雨読










魂のこと 《補遺》






   【目次】

 「念仏の利益(りやく)」  「なんとかたすかった」  「無為の念仏

 「自分の問題」  「悩みと苦しみ」 「苦みを味わう」  「一日一苦労

 「いま幸せ」  「尻呼吸 -呼吸法の極意」  「瑜伽念仏の極意

 「人生のかなめ」  「いまを楽しく」  「処世の要領」  「生死の問題







  「生死の問題」 20200801   ⇒【目次】

 この世の養生は、瑜伽にまかせ、
 後生の大事は、念仏にまかせる。

 生死の問題は、それで解決する。







  「処世の要領」 20200717   ⇒【目次】

 不関愛欲 不求名利
 不為人師 人生安楽

 不願好事 不厭悪事
 感謝無事 人生安楽 

 愛欲に関わらず 名利を求めず
 人師と為らざれば 人生は安楽

 好事を願わず 悪事も厭わずに
 無事を感謝すれば 人生は安楽 







  「いまを楽しく」 20200707   ⇒【目次】

 2013年9月23日に、天台宗大阿闍梨の酒井雄哉師が88歳で遷化された。
 7回忌にあたる2019年に、大阿闍梨最晩年の様子を記した本が出版された。

 『人生を楽しく過ごしなさい
  現代人の死生観を問う、大阿闍梨最期の言葉』
  ※誠文堂新光社2019/「雄哉」の哉は右上から下へのはらいがなし。

 この書名はまさしく酒井大阿闍梨の、ラストメッセージとなるものだった。
 同書のあちこちに、その言葉に込められている、真意にふれた箇所がある。
「いろいろ心配なこともあるだろうけど、人生の流れというのは仏様の計らいだからね、なるようになるものや。今日一日をどう楽しく暮らしたらいいかと考えていたら、なんとかなっていく。いまを楽しくすることを考えていたら、人生はなんとかなるんだよ」(9p)

「命は仏様から授かったもの、だから粗末にできない。限りある命を大切にするということは、どんなときも楽しんで生きなさい、ってことだよ」
「君も、生きている『いま』を精いっぱい楽しみなさい」
「人生を楽しく過ごしなさい」(16p)

「どんな大変なことのなかにも、
 楽しいと思えることは
 見つけられるんだ」(120p)
 「いまを楽しくすることを考えていたら、人生はなんとかなる」らしい。
 どんなに厳しいときであっても、とにかく今ここでなるべく楽しくする。
 そうすれば仏様のはからいにより、そのうちなんとかなっていくという。
 はからずも大変な境遇にある者にとって、この上ない癒しの言葉だろう。






  「人生のかなめ」 20200505   ⇒【目次】

 人が生きていく上で、もっとも大事な心がまえがある。

 信念:神・仏・真理等に生かされていることを、しっかりと信じて疑わない。
 正気:心身の好不調にこだわらず、どのような時も気力を保ち、平静でいる。
 慈悲:自分を慈しみつつ、人々のため誠心誠意はたらいて、世の平穏を祈る。

 この三つさえあれば、もうなにもおそれる必要はない。

 こうした心がまえを、確固としたものにする秘訣がある。
 夜寝る前、朝起きた後、鏡に向かい次のように宣言する。

 「信念が強くなる。
  正気をたもてる。
  慈悲があふれる」

 日々心を込めて行えば、いつしかそれが身についている。
 ※中村天風『運命を拓く 天風瞑想録(講談社文庫)』(講談社1998)173,216p







  「瑜伽念仏の極意」 20200404   ⇒【目次】

 誰かの言葉を聞き、頭で考えるのではない。
 自らの体操を通じて、阿弥陀仏の声を聴く。

 そうして蓮華座を組み、称名念仏する。
 そのときこの世界に、浄土が出現する。
 これこそが瑜伽念仏の、極意であろう。







  「尻呼吸 -呼吸法の極意」 20200205   ⇒【目次】

 今年の正月頃、丹田呼吸よりさらに下り、
 「尻呼吸」(?)ができるようになった。

 息を吐き切ったあと、肛門をきゅっと締める。
 肛門をすっと開き、尻で大地の気を吸い込む。
 玉のような気を、背骨に沿って脳天へ上げる。
 息を吐きつつ、気玉を脳天から背骨に降ろす。
 背骨から肛門まで届いた気玉を、大地へ放す。

