雨読










魂のこと 《2015》






   【目次】

 「心のイメージ」 「何もしない、思わない」 「六根の分解清掃

 「自我と我執」 「お静かに」 「氣とこり・しこり」 「急性喉頭蓋炎

 「動きながら休む」  「和のヨーガ」  「魂とは意識の場」 

 「念仏の原理」  「真の自分を知る方法」  「正しい祈り」 







  「正しい祈り」 20151212   ⇒【目次】

 祈りには、すごい効果がある。
 遺伝子研究の世界的科学者である、村上和雄氏は言う。
 世の中には、いろいろな才能や個性を持った人がいます。身体の強い人、頭の切れる人、優しい人、元気な人……。この違いは遺伝子の働き方のちょっとした差にすぎません。…(中略)…
 この10年ほどの間に盛んになった祈りの研究から見えてきたのは、「祈りには好ましい遺伝子をオンにし、好ましくない遺伝子をオフにする効果がありそうだ」ということなのです。
 冒頭に紹介した心臓病患者が祈りによって改善の兆しを見せたというのも、その一例ですが、良い祈りが病気を癒す力は、驚異的なものがあります。
※村上和雄 棚次正和『人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている(祥伝社黄金文庫)』祥伝社 2010 22p
 祈りには多くの病気を癒すだけでなく、他にもさまざまな効果がある。
 好ましい遺伝子をオンにし、常識では不可能なことを多く実現する。
 それをひと言で表すなら、「最適解を出す」ということらしい。
 結論から言えば、祈りの効果は考えられる可能な答えの中でもっともふさわしい答えを導き出す、つまり「最適解を出す」ということです。
※『人は何のために「祈る」のか』60p
 しかし誤った祈り方では、たいした効果が得られない。
 正しく祈るためには、いくつかの心がけが必要になる。
 村上氏はこの点について、次の5項目を指摘している。
第一「祈りの内容を限定してしまわない」
第二「祈りの内容を明確にする」
第三「感謝の祈りを忘れない」
第四「他人のマイナス意見は取り合わない」
第五「祈り続ける」
※「■祈りのコツ■ どうすれば上手に祈れるか」『人は何のために「祈る」のか』240pより
 またタイの高僧だったアーチャン・チャーも、誤った祈り方を批判している。
 在家の仏教徒たちがこの寺に来て、お布施をするとき、彼らは「未来において、いつの日か私たちはニッバーナに達しますように」と唱えます。「いつ、どこで」ニッバーナに達するのかということは、彼らは実際には知りません。遠い未来でのことです。彼らは「今、ここで」とは言わず、「未来のいつか」と言うのです。常に「いつか、どこかで」の話です。決して、「今、ここ」ではありません。常に「いつか」です。来世においてもまた、「いつか」と言うのでしょう。そして、その先の未来においても「いつか」なのです。ですから、彼らは決してニッバーナに到達することはありません。なぜなら、それは常に「いつか」だからです。
※アーチャン・チャー著 星飛雄馬訳『無常の教え 手放す生き方2 苦しみの終焉』サンガ 2013 106p
 これらを参考にして、正しく祈るための要点を、自分なりにまとめてみたい。

 1.自分の欲望を満たすため、ある特定のものが得られるようには祈らない。
 2.ただ漠然とあいまいなことを祈っても、あいまいな結果しか得られない。
 3.自分がいま生きて、祈れることに感謝できないようなら願いは叶わない。
 4.人から否定的な意見を聞くと、祈る気持ちが萎えて、継続できなくなる。
 5.どれだけ立派な祈りでも、継続しなければ、潜在能力まで引き出せない。
 6.何を祈るときでも、無責任に「未来のいつか」を当てにしてはならない。
 7.今ここでまったく実行できないことを祈っても、叶えられるはずがない。

 これまで毎日、折にふれては、

 「生きとし生けるものが幸せでありますように
 いかなるときも心が浄らかでありますように
 いつでも念仏できますように」

 などと祈ってきた。
 今にして思うと、このような文言では、まったく切実さが感じられない。
 遠い未来に叶えばもうけもの、という程度の気持しか込められていない。
 そんなあやふやな他人まかせの態度では、小事でも実現するわけがない。
 これからはもっと主体的に、

 「いま念仏して 心浄まり ここで皆 幸せになる

 と日々折々祈ることにする。
 原則的には、あなたは自分が祈りたいことを祈ればいいのです。その場合に、必ず調和ということを考えるのです。調和を考えるとは、利己的な考えを捨てることです。
 自分も良くなるが、同時に他人も良くなる、世の中の役にも立つ、という観点から祈りの内容を見ていけばいいと思います。そうすれば、悪い祈りはこの世からなくなります。世の中の平和は、そういう祈りの行動によってこそ実現できるのです。
※『人は何のために「祈る」のか』204p






