雨読








           魂のこと 《1998》




   《目次》


   「ナミダ」  「意志」  「病みあがり」  「安楽に死ねるか」 

   「大蔵経を読むこと T」  「慈しむ心」  「自我と自己」   「大蔵経を読むこと U」 








  「『大正新脩大蔵経』を読むこと U」 19981208   TOP


 大蔵経を読みはじめて、ようやく半年が経過した。
 読み方を色々模索しながらのことだったので、思いのほか時間がかかり、まだ一巻目の半分ほどにしか至っていない。パソコン入力に手間どり、なかなか先へ進まないのだ。
 ただふつうに読み飛ばすなら、話は簡単だ。しかしそれでは、ちょっと目を通しただけであり、後になにも残らない。わずかに細切れの経文を記憶の片隅に止めるのみで、それも数年すれば必ず忘却してしまう。結局は読破したという、悪しき自己満足に浸るばかりとなるだろう。
 しかし大切な御経に朱筆を入れることもためらわれ、やはりコツコツと抜き書きして、備忘のためカードを取るしかないと考えている。

 ところで周知のごとく、大蔵経の本文は、きわめてとっつきにくい漢語の羅列であり、読む者を拒絶する。しかしそれでも文意をあれこれ考えながら、じっくり読んでいくと、しばしば深く心を打たれる一節と出会い、苦労が癒されることもある。
 先日、『中阿含経』所収の『弥醯経』(26−56)を読んでいて、次のような言葉に巡りあった。

「慈を修めて恚を断たしめ、息出・息入を修めて乱念を断たしむ」
 ※「修慈令断恚、修息出息入令断乱念」(491c頁)。
  なお『即為比丘説経』にも同文がある(492a頁)。

 いかり狂った感情は、なかなか鎮め難く、往々にして自制の範囲を飛び越えてしまう。しかしそんな猛々しい激情でも、慈悲の心を修めることで断ち切れるらしい。また雑念も出入の呼吸を修める瞑想により、追い払うことができるらしい。
 これらは深い人生経験を重ね、厳しい行を修めた人でなければ、とても説き表せない語であり、このような金言が大蔵経のいたるところに、ちりばめられている。




  「自我と自己」 19981111   TOP


 近代以降、宗教思想を究めて行った多くの先学は、自我の問題こそが宗教の重要な課題であると説いている。中でも鈴木大拙は、人間に「自我 ego」と「自己 self」という二種の様相(モード)があり、近代は「自我」を重視しすぎたせいで、歪んだ人間性が顕著に現れるようになった、としばしば言っている。
 ただし健全な「自我」の確立は難しく、その全体像を正しく知ることはさらに難しい。ましてその「自我」をも超えた、「自己」の姿をはっきり把握することなど、我々凡人には極めて難しい。しかし坐禅など、ある種の瞑想を深く行う内に、「自己」が自分の意識の中で顕わになり、「自我」を超えた視点に立つことが可能になるらしい。また念仏とはそんな「自己」の様相を、ありありと心に観ずる行いでもあった(観念の念仏)。

 この「自己」の立場は平穏で慈愛にあふれ、真の意味で人間性が実現する境地であろう。
 「自我」をどれほど鍛錬しても、結局わが身を利する方向にしか意識が働かず、自・他を損ねることになりかねない。「自己」の立場とは、このちっぽけな自分の存在が、いつも大いなるものに包み込まれていることを自覚する在り方であり、自分本位な状態から開放され、ほんとうに他者を思いやることができる。そうなってはじめて自・他が共生でき、魂の平安も叶えられるに違いない。
困難でもこうした「自己」の立場を意識し、坐禅や念仏を取り入れるなどして、日々の生活を営みたい。




  「慈しむ心」 19980727   TOP


 最終的にその人がどれだけ成熟しているかは、結局どれだけ他に対して、慈しむ心を持っているかにかかっている。
 キリスト教で「愛」と言い、儒教で「仁」と言い、仏教で「慈悲」と言う。その表現はどうであれ、これらの宗教における最高の精神的境地は、いずれも他者を自分と同等以上に、思いやり慈しむ心の備わった人格を指すのだ。

 そうして常に個我を超越した「大いなるもの」に則り、日々感謝を奉げて生活して行く。
 このように生きている人は、その信じる宗教や持する思想など関係なく、ただ「真の人」(ほんとうにできた人間)と呼べるだろう。




  「『大正新脩大蔵経』を読むこと T」 19980625   TOP


 『大正新脩大蔵経』を本格的に読み始めて、かれこれ三カ月が経とうとしている。ようやくひとつの季節を過したことになる。実際どのように読み進めて行くか、あれこれ考えた末、とりあえず今は備忘のため、パソコンのデータベース・ソフトに、、「『大正新脩大蔵経』読書記」というファイルを作成し、カードを取るようにして読むことにした。これを略して「読経記」と言い、ちょっとユーモラスな名前で気に入っている。
 当初は勇んで、干支がひと回りする間に、少なくとも「経部」くらいは読み切りたいと思い、一月百頁はこなすつもりだった。しかしやってみるとこれは、かなりのハイペースで、先へ進むことばかりに神経を奪われ、肝心かなめの内容まで理解が及ばない。経文の意味するところを押え、よくよく思索して、日々の行いを正す、などという余裕は少しもなかった。
 これでは、何のために経典を読むのか、まったく分らない。

