雨読








           魂のこと 《2000》




   《目次》

   「新年」  「方便としての擬制」  「けが」  「人生は苦である」  「上座仏教」 

   「慈悲喜捨の瞑想」  「真理の錯覚」  「最悪の時」  「生きる喜び」 

   「央掘魔羅経」  「ふつうの幸せ







  「ふつうの幸せ」 20001220   TOP

 もしいま心にとりたてて思い悩むことがないとしたら、生きていて幸せだと言えないだろうか。
 そのとき少なくとも、肉体に苦痛がなく、ひどい境遇に陥っているわけでもなく、心が晴々としているなら、幸せであるに違いない。
 きわめてありきたりで些細なもののようでも、このように無事でいることは、この上ない幸せなのだ。

 いくらか人間関係の軋轢はあろうとも、現代社会でふつうに暮らしている人の多くは、知らないうちにこのような幸せを満喫している。
 あとは少しばかり正しい心の持ち方を学び、それを実感する能力が身につけば、ほんとうに幸せな生活が、ふつうにできるようになる。




  「央掘魔羅経」 20001204   TOP

 今日は『央掘魔羅経』巻三(No.0120)の、次のような一節に触れることができた。
 仏文殊等に告げて言く、若し善男子・善女人、彼の一切諸仏の名号を称へ、若し読み若し書き若し聞き乃至戯笑して言説し、或いは他人に順ひ或いは自ら顕さんと欲するに、一切の恐怖する事有るが若きは、悉く皆消滅するに至る。
 仏告文殊等言、若善男子善女人、称彼一切諸仏名号、若読若書若聞乃至戯笑言説、或順他人或欲自顕、若有一切恐怖事、至悉皆消滅。
 悪名高い殺人鬼・アングリマーラの改心を説くこの経典において、たとえ戯れであれ、仏の名号を称えるなら、一切の恐怖が消滅するようになるという。
 最もやさしい方法で、あらゆる人々を救おうとする、大乗仏教の精華のひとつが、ここにも見える。




  「生きる喜び」 20001113   TOP

 心がまったく無我なとき、いまここで苦痛を受けているのでなければ、いつも無上の喜びに満たされている。
 人に備わるこの心は、本来まったく清らかで、どんな罪や汚れとも無縁なものだった。
 鏡に万物が映るように、喜怒哀楽が起こっても、それらはすぐに生滅し、決して止まることはない。
 あるときたまたま殴られたり蹴られたり、叱られたり怒られたり、手痛い目に遭っているその瞬間を除けば、いつも心は生きている喜びに充ち満ちている。

 なにしろいま自分には、意識という光がともり、この美しい世界の隅々までも、感じ取ることができるのだから。
 つまらない我執にさえとらわれていなければ、雨の日でも、雪の日でも、嵐の日でも、晴れの日と少しも変わらず、しみじみとした喜びが失われることはない。




  「最悪の時」 20001018   TOP

 なんて自分は汚れているのだろう、罪深いのだろうと、自らの心を省みて、ひどく落ち込むことがある。
 この世で最も忌むべき生きものであるかのように思われ、その存在すら認められなくなることもある。
 けれども実はそんな最悪の時、すでに確かな救いの光が差し込んでいるのだ。

 まっくらな闇の中では、黒く汚れた部分など、決して見えるはずがない。
 微かにでも光があってはじめて、汚点の存在を見て取れる。
 同様に自分の心の汚れでも、それがはっきり分かった時とは、罪悪を照らし出す真実の光が届いた証しに他ならない。
 そうして見つけた汚れから目を逸らさず、じっと凝視している内に、具体的な救いの手がかりも、明らかになってくるものだ。
 むしろ恐るべきは、自分の汚点にまったく気づかず、思うままに振る舞っている時だろう。
 救いのない闇の中にいながら、まわりが変にほの明るく、危険だとも思わないのだから。




