雨読










魂のこと 《2018》






   【目次】

 「他力(云為)のヨーガ」  「自力と他力 ―自我と自己

 「末那識」  「再読の楽しみ」  「観察と慈悲 -あたたかい心で

 「幸せの求め方 -己事究明」  「人知れず我を知る

 「アーサナの優先順位」  「無為の瞑想 -強為から云為、そして無為へ

 「結果より過程が大事」  「呼ぶと気づく

 「瑜伽念仏 ―日々のたしなみ







  「瑜伽念仏 ―日々のたしなみ」 20181221   ⇒【目次】

 日々念仏に導かれながら、
 折々瑜伽もさせてもらい、
 時々口にする言葉がある。
 言えば心が正気にもどり、
 あかるくやすらかになる。

「世のなか安穏なれ
 仏法ひろまれ」
 念仏つたわれ
親鸞聖人御消息集二(略本)
「往生を不定におぼしめさん人は、まづわが身の往生をおぼしめして、御念佛さふらふべし。わが御身の往生を一定とおぼしめさん人は、佛の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念佛こゝろにいれてまふして、世のなか安穩なれ、佛法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼへさふらふ」

「念仏の祈り」
 いま念仏して 心浄まり
 ここでもう 皆しあわせ
 浄土の功徳 あらわれる
「正しい祈り」20151212「アファメーション affirmation」20171212参照。

「念仏の覚触」
 愛欲名利などの 貪瞋痴
 気づいたら すぐに捨て
 覚触しながら ただ念仏
顕浄土真実信文類三(教行信証・信巻)
「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と(誠知、悲哉、愚禿鸞、沈没於愛欲広海、迷惑於名利太山、不喜入定聚之数、不快近真証之証、可恥可傷矣)」
「覚触」迷いに気づき、生命の現実にもどること。

「念仏の心得」
 なるべく考えない 思わないようにし
 たえずお聞きして おまかせしながら
 できるだけいつも ただ南無阿弥陀仏
「止滅・信順 -考えず思わない・聞いて任せる」20170901参照。

「念仏の生活」
 やりたいことをやる
 余計なことをしない
 決して邪魔をしない
 人の言うことを聞く
 いつでも感謝をする
 人しれず念仏をする







  「呼ぶと気づく」 20181111   ⇒【目次】

 呼ぶとは、何かを引く・引き寄せる意味で使う。
 今ここにあるものを、わざわざ呼んだりしない。
 目の前にあっても、見ていなかったものがある。
 それをはっきりと認めることは、気づくという。

 南無阿弥陀仏は、仏の呼び声だという人がいる。
 それはまだ阿弥陀仏が、遠くに居るからだろう。
 今ここに居られるなら、仏の存在に気づくはず。
 阿弥陀仏を呼んでいるようでは、まだ足りない。

 今ここに居られると、はっきり気づき実感する。
 そこまで来ないと、南無阿弥陀仏も本物でない。
 念仏の真髄は、今ここで阿弥陀仏に気づくこと。
 阿弥陀仏が居られてこそ、本当の自分になれる。
 またそれは、自分自身に目覚めることでもある。






  「結果より過程が大事」 20181020   ⇒【目次】

 現代社会では、何よりも結果が重視される。
 どれだけ精一杯やっても、あまり関係ない。
 目に見える成果が出ないと、評価されない。

 しかし瞑想の世界では、結果を考えなくていい。
 むしろ結果にとらわれていたら、効果がでない。
 ヨーガや気功でも、坐禅や念仏やほかの何でも。
 いつか覚るために瞑想しよう、などと思わない。
 毎日の実践過程の中にこそ、大事な意味がある。

 天気・気温や気分・体調に、周囲の環境・境遇。
 日々刻々と変化しており、止まることなどない。
 一時でも過去と、まったく同じ瞑想はできない。
 この一回きりの状況で、どう瞑想を工夫するか。
 その一途な姿勢の中にこそ、真実の意味がある。

 また実力も、毎回実践する過程で得られる。
 双六みたいに、最後でぽんと上るのでなく。
 要するに最後の結果は、別にどうでもいい。







  「無為の瞑想 -強為から云為、そして無為へ」 20180921   ⇒【目次】

 瞑想を実践する際に、重要な心がまえがある。
 まず決して無理矢理、がんばってはならない。
 「がんばる」とは、「我を張る」にも通じる。
 我を張っては、まずまともな瞑想にならない。
 強引に行なう「強為」の態度は捨ててしまう。

 がんばらないで、むだな思慮分別から離れる。
 そこに心身からおのずと発する、動きがある。
 自分があれこれ心配しても、うまく行かない。
 むしろあえて、何も考えず放っておくといい。
 心身が調和し自然に行う「云為」に任せよう。

