雨読
魂のこと 《1999》
《目次》
「自分の評価」 「阿含経」 「座右の言」 「大蔵経の読み方」
「信仰を持たない者」 「汚れた心」 「涙を出して」 「阿含部上 読了」
「三業帰命」 「異端」 「真宗の真意」 「自分とは」 「真宗の教相」
「生き方」 「異安心の起因」 「はからいの心」 「往生不定」
「往生不定」 19991120 ⇒TOP 親鸞聖人御消息集 第二通 「往生を不定におぼしめさん人は、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。わが御身の往生を一定とおぼしめさん人は、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼへさふらふ」(『原典校注 真宗聖典』p.732) 第一義としては、往生を信じ御恩報謝の念仏をする以外に、浄土真宗の教義はありえない。しかしここで聖人も言われるように、往生をまだ不定と思う人は、まずわが身のために念仏しても、一向にさしつかえない。 これは少なくとも本人の自覚上、自力の念仏に他ならない。しかしそうした念仏も、真の教えをいただく前段階として、必要な場合があるのだ。 「はからいの心」 19991113 ⇒TOP 末灯鈔 第二条 「わがはからひのこころをもて身口意のみだれごころをつくろい、めでたうしなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申なり」 親鸞聖人のこの言葉によれば、三業帰命などという思想は、認められる余地がない。 どれだけ自然な、はからいのない気持ちからそうしたと言っても、三業=身・口・意をどうにかしようという意志が起こった時点で、それは自力なのだから。 また、次のような言葉もある。 末灯鈔 第一条 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生さだまるなり」 あくまで信心が決定するとき、往生も確定するのであり、その時点において救われているという。聖人のこの一文に、浄土真宗の教義がすべて結集していると言ってよい。信心こそが根本であり、他はすべて余計なはからいなのだ。 「異安心の起因」 19990917 ⇒TOP これまで数多く出てきた異安心は、難解な浄土真宗の教えを、一般の人々でも理解できるよう、導く手段として考えられたものではないだろうか。 易行道とは言いながらも、真宗の安心をいただくのは、ほんとうに難しい。ただ念仏するだけで往生できる、救われると説かれても、ふつうなら何のことだかさっぱり分からない。何を根拠にどういう理由で救済されるのか、もうひとつ納得できない。 そこで例えば身・口・意の三業を調えて真剣に祈ればいいとか、徳の高い善知識に帰依すればいいとか、特別な儀式を受けるといいとか、具体的な方法を与えられると、文字通り安心する。 ある程度の困難な行を経なければ、決して救われないという思いこみが、人々の中には根強くあるのだ。本来なら、簡にして要を得ており、これ以上は何ひとつ加える必要のない念仏往生の教えでも、逆に単純すぎてよく理解されない。 しかしどうしてもそうしなければ納得できない者には、あくまで方便として、色々な修行を認めるのも仕方ないのかもしれない。入門的にある種の修行をさせ、機が熟したところでそれを捨てさせる、という導き方があっても良いと思う。 純粋であるにしても、とにかく難解な、原則的教義しか許されないと言うなら、真宗などひと握りの素質に恵まれた人間のみが救われる、偏狭な宗教になってしまうのだ。 「生き方」 19990909 ⇒TOP 実生活の現場において、自分が何をしてやろうかと、頭を使って小賢しく行動するような態度は、止めた方が良いだろう。 それではせいぜいわが身をうまく立ち回らせ、上手に世渡りする程度の、浅知恵しか浮かんでこない。 いつもできるだけ深く、心の奥まで意識して、自分がいま自我を超えた大いなるはたらきの中で、何をさせていただこうかと、うかがう態度をとるべきだろう。 そこからしか利己心を離れた、ほんとうに人間らしい行いは、生まれてこないと思えてならない。 「真宗の教相」 19990908 ⇒TOP 平野修著『真宗の教相』(法蔵館)より。 