  「真理の錯覚」 20001008   TOP

 ここ数年来「わたし」は、「大いなるもの」のはたらきに促されて生きていると感じていた。いや、感じていると思いこんでいた。
 ところでしかし、その「大いなるもの」とは、いったい何だろうか。

 神か、仏か、法か、はたまた絶対者などの哲学的な概念か。けれどもどれだけ高尚な言葉を当ててみたところで、そんなものが果たして存在するのか、誰にも分かりはしない。ふり返ってみるなら「大いなるもの」とは、宗教的な真理を実体視(たとえば人格化)するのを避けて、わざわざあいまいに表現した言葉だった。
 けれどもそんな真理そのものが、ほんとうに有るかどうかなど、まったく分からないのだ。これはまさしく「錯覚」としか、言えない代物なのかもしれない。

 実のところ「大いなるもの」などは、なにか真理めいた存在をよりどころとしたい、究極の依存心が映し出した、虚像にすぎないとも考えられる。人間はともすれば日常生活でも、頼れる存在を求めたがるものであり、こうした心性を少々形而上的に、発展させただけなのではないだろうか。
 このように依存的な態度は、そろそろ根本的に改めた方が良いだろう。
 この人生になんらそれらしい意味や目的がなくとも、ただ一個の生き物として、盲目的に存在しているだけだとしても、別にかまわない。なにかわけの分からない因縁があり、たまたまこの世に生を受け、死ぬまで過ごさなければならない、ということだけが事実なのだ。
 それだけを正しく受け止め、過去や未来などについてあれこれ妄想せず、唯一関与できる現在のみに集中し生きて行くなら、何かに頼りたいという心など起こりようがない。自分の存在を支える「大いなるもの」のような真理すら、まったく必要でなくなるのだ。

 日頃眼にする偶像的な神仏ばかりでなく、そうした形而上的な擬制(fiction)も敬遠し、ただ現実にあるこの心だけを見つめて生きていれば良い。




  「慈悲喜捨の瞑想」 20000914   TOP

 以前に座右の言として、次の経文を挙げたことがある(19990127)。

「心は清浄に住して、常に慈愍を懐く」(心住清浄、常懐慈愍。 『長阿含 阿摩昼経』

 これは少しでも仏教に関わる者なら、誰でも肝に銘ずべき金言であろう。
 ただしこれだけでは、実際どのようにして慈しみの気持を懐き、心を清めて行けばよいか、まったく分からない。その点、先日列挙した「慈悲喜捨の瞑想」とは、まさしく日々慈悲の心を懐くための、具体的な方法に他ならない。
 ほんとうにこの慈悲の心とは、かけがえのない魂の立脚地だと思う。ただこれさえいつも念頭にあれば、我欲などにとらわれることがなくなり、およそ人を誤らせる道へ進む可能性が、極めて少なくなる。
 自分の魂を育むため、他者への慈悲が不可欠になるとは、なんと示唆深い事実なのだろうか。




  「上座仏教」 20000831   TOP

 いま、上座仏教に凝っている。
 スリランカ出身の、アルボムッレ・スマナサーラ長老が著した、いくつかの本を読んで、多くのことを学ばせてもらった。慈悲の心を持つことの大切さ、心を清めるための具体的な瞑想の実践方法など、これまで日本では知られていなかった上座仏教の生きた姿を、かいま見ることができた。
 とりわけ「慈悲喜捨の瞑想」は、これからできるだけ毎日、欠かさず修めて行きたいと考えている。

 「慈悲喜捨の瞑想」(『上座仏教 悟りながら生きる』大法輪閣 p.152)

【慈】
 私は幸せでありますように。私の親しい人が幸せでありますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。
【悲】
 私の悩み苦しみがなくなりますように。私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように。生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。
【喜】
 私の願い事が叶いますように。私の親しい人々の願い事が叶えられますように。生きとし生けるものの願い事が叶えられますように。
【捨】
 私に悟りの光が現れますように。私の親しい人々にも悟りの光が現れますように。生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように。
※これらの言葉をゆっくりと何度も唱え、その意味するところを意識しつつ瞑想する。




