魂のこと 《2007》
【目次】
「自分にこだわらない生き方」 「念仏を愛好する」 「指方立相」
「念仏と感謝と慈悲」 「自然(ジネン)の念仏」 「自然念仏と無為自然」
「自分が納得するように話す」 「生きる目的としての念仏」 「念仏の効用」
「自力の念仏と他力の念仏 T」 「『法句経』を読む」
「自力の念仏と他力の念仏 U」
「自力の念仏と他力の念仏 U」 20071106 ⇒【目次】
自力の念仏 … 希願請求(キガンショウグ)の念仏
他力の念仏 … 御恩報謝の念仏浄土真宗の教義では一般に、御恩報謝の念仏こそ他力の念仏であり、唯一の正しい態度であるとしている。これに対し、救いを希望し懇願して求めるような念仏は、自力の誤った在り方として、厳しく排除する。
しかしいま改めて考えるとき、救いを求める念仏が、それほど誤ったものなのかと疑問を感じる。
それは元をただせば、本願寺派で近世末頃にまき起こった、最大の異安心事件である「三業惑乱」への反省に由来する。
われわれ心弱い凡夫にとり、つらいとき苦しいときに、助けも求められないような教えなど、なんの意味があるだろう。むしろ割り切って、苦しいときは神だのみの如く、どうか助けてくださいと自力の念仏をし、なんとかしのげたらありがとうございますと、感謝して念仏すると考えた方が納得しやすい。
そうしてふだんは、このように助けていただく仏恩に感謝し、純粋な気持ちから他力の念仏を称えていく。究極的なかたちとして、御恩報謝の念仏が勝れていることは、論をまたない。
しかしながら人の心情として、それだけではいつでも誰でも救われるわけがないと思う。その意味で念仏に幅を持たせ、時と場合に応じ、自力のような念仏をするのも、許されるのではないだろうか。
「『法句経』を読む」 20071016 ⇒【目次】
いま『大正新脩大蔵経』本縁部の『法句経』を読んでいる。
これまで『大蔵経』を読む際は、ただ本文を熟読するだけだった。必要に応じせいぜい『佛教語大辞典』(中村元著 東京書籍)等をひもとく程度で、特に参考書の類は使っていなかった。
ところが『法句経』の本文はあまりにも難解で、自分の乏しい読解力では、どうしても読み切れない。そこで急遽『新国訳大蔵経A本縁部4 法句経』(大蔵出版)を入手し、逐一経文と照らし合わせて読み進んでいる。それなら今後は、他の経典を読むときでも、『国訳一切経』(大東出版社)等、適宜参考書を用意して、精読するようにしようかと考えている。ところで『法句経』は、従来日本仏教の伝統教学上、あまり重視されてこなかった。
しかし明治期に入り、南伝大蔵経のパーリ語による仏典研究が進むにつれ、釈尊の直説に最も近い経典のひとつとして、注目されるようになった。ただし漢訳の『法句経』は、ほぼ全文が詩偈で綴られており、非常にわかりにくい。明らかな誤訳も多く、必ず原典とされる南伝の『ダンマパダ』を参照しなければならない。また『ダンマパダ』にない文章も散見し、その際は『ウダーナヴァルガ』等も見る必要がある。この他にも、異訳である『法句譬喩経・出曜経・法集要頌経』も必見で、解釈に苦労する。
とはいえ『法句経』には、有名な「七仏通誡偈」が出ていたり、また「四法印」が見えたり、念仏について説かれていたりする。やはりあまたある仏典中、根本ともいえるものであり、多少の苦労はいとわず、きちんと読んでおきたいと思っている。
「自力の念仏と他力の念仏 T」 20070920 ⇒【目次】
浄土真宗では、自力の念仏と他力の念仏を、厳密に区別する。
自力作善というように、努力して自分をより善くしていこうとする意識が、わずかでも含まれるなら、それは自力の念仏に他ならない。たとえば念仏することで、心を落ちつかせようとしたり、安らかにしようとしたり、浄めようとしたり等々、自分の救いや向上を求めてするようなものは、すべて自力になるという。
これに対し他力の念仏とは、完全な悟りへ至る行であり、この身やこの世がうさん臭いものであると、一点の疑いもなく納得して、それらとはまったく異なる如来の世界があることに、はっきり目覚めるようなものをいう(平野修『真宗の教相』法蔵館1997「第三章 他力の念仏」参照)。
