雨読
魂のこと 《1995》
《目次》
「求めてきたこと」 「死後に意識なし」 「阿弥陀仏・浄土とは擬制か?」
「現時点での領解」 「無理解」
「無理解」 19951130 ⇒TOP どれだけ確かな信仰をもち、正しい行いをしていたとしても、まわりの人々が必ずそれを認め、受け入れてくれるとは限らない。むしろそのために他人から辱しめられ、軽んじられることもあると、経典に明記されている。
ここで「前の生涯」云々については、不問にするしかない。実際あるかないか誰も証明できないようなものを、考察の前提にはおけない。 ただ千五百年以上も昔にこの経典がインドで著されてから、道に志す者はこの部分を読んで、人々の無理解を当然のことと耐え忍んできた事実だけは、決してないがしろにできない。むしろ無理解に耐えることを、将来開悟するための関門と捉え、積極的に乗り越えてきたのだ。 また『論語』の巻頭にも、「人知らずして慍(いきどお)らず、亦君子ならずや」(「人不知而不慍、不亦君子乎」学而第一)とある。 人が自分を少しも理解してくれなくとも、全く憤慨しない態度は、古今東西を問わず、真の人格者に備わった美徳であろう。 「現時点での領解」 19951114 ⇒TOP 南無阿弥陀仏で救われる。 これは一般の現代人にとり、まことに不思議な言説であろう。しかし素直に信心する人なら、至極あたり前な事実にすぎない。 ほんとうに信心さえあれば、他に何もいらない。りっぱな教義も、たいそうな修行法も、えらくさい指導者も、まったく必要でない。 ただできればなぜそうなのかを、誰でも分るように説明してみたい。 「阿弥陀仏・浄土とは擬制か?」 19950912 ⇒TOP
本来は人智の及ばない「大いなるはたらき」を、誰にでも理解しやすい象徴に置き換え、日常的にそれを意識するための擬制として、阿弥陀仏や浄土は説かれているのではないだろうか。もしそうなら象徴を実体視し、阿弥陀仏や浄土がどこか別世界に実在すると盲信する危険性を、よく認識しなければならない。 「死後に意識なし」 19950813 ⇒TOP
古代インドの聖典であるヴェーダには、宇宙に関する哲学的な記述があり、それを奥義書(ウパニシャッド)と呼ぶ。ここで梵・我が完全に合一するとき、個々人の区別はなくなり、意識も存在しえないという思想が見られる。 死後の世界がどうの、魂の永遠がどうのと、有史以来人々は種々に議論を重ねて来た。しかし遥か古代のヴェーダが書かれた頃、すでにこれほど厳密かつ明快な、死後の解釈が存在したのだ。 死後に少なくとも個人的な意識は存在しえない。冷静によく考えてみるなら、これほど事実に即した合理的な解釈は、他にないだろう。 ところでこの厳格なウパニシャッドの思想が、意外にも真宗で常用される「正信偈」の一節と、奇妙に符号する。
涅槃に至れば善悪のいかなる人間でも、ひとしく個人的な区別はなくなり、大海の水のごとく同一味になるという。 親鸞聖人も究極のところでは、死後−往生後−解脱後に意識が存在すると、考えていなかったのかも知れない。 「求めてきたこと」 19950101 ⇒TOP 学道修身 己事究明 聴聞念仏 南無阿弥陀仏 自分がこれまで求めてきたことを順に示すと、このようになる。 あるとき哲学的な修養より禅的な修業へ関心が移り、それから浄土思想にめざめて、今は念仏ですべてがおさまることを知った。 しかし方法はどうであれ、いともたやすく人がたすかるほんとうの道、ただそれだけを切実に求めたいのだ。
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