 どんな形態であれ、経典を読む行為=読経とは本来、知識欲や征服欲、あるいは虚栄心や功利心などから隔絶した、純粋な魂の営みとして行うべきであろう。もし大蔵経を読むことで、そうした欲望にとらわれる契機となるなら、止めた方がましなのだ。知識の魔力に負け、道を誤るほど愚かなこともない。
 だからもうことさらがんばるようなやり方をせず、心しずかに感謝の気持を懐きながら、読み進めて行きたい。これほど膨大な書物を、短い一生の中で読破しよう、などという大それた考えは止めて、分をわきまえ力の許す範囲で、少しずつ拝見するという態度で臨みたい。
 それはあたかも毎日行う「お勤め」のごときもので、食事をいただくように自然な行為であるべきだ。毎日適切な量を、心が糧として消化できる分だけ眼を通し、決して過食症みたいな有様になってはならない。
 もし『大正新脩大蔵経』を、この一生で読み切れなくても後悔はすまい。それは見方を変えれば、死ぬまで日々新しい経典と出会える幸福が、約束されたことに他ならないのだから。




  「安楽に死ねるか」 19980622   TOP


 時々ふと「わたし」は、何かがとり憑いたように、死を求める気持が強くなる。もし、たいした苦痛もなく安楽に死ねるなら、いつでもそうしたいと願うことがよくある。
 それでしばしば、できもしないと知りながら、あれこれ自殺の方法を妄想したりする。精神が疲労している証拠であり、酒でも飲んで二・三日しっかり眠れば治ることだ。

 しかしここでよく反省すると、ただ自分が楽に死ねさえすれば良い、というような態度は、非常に傲慢だ。ある意味においてエゴイズムの極致を、そこに見るような気がする。後の人の迷惑を少しも考えず、好き勝手なことをして、放って行くわけだから。最低でも本気で死のうとするなら、糞袋のごとき自分の死体を、きちんと始末する手当くらいしてから逝ってほしい。
 むしろせいぜい苦しんだあげく、力つき根はて、未練たらたら死んで行く方が、なんと美しく崇高なことだろう。その壮絶な死に様を見れば、あかの他人でも遺された汚い死体を、丁重に葬ろうという気になる。
 そこには、ある人間が精一杯に生きて死んだという、荘厳な事実が重く残っているのだ。




  「病みあがり」 19980427   TOP


 先週からひいていたカゼが、今日ようやく治って、身の回りを軽く掃除したり、放っておいた資料の整理や読書などしたりして、一日を過した。
 こうしてちょっと病気になると、日頃いかに思い上がっていたか気づき、情けなくなる。いつまでも健康でいられるものと思い込み、あい変らず些細なことで、怒ったり喜んだりしている。もしこの先そう長くないと実感していたなら、とてもこんなたるんだ時間の過し方はできないだろう。

 もう自分も中年の域に差しかかり、物事に全力で当れる時間はそれほど残されていない。一生のうち、どうしてもやるべき事柄を見据え、雑事にとらわれないよう注意しなければならない。
 そうしてくれぐれも、いま生きてここに在ることへの感謝を忘れず、「大いなるもの」に促されるまま生活して行きたい。




  「意志」 19980408   TOP


 たとえば「自分とは何者であるか」問われたとき、いま目の前にある肉体がそのすべてであると、答える者はいないだろう。しかしこの他に思いつく、名前でも家柄でも、資産でも身分でも、経歴でも業績でも、自分そのものであるとは考えにくい。そうした属性のたぐいをどれだけ羅列したところで、決してこの自分というものの全体を、過不足なく言い表せるものではない。
 むしろただ今、この活きた体の中で、熱くうごめき何か行おうとしている、主体を直接把握し、それが自分の本質であると答えるしかない。
 その主体を、「意志」という言葉で表しても、それほど誤りではないだろう。つまり自分とは、何かをしてきた、そしてこれからも何かをしようとし続ける、「意志」に他ならない。

 ところでインド神話において、宇宙創造の際、タパス(熱)により自然に生じた唯一者が、カーマ(意欲)を現じたことで、世界が出来したとするのも(「リグ・ヴェーダ」所収「宇宙開闢の歌」)、この点から考えるとよく納得できる。ミクロコスモスである自分と、マクロコスモスである宇宙とは、密接に相関しており、その根本に「意志」があるというのだから。




  「ナミダ」  19980402   TOP


 「わたし」にとって「南無阿弥陀仏」とは、「ナミダ」の如きものかもしれない。それはあるときふっと浮かんだ、次のような語呂合わせから来ている。

 南無阿弥陀仏 namuamidabutu → namida ナミダ

 これはもちろん単なる思いつきに過ぎず、深い意味はなにもない。しかしつらつら我身の来し方をふり返ると、真宗でやかましく教える通り、御恩報謝のため念仏することなど、できたためしはなかった。たまたま機にふれて、この口から名号がほとばしり出るのは、決って心が打ちひしがれ微塵に砕けて、嘆き悲しんでいるときだった。
 そしてまたこのときほど、念仏というもののありがたさを、身にしみて感じられることは他になかった。この先、長い行く末を考えても、このことに大差ないだろう。
 やはり「わたし」にとって「南無阿弥陀仏」とは、「ナミダ」の如きものと思えてならない。