 丹田呼吸のときより背中が暖かくなる。
 心身が安定して、すぐ疲労も回復する。
 これまでずっと、便秘気味だったのに、
 ほぼ毎日、よく通じるようにもなった。

 もしかすると「クンダリーニ」が、
 ちょっと目覚めたのかもしれない。







  「いま幸せ」 20191101   ⇒【目次】

 幸せになりたいと思えば、いますぐなれる。
 とにかく後先を考えず、心を空っぽにする。

 済んだ過去のことなど、すべて気にしない。
 訪れてもいない未来を、あれこれ考えない。
 この瞬間に意識を研ぎ澄まし、全身を感じる。
 生きているだけで、体は喜びにあふれている。

 妄想さえしなければ、心たのしく安らかになる。
 悩み苦しむのは、自分のごく一部分にすぎない。
 ちょっと気もちを切り換えて、心をすっきりさせる。
 そうすれば何はなくても、もうここで幸せになれる。
 ※「一息の幸せ」20160310参照。






  「一日一苦労」 20190901   ⇒【目次】

 一日一善ということばがある。
 それにちなんで一日に一回は、
 なにかを選びあえて苦労する。

 そうすれば精神が鍛錬され、
 とりあえず問題も解決する。






  「苦みを味わう」 20190731   ⇒【目次】

 苦みは本来まずいものにちがいない。
 それがお茶や野菜などうまく感じる。
 「良薬は口に苦し」という諺もある。

 日々の出来事でも同じかもしれない。
 つらいことが起き避けられないとき、
 まずただ受けとめて苦しむしかない。

 それでもよく味わえば、慣れてくる。
 そのうちにうまみも、感じるだろう。
 これが自分を向上させる良薬になる。






  「悩みと苦しみ」 20190515   ⇒【目次】

 「苦悩」という言葉がある。
 漢字をひらくなら、悩み苦しみとなる。
 辞書的には、苦しみなやむことをいう。

 しかしこれではなんの説明にもなっていない。
 つらい出来事に頭を悩ませ、心を苦しませる。
 よくよく考えると悩みと苦しみはやや異なる。

 悩むときにはおもに言葉を使う。
 苦しみはそれに感情がまつわる。
 これをあえて唯識思想でいうなら、
 悩みは名言、苦しみは意言となる。

 名言なら気づけばすぐに止められる。
 しかし意言は意識的に止められない。
 ただ見つめてそのままにしておけば、
 やがて跡かたもなく消え去っていく。
 くれぐれも手だしをしてはいけない。
 苦悩するときは、意言に注意したい。
 ※「名言と意言、そして離言」20160717参照。






  「自分の問題」 20190418   ⇒【目次】

 つらいことが身に起こって、
 苦しい思いに苛まれるとき。
 何のためかと原因をさぐり、
 誰のせいかと犯人をさがす。

 しかしあちこちさがし求めても、
 ほんとうに解決することはない。
 ほとんどは、自分の問題なのだ。

 事故や災害などの物理的な脅威、
 攻撃や病気による肉体的な損傷。
 他人のせいにできる範囲は、
 客観的にはかれるものだけ。

 あとは受けとり方しだいで、
 どのようにでも変化する、
 自分の心に原因がある。

 なにか苦痛を感じたときは、
 すぐ自身をよく観察したい。






  「無為の念仏」 20190321   ⇒【目次】

 なにもしない、
 なにも考えない、
 なにも思わないで、
 ただ呼吸にあわせて、
 南無阿弥陀仏と念じる。
 いつでも心が正気になる。
「無為の瞑想 -強為から云為、そして無為へ」20180921参照。






  「なんとかたすかった」 20190205   ⇒【目次】

 もの心ついてから、とにかく生きづらく、
 これまでにあれこれと、道を求めてきた。
 しかしなにをやっても、ほとんど失敗し、
 かろうじて念仏だけ、すこし身についた。

 右往左往しつつ、数十年もやってきて、
 このごろやっと、心が落ちついてきた。
 どうやらなんとか、たすかったらしい。






  「念仏の利益(りやく)」 20190130   ⇒【目次】

 念仏すれば、浄土があらわれる。
 浄土の功徳が、身体にあふれる。
 悩みがことごとく、消えさって、
 苦しみもいえて、安らかになる。
 これが念仏による、究極の利益。