、これから毎日『大蔵経』と接することができる。幸福といえば、これほど幸福なこともない。 あらゆるものに感謝をささげ、今後は与えられた本分を尽すよう努力したい。 「信仰心」 19970531 ⇒TOP およそ宗教というものにおいて、「信仰心」とは最も重大な一事に他ならない。 どれだけ修行を積み、知識や経験を得たとしても、これがなければ決して迷いは晴れず、救われないままでいることになる。また人間精神においても、それは成熟の最終段階で現れる重要な心性であると、人間性心理学などでは考えられている。 ところで、もし神や仏など信仰をささげる対象が、この世にまったく無かったとしたら、人はどのようにしてこうした心を得、さらにそれを育んで行くことができるだろうか。 たまたまあるきっかけから、宗教的な原体験を得て、自然に心が信仰へ向ったとしても、それだけではこの先、体験を維持し発展させて行くことができない。ただ漫然と「信仰心」が与えられても、なにをどう信じればいいのかぜんぜん分らない。 またある人が独りで勝手に対象を決めて、なんらかの信仰をもったとしても、他と共有できなければ、それが本物かどうか誰にも分らない。 「信仰心」というものが、もし人間にとって重要なものであると言えるなら、それを誰でも了解できるような形に特定しておき、永い歳月をかけて厳しく検討していく在り方が、どうしても必要になってくる。 そうした過程を経なければ、狂信的な要素を除き、正しい信仰へ至ることなど、不可能ではないだろうか。 「念仏で救われるか V」 19970424 ⇒TOP 「南無阿弥陀仏」という名号には、はかり知れないほど深い意味と、広い背景がある。 この名号がいつ頃から唱えられていたか、はっきり特定するのは難しい。しかし少なくとも『無量寿経』が中国で翻訳された後漢の頃には、念仏する人々も多くいたに違いない。それからでもおよそ二千年の歳月が経過しており、この間、浄土教の流れに身を置いた数知れない人たちは、心に浄土を思い、阿弥陀仏の名を唱えて、救いを得ていたことだろう。中にはたいへんな宗教的天才も輩出しており、浄土真宗で七祖に数えられるような非凡な求道者たちも、この名号を奉じながら、真摯に仏道を極めていった。 「南無阿弥陀仏でなぜ救われるか」と言えば、名号を唱えることで、いま現在に生きる平凡でちっぽけな自分を離れ、その瞬間に浄土をめぐるこの大きな流れの中へ、身を投じているからに他ならない。名号がふつふつと意識に浮かび上がり、口をついて言葉に出るとき、またはっきりと心に念じているとき、すでに「わたし」は浄土へ赴き、この世の苦しみから遠く離れ去っている。 だから人は、「南無阿弥陀仏」で救われるのだと思う。 「パソコン」 19970311 ⇒TOP まだまだ初心者マークが取れないにしても、いちおう「パソコン」とやら称するものを操るようになり、毎日ノート型の小さい機械とたわむれている。 それでつくづく感じたのは、コンピュータとはじつに強力な「エゴ」(自我)の補強器である、ということだった。記憶・計算・分析など、「エゴ」の代表的な機能において、この文明の利器は絶大な性能を発揮する。これを使えば、以前に考えられなかった水準で情報を処理でき、知識の新しい世界が広がってくる。物事を管理し支配する上でも、画期的な道具であることは疑いない。 しかし、これがどれほどすばらしい性能を示したとしても、しょせん「エゴ」の領域に限定された力でしかないことも、決して忘れてはならない。いくらコンピュータが進歩し、処理できる情報量が増え、対応できるメディアが多くなっても、直接人間精神そのものを操作できるわけではない。コンピュータを駆使すれば、おのずと豊かな心や崇高な魂が育まれるのではなく、あくまでこれを通じて収集・整理した情報により、利益が得られるにすぎない。 この道具により、いわゆる「知」の分野で得られる力があまりにも大きく、それに目がくらんで、現実から乖離し万能感でも懐くような者が出てきたら、機械が人間精神を殺すことになる、などと余計な心配をしたりしている。 「がのことに」 19970225 ⇒TOP 文章を綴る際、たいへん便利である反面、使いすぎるとひどくぶざまな言葉に「が」「の」「こと」「に」がある。とりわけ「が」は、文を順接でも逆説でも思いのまま繋げるので、ついつい多用しがちになる。本や雑誌などを読んでいて、一段落に何度も「が」を使った記述に出合うと、見苦しくて嫌気がさす。論理的な接続をきちんと考えていない、無神経な文がズラズラ続き、意味を取るのに苦労する。 ほんとうに「がのことに」は注意したい。 ちなみに少々こじつけると、「が」は「我」と通じるような気がしてならない。 