  「真の自分を知る方法」 20151111   ⇒【目次】

 数年前まで、主に東洋思想を研究することで、己事究明しようとしていた。
 老荘思想・禅宗・真宗などの典籍を渉猟し、自分とはなにかを考えてきた。
 真の自分がわかると、この世における生死の問題も、おおむね解決できる。
 なぜこの世に生れ、どうして死んで行くのか、納得のいく解答が得られる。
 そして艱難辛苦に遭っても心があまり乱れず、死さえ受け入れやすくなる。
 学問研究を通じ、そんな自分に関する、本質的な問題の解決を求めていた。

 しかし長年、書物を多読し、頭を絞って考えても、あまり効果がなかった。
 どれだけ言葉や思考を駆使しても、自分を正しく把握することはできない。
 自分のかなり大事な部分が、語彙や概念では、捉えきれない感じがする。
 むしろ努力して、あれこれ考えれば考えるほど、迷宮に陥るようだ。
 すなおにありのままの自分を見つめる方が、はるかにましだろう。
 ただそれでは、あまりにも漠然としていて、取り付く島がない。
 自分をしっかり見つめるための、確かな方法が必要だった。

 種々の行法を試したところ、呼吸法を修めると、感情に翻弄されなくなる。
 ヨーガなどの体操を続けると、心身の状態に気づき、欲望に負けなくなる。
 感情や欲望を自制できるなら、心が澄みきり、その構造や機能がつかめる。
 そうした状態で瞑想し続けると、自分の姿がかなり分るようになってきた。

 ほんとうの自分がわかると、生死の問題は、自明になる。
 自分がどこから生れ、死んでどこへ行くか、はっきりする。
 生まれるのは修行のため、家から旅立つようなものにすぎない。
 死ぬのはその修行が一段落し、また家へ帰るようなものだろう。
 種々の苦労はあっても、自分ひとりの生死など、大したことない。

 人生の出来事に対しては、心配せずにただ淡々と受け入れる。
 そしてできるだけのことをやったら、後はさっさと他に任せてしまう。
 可能なかぎり断捨離して、物事へのこだわりや執着も、すべてなくす。
 そうすれば、肉体の苦痛は感じても、精神の苦悩はほとんどなくなる。






  「念仏の原理 ―思いを手放し心身を調える」 20151010   ⇒【目次】

 浄土系仏教では、今日でも救済の原理を、神話的な表現で説いている。
 阿弥陀仏の本願により、南無阿弥陀仏と称えれば、浄土へ往生できる。
 そして、あらゆる苦しみのない理想的な修行環境で、みな開悟するという。
 しかし現代人には、こうした神話をそのまま信じることが、非常に難しい。
 阿弥陀仏や浄土が、ほんとうに実在するのかと、ついつい穿鑿してしまう。

 実はそうした神話と関係なく、念仏そのものに人を救うはたらきがある。
 「南無阿弥陀仏」の語意すら知らなくても、ただ称えるだけで救われる。
 行としてひたすら念仏すれば、心中にわだかまる思いを手放すことができる。
 思いを手放して心が浄まり、真実の自分に気づくとき、生死すら克服できる。

 人の苦しみはいつも何かを、思ってばかりいることに起因する。
 好い思いなどすぐに尽き、ほとんど嫌なことしか考えていない。
 過去の後悔や未来の不安などを、いつまでもあれこれ思い続ける。
 そうしていつも無自覚に、自分の思いで自分の心を苦しめている。
 ただそれを手放すだけで、そのまま立ち消えてゆくという原理も知らずに。
 自分を長く悩ましている思いや考えなども、素直に手放せば、すぐ消える。
 このことは日々苦悩に捉われている人にとって、大きな救いになるだろう。
 この救済原理について詳しく考察した文献を、いくつか挙げて味読したい。