 さらにはそのお任せする気持ちさえいらない。
 ただ何もせず、考えず、思わず、無為でいる。
 このような無為の瞑想でこそ心が自由になる。
 そうして真の自分とは何か知ることができる。
「他力(云為)のヨーガ」20180111参照。
「強為」(ごうい)何かを目標として立て、意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に行なうこと。
「云為」(うんい)思慮分別を離れて、自ずから発動してくる自然な行ないのこと。







  「アーサナの優先順位」 20180818   ⇒【目次】

 この頃ようやくヨーガが、ちょっと体になじんできた。
 これまでやみくもに、手あたり次第アーサナを試した。
 毎日1〜2時間かけ、3〜40種類ほど実践していた。
 そしてどれにどんな効果があるか、少し分かってきた。

 原則としてヨーガのアーサナは、瞑想にほかならない。
 そして長い瞑想にはパドマアーサナが最も適している。
 実際大半のアーサナはパドマの準備運動になっている。
 特に基本体操で結跏趺坐が、誰でもできるようになる。
「パドマアーサナ」は蓮華坐ともいい、禅宗の結跏趺坐に似た坐り方。
 「基本体操」は佐保田鶴治先生が推奨された、ヨーガの準備体操。

 またほとんどのアーサナに、整体や按摩の効果もある。
 心や体の不調を自分だけで、かなり治せるようになる。
 分かれば分かるほど、これ抜きには生活できなくなる。
 ただやや時間がかかり過ぎて、負担になってきていた。

 そこでアーサナに、自分なりの優先順位をつけたい。
 忙しくて余裕のない日は、必須のものだけに止める。
 一週間のうちに、基礎的なものはこなすようにする。
 そして一月で、知っているアーサナをほぼ全て行う。

 これでかなり負担が減り、気持ちが楽になるだろう。
 なお瞑想については、日々なるべく多く実践したい。
 ただし時間や回数、完成度にとらわれてはならない。
 ヨーガはちょっとがんばるだけで、けがしてしまう。
 その時々に自分の心身と対話して、適宜に行いたい。

佐保田鶴治『ヨーガ入門』ベースボール・マガジン社 2001
   同  『ヨーガのすすめ』 同 2002
「私のヨーガ」20160408参照。
 

【必須】
 簡易体操:ヴァジュラ等(5アーサナ)
 基本体操:足の体操(10アーサナ)/手の体操(4アーサナ)
 完全弛緩:シャヴァ
 呼吸法:アヌローマヴィローマ 
 瞑想法:パドマ

【基礎】
 合蹠:バッダ・コーナ
 開脚:ウパヴィスタ・コーナ
 前屈:ジャーヌ・シールシャ/パシュチモッターナ
 後屈:ブジャンガ/ダヌル/シャラバ
 捻り:ジャタラ・パリヴァルタナ

【適宜】
 立位:ガルダ/トリコーナ/ヴリクシャ 等
 倒立:ヴィパリータ・カラニ/サルヴァンガ/シールシャ 等
 呼吸法:カパーラ・バーティ/ウジャーイ 等
 その他:ヨーガ・ムドラー/ゴームカ/パヴァナムクタ/ハラ
  ウシュトラ/マツヤ/アルダ・マッチェンドラ 等







  「人知れず我を知る」 20180721   ⇒【目次】

 自己を知るということが、人生の一大事なのだろう。
 そして自己を知ろうとすれば、孤独が不可欠になる。
 どこを訪ねても、だれに聞いても、教えてくれない。
 よそに何を求めても、自分のことはよくわからない。
 独りで自分の心中を、深くうかがって行くしかない。

 だから人に知ってもらおうとあくせくすべきではない。
 どれだけ多くに知られても自分がわかるわけではない。
 他人のことは参考程度にし、ひたすら自身を探求する。

 ふしぎと孤独を極めれば極めるほど、寂しくなくなる。
 孤独であればあるほど、自分を理解できるようになる。
 むしろ心が満たされ、ほんとうに幸せな気持ちになる。
 人から知られることを求めずに、ただ我を知れば良い。





  「幸せの求め方 -己事究明」 20180616   ⇒【目次】

 人生の目的は、幸せを求めることだと考えていい。
 そしてほんとうの幸せは、色恋や名利等にはない。
 どれだけ心が浄らかになるか、ということにある。
 そのためには、自分をよく知ることが必須になる。
 さまざまな瞑想や修行の目的も、そうに違いない。

