雨読








           魂のこと 《1995》




   《目次》


   「求めてきたこと」  「死後に意識なし」  「阿弥陀仏・浄土とは擬制か?」 

   「現時点での領解」  「無理解」 








  「無理解」 19951130   ⇒TOP


 どれだけ確かな信仰をもち、正しい行いをしていたとしても、まわりの人々が必ずそれを認め、受け入れてくれるとは限らない。むしろそのために他人から辱しめられ、軽んじられることもあると、経典に明記されている。


 『金剛般若經』(金剛般若波羅蜜經)
 復次須菩提。善男子善女人受持讀誦此經。若爲人輕賤。是人先世罪業應墮惡道。以今世人輕賤故。先世罪業則爲消滅。當得阿耨多羅三藐三菩提。
 けれども、スブーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。―『般若心経 金剛般若経』岩波文庫1960 p.86〜87

 ここで「前の生涯」云々については、不問にするしかない。実際あるかないか誰も証明できないようなものを、考察の前提にはおけない。
 ただ千五百年以上も昔にこの経典がインドで著されてから、道に志す者はこの部分を読んで、人々の無理解を当然のことと耐え忍んできた事実だけは、決してないがしろにできない。むしろ無理解に耐えることを、将来開悟するための関門と捉え、積極的に乗り越えてきたのだ。
 また『論語』の巻頭にも、「人知らずして慍(いきどお)らず、亦君子ならずや」(「人不知而不慍、不亦君子乎」学而第一)とある。
 人が自分を少しも理解してくれなくとも、全く憤慨しない態度は、古今東西を問わず、真の人格者に備わった美徳であろう。




  「現時点での領解」 19951114   ⇒TOP


 南無阿弥陀仏で救われる。

 これは一般の現代人にとり、まことに不思議な言説であろう。しかし素直に信心する人なら、至極あたり前な事実にすぎない。
 ほんとうに信心さえあれば、他に何もいらない。りっぱな教義も、たいそうな修行法も、えらくさい指導者も、まったく必要でない。
 ただできればなぜそうなのかを、誰でも分るように説明してみたい。




  「阿弥陀仏・浄土とは擬制か?」 19950912   ⇒TOP


 【擬制】(fiction)
@なぞらえること。
A[法]性質の全く異なったものを同一のものとみなし、同一の法律上の効果を与えること。
 ― 『広辞苑』岩波書店より。

 本来は人智の及ばない「大いなるはたらき」を、誰にでも理解しやすい象徴に置き換え、日常的にそれを意識するための擬制として、阿弥陀仏や浄土は説かれているのではないだろうか。もしそうなら象徴を実体視し、阿弥陀仏や浄土がどこか別世界に実在すると盲信する危険性を、よく認識しなければならない。




  「死後に意識なし」 19950813   ⇒TOP


 第一義諦に立って、梵・我の本質の完全一致を認める以上、解脱後においては、個人的区別は消滅するものと考えざるを得ない。
 ―『ウパニシャッド』辻直四郎著 講談社学術文庫108p

 正にかくこの我は、内もなく外もなく、全く慧の塊団なり。そは[死後]これらの要素より出で、それらに従って消滅す。死後に意識のあることなし。
 ―ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(『ウパニシャッド』178p)

 古代インドの聖典であるヴェーダには、宇宙に関する哲学的な記述があり、それを奥義書(ウパニシャッド)と呼ぶ。ここで梵・我が完全に合一するとき、個々人の区別はなくなり、意識も存在しえないという思想が見られる。
 死後の世界がどうの、魂の永遠がどうのと、有史以来人々は種々に議論を重ねて来た。しかし遥か古代のヴェーダが書かれた頃、すでにこれほど厳密かつ明快な、死後の解釈が存在したのだ。
 死後に少なくとも個人的な意識は存在しえない。冷静によく考えてみるなら、これほど事実に即した合理的な解釈は、他にないだろう。

 ところでこの厳格なウパニシャッドの思想が、意外にも真宗で常用される「正信偈」の一節と、奇妙に符号する。

 能發一念喜愛心 不斷煩惱得涅槃 凡聖逆謗齊廻入 如衆水入海一味
 能く一念喜愛の心を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得、凡・聖・逆・謗斉しく回入すれば、衆水の海に入りて一味なるが如し。
 ―『真宗聖典』法藏館208p

 涅槃に至れば善悪のいかなる人間でも、ひとしく個人的な区別はなくなり、大海の水のごとく同一味になるという。
 親鸞聖人も究極のところでは、死後−往生後−解脱後に意識が存在すると、考えていなかったのかも知れない。




  「求めてきたこと」 19950101   ⇒TOP


  学道修身  己事究明  
  聴聞念仏  南無阿弥陀仏

 自分がこれまで求めてきたことを順に示すと、このようになる。
 あるとき哲学的な修養より禅的な修業へ関心が移り、それから浄土思想にめざめて、今は念仏ですべてがおさまることを知った。
 しかし方法はどうであれ、いともたやすく人がたすかるほんとうの道、ただそれだけを切実に求めたいのだ。








【総目次】