「本願を信ずるという場合、信ずるということが人間の上に起こった場合には、それは大きな喜びです。我々が仏様を信ずるという場合も、それが本当かどうかの決め手になるのは、そこに喜びを感ずることが出来るかどうかになります」(p.206) 「弥陀をたのむというのは、自分を深く信ずることが出来るという意味です。自分を深く信ずるということが出来るということが、この上もない大満足を得ることである。このことのために、弥陀をたのめと言っておられるのです」(p.217) 「仏様はどこにいらっしゃるかといえば、わが身がくまなく照らし出されて、闇の塊のようなものであると知ることが出来たそのところにしか、仏様はおいでになりません」(p.239) 平野修氏は数年前に亡くなられ、追悼の意味で出版された講演録が本書であった。 真宗の教義を伝統的な仏教用語に頼らず、著者自身の言葉で分かりやすく説き明かしており、好感の持てる内容だった。ここで述べられているように、自我ではなく本来の自己を深く信じ、自分が何をさせていただくか、日々念じて生きることこそ、真の仏教者の在り方ではないだろうか。 「自分とは」 19990908 ⇒TOP 自分とは何かと言えば、 結局それは、意志と行為の主体に他ならない。 いま自分が何をしようとし、 そして実際に何をしたかの積み重ね以外に、 自分は何かと言えるものはない。 各個に与えられた資質と境遇の中で、 何を意志し、どのような行為を残したかでしか、 その人間は理解されない。 「真宗の真意」 19990714 ⇒TOP 「本願を信じ、念仏して浄土に往生する」こと以外に、浄土真宗というものはありえないと、平野修氏は言う(『真宗の教相』法蔵館p.11)。それなら自分はその真意を、あえて次のように読みかえたい。 「大いなるはたらきを、信じて念じて無我になり、おのずとさとれる場所へ至る」 実生活を営む人間が、この世で真のさとりを開くことなど、望めるはずもなく、この心によどむ欲望と共に一生を終えるしかない。しかしそれでも自分を、清らかな場所へと導いてくれる、はたらきのあることを実感しつつ、終生これを念じ続けて行く。 死が到来し、自分という意識が消滅するまで。 「異端」 19990709 ⇒TOP 『論語』為政第二 子曰く、異端を攻むるは斯れ害のみ(子曰、攻乎異端斯害也已)。 この件は古来定説がなく、解釈不能とする学者もいる(吉川幸次郎)。ただし概ねどの説でも、根本から離れた事柄にかかわるのは、無益であると言っている点で一致している。 そこで少々反省すると、いま自分が研究している真宗の異安心など、異端の最たるものだ。こんな思想にこだわっていると、いつしか自分自身が、正しい教義から逸脱してしまうことになりかねない。 当然、これまでの真宗史研究でも、異安心はあまり重視されておらず、通常は無視されていると言っても良いだろう。しかし異安心といえど、先人が信心のため苦労して考え出したひとつの教えであり、これをまったく顧みず一方的に異端扱いするのは、片手落ちに思えてならない。 今日の視点から、改めてなぜそれが誤りと言えるのかきちんと検討し直し、こうした思想が起こらざるをえなかった原因も、突き止める必要があるだろう。一見迂遠でも、この点を究明しておかなければ、将来同様な誤りが必ず繰り返されるに違いない。 「三業帰命」 19990706 ⇒TOP 浄土真宗の教義において、身・口・意の三業を調え、往生を求める態度は、自力の異安心として厳しく斥けられる。ところが聖教のひとつである『往生論註』を見ると、次のように説かれている。 『往生論註 巻下』(『真宗聖教全書 一』329頁) 凡夫衆生は、身・口・意の三業、以て罪を造り、三界に輪転して窮り已むこと有るなし。是の故に諸仏・菩薩は、身・口・意の三業を荘厳して衆生の虚誑の三業を用治するなり。…是の如き等の衆生、阿弥陀如来の相好光明身を見る者は、上の如き種種の身業繋縛、皆解脱するを得る。…[以下、口業・意業] ※凡夫衆生、身口意三業、以造罪、輪転三界无有窮已。是故諸仏菩薩、荘厳身口意三業用治衆生虚誑三業也。…如是等衆生、見阿弥陀如来相好光明身者、如上種種身業繋縛、皆得解脱。… これによれば、阿弥陀如来は荘厳された三業で衆生を救うのであり、そうした仏の慈悲を信じて、三業を調え帰命することが誤りであるはずはない。 