現代ではどこを向いても、「我」を張り合うことばかりが多くなっている。それもわずかな権利や利便を守るのに一所懸命で、他のことなど眼中に入らないような人が増えている。 あわせて「我のことに」も、じゅうぶん注意を払って行きたい。 「宗教の分かれ目」 19970216 ⇒TOP 宗教を信じるかどうかの分かれ目は、あらゆる物事が、まったく偶然に起きていると捉えるか、もしくは何らかの必然性があって起きていると捉えるかどうかにあると思う。 この世のすべての出来事が、物理的法則に基づき、確率の高いものから順に起るだけと考える時、自分の死もたとえば石ころがひとつ風に吹かれ、崖から落ちて割れるのと少しも変らなくなる。そこには当りまえな物理的法則が働いたという他にまったく意味もなく、およそ人間の意志や心情に訴える要素などない。 これでは人生が、ひどく空虚なものと感じられてもしかたない。 しかし科学的な証明は不可能だとしても、人生の一コマ一コマが、きわめて多くの事柄との関係から、ほとんど必然的に起こっていると実感できた時、ごく自然に宗教心らしきものが芽生えてくる。もしかするとそれは、深い心情を持つ唯一の生物である人間に賦与された、ひとつの錯覚に過ぎないのかもしれない。 ただそうした感覚を持つことにより、この宇宙の様相がいつもありありと想像できて、自己中心的なまわりを犠牲にする在り方から、すぐ脱却できるようになる。また人生に対しほんとうの意味で喜びを感じ、穏やかな愛情あふれた生活が送れるようになる。 一度こうした物事の必然性を感じる転機が訪れた後、どんな不幸に出遭ったとしても、またこの世のすべてが偶然であると、冷酷に見放すような生き方へ戻ることなど、できるものではなくなる。 「念仏で救われるか U」 19970204 ⇒TOP 「南無阿弥陀仏でほんとうに救われるか」について、親鸞聖人は次のように説いた、とされている。 「親鸞にをきてはただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰をかふむりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また地獄に、をつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまうして、地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。せんずるところ、愚身の信心にをきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計なり」 ―『歎異抄』 第二段 『原典校註 真宗聖典』法藏館 聖人の信仰告白ともいえるこの一節は、いつ読んでも心に訴えるものがある。阿弥陀仏や浄土そのものの存否について議論する不毛を避け、師資相承の関係から信心の根拠を説くこの言葉は、非常に巧みであり、現実的で説得力に富む。また締めくくりのところで、最終的に信心を得るかどうかは、あくまで各自の判断によると突き放している点も、潔くて好感がもてる。 しかし現代においては、法然や善導は言うまでもなく、たとえ真正な釈尊の直説であるとしても、それで救済が確証できたことにはならない。いかなる権威的な思想でも、盲信するわけにはいかない。 釈迦牟尼が体得したという「ダンマ」の真理性そのものを問い、そこから厳密に救済の可能性を検討しなければならない。そしてその結果を、科学的に記述できるかどうかが、今後も生き残る信仰が成立する、分かれ目となるように思う。 こうした一見迂遠なアプローチを採らなければ、知識偏重の現代人には、信仰を受け入れることができないだろう。 しかし本来、こうした知的な方法で、信仰を把握するのは難しい。 人間の知性には限界があり、もともと人類の知識と技術により、人間が人間を産み出し、宇宙を創造したわけではない。たまたま地球という惑星に生命を受け、動物の一種として活動しているに過ぎない。人間はこの点で、宇宙に対し自分の分際というものを自覚し、自分を生かしてくれる環境へ、尊敬と感謝の念を奉げる必要がある。 その感謝の念を、いま新たに「念仏」として規定するなら、あえて難しく仏教の真理性を、検証する必要はないかも知れない。 「念仏で救われるか T」 19970203 ⇒TOP いつだったか「南無阿弥陀仏で救われる」、と書いたことがあった(19951114)。 今でもその考えは、基本的に変わっていない。しかしここで改めて、ほんとうにそう言えるか再検討したい。 例えば岸田秀など、売れっ子の心理学者の本を読んでいると、「阿弥陀仏」のようなものは、自我がよりどころを求める自己放棄衝動(没我)により、ひとつの共同幻想として作られた、非現実的なイメージに過ぎないと言う。 