 曹洞宗において昭和を代表する名僧に、澤木興道老師がいた。
 その法嗣だった内山興正老師が、思いの性質を解明している。

 われわれの思いは、いつも「何か」を思うわけですけれど、この「何かを思う」ということは、思いをもって、その「何か」をつかむことです。ところが今、坐禅中では、その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって、何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです。実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません。しかし、思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう。……たとえAがアタマの中に思い浮かんでも、思いをつづけさえしなければ、Aは意味形成以前であって無意味なのだし、そのまま意識の流れとともに立ち消えてゆきます。
※内山興正『坐禅の意味と実際 生命の実物を生きる(新装版)』大法輪閣 2013 52p
 内山老師の弟子にビルマでテーラワーダの比丘となった、山下良道師がいる。
 師は「思い」を現代風に、「シンキング・マインド」と解釈し説明している。
 シンキング・マインドが止まっているとき、人は不思議な安らぎを覚えます。止まらないシンキング・マインドが、人の悩み苦しみの本質だからです。
 こうしてシンキング・マインドが落ちた状態は、それぞれのスピリチュアルの伝統によって、いろいろな表現をされてきました。
 たとえば私の禅の師、内山老師は「思いの手放し」と言いました。道元禅師は、「身心脱落」と表現しました。ヨーガの伝統のなかでは、単に「心が止まった」という言い方をします。マインドフルネスも、そのことを言っていたのです。
※山下良道『青空としてのわたし』幻冬舎 2014 152p
 ところで内山老師は、坐禅ばかりでなく、念仏に対しても理解が深い。
 坐禅と対比しつつ、念仏の本質について、するどく捉えた名言がある。
 つまり、「小さなこの私は無量無辺のアミダさまに抱かれている。そう思えても思えなくても、それを信じても信じなくても、―この小さな私の思いにかかわらぬ、私の思い以上のところで、事実、私は無量無辺のアミダさまに抱かれ、救いとられているのだ。有難い。ナムアミダブツ」―これを口で称えるのが報恩感謝の念仏であり、これを身体の姿勢でするのが「信じて坐る坐禅」「証上修の坐禅」です。つまり、浄土系の人々がナムアミダブツと口で称えるのは、口でする坐禅なのだし、われわれが坐禅するのは、身体の姿勢でする念仏です。
※『坐禅の意味と実際 生命の実物を生きる』106p
 原理的には念仏も坐禅と異ならず、「思いの手放し」をしているにすぎない。
 「浄土系の人々がナムアミダブツと口で称えるのは、口でする坐禅」となる。
 さらに極言すれば「坐禅するのは、身体の姿勢でする念仏」にほかならない。
 また山下師はこうした視点に立てば、念仏を称えることがリアルになると言う。
 お念仏なら、南無阿弥陀仏と唱えればいいのです。だけれど今までは南無阿弥陀仏に自信がなかったのではないでしょうか。自分の本質が青空だとリアルに実感できれば、阿弥陀仏の慈悲の光のなかにいることがリアルに実感できて、感謝の思いとして南無阿弥陀仏と唱えることができます。念仏を唱えることがリアルになるのです。
※『青空としてのわたし』220p
 平成の妙好人・榎本栄一さんも、自分の「思い」について詳しく考察している。
 誠に(内山興正)老師の仰せの通り、我が心の中に浮かんでくる思いのままに生きているのが、私達の日常生活です。これに気がつくのがなかなか並大抵のことではありません。世間一般の人は百人が百人ながらそれに気づかず、ただうかうかとその思いのままに、思いのままとも思わずあれこれ生きております。
 自分の思いとは一体何でしょう。簡単にいえば自分中心の思い、我さえ良ければよいという思いです。雑念、妄想といってもいいし、悪念、虚仮の思いといってもいいし、うかうかっとしている思いだともいえます。一括りにして煩悩といってもいいでしょう。
※『いのち萌えいずるままに 念仏者の自己発見』榎本栄一 述 櫛谷宗則 記 柏樹社 1990 132p
 また栄一さんは「この思いが見えるというのが、内観念仏である」と説いている。
 この思いが見えるというのが、内観念仏であるといっていいでしょう。
 ですから自分の中にまるで雲が湧くように現われる思いを、思いとも知らずただうかうかとその思いのままに動くのでなく、その思いにじっと眼をとめる、眼をとめてただじっと見ていることが大切です。その時お光に照らされています。見えてきたということと、お光に照らされているということとは、同時に体験することです。眼をとめるのが早いのか、お光を頂くのが早いのか、どれがどっちか分かりませんけれど、念仏申せばお照らしを頂いて、その自分の思いが見えるというほかありません。
 これにはいろんな方法があるでしょう。あるいは坐禅するとか、お題目を唱えるとか、何か三昧の行にふけるとか、いろいろあるでしょうが、私においてはやはり南無阿弥陀仏と申しておりますと、ほのかに照らされて自分の中に浮かんでくる思いが見えてまいります。その見えてきた思いを手放しでただ見ている、本当にただ見ているということです。
※『いのち萌えいずるままに』133p
 ところで念仏の行そのものに、心身を落ち着ける作用がある。
 日本における心身医学の基礎を築いた、池見酉次郎氏は言う。
「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えることによって、生きとし生けるものを生かす大いなるいのちに自己を全託する(南無する)ことの安らぎがえられ、一方、単純な念仏(発声)のくり返しは、脳の働きの鎮静と調和を助けるものと思われます。
※池見酉次郎『肚・もう一つの脳 究極の身心健康法(新装版)』潮文社 2007 136p
 池見氏は念仏が体調を好転する、メカニズムも解明している。
 念仏のような単純なリズミカルな言葉のくり返しによって、新しい皮質の活動は抑えられ(単純な子守歌が眠気を誘うように)、古い皮質から脳幹にある、リズムの中枢が刺激されて、生命のリズムと一致した口踊(ママ・誦?)念仏が自然に出てきます。これが、情動の座である古い皮質を安定させ、これにつながる脳幹へと伝わって、そこに中枢をもつ自律神経やホルモン系の働きがととのえられ、それにつれて体調も好転してきます。
※『肚・もう一つの脳 究極の身心健康法』142p
 念仏の行には本来、心身を癒す効果がある。
 念仏に余計な意味づけなど、まったく必要でない。
 ただ念仏して思いを手放せば、苦しみが立ち消えてゆく。
 日々そうしているうち、ほんとうの自分がはっきり見えてくる。