阿弥陀仏の回向によって、凡夫の汚れた三業が清められ、解脱することができるようになるという思想は、浄土教において当然の論理だった。他の宗派はもちろんであり、三業帰命を異端とみなすのは、仏教の中でも真宗のみであろう。 「阿含部上 読了」 19990704 ⇒TOP 『大正新脩大蔵経 第一巻 阿含部上』読了。 いろいろな読み方を試みていたせいで、予想以上に時間がかかった。最終的には、データ・ベースに入力する方法を止め、ワープロ・ソフトに本文の順で直接ノートを取って行く、という単純な方法が最も良かった。 これで手法も確立したので、次巻からはもっと多く読み進んで行きたい。『阿含部上』は、通読におよそ15か月も要した。 「涙を出して」 19990618 ⇒TOP 『仏説兜調経』(No.0078)末尾 仏言く、後世の人是の経を諷誦すること有れば、…竪涙を為して即出さる。是の如き者は、其の人皆当に弥勒仏の為に弟子と作り、得度して世去すべし(仏言、後世人有諷誦是経、…為竪涙即為出。如是者、其人皆当為弥勒仏作弟子、得度世去)。 今日めぐり会った仏の言葉。 兜調婆羅門の息子・谷は、父が転生した白狗を溺愛していた。釈尊が門前を通った時、犬が吠えたのでたしなめたところ、慙愧し逃げ去って行った。谷がこれを知り、怒って釈尊を訪ねると、父の転生の原因を聞き、因果応報の理を教えられ、改悛することになった。 後世この教えと出会い、心から懺悔し子供のように涙を流す人は、まさに弥勒仏の弟子となって、得度するという。 これは、我を張って自らの力を恃んでいた者が、己の限界や悪行の恐ろしさを知らされ、心が砕けて仏を信じるようになる、というものだった。涙を出して懺悔する者は、誰でも救われ解脱できると説くところが、念仏と通じており、感銘を受けた。 「汚れた心」 19990602 ⇒TOP 「わたし」を苦しめる敵とは、自分の中に巣くっている、むさぼり・いかる愚かな心のことであると、近頃よく分かるようになってきた。またとらわれる心・なまける心なども、じゅうぶん注意を要する。 外的なもの、つまり対人関係や境遇、環境・時代等は、これら内的なものを刺激して、「苦」を生むにすぎない。外的要因がどれだけ苛酷であっても、心の中でそれに過剰反応する要素がなければ、ただその折々つらく感じるだけで、悩み苦しむところまで行かない。 根本的な「苦」の原因は、やはり自分の中にある「汚れた心」なのではないだろうか。 「信仰を持たない者」 19990518 ⇒TOP 今日、大江健三郎氏の『人生の習慣』(岩波書店)を読了した。この中に、「信仰を持たない者の祈り」という一編が収められており、なかなか考えさせられる内容だった。 これを見ると現代人(とりわけ知識人)が、信仰というものに対して、どれほど抵抗を感じているか、はっきり分かる。ここではキリスト教をめぐり、かなり高度な信仰態度を描写していながら、それでも自分は入信できないと言表している。ただ素直に、そのまま心の趣くところへ進めば良さそうなものなのに、あえて無理やり踏み止まろうとしている。 それは仏教の方面でも、現代の作家などによく見られる、親鸞(歎異抄)好きの念仏嫌いと、一脈通じるようだ。信心を持てば、自分が無くなるとでも勘違いし、恐れを懐いているのだろうか。 仏教では本来、ある対象物を信仰の基盤として、絶対視するようなことはありえない。全ては無常であり、縁起性のものなのだから。そんなあらゆるものが「空」である現実世界の中で、なんとか「苦」を制御し、安心立命することを目指している。決してなにか自分と異なる、絶対者を拝み奉るのが仏教なのではない。それは言葉を変えるなら、突きつめて自己とは何かを明らかにして行く態度に他ならず、特別な対象を盲信する心性とは対極にある。 今「わたし」が理解している仏教とは、自我から超越したはたらきを、自己の中に見いだすこと以外の何ものでもない。信心を懐いても、かけがえのない個性的な自分が失われるわけではなく、他を顧みない悪しき自我が壊されていくだけなのだ。 「大蔵経の読み方」 19990219 ⇒TOP 平成10年度は、大蔵経の読み方を模索するのに、かかり果てているような気がする。