雨読










魂のこと 《2018》






   【目次】

 「他力(云為)のヨーガ」  「自力と他力 ―自我と自己」  「末那識

 「再読の楽しみ」 







  「再読の楽しみ」 20180408   ⇒【目次】

 これまで、はばひろく良書を入手し、蔵書を増やすことに努めてきた。
 しかしあと少しで還暦になり、視力と資力の点で手に余るようになる。
 もう今さらこの歳で、新たな分野を開拓し、勉強にはげむ必要もない。
 生涯で達成できる仕事の質と量は、もうほとんど見えてしまっている。

 それよりこれまで得た知見を点検し確認するため、再読した方がよい。
 かつて公表したものに誤りがないか見直し、間違った部分を訂正する。
 未整理の原稿を精選して、必要があれば書物のかたちにまとめておく。

 この先できることと言えば、まあそれぐらいなものかなと思っている。
 また立つ鳥跡を濁さないためにも、蔵書の整理はしておくべきだろう。
 それが小遣い程度の金額にでもなれば、老後の生活のはげみにもなる。

 これからは不要本を処分しつつ、座右の書を再び熟読してみたい。
 慣れ親しんだ分野の書物なので、労せずにその真意を把握できる。
 以前より年季が入っているから、新しい発見も多いにちがいない。
 もしかするとこれこそが、ほんとうの読書の愉しみかもしれない。







  「末那識」 20180318   ⇒【目次】

 ある恥ずかしい出来事を経験して、唯識思想がちょっと分かってきた。
 その一件についてはあまり想い出したくなく、あえて詳しく述べない。
 端的に言えば、うまい誘いに乗り、本気になったら振られてしまった。
 これまでの人生が、みな根こそぎ否定されたような厳しい体験だった。
 ひどく傷つけられ、暗い感情がわき起こって、なかなか離れなかった。

 そこで静かに自分を見つめて、なにが傷ついているのかよく観察した。
 どうやらそれは自尊心のようで、かなり深くまで意識に根付いている。
 自分と他人を比較して、その存在を軽んじたり、重んじたりする感情。
 これが意外と意識できる境界を越え、さらに深い領域まで到っている。
 それはどうも唯識思想で説いている、「第七識」・「末那識」らしい。

 「末那識」の内容は『唯識三十頌』に「四煩悩常倶」として、
 「謂わく我癡と我見と 并びに我慢と我愛となり」等とある。
 いわゆる自尊心とは「四煩悩」で「我慢」に相当するらしい。
 自分を特に重んじる心で、これがないと自我を維持できない。
 なかなかしぶといものであり、決して思い通りには操れない。

 世の中で名利を求める気持ちの根源が、この意識に他ならない。
 自分が社会で生活して行くための、根本的な要因と考えていい。
 いやな事件に遭遇したおかげで、心の様相を根底から理解した。
 そうして唯識思想の要である、「末那識」を実感できたようだ。

『唯識三十頌』 - Wikisource

「次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく
 彼に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
 四の煩悩と常に倶なり 謂わく我癡と我見と
 并びに我慢と我愛となり 及び余と触等と倶なり
 有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
 阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し

 次第二能變 是識名末那 依彼轉縁彼 思量爲性相
 四煩惱常倶 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等倶
 有覆無記攝 隨所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有」






  「自力と他力 ―自我と自己」 20180222   ⇒【目次】

 真宗でいう「自力」は、意味するところがなかなか分かりにくい。
 あえて端的に捉えるなら「自我(エゴ)」中心の在り方と言える。
 その意味で「エゴイズム」とは、究極的な「自力」に他ならない。

 また「他力」とは「自己(セルフ)」に則る在り方と考えられる。
 「自己」とは本来孤立したものでなく、根底で他と繋がっている。
 その声によく耳を傾けるなら、自他を害うような行為は起らない。

 ただし「自力」は必ずしも悪でなく、自身を守るはたらきがある。
 「自我」にも、外界と交渉し穏やかに生きる、大切な機能がある。
 しかしあらゆる「苦」は、「自我」から発生し、そこで成長する。
 物事への執着に相応して盛衰し、根本的に解決するまで居すわる。

 「自力」的な生き方には、悩みや苦しみが影のように付きまとう。
 「自我」への執着を断たないかぎり、真に心が安らぐこともない。
 「自己」に依り「他力」で生きると、ほんとうの安心が得られる。