  「魂とは意識の場」 20150921   ⇒【目次】

 唯識仏教によれば、人間には、日々意識が生じる「場」がある。
 朝、目覚める瞬間に現れて、夜、眠るといつの間にか消え去る。
 それは 全身を含み、心も包んで、より広い領域まで及んでいる。
 体調・感情・思考・意志等の作用で、常に様相が変化している。

 その「場」の奥底に一瞬一瞬、阿頼耶識から「種子」が出てくる。
 ※「種子」は、伝統的に「しゅうじ」と読む。
 「場」の状況に応じ発芽し繁殖するものと、すぐ消えるものがある。
 繁殖した「種子」は、その性質によって、種々の行為をひき起こす。
 その行為は、また阿頼耶識へ薫習され、「種子」として蓄えられる。

 意識の「場」はいわゆる自我により、一元的に統制されているのではない。
 心身から伝達される、多様な情報を受け、有機的・組織的に変動している。
 意外に自我的な機能よりも、身体的な要因が、行動に影響しているようだ。
 「魂」とは、このように瞬時も活動を止めない、自己意識の「場」をいう。






  「和のヨーガ」 20150831   ⇒【目次】

 今日で、本格的にヨーガを習いはじめて、1年が経過した。
 富山市にあるカルチャー教室の、会員制ヨーガ講座を受講している。
 ※「とやま健康生きがいセンター
 講師の下野博明先生は学生時代、佐保田鶴治先生に直接師事している。
 在りし日の先生にまつわる逸話を、多く紹介してもらえて、たいへん興味深い。

 講座がない日も毎朝必ず1時間程度、基本的なアーサナを実践している。
 そうして最近、ようやく自分に合ったヨーガが、おぼろげながら見えてきた。
 まだまだ未熟ながら、あえてそれを一言で表すなら「和」となる。
 佐保田先生も、ヨーガを「和」の意味で説明されることがあった。
 ヨーガは「和」と訳されますが、心と体を一つにするには調和が必要です。
 ※佐保田鶴治『八十八歳を生きる ヨーガとともに』
 人文書院 1986 179p

 ヨーガは、元来、調和を意味します。調和と中道と節度とは、同じ意味のことばですし、ヨーガということばも、まさしくこれらと同じ意味内容をもっているのです。
 ※佐保田鶴治『ヨーガ入門 ココロとカラダをよみがえらせる』
 ベースボール・マガジン社 2001 40p
 「気づき」ながら、呼吸に合せゆっくり動き、緊張より弛緩を重んじる。
 またいつも心身の状態を意識し、力みやこりを緩めるようにする。
 ふだんから心と体の調和をはかり、ゆったりと和むようにする。
 そうしていると、わずかな時間ですぐリラックスでき、疲労が蓄積しない。
 たまたま激しく動くときでも、体を痛めたり怪我したりすることが少なくなる。
 なにか安静時に高くなるという脳波のアルファ波が、いつも出ている気がする。

 ただしそれは、ガンダーリ松本氏の「和風ヨーガ」とは、かなり異なっている。
 ※『和風ヨーガ 日本人の体と心に合わせた健康術(講談社+α新書)』
 講談社 2010
 ヨーガを日本人の体形や気質に合わせ、適当に簡略化したものではない。
 あくまでインドに伝わる正統的なヨーガの範疇で、調和や和みを重視する。
 いま仮にこれを「和のヨーガ」と名づけ、日々忘れず実践するようにしたい。






  「動きながら休む ―心身の活力が衰えず疲れない方法」 20150721
   ⇒【目次】

 活力に乏しい人、やる気が出ない人、疲れやすい人には共通点がある
 (ただし当然のことながら、障害や持病がある人は、この限りでない)。
 立居振舞がぎこちなく、動作にめりはりがなく、体がむだに力んでいる。
 ややもすれば怪我をしがちで、また肩がこりやすく、腰も痛めやすい。

 こうした人の行動をよく観察すると、ふだん体を、ただ部分的に動かしている。
 それで足らず、他の部位まで使わなければならない時、余分な力が働いている。
 歩くとき上体が強ばっていたり、手先を動かすとき肩に力が入ったりしている。

 そうしたむだな動きを改めるには、やはり「気づき」が重要であろう。
 まず行動を分析し、一つの動作に必要な部位を、はっきり区別する。
 そして全身の動きに注意しつつ、必要な部分だけ使い、他は緩める。
 また、特定の部位だけ酷使したなら、すぐ後でそこを集中して休める。
 こうすれば四肢五体を順番に休息させることができ、疲労が蓄積しない。