 日々思いついたときに、呼吸を調え瞑想する。
 自分をじっと見つめていると、心が落ち着く。
 心が静かになれば、自分の姿がはっきりする。
 なにが苦悩の原因なのかもよく分かってくる。

 物事に対する執着が、いつも心を汚している。
 気づいた時点ですぐ手放せば、やがて消える。
 あらゆる苦しみから解放されて、心が浄まる。
 そうしてほんとうに自分のことが理解できる。
 いつしか自分と仲よくなり、心が満たされる。

 聞くところによると、余命が短くなってから、
「ふり返れば、まったくつまらん人生だった…」
 とひどく嘆き悲しむ人が、数多くいるという。
 残念なことにその人は一生涯、余事に迷って、
 自分がわからないまま終ってしまうのだろう。

 己事究明(自分をよく知ろうとすること)。
 ほんとうの幸せはこの方法でのみ見つかる。






  「観察と慈悲 -あたたかい心で」 20180505   ⇒【目次】

 自分の心身を観察するのが瞑想の基本であろう。
 ただしその際、見つめ方にちょっとコツがある。
 なるべくあたたかく、いたわるように心がける。
 冷ややかな眼ではなく、慈悲の心で見るべきだ。

 慈悲の気持で、心身の不調も癒される。
 まず違和感を感じるところに注視する。
 よく観察しそこへ慈しむ気持を向ける。
 慈悲には慈愛と悲哀という意味がある。
※慈悲は通常、慈が与楽、悲が抜苦の意味とされる。

 傷めたところを、よく見つめて慈しむ。
 傷めてしまったことを、心から哀しむ。
 そうすると原因が、はっきりしてくる。
 悪化する要素を除き、適切に保護する。
 いつのまにか自然に、症状が治癒する。

 慈悲の気持でよく自分の心身を観察する。
 これはまさしく、止観行(瑜伽)だろう。
 仏教における、瞑想行の本質に違いない。
 ある経典に、ちょうど良い例が出ていた。

『出曜経 巻第二十九』沙門品 第三十三
※『大正新脩大藏經 第四巻 本縁部下』No.0212出曜経(三十巻 竺仏念訳)764c~765a頁
【原文】
「比丘爲慈 愛敬佛敎 深入止觀 滅行乃安」
 比丘執意行四等心。慈悲喜護愍念一切。愛敬三寶信心不斷。深入分別止觀所趣。在在乞求處處留化。所以除貪制意者。欲除世榮不貪利養。究盡生死滅諸惡行。度有至無乃謂永安。是故説曰。「比丘爲慈 愛敬佛敎 深入止觀 滅行乃安」也。
【訓読】
[二]「比丘は慈を為し 仏教を愛敬し 深く止観に入り 行を滅して乃ち安し」
 比丘は執意 して四等心を行ひ、慈・悲・喜・護にて一切を愍念し、三宝を愛敬し信心不断にして、深く入り止観の趣く所を分別す。在在に乞求し処処に留化し、貪を除き意を制する所以は、世栄を除き利養を貪らざらんと欲すればなり。生死を究尽し諸の悪行を滅して、有を度し無に至るを乃ち永安と謂ふ。是の故に説ひて曰く、比丘は慈を為し 仏教を愛敬し 深く止観に入り 行を滅して乃ち安しと。
【訳注】
[二]「比丘は慈を為し 仏教を愛敬し 深く止観に入り 行を滅して乃ち安し」
 比丘は意をつくして四等心を行い、 慈・悲・喜・護(捨)の心で一切衆生をあわれみ、三宝を敬愛し不断に信心して、深くこころに入り止観の趣くところを分別する。あちこち乞食しその所々で教化して、貪りを除き心を制するわけは、世の栄誉を除き利養を貪らないように求めるためである。生死をきわめ尽して諸々の悪行を滅し、有をわたって無に至ることを永安という。そこで「比丘は慈を為し 仏教を愛敬し 深く止観に入り 行を滅して乃ち安し」と説いている。
※「止観」サンスクリット語で止はシャマタ(奢摩他)、観はヴィパシャナ(毘鉢舎那)という。止は心を静めて集中すること、観は智慧により物事を正しくみることとされる。また唯識学で止観は、狭義の瑜伽行を意味する。/「行」形成力・意志作用のこと。/「四等心」慈・悲・喜・捨の四無量心をいう。

 四無量心を起し、信心を絶やさず、深く止観を行う。
 さらにいたるところで無欲に教化し、生死を究める。
 有為から無為の境地へ至って、永久の安らぎを得る。

 仏教の根本的な行法が、しごく簡明に示されている。
 まともな修行者なら、ぜひこうありたいものだろう。






  「再読の楽しみ」 20180408   ⇒【目次】

 これまで、はばひろく良書を入手し、蔵書を増やすことに努めてきた。
 しかしあと少しで還暦になり、視力と資力の点で手に余るようになる。
 もう今さらこの歳で、新たな分野を開拓し、勉強にはげむ必要もない。
 生涯で達成できる仕事の質と量は、もうほとんど見えてしまっている。