どうしてそう言えるか、岸田氏はほとんど納得のいく論拠を挙げておらず、また論理としても非常に図式的で、内容に乏しい説のように感じられる。しかしこれはやはり現代人の通念として、典型的なものに違いない。こうした問に明確な答えを与えられず、信仰を心理機制とするような説明がまかり通るのでは、現代において生きた宗教は成立しえないと思う。 「阿弥陀仏とはいったい何か」「南無阿弥陀仏でほんとうに救われるか」「南無阿弥陀仏でなぜ救われるか」などという問に、従来の教義や安易な信心を持ち出すことなく、現代に通用する言葉を使い、思想として厳密に思索する必要がある。 「生老病死の人生観」 19970127 ⇒TOP 今年は正月早々またひどいカゼをひいてしまい、ここ一週間ほど仕事もなにもぜんぜん手につかなかった。ホンコン型の薬もろくに効かない、強力なインフルエンザが大流行中らしく、全国の老人施設などで死者も出ているという。 しかしたまに熱を出し、寝床に臥せっていると、平生自分がいかに健康な体力をたのんで慢心していたか、つくづく反省させられる。 まず病気の時は、他人とケンカしようなどという、気さえ起らない。必ず負けてしまうだろうし、またそんなことで貴重なエネルギーを費やしてしまうのが、苦痛で仕方ない。そしてしみじみと生死の有様に思いが及び、時間の大事さや、無事でいられることのありがたさが、身に染みて分るようになる。 年寄くさいと笑われるに違いないけれども、ふだん気づかないだけで、こうしたことはやはり人生の真実だと実感している。 ふつう人生観を組み立てるとき、ともすれば健康で思いのまま動ける現在を、基点に置きがちになる。あたかもこのままずっと、気力も体力も衰えないかのように。自分の生命への執着から、無意識にそうなってしまうのだろう。 しかしそれは根本的に誤っており、もっと広く人生のあらゆる局面まで想定しなければ、限定された一時期にのみ通用する希望的な見方にしかならない。人生のいろいろな季節、健やかなとき、病んだとき、楽しいとき、苦しいとき、幼いとき、若いとき、大人のとき、老いたとき、そして死のとき。これら苦楽・生病老死すべての時季を視野に入れてはじめて、現実に即応した正しい人生観が構築できるのではないだろうか。 「真宗の信」 19970121 ⇒TOP 真宗にかかわる者にとり、「信」とはまさしく人生の一大事といって良い。 確固とした「信心」を戴き、「安心」を得ていれば、一生(後生)の問題などことごとく解決してしまう。ところが、このように真宗で説く意味での「信」という語は、インドの初期大乗仏典に、まったく出てこないという。 梶山雄一氏は言う。 「だから仏教で信といっている時のそのサンスクリットの語源は、シュラッダーにしてもアディムクティにしてもプラサーダにしても、これはのちに浄土教において言われるような信心にあたる意味は、インドにおいては出てきていない。では浄土教の信に比較的近いものが全くないかといいますと、バクティという語がある。…(中略)…この言葉は、人格に対する愛を意味します。信愛とでも訳せましょう」 ―『宗教体験と言葉』南山宗教文化研究所編 紀伊國屋書店p.65 ※シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:信愛 そこで『岩波 仏教辞典』の「信仰」を調べると、確かに仏教で一般に言われる「信」とは、「冷静で客観的な信頼を意味する」もので、「ヒンドゥー教では信愛を神に至る道の最高と定め、神への熱烈な崇敬からほとばしる思慕の情感を説くが、それに対して仏教の説く信はずっと知的で冷静である」としている。 ところでこの「バクティ」という語は、例えば古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』(B.C.300〜A.D.100?)において、次のように用いられている。 「たとい極悪の人なりとも、他意なき誠信(バクティ)に満ち、われを敬愛するとせば、彼は実に善人なりと考えらるべきなり。何となれば、彼は正しく決意せる者なればなり。/彼は速かに心正しき人となり、永遠の安祥に達す。知れ、クンティー夫人の子よ、われに誠信を捧ぐる者は滅亡せず。/何となれば、プリター夫人の子よ、われに帰依する者、たとい生れ賤しき者、婦女、ヴァイシアはたまたシュードラたりとも、彼らは最高の帰趨に達すればなり。/いわんや善行あるバラモン、また誠信ある王仙においてをや。無常にして無楽なるこの世界に生れたる汝は、[ただ]われを敬愛せよ」(辻直四郎訳 講談社p.156) 極悪人でもカーストの低い者でも、「バクティ」さえあれば誰でも「永遠の安祥」(解脱)に達することができるという。