 ただその呼吸やこつが難しく、頭では分かっていてもなかなか実行できない。
 これを会得するには、ある種の体操を選んで、じっくり訓練する必要がある。
 激しい運動はせず「気づき」を保ちながら、呼吸に合せゆっくり五体を動かす。
 曲げたりねじったりして緊張を加えるより、体を弛緩させ、休む方を重んじる。
 たとえば正統的なヨーガや気功などで、自分に合った体操を習得するとよい。
 ちなみに日本におけるヨーガの功労者・佐保田鶴治先生の四原則を挙げる。
 「四原則
  一、動作はゆるやかに
  二、動作に意識を向けて
  三、動作に呼吸を結びつけて
  四、緊張とリラックスの適度な交替
    (特にリラックスを大切に)」
 ※佐保田鶴治『ヨーガのすすめ 現代人のための完全健康法』
  ベースボール・マガジン社 2002 口絵
  「気づきの動作瞑想」20130525 参照。
 心の中も同様であり、「今ここ」で必要な機能だけ働かせるようにしたい。
 過去は参照する程度に、未来は具体的な計画を立てる程度に限定する。
 決して空想に耽ったり、妄想に陥ったりして、心の活力を浪費しない。

 概して、考えすぎると幸せになれない。
 考えれば考えるほど、必ず過去を思い出す。
 好い記憶は少なく、嫌な出来事ばかりが多い。
 ついつい後悔に苛まれ、将来まで憂えてしまう。
 中村天風師も「日常の心得」で、この点を厳重に注意している。
(十)取越苦労厳禁
「さしあたる、その事のみをただ思え、過去は及ばず、未来知られず」
 ※『君に成功を贈る』日本経営合理化協会出版局 2001 268p
 さしあたった用事だけに思いをめぐらし、過去にも未来にも拘らない。
 必要なことだけ考え、余計なことを思わず、終わればすぐに忘れる。
 決して無理をせず、いつもゆったり和やかに過ごすよう心がける。
 そうすれば気力が衰えることなどなく、いつも元気でいられる。
 もしかするとこれが、幸せになるための、秘訣かもしれない。






  「急性喉頭蓋炎」 20150630   ⇒【目次】

 久しぶりに、ひどい病気に罹った。
 当初、微熱があり、喉が痛み、咳が出る程度で、適当に市販薬を飲み、できるだけ安静にしていた。しかし数日経過しても、なかなかすっきり快復しなかった。
 それがおよそ1週間後の深夜、急に咳のひどい発作が起きた。
 一連の経緯は、次の通り。
6月1日(月)〜7日(日)
 微熱が出て、すぐ平熱に戻る。ずっと咳が続き、痰が絡む。
6月8日(月)
 深夜、咳のひどい発作が起こり、呼吸困難になる。
6月9日(火)
 昨夜同様、咳の発作で呼吸困難になる。昼過に「T耳鼻咽喉科クリニック」受診。急性喉頭蓋炎※でパニマイシン・リンデロン・ボスミン等を吸入する。クラリス錠・ムコダイン錠・リカバリンカプセル・アスベリン錠・ホクナリンテープが処方される。
6月10日(水)〜15日(月)
 徐々に喉の炎症が治り、咳が軽快する。処方薬を飲みきる。
6月16日(火)
 深夜咳の発作で再び呼吸困難に陥る。朝一番に「T耳鼻咽喉科クリニック」受診。喉頭蓋がまだ少し腫れているとのこと。パニマイシン・リンデロン・ボスミン等吸入、クラリス錠・ムコダイン錠・リカバリンカプセル・アスベリン錠・ホクナリンテープ処方。
6月17日(水)〜20日(土)
 咳が軽快する。処方薬を飲みきる。
急性喉頭蓋炎 - Wikipedia(抄)
 急性喉頭蓋炎(きゅうせい・こうとうがいえん、英: acute epiglottitis)は、喉頭蓋の細菌感染による上気道疾患である。重症例では急速に進行し、予期せぬ窒息を来たすことがある。なお、単に喉頭蓋炎と言った場合もほとんどはこの急性喉頭蓋炎を指す。感冒との鑑別が困難なことが多い。
 疫学
 小児に多いが成人例も散見される。細菌感染が主である。インフルエンザ菌b(Hib)による症例が多く、次いで肺炎球菌、溶連菌がみられる。 欧米諸国ではHibワクチンのため、小児のインフルエンザ菌による髄膜炎・喉頭蓋炎は減少している。ワクチンの効果を失った成人患者の割合が増加している。
 症状
 咽頭痛 嚥下痛 嚥下困難 流涎(りゅうぜん・涎を垂れ流すこと)
 発熱 構語障害  吸気性喘鳴
 呼吸困難: 窒息にいたることもある
 嗄声: いわゆる「しゃがれ声」「ハスキーボイス」
 含み声:muffled voice,hot potato voice とも呼ばれる、マフラーを巻いたような声。
 治療
 抗生物質の投与。嚥下困難があるため、経静脈投与が主体となる。
 インフルエンザ菌bは、現在BLNARなどの耐性菌が増えている。生命にかかわる事態では、抗生物質が効かないことは許されないため、当初より第三世代セフェム系やニューキノロン系抗菌剤が投与される。
 喉頭蓋の腫脹がひどい時には、経静脈的にステロイドを投与し、浮腫を軽快させ気道を広げる治療も行われる。
 病勢によっては気管内挿管や緊急気管切開が行われることもある。着手が遅れると、死亡したり、後遺症が残ることがある。
 急性喉頭蓋炎は進行がきわめて早く、短時間で重症化すれば窒息死の危険性が高くなる。
 深夜の発作時、咳き込んで息を吐き切り、肺が空になっていながら、喉の奥が塞がり、どうしても吸うことができない。呼吸困難でややパニックになりつつ、なんとか体位を変えたり、息の吸い方を工夫したりして、ようやく急場を凌いだ。
「このままでは死ぬかも…」
と焦りながら、ただ苦痛を除くことに専念した。そのためかさほど恐怖を感じず、気も動転しなかったのが救いだった。
 いま冷静にふり返ると、自分は深夜に数分間、窒息で死線をさまよっていたことになる。それも一度でなく二度でなく、三度も大きな発作が起った。
 よく無事に生き残れたものだと、感慨にふけっている。まさしく、不幸中の幸いであり、種々のご縁で命長らえたことに、衷心より感謝している。