念仏へ自分の足しになる何かを、わずかでも求めたら、他力ではなくなるのだ。これはほんとうにその通りで、正統な真宗の教義に説かれている念仏は、ほとんど究極のものかもしれない。
ただし、それで自分をなんとかしようとする自力の念仏が、まったく無意味なものかと言えば、決してそうではない。たとえばひどくつらい出来事に遭ったとき、少しでも心が安らぐよう念仏するのを、また激しい苦痛が起こったとき、なんとか早く逃れたいと助けを求め念仏するのを、誰が禁止できるだろう。実際一心に念仏すれば、瞑想のような効果があり、たいていの憂苦なら必ず緩和できるのに、そんな応病与薬的な意義すらも、否定しなければならないのだろうか。
むしろ念仏に、自力と他力があるということは、それ自体がひとつの恵みであると思えてならない。
「念仏の効用」 20070808 ⇒【目次】
念仏は、ほんとうに仏を信じて称える中身のあるものなら、信心のはたらきにより、直ちに心が浄化されて救われる。しかしながら信心を得るのは、古来難中の難とされ、誰でもそんな念仏ができるわけではない。
これに対し必ずしも信心を伴わない、いわゆる空念仏でも、よけいな自我のはたらきを抑え、むだに頭を悩ませないで済むようになり、多くの苦しみから救われる。この点で、瞑想に匹敵する効果があると言えよう。空念仏でも日常的に称えていれば、すぐに心が落ちつき静まっていく。このことは非常に重要だと思う。
【三種念仏】
わざわざ心身を調えて坐禅したり、工夫を重ね瞑想しなくても、時と場を選ばず、ただなにげなくひとしきり念仏するだけで、確実に心が安らぐ。こうした念仏の効用は、現代のようにせわしない社会を生きる際、大きな慰めとなるに違いない。
1.観念の念仏(難行)…一種の瞑想で、修行の功徳により救われる。
選ばれた者でなければ不可能。
2.真実の念仏(易行難信)…信心のはたらきで救われる。
ただし信心を得るのは困難。
3.称名の念仏(易行)…空念仏の効果により救われる。
いつでも誰にでも可能。
「生きる目的としての念仏」 20070717 ⇒【目次】
少なくとも今の時点で、自分という人間が世に生きる目的を、次のように考えている。「自然(ジネン)の念仏が身に付いて、心が浄まり、他を慈しむこと」
日々自然の有様(この世界のすがたとはたらき)を、仏として念じることで、我執から離れやすくなり、心の中にわだかまる悪癖が少しずつ直され、浄らかで落ちついた状態になる。そうして無私となった心により、自分以外の存在もほんとうに慈しめるようになる。
現世で人間がそんな境地へ至るのは、不可能だと分かっていても、ひとつの志として求めていきたい。こうした自然の念仏をして、わずかでも人格が高まり他のために生きることができれば、この世に生まれたかいがあったと言えるだろう。
これは伝統的な浄土真宗から見れば、自力の念仏に他ならないかもしれない。しかし、方法はどうであれそれで確かに魂が向上すると、自分自身が納得できるなら、他人の思惑に関係なく、やってみる価値はある。
「自分が納得するように話す」 20070701 ⇒【目次】
自分が本当に納得するまでこう話をして、その話を自分に聞かせる。自分が自分に聞かせるものである。自分が自分に言い聞かせて、自分が納得するまで、自分に言い聞かすれば、そうすれば外の人も自然に納得するであろう。
―曽我量深述『未来について』(文明堂1986)p.69人前で話をしなければならないとき、どうしても目の前にいる聞き手の方を意識しがちになる。なんとか話を聞いてもらおう、分かってもらおうとして、彼等のご機嫌を伺ったりする。
ここはやはり曽我量深師の言う通り、話をする際は、その場で可能な限り自分の心を窺い、納得できるまで言い聞かせるようにするべきだろう。心の底から湧いてくる言葉を口に出して、自身の骨肉となっている話だけをするべきだろう。
しかし、そうすればするほど話が上滑りとなり、伝えたい内容が言葉にならない。
自分ですら納得していない事柄を話しても、人が理解するわけがない。心の底から湧き出る、真実の言葉だけを人に向かって話し、そうしたものがないなら、ただじっと黙っていたい。
「自然念仏と無為自然」 20070616 ⇒【目次】
二十歳の頃、はじめて老荘思想に接し、無為自然という考え方に触発され、自分が天地と一体になったかのような、宗教的体験(至高経験)をした。