もちろんこれは、今後終生継続して行きたいと願っているライフワークの如きものなので、それくらい慎重であっても当然かもしれない。 ところでつくづく反省すると、いま自分が大蔵経の読書記を作るという行為は、あたかも日記を書くようなものになっている。 かつて「随想ノート」と題した大学ノートに、その時々考えたり、感じたりしたことを書き綴っていた。ふっと何か残しておきたい想いが浮かんだとき、それをきちんとした言葉に表しておいたものだった。 大蔵経を読んでいると、そんな思いつき程度のものではない深い思想に日々触れることができ、ものの見方に変化を生じることが、実にしばしばある。またそれまで漠然と考えていたことが、厳めしい漢語ですでに記されてあったりする。 ほんとうにこの「読経記」は、おこがましくも自分にとって、毎日付ける心の記録のようなものであろうか。 そして今日も、感動的な言葉に出会えた。 『中阿含 優婆離経』(No.1-630a)で、釈尊が優婆離居士を諭し、 「汝黙然と行い、宣言するを得ることなかれ。かくの如く勝れる人は、黙然として善をなす(汝黙然行、勿得宣言。如是勝人、黙然為善)」 と教えられている。これは蓮如上人の御文に、 「他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはにひとの目にみえぬやうにふるまへるをもて本意とするなり」(『真宗聖典』959頁) とある態度と、軌を一にするもののように思える。 これ見よがしの信心ぶりを戒めたのは、真宗においても初期仏教においても、まったく同じであったらしい。 「座右の言」 19990127 ⇒TOP 大蔵経を読んでいて、きょうも良い言葉に出会えた。以前に手書きのカードを使って抜き出しておいた経文を、パソコンへ入力していて見つけた。 はじめ抜き書きしたときも、少しは心に引っかかっていたに違いない。しかしとりたてて深い印象は、懐いていなかった。優れた言葉も、しかるべき時節に巡り会わなければ、身に付かない証左だろう。 『長阿含 阿摩昼経』(No.1-20) 「心は清浄に住して、常に慈愍を懐く(心住清浄、常懐慈愍)」 心が欲から離れいつも清らかなままであり、あらゆる生き物へ慈悲の気持ちを懐きつづける。これがほんとうにできれば、仏と変わらないのではないだろうか。 また座右の言として、銘記しておきたい。 「阿含経」 19990116 ⇒TOP 去年の4月から、阿含経を読み続けている。この経典のどこがすばらしいかと言えば、それは真正面から善と悪について説いているところだろう。 なにが善でなにが悪なのか、いろいろな事例を挙げつつ、詳細に論じている。今どきは倫理学でも、これだけはっきり善悪を言表できるものではない。 そして常に、悪を離れ善を行うよう勧めている。悪とは欲に執着することで、善とは欲を滅することであり、最終的には開悟し涅槃へ至ることを目的としている(中阿含・穢品経など参照)。 ところで意外にも、悟りへ至るためには、慈悲というものがきわめて重要らしい。 阿含経の中では、修行の完成を目指す際、必ずこの点に触れている。自らの悟りを求めるだけでなく、他のあらゆる衆生へ慈悲の心を懐けるということが、魂の完成には必須のものらしい。 このことが人一倍、我の強い自分にも、ようやく身に染みて感じられ、近頃「修慈離欲」ということばを、生活の標語に掲げたりしている。 「自分の評価」 19990109 ⇒TOP われわれ平凡な人間の、望むべき生き方などは、しょせん至ってかんたんなものだ。 とりあえず、まわりの人に喜ばれるよう行動していれば良い。そして次は自分という存在そのものが、他人にとって喜ばれるよう生きて行けば良い。とりわけ自分が敬愛する人に、そう思ってもらえるように。 こうした在り方は現代人にとり、他人本位で空虚なものとうつるだろう。人を押しのけてでも我を通すことが、自己の確立であると思いこんでいるのだから。しかし結局のところ、その人の価値は他人の評価でしか計ることができず、また自己の存在の重みも、他者を通してのみ正しく自覚できる。 自分というものの真価をについて、自分が一番よく分かっていると考えるのは、ほとんど幻想に近い。
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