雨読
魂のこと 《1991》
《目次》 「求める境地」 「意識と自我」
「意識と自我」 19910210 ⇒TOP 気づいてみれば実にあたりまえなことなのだが、意識というものは本来清浄だった。 この酒を飲んだり病気になったりすれば限られ、眠れば失われ、恐らく死ねば消え去るであろう意識は、もともと穢れや汚れとはまったく無縁のものだった。それはこの世から与えられた自分という場の中で、物事をありのままに感じ取る透明な働きにすぎない。何ものをも追わず止めず、その生滅する流れをそのまま写し出している。 ここに本来、穢れ・汚れ、悩み・苦しみ、喜怒哀楽などの取りつく要素はないのだ。 それが欲望をきっかけに、「ことば」で自我が作られてくると、それは意識の中で常に存在するようになる。しまいには意識のすべてが自我に覆い尽くされ、自我=意識と錯覚するところまで来る。 こうしてこの世で生かされていながら、あれこれと分別がましいことを言う存在が出来上がり、同時に悩み・苦しみ、喜怒哀楽も付きまとうようになる。 自我とは本来必要なものだ。意識だけではこの世で何も行うことができない。自我は手足のように人間にとって必要な器官のひとつだ。 ただその必要性に迫られ、盲目的に自我ばかりを使っていると、本来の意識の在り方を忘れた、浅ましい生き方をすることになってしまう。 意識を自我の専制に委ねてはならない。純粋な意識の統制下に、自我を用いるようでなければならない。そうしてはじめて物事は、自然のままに流れて行くのだと思う。 「求める境地」 19910103 ⇒TOP きのうの晩のことについて、少し書いておこうと思う。 午前2時過ぎ、読書を終えて、いつものように就寝前の瞑想を行っていた。結跏趺坐し、心に南無阿弥陀仏と念じながら、精神を集中させていた。全意識がこの名号でいっぱいになり、他に雑念らしきものがなくなった。 普段なら、このままの状態を続けてゆくだけだった。しかし、きのうはふっと思い立って、さらにこの状態も破ろうとした。念仏にすら執着してはならない、という考えが浮かんだからだった。 すると、念仏の底が現れた。鍋底から気泡が沸き立つようにふつふつと、念仏という行為が起っているその現場を、目の当りにすることができた。 思うに「わたし」という存在にとって、念仏とは最も深い部分から生じて来るものだろう。その真の意味を踏まえて唱える念仏は、自分のもののようで自分のものでない、彼・我の境界に位置する行為なのだ。 それには一個の人間の限界を遥かに超えた「善」が包含されており、微少な自分の器量で為せる業ではない。「わたし」以外のもののことを純粋に願って、超個のはたらきへ身を委ねることに他ならないのだから。自分の中にこれ以上さらに深いものがあるとは、まったく考えられなかった。 しかしきのうこの境界に入ったとき、入ったはずの自分は即座にその場を離れていた。「わたし」という存在の最も深い行いを、まるで他人事のように眺めていたのだ。 このとき「わたし」の尽きたこの世界には、あの「大いなるもの」が満ち満ちていた。これまで自分の外で漠然とその働きを感じていたにすぎなかったものが、まさしく自分の中でいきいきと活動していたのだ。 ようやく自分は、人の心のほんとうの姿を見いだしたように思える。 これまで自分は、「わたし」というものを残したままで、「わたし」の外にある大きな働きと合一することが、究極の在り方だと勘違いしていた。しかし結局自分以外のものとはごくまれにしか一体になれず、そして完全に一体化することなど絶対にない。 また「わたし」が「大いなるはたらき」と一体化しているとき、一時的に「苦」は薄らぐが、決して統制することはできない。「わたし」とは「苦」の座であり、「わたし」が存在する限り「苦」は消えないのだ。 「苦」の影響が残り、たまにしか安らぐことのできない状態など最高のものではない。「苦」を完全に制御でき、その影に脅かされない境地こそ求めるべきものだ。「大いなるはたらき」が常に自分の中に実感でき、「苦」の威力をいつも退けてくれるなら、もう何も恐れるものはなくなってしまう。 きのうかいま見たのはそうした境地の一端であり、これからほんとうに求むべきものであると確信している。 ※ 「わたし」とは、広い意味での「ことば」(認知・知識なども含む)から成る有機体で、 自己形成能力を持つ。単なるつらさ・しんどさを「苦」に変えるには明らかに一種の 認識作用が働いており、まさしくこの点において、「わたし」は「苦」の座と言える。 この「わたし」の刻々と自己形成する動きに制限を加えることで、「わたし」は解体 され「苦」が解消される。
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