 今はまだ少々、体に違和感が残っている。それでも五感は正常に機能し、確かに生きている。心臓が鼓動し、肺が呼吸し、眼が見、耳が聞き、この世界を感じ取っている。
 この瞬間に、苦痛がなく妄想もなければ、生きていることは原則として甘美だ。またどれほど苦しんでいる瞬間でも、肉体は無条件に生きようと欲している。
 死にたいなどと思うのは、まだ心身に余裕があるときの、世迷い言にすぎない。
 ほんのわずかながら死線をさまよい、命の本音を聴いた気がする。







  「氣とこり・しこり」 20150609   ⇒【目次】

 心身に外からストレスがかかると、どうしても身構える。
 ついついむだな力が入り、肩などの筋肉がこってしまう。
 ひどくこって、しこりができると、氣の流れが妨げられる。
 いつの間にか動作がぎこちなくなり、気持ちも沈んでくる。

 気持ちが沈んでいるとき、まず身体の異常を疑ってみる。
 五体のすみずみまで注意し、こり・しこりがないか調べる。
 とりわけ肩から背中、足腰などがこりやすく、入念に行う。
 異常な部分が特定できたら、集中的にリラックスさせよう。
 体操やマッサージ、湿布や入浴等々で、適切に対処する。
 こりが緩み、しこりが解消すれば、氣も滑らかに循環する。

 川の流れは、よどみができると、すぐに水が汚れてしまう。
 心身もこりやしこりで、血・氣の流れが滞ると、病んでしまう。
 日頃、気功やヨーガなどを実践すれば、こり・しこりができない。
 全身が柔らかくなったように感じて、丹田に生命力が充満する。
 身体がよく緩み、滞りなく氣が流れると、気持ちも清々しくなる。






  「お静かに」 20150515   ⇒【目次】

 以前に能登のある地域で、「お静かに」という挨拶語が使われていた。
 年配の方などが別れ際に、「お気をつけて」ほどの意味で用いていた。
 これが意外によその地方でも、通用する言葉らしい。
 トクする日本語 - NHKアナウンスルーム
「お静かに」は、 あいさつ言葉!? 2010年6月30日(水)
…江戸時代には「お静かに」の形で、一般的なあいさつ言葉になっていたようです。実は、山梨県出身の方からも「子どもの頃、母がお客様を"お静かに"と送り出していた」とのお便りが!長野とは違い【お気をつけて】の意味ですよね。方言の辞典を調べると、他にも【さようなら】【ごゆっくりおくつろぎください】【おやすみなさい】といった意味で、この「お静かに」が日本全国広い範囲で使われていることがわかりました。…
 残念ながら今、この言葉をこの用法で聞くことは、もうほとんどない。
 せいぜい「黙れ」という意味の、丁寧語にすぎない。
 しかしなんとも温かみのある言い回しで、このまま無くすのはもったいない。
 日常よく気をつけるための決まり文句として、この言葉を使えないだろうか。

 ふだん注意していても、ともすれば何かにつけて妄想に陥ってしまう。
 また、うっかり落ち込んだり、ついついのぼせ上がったりもする。
 さらに、ちょっと不都合なことでも起こると、すぐ腹が立つ。
 そんな状態に気づいた時点で反省し、平静に戻る努力をしたほうがいい。