三十歳の頃、はじめて親鸞聖人の「自然法爾章」を読み、阿弥陀仏に対する認識が一変して、それまで違和感を懐いていた浄土真宗が、実は自分に最もなじむ、宗教思想であると納得した。
四十歳を過ぎ、改めていろいろ考え直してみたら、老荘の自然(シゼン)と真宗の自然(ジネン)には、まったく同一ではないとしても、よく通じ合うものがあると、理解が及ぶようになった。
老荘の自然(シゼン)は宇宙の真理・原理としての性格が強く、そのままでは取りつく島もない。こうした自然と人との間に、阿弥陀仏が入ると、にわかに親しみやすく頼れる存在へと変わる。そして念仏という行為を通し、いつも自然を身近に意識していることができるようになる。
無為であり、法爾である自然を常に念ずることで、自ずとはからいのない無我の境地へ至る。このような自然の念仏を、日々称えて行きたい。
「自然(ジネン)の念仏」 20070530 ⇒【目次】
いま自分が愛好している念仏は、世間一般に考えられているものと、少々異なっている。西方にある極楽へ往生しようと称えるわけではなく、ましてご利益や功徳を期待するものでもない。ただ、親鸞聖人が「自然法爾章」で説かれている阿弥陀仏を、そのまま念じているにすぎない。「自然法爾章」では「ミダ佛ハ自然ノヤウ(様)ヲシラセムレウ(料)ナリ」(顕智本)と定義している。ここで宇宙の原理ともいうべき「自然」の様子は、とてもありのままに人が理解できるものでなく、想像すら及ばない。そこでこれに阿弥陀仏という仮の姿を与え、念じやすい対象にしている。
なにかに役立つわけではなくとも、折にふれ思うまま南無阿弥陀仏と称えていると、浮き世の雑事から心が離れて、妙に気持ちが落ちつく。つらい出来事に遭っている時でも、少しは堪えやすくなる。
それ以外の歴史や背景はとりあえず他に置き、ただ単に「自然」の象徴として阿弥陀仏を念じて行く。こんななんのありがたみもないような空念仏が、好きでならない。
ふだんの生活上では、なにかにつけて「ありがとう、ありがとさん」と感謝しつつ念仏し、困難な状況下では一心に南無阿弥陀仏と念じて正気を保ち、なんとかしのいで行く。こうしたほとんど日々の気休めにすぎないような「自然」の空念仏が、もう止められなくなっている。
「念仏と感謝と慈悲」 20070222 ⇒【目次】
これまでかれこれ20年以上、いろいろ生き方を模索してきた結果、このごろようやく三つのことをしっかりやれば、なんとか心が落ち着くと分かった。1.念仏 「南無阿弥陀仏」
ほんとうは念仏一本だけで、じゅうぶん心が落ち着き、他はまさしく雑行・雑修以外の何ものでもない。とはいえいずれも確かな効果があり、なかなか捨てるにしのびず、今後しばらくはみな試して行きたいと考えている。
自分からはなにも求めず、仏恩を感謝して念仏する。
2.感謝 「ありがとう、ありがとさん」
これは正しい念仏にも含まれる要素であり、ただ折にふれて「ありがとう」という言葉を言い続けるだけで、不思議と心が安らかになる。
3.慈悲 「慈悲喜捨の瞑想」
上座仏教で勧める「慈悲喜捨の瞑想」は、仏教の根本であり、心の向上をはかる際、非常に効果がある。また併せて「ヴィパッサナー瞑想」も実践すると、あらゆる精神的な苦しみが解決する。
そこで最近、毎日折にふれ、人目をはばかりながら、次のように称えている。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。ありがとう、ありがとさん。生きとし生けるものが、幸せでありますように」
「指方立相」 20070218 ⇒【目次】
伝統的な浄土真宗の教義に「指方立相」というものがある。
これは『真宗辞典』(法蔵館 1935)によれば、
「方角を指し定めて色相を立てると云ふ意で、阿弥陀仏の浄土は…(中略)…西方にありと定めて、その浄土の種々の荘厳の相状を弁じ立てること」
とされている。これをめぐって、古来様々な問題が提起されており、その代表として次の三題がある(『真宗大辞典』永田文昌堂 1936)。
各々に対する詳細な議論は省略するとして、結論を述べると「指方立相」の意味は、次のように考えられている(『真宗概要』法蔵館 1953 p.181)。
1.