 それよりこれまで得た知見を点検し確認するため、再読した方がよい。
 かつて公表したものに誤りがないか見直し、間違った部分を訂正する。
 未整理の原稿を精選して、必要があれば書物のかたちにまとめておく。

 この先できることと言えば、まあそれぐらいなものかなと思っている。
 また立つ鳥跡を濁さないためにも、蔵書の整理はしておくべきだろう。
 それが小遣い程度の金額にでもなれば、老後の生活のはげみにもなる。

 これからは不要本を処分しつつ、座右の書を再び熟読してみたい。
 慣れ親しんだ分野の書物なので、労せずにその真意を把握できる。
 以前より年季が入っているから、新しい発見も多いにちがいない。
 もしかするとこれこそが、ほんとうの読書の愉しみかもしれない。







  「末那識」 20180318   ⇒【目次】

 ある恥ずかしい出来事を経験して、唯識思想がちょっと分かってきた。
 その一件についてはあまり想い出したくなく、あえて詳しく述べない。
 端的に言えば、うまい誘いに乗り、本気になったら振られてしまった。
 これまでの人生が、みな根こそぎ否定されたような厳しい体験だった。
 ひどく傷つけられ、暗い感情がわき起こって、なかなか離れなかった。

 そこで静かに自分を見つめて、なにが傷ついているのかよく観察した。
 どうやらそれは自尊心のようで、かなり深くまで意識に根付いている。
 自分と他人を比較して、その存在を軽んじたり、重んじたりする感情。
 これが意外と意識できる境界を越え、さらに深い領域まで到っている。
 それはどうも唯識思想で説いている、「第七識」・「末那識」らしい。

 「末那識」の内容は『唯識三十頌』に「四煩悩常倶」として、
 「謂わく我癡と我見と 并びに我慢と我愛となり」等とある。
 いわゆる自尊心とは「四煩悩」で「我慢」に相当するらしい。
 自分を特に重んじる心で、これがないと自我を維持できない。
 なかなかしぶといものであり、決して思い通りには操れない。

 世の中で名利を求める気持ちの根源が、この意識に他ならない。
 自分が社会で生活して行くための、根本的な要因と考えていい。
 いやな事件に遭遇したおかげで、心の様相を根底から理解した。
 そうして唯識思想の要である、「末那識」を実感できたようだ。

『唯識三十頌』 - Wikisource

「次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく
 彼に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
 四の煩悩と常に倶なり 謂わく我癡と我見と
 并びに我慢と我愛となり 及び余と触等と倶なり
 有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
 阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し

 次第二能變 是識名末那 依彼轉縁彼 思量爲性相
 四煩惱常倶 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等倶
 有覆無記攝 隨所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有」






  「自力と他力 ―自我と自己」 20180222   ⇒【目次】

 真宗でいう「自力」は、意味するところがなかなか分かりにくい。
 あえて端的に捉えるなら「自我(エゴ)」中心の在り方と言える。
 その意味で「エゴイズム」とは、究極的な「自力」に他ならない。

 また「他力」とは「自己(セルフ)」に則る在り方と考えられる。
 「自己」とは本来孤立したものでなく、根底で他と繋がっている。
 その声によく耳を傾けるなら、自他を害うような行為は起らない。

 ただし「自力」は必ずしも悪でなく、自身を守るはたらきがある。
 「自我」にも、外界と交渉し穏やかに生きる、大切な機能がある。
 しかしあらゆる「苦」は、「自我」から発生し、そこで成長する。
 物事への執着に相応して盛衰し、根本的に解決するまで居すわる。

 「自力」的な生き方には、悩みや苦しみが影のように付きまとう。
 「自我」への執着を断たないかぎり、真に心が安らぐこともない。
 「自己」に依り「他力」で生きると、ほんとうの安心が得られる。