  「人生は苦である」 20000823   TOP

 「人生は苦である」という教えを、昔から聞いていながら、まだ自分にはその真意が、よく理解できていなかった。
 「人生が苦である」とほんとうに正しく分かったなら、それ以後どれほどつらい出来事に出遭ったとしても、まったく動じることはなくなる。それはただ当然の事柄が、起こったに過ぎないのだから。
 わが身の不幸や不運についてあれこれ嘆いている内は、まだ「人生は苦である」と分かっていない証拠なのだ。

 また「人生は苦である」と思っていながら、依然として折々なにか悩んだりしているのは、心のどこかで幸福を期待しているからに他ならない。
「今ちょっとつらいけど、これは本来の姿でない。しばらくすれば、必ず楽になるはずだ」
などと、本音では都合の良いように考えているから、根本的に憂いが去らない。
 苦しくて当たり前だと、腹の底から分かっていれば、どんなつらい目にあっても、まったく動揺しない。与えられた状況をそのまま素直に受けとり、落ち着いていられる。
 それでこそはじめて「人生は苦である」と、納得したことになるのだ。




  「けが」 20000307   TOP

 氷見に帰って以来、はじめて病院へ通うはめになった。
 数日前から踵が痛んで、びっこを引いていたところ、今朝急にひどくなり、歩くことさえできなくなった。そこで整形外科医に診てもらうと、アキレス腱の炎症で、全治2週間ほどのけがだという。その間、足にギブスをし、松葉杖のお世話にならなければいけない。
 いささか、ショックだった。

 もちろん松葉杖など、生まれてはじめての経験で、なんとも不都合な有様だ。ちょっと何かを取りに行ったり、手洗いに立ったりするのでも、なかなかの重労働になる。ふだん何気なくしている動作がひどく不自由で、障害を持つということがどんなにつらいか、ようやく少しは実感できるようになった。
 家の階段も這って登らなければならず、襖の段差ですら足をつまずく。バリアフリーとはどういうことか、身に染みて考えさせられてしまう。
 そうした意味では貴重な体験を、今させていただいている。




  「方便としての擬制」 20000102   TOP

 たとえ擬制(fiction)でも、「大いなるはたらき」のようなものがあると信じ、これにすべて任せて生きて行く在り方は、ふつう現代人が思うほど奇異なものではない。
 ただしそれが偶像崇拝でなく、あくまで我執などから離れることが目的であるかぎり。

 阿弥陀仏でも釈迦牟尼仏でも、他の諸仏・諸菩薩や神々でも、特にこだわる必要はない。
 これら自己を超越したものに任せきることができず、いつもちっぽけな自我のみを頼りとする危険性に比べると、信ずる対象はほとんど何でも良いように思う。
 だだしその人を狂信へと導くものでないかぎり。

 自我への執着こそ真に恐るべきものであり、ここから逃れられるなら、方便として超越者を仮定するのも、ひとつの有効な手段であろう。




  「新年」 20000101   TOP

 また新しい年を迎えた。
 今年は、きわめて区切りの良い年回りとなり、世の中こぞって騒いでいるようだ。
 変な予言があった1999年7月とやらも、何事もなく終わり、新世紀を目前にして世紀末の憂いが、解消されたかに見える。

 しかしながらつらつらとわが身を省みれば、なにもとりたてて終わったわけではなく、また特になにかが始まろうとしているわけでもない。
 ただ淡々と時が流れて、昨日していたことを今日もやっているだけだ。
 むしろいつもの年の方が、わざと心をかき立てて、大晦日だの元日だのと、はしゃいでいたような気がする。

 これからは、やはりこのようで良いのかもしれない。
 世の波風とは一線を画し、日々心静かに淡々と過ごして行きたい。
 そうしてこの命の尽き果てるまで、ただ淡々と生きることができたら、これに勝る幸せはない。







【総目次】