これはほとんど、浄土系の仏教思想に等しい考え方であると言えよう。 ただ真宗においては、例えば『歎異抄』で「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『原典校註 真宗聖典』法蔵館p.786)と説く通り、悪人の救済に言及しながら、結局は善人の解脱を中心に据えるヒンドゥー教等と、大きく異なる点がある。この一点を除けば確かに真宗の「信心」も、古代インドの信仰形態に通じるものがあるだろう。 しかしここでさらに注意を要することがあり、『岩波 仏教辞典』ではまた「浄土真宗では解信と仰信を説く。解信は知的に仏や祖師の教えを理解して得る信で、仰信は自分の知識や見解を加えずに無心に得るところの信」と述べられている。ふつう仏教で言う「信」とは「解信」に他ならず、真宗ではこれに加え「仰信」という信仰形態にまで及んでいる。 なぜこうした必要があったのだろうか。 『真宗新辞典』(法蔵館)の「解信」を見ると、「解信には個人差、能力差があるが、ひたすら他力を仰いですなおに信ずる仰信は一味である」としている。また『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「仰信」を見ると、「浄土門に於ては聖道門はすべて解信であり浄土門は仰信であるとする。殊に真宗にては仰信を尊重して、解信の者も仰信に入らねばならぬ」と述べられている。 あらゆる資質の人も救われる教えを説こうとするとき、真理そのものである法身を神話化・人格化し、報身である阿弥陀仏を生み出す必要があった。この過程に従うなら、解信:理解による信仰から、仰信:人格への信愛に、変化せざるをえなかったのは当然であり、それがもともと多神教で神話的なヒンドゥー教に、似ていても何ら不思議はない。 真宗には大乗仏教一般の「信」がなかったわけでなく、それをより発展させて、他宗に見られない独自な信仰形態を構築するところまで、到達したのだろう。 「すかさず感謝」 19970119 ⇒TOP ほんの少しでもうれしいことがあったとき、すかさず感謝するようでいたい。 わたしたち凡人は、ちょっと苦しい出来事にあったら、すぐさま生命の根底にあるよろこばしい事実を忘れ、感謝の気持をうしなってしまう。 ほんのわずかな雨風が日々の生活に起っただけで、いかり、にくみ、うらみ、のろう、くらい感情に翻弄される。 けれども雨雲の切れ間にさしこむ光のように、そんな人生の中で少しでもうれしいことがあって、心が正気に戻ったら、その場ですかさず人間らしく、感謝の気持をささげていたい。 「過去・現在・未来」 19970104 ⇒TOP 元日に御屠蘇を飲み過ぎて、新年早々カゼをひいてしまった。完全な寝込み正月となり、布団の中であれこれと、去年の出来事をふり返っていた。 それでつくづく反省すると、たとえこんな体調の悪い時でも、現在こそが大事なのだと切に感じた。過去でもなく未来でもなく、いまこの瞬間以外に世界とかかわりあえる時間はない。ここで精いっぱい努力し、一心に生きているなら、悩みや苦しみなど起ってくる余地はない。 それがついうっかり気をゆるめて、終ってしまった過去や、来るあてもない未来にとらわれたとき、心の隙間から悔やんだり恐れたりする気持が湧いてくる。 ふつう時間には、過去・現在・未来の三種類があると、思い込まれている。しかし実際に生活する上で、この現在と過去・未来とは、まったく意味する内容が違う。 過去とはかつて行った行為の記憶から構成したイメージであり、未来とは過去を素材として空想したビジョンに他ならない。それらはあえて言うなら、「自我」が創作した一種の虚像にすぎず、ほんとうの現実はいつでもこの今にしか存在しない。 人の悩みや苦しみの多くは、過去に対する後悔と、未来への不安に起因する。しかし、それらはしょせん時間の流れに沿って、「自我」が仮構した映像に自らとらわれ、つらい思いをしているにすぎない。自業自得といおうか、自縄自縛といおうか、実体のないものを相手に、ひとりで相撲をとっているのだ。 意識しているかどうかにかかわらず、今ここにいる自分自身、心身一体の生命そのものは、そんな勝手な思い込みとは全然別で、瞬間瞬間、生かされている喜びにあふれている。たとえそれがひどい苦痛に満ちた、嵐の日であっても。 過去と未来の虚像にだまされ、現在ここに存在している喜びをわすれ、生かされていることのありがたさを感謝できなくなってしまうほど、あさましいことも他にない。
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