 その際「黙れ」「止めろ」などと自戒すると、どうしても怒りの感情が混じる。
 怒りを怒りで抑えることは不可能であり、堂々めぐりになってしまう。
 こうした場面で「お静かに」を使えば、逆にわずかでも慈悲の気持ちが入る。
 まずい状態に気づき、さよならして、ゆっくりくつろぎ、やすむことができる。
 たんなる言い回しだけではなく、心の態度を改める有効な対処法になる。

 日々なるべく妄想せず、落ち込まず、のぼせ上らず、また決して怒らない。
 そうして、心の状態をあまり混乱させることなく、「お静かに」生きたい。







  「自我と我執」 20150424   ⇒【目次】

 古来仏教では、あらゆるものを捨てることが肝要である、と考えられてきた。
 たとえば、空也上人の言行として一遍上人が伝えた、次のような故事がある。

 むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかゝ申べきやと問ければ、
「捨てこそ」
とばかりにて、なにとも仰られず
※『一遍上人語録』(岩波文庫)岩波書店 1985 33p

 ほんとうの意味で出家するなら、自分に関わるこだわりはすべて断捨離する必要がある。
 少なくとも、容姿・名前・性別・年齢・経歴・趣味・住居・財産・家族等々の、属性は捨てる。
 しかしそれで仏教とは、自我そのものを捨てることであると、かん違いする人が多い。

 自我とは、多くの認識能力がある感覚器官の総称で、五体のような実体はない。
 自我そのものは姿形を持って実在せず、元々有りもしないものを捨てることなどできはしない。
 自我という錯覚に気づいて、そんなものを追い求めないように、よく注意するしかない。
 捨てるべきは、蜃気楼のようなものを実体視して、ひどくこだわってしまう我執なのだ。
 仏教は「自我を捨てなさい」とは言っていないからです。捨てるためには、自我が実在しなければいけません。ですから、「自我が錯覚であることを発見しなさい」と言います。言い換えれば、「解脱に達しなさい」という意味になります。自我は錯覚であると発見した時点で、自我に対する執着も消えるのです。
 ※アルボムッレ・スマナサーラ著『執着の捨て方』大和書房 2014 199p 






  「六根の分解清掃」 20150321   ⇒【目次】

 心を静めてよく観察すると、そこには種々のはたらきが、混在していることに気づく。
 仏教においては伝統的に、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識があるとしている。
 ちなみに阿毘達磨仏教では六識とし、後の唯識仏教では、さらに末那識と阿頼耶識を加えて八識とする。
 また、そうした認識能力がある感覚器官を、六根と名づけている。
 具体的には、眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(意識)のことをいう。

 通常は誰しもこうした心の器官を意識せず、適当にお任せして行動している。
 それでは無自覚であり、むだが多く、放っておけば麻痺したり暴走したりする。
 毎日一度は、心を構成する六根に注意し、明確に区別してみるべきだろう。
 身体感覚である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根が正常か、体操して確認する。
 身体のすみずみまで意識して動かし、各能力が十分発揮できるようにする。
 とりわけ、言葉で考えたり思ったりする、意根のはたらきには注意が必要だ。
 ついつい妄想に捉われたり、感情的になったりして、いつも過熱気味のようだ。
 なるべく思考を止めるように努め、折々瞑想し心の底からくつろぐ練習をする。

 こうした心の手入れは、どこか使い古した精密機械の分解清掃に似ている。
 長年にたまった埃や汚れは、部品を分解して、個々に清掃しないと落ちない。
 同様に六根も分解清掃すると、いつどの器官が働いているか的確に把握できる。
 そうすれば、心の仕組がはっきり分り、自我という実体が、存在しないことに気づく。
 それによって、いつしか自然に無我ということが、しっかりと体得できるようになる。






  「何もしない、思わない」 20150205   ⇒【目次】

 現代は競争社会で、とにかく先へ進むことが求められる。
 だれもが『史記』項羽本紀に見える名言、
「先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為る
 (先即制人、後則爲人所制)」
を金科玉条にしているようだ。
 他人より一歩でも前へ出るため、全力でがんばり、心身を鞭打つ。
 しかし逆に、いま見識ある多くの人が、あまり自らを省みない、このような行動本位の生き方に、警鐘を鳴らしている。
 マインドフルネスを提唱する、ティク・ナット・ハン師は言う。
 動物は病気になったとき、横たわったまま何もしません。食べること、飲むことさえやめてしまうこともあります。そして、エネルギーのすべてを治癒に向けます。私たちには、病気でなくてもこのような実践が必要です。いつ休むべきかを見きわめる、それは奥の深い実践です。瞑想をがんばりすぎたり、マインドフルネスを忘れて熱中しすぎたりすると、すぐにくたびれてしまいます。マインドフルネスの実践は、疲れるよりも元気になるものでなければなりません。それでも自分が疲れていると思ったなら、どんな手段でも探して休むべきです。
※『ブッダの幸せの瞑想 マインドフルネスを生きる』サンガ 2013 108p 
 自分が疲れていると、自覚できる人は、まだましだろう。
 社会人の多くは、目前の仕事に逐われ、少々くたびれようが休もうとしない。
 ときおり休憩しても、ただ体の動きを止めるだけで、心は働いたままでいる。
 日々緊張にさらされ、体と心に疲労が蓄積して、病んでしまうまで休まない。
 休むということを、なにかの罪であると、かん違いしているのだろうか。
 そんな現代社会で、心身を壊さないためには、意識的に休む必要がある。
 ティク・ナット・ハン師が説く、
「休むための技術を身につけ、体と心が自ら回復していけるようにつとめましょう。考えない、何もしない、それも休息と癒しの実践です」(同書 109p) 
という教えは、肝に銘じるべきだ。
 瞑想などの具体的な方法を学んで、できるだけ「何もしない、思わない」技術を、しっかり身につけたい。
 ちなみに、伝統的な瞑想法において、「何もしない」技術では坐禅が優れ、「何も思わない」技術では念仏がやり易いと思う。