 ※「自力の念仏と他力の念仏Ⅰ」20070920
  「自力の念仏と他力の念仏Ⅱ」20071106





  「他力(云為)のヨーガ」 20180111   ⇒【目次】

 野口体操の創始者・野口三千三先生には、独自の体操観があった。
 「うらなひ」とは、真実とは何か、そのことの根源は何であるか、を神に問い聴く営みである。私が「体操とは占である」というのは、自分自身を存在させてくれる自然の神に「自然とは何か、人間(自分)にとってからだとは何か、からだのあり方はこれでいいのか、この動きはこれでいいのか、骨や筋肉は、そして意識はどんな役割をもつべきものとして与えられているのか、人間にとって賢いとか力が強いとかはどんなことなのか……」、と次から次へ繰り返して、問い聴く営みなのである。自然の神は外にあるだけでなく、自分自身のからだの中身にも遍満しているから、自分のからだを動かして、からだの中身の神に問い聴くことを手がかりにすることになる。…(中略)…
 「うらなひ」のあり方は、基準が自分のからだの中身に遍満している自然の神にあって、それは関係によって相対的にそのつど新しく、融通無礙の姿で現われてくれる。からだのすみずみまで静かで澄み切った状態をつくって、神の声を聴くための準備をする。神を迎える準備を更に丁寧に続けながら、静かに待つ。神は何処からともなく向こうからやってくる。ある時、突然に訪れてくれる。思いがけない素晴らしいおみやげを持って訪れ、全く新しい別の世界をからだの中に現出させてくれるのである。
※野口三千三『野口体操 からだに貞(き)く』春秋社 2002 242p
 自然の神は外だけでなく、自分のからだの中身にも遍満している。
 その神に真実とは何か、その根源は何であるか繰り返し問い聴く。
 まずからだのすみずみまで静かで澄み切った状態をつくっておく。
 そして神を迎えるため、ていねいに準備を続けながら静かに待つ。

 神は何処からともなく向こうから、ある時、突然に訪れてくれる。
 素晴らしいおみやげを持ち、新しい別の世界を身中に現出させる。
 このようにからだを動かしながら、自分の中で神に問い聴くこと。
 それを端的に言うなら、「体操とは占である」ということになる。
 これはまさしく浄土教等で説く、他力の心がまえにほかならない。

 ところでヨーガを実践していて、初めはどうしても自力に頼ってしまう。
 アーサナの手順をひとつひとつ憶えて、完成形に近づけようと努力する。
 あれこれ考えながら、動作をチェックし、体を思い通りにしようとする。

 しかしある程度、ヨーガに熟練したとき、そうした思考がじゃまになる。
 頭の指示による筋肉の運動は、体が本来持っている動きと異なっている。
 曹洞宗国際センター所長の藤田一照師は、坐禅の要点を次のように語る。

 思考の産物でしかないちっぽけな「わたし」が、それよりもはるかに広大深淵な深層意識やからだを相手にして、それからの合意や納得、協力をとりつけることもしないで、遮二無二コントロールしようとしているのですから、うまくいくはずがないのです。かれらからの抵抗や反抗、異議申し立てが様々な仕方で噴出してくるのは至極当然です。意志の力でそれに打ち勝とうとしてもしょせん勝ち目はありません。不自然な無理を空しく積み重ねるだけになって、からだやこころをおかしくしたり、傷めたりするのが落ちです。血気に任せた無茶苦茶な坐禅修行はしばしば禅病を引き起こすと古来より戒められているゆえんです。
 道元禅師はこのような、何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうのを強為(ごうい)と呼び、それに対して思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ないのことを云為(うんい)と呼んで対比させています。坐禅はしばしば強為の積み重ねのように思われていますが、それは全くの誤解です。そうではなくて云為として行じられるべきものなのです。
※藤田一照『現代坐禅講義 −只管打坐への道』佼成出版社 2012 156p
 藤田師の言う通り、頑張って遮二無二に修行してはいけない。
 まず無理矢理に強引に行なうような、強為の態度を捨て去る。
 そして思慮分別を離れ自ずから発動してくる、云為に任せる。

 曹洞宗でも云為として行う、他力的な坐禅が重視されている。
 強為による自力的な修行は、禅病を起こすと戒められている。
 ちなみに自力とは、自我の力で無理に頑張ることだと言える。

 頑張ってやるということは、自然の原理のままに従えばできないことを、無理矢理にデッチアゲて、ゴリオシするということでもある。デッチアゲの能力やゴマカシ・ゴリオシの能力を量的に増すことが、人間のからだの力の基礎であるというこの考え方は、明らかに間違いだと私は思う。…(中略)…
 自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる。
※野口三千三『野口体操 からだに貞(き)く』春秋社 2002 131p
 頑張って努力することをやめ、自然の原理に従うよう心がける。
 重力に体を任せるようにすると、滑らかで自然な動きができる。
 体の声を聞きながら動くと、心身がほんとうにリラックスする。

 自力の動きと、他力の動きでは、使う筋肉まで根本的に異なる。
 体で神の声を聞きお任せする、「他力のヨーガ」を実践したい。