 ※「自力の念仏と他力の念仏Ⅰ」20070920
  「自力の念仏と他力の念仏Ⅱ」20071106





  「他力(云為)のヨーガ」 20180111   ⇒【目次】

 野口体操の創始者・野口三千三先生には、独自の体操観があった。
 「うらなひ」とは、真実とは何か、そのことの根源は何であるか、を神に問い聴く営みである。私が「体操とは占である」というのは、自分自身を存在させてくれる自然の神に「自然とは何か、人間(自分)にとってからだとは何か、からだのあり方はこれでいいのか、この動きはこれでいいのか、骨や筋肉は、そして意識はどんな役割をもつべきものとして与えられているのか、人間にとって賢いとか力が強いとかはどんなことなのか……」、と次から次へ繰り返して、問い聴く営みなのである。自然の神は外にあるだけでなく、自分自身のからだの中身にも遍満しているから、自分のからだを動かして、からだの中身の神に問い聴くことを手がかりにすることになる。…(中略)…
 「うらなひ」のあり方は、基準が自分のからだの中身に遍満している自然の神にあって、それは関係によって相対的にそのつど新しく、融通無礙の姿で現われてくれる。からだのすみずみまで静かで澄み切った状態をつくって、神の声を聴くための準備をする。神を迎える準備を更に丁寧に続けながら、静かに待つ。神は何処からともなく向こうからやってくる。ある時、突然に訪れてくれる。思いがけない素晴らしいおみやげを持って訪れ、全く新しい別の世界をからだの中に現出させてくれるのである。
※野口三千三『野口体操 からだに貞(き)く』春秋社 2002 242p
 自然の神は外だけでなく、自分のからだの中身にも遍満している。
 その神に真実とは何か、その根源は何であるか繰り返し問い聴く。
 まずからだのすみずみまで静かで澄み切った状態をつくっておく。
 そして神を迎えるため、ていねいに準備を続けながら静かに待つ。

 神は何処からともなく向こうから、ある時、突然に訪れてくれる。
 素晴らしいおみやげを持ち、新しい別の世界を身中に現出させる。
 このようにからだを動かしながら、自分の中で神に問い聴くこと。
 それを端的に言うなら、「体操とは占である」ということになる。
 これはまさしく浄土教等で説く、他力の心がまえにほかならない。

 ところでヨーガを実践していて、初めはどうしても自力に頼ってしまう。
 アーサナの手順をひとつひとつ憶えて、完成形に近づけようと努力する。
 あれこれ考えながら、動作をチェックし、体を思い通りにしようとする。

 しかしある程度、ヨーガに熟練したとき、そうした思考がじゃまになる。
 頭の指示による筋肉の運動は、体が本来持っている動きと異なっている。
 曹洞宗国際センター所長の藤田一照師は、坐禅の要点を次のように語る。

 思考の産物でしかないちっぽけな「わたし」が、それよりもはるかに広大深淵な深層意識やからだを相手にして、それからの合意や納得、協力をとりつけることもしないで、遮二無二コントロールしようとしているのですから、うまくいくはずがないのです。かれらからの抵抗や反抗、異議申し立てが様々な仕方で噴出してくるのは至極当然です。意志の力でそれに打ち勝とうとしてもしょせん勝ち目はありません。不自然な無理を空しく積み重ねるだけになって、からだやこころをおかしくしたり、傷めたりするのが落ちです。血気に任せた無茶苦茶な坐禅修行はしばしば禅病を引き起こすと古来より戒められているゆえんです。
 道元禅師はこのような、何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうのを強為(ごうい)と呼び、それに対して思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ないのことを云為(うんい)と呼んで対比させています。坐禅はしばしば強為の積み重ねのように思われていますが、それは全くの誤解です。そうではなくて云為として行じられるべきものなのです。
※藤田一照『現代坐禅講義 −只管打坐への道』佼成出版社 2012 156p
 藤田師の言う通り、頑張って遮二無二に修行してはいけない。
 まず無理矢理に強引に行なうような、強為の態度を捨て去る。
 そして思慮分別を離れ自ずから発動してくる、云為に任せる。

 曹洞宗でも云為として行う、他力的な坐禅が重視されている。
 強為による自力的な修行は、禅病を起こすと戒められている。
 ちなみに自力とは、自我の力で無理に頑張ることだと言える。

 頑張ってやるということは、自然の原理のままに従えばできないことを、無理矢理にデッチアゲて、ゴリオシするということでもある。デッチアゲの能力やゴマカシ・ゴリオシの能力を量的に増すことが、人間のからだの力の基礎であるというこの考え方は、明らかに間違いだと私は思う。…(中略)…
 自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる。
※野口三千三『野口体操 からだに貞(き)く』春秋社 2002 131p
 頑張って努力することをやめ、自然の原理に従うよう心がける。
 重力に体を任せるようにすると、滑らかで自然な動きができる。
 体の声を聞きながら動くと、心身がほんとうにリラックスする。

 自力の動きと、他力の動きでは、使う筋肉まで根本的に異なる。
 体で神の声を聞きお任せする、「他力のヨーガ」を実践したい。