 ところでなるべく「何もしない、思わない」ことを、たんなる気やすめくらいに、かるく考えてはいけない。
 とりわけ「何も思わない」ことは、瞑想の本質にほかならない(「妄想しない」20120901 参照)。
 これさえ修得できれば、顛動妄想から脱し、確実に成仏できる(「顛倒妄想から離れる念仏」20080811 参照)。
 たとえば『華厳経』を見ると、衆生が具備する如来の智慧は、妄想・顛倒・執着のせいで覚れず、もしそれから離れられたら、ただちに一切智が現前するという。
 一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以てして、証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智・自然智・無礙智は、則ち現前するを得る。
※無一衆生、而不具有如來智慧、但以妄想顛倒執著、而不證得。若離妄想、一切智・自然智・無礙智、則得現前。
『大方廣佛華嚴經』巻五十一「如來出現品 第三十七之二」(『大正新脩大藏經』 第十巻 p.272c)
 こうした見地に立つとき、
「常に何もおもはぬは、仏のけいこなり」
※『至道無難禅師集(新装版)』公田連太郎編著 春秋社 1989 31p 
という至道無難禅師の警句は、まさしく至言であろう。
 また、ヨーガの根本聖典である『ヨーガ・スートラ』(第1章第2節)でも、
「ヨーガとは、心のはたらきが止むこと」
※yogas citta-vrtti-nirodhah(ヨーガス チッタ ブリッティ ニローダハ)
と明言されている。
 心のはたらきが止み、何も思わないことが、あらゆる行法の目的といえる。

 「何もしない、思わない」で、全人格的な直観に則り、いまここに生きる。
 この瞬間に、体と心がどう動いているか観察し、はからわずとらわれない。
 さらにいつも「丹田」(とりわけ「臍下の一点」)を「氣」で満たしておく。
 そして「氣」を通じ、心身の状態を察知しながら、同時に外界とも交流する
 (「氣に気づく」20140505参照)。
 このように無為自然でいれば、これから何が起きても、畏れるに足らない。






  「心のイメージ」 20150101   ⇒【目次】

 タイのアーチャン・チャー長老は、仏の説く幸福について、次のように語った。
 気づきを保ち、物事をその自然なままにさせておきなさい。そうすれば、どんな環境にいようと、あなたの心は透明な森の池のように静まっていきます。その池には珍しい動物が水を飲みにやってきたり、あらゆる種類のさまざまなことが生じるでしょうが、あなたはこれらの現象のありのままの姿を明晰に観察します。さまざまな、奇妙で不思議な現象が去来しますが、あなたは澄み切って静寂なままです。これこそが、ブッダの説いた幸福なのです。
※『手放す生き方 タイの森の僧侶に学ぶ「気づき」の瞑想実践』
 アーチャン・チャー著 ジャック・コーンフィールド ポール・ブレイター 編
 星飛雄馬 花輪陽子 花輪俊行 訳 サンガ 2011(4p cf.219p)
「自浄其意の幸福」20120802参照。
 気づきを保って作為せず、いつも自然体でいれば、どんな境遇にあっても、心は静まり透明になる。なにが起きても動揺せず、ただありのままに観察していれば、すぐ気持ちが落ち着く。真の幸福とは、こうした心境からもたらされる、しみじみとした充実感のことにほかならない。
 そんな心を、自分なりにイメージすると、
「不知の森の奥にある、深く澄んだ浄らかな泉」
となるだろうか。

 日々喧噪の中にいても、このイメージを思い出したら、ふしぎと和やかになる。
 気持が晴れないとき、イライラするときなど、そんな心の泉を見つめていると、いつの間にかすっきりする。
 そうして冷静に努力を重ねて行くうち、厄介なもめごとも、あるべきかたちに治まってしまう。
 この世でしばしば出遭う大小の、雨や風にも汚されない、浄らかな泉。
 いまそれが自分にとり、あるべき心の姿を表す、もっとも的確なイメージとなっている。

 そして、もしかするとこの泉の深い底には、ひっそりと仏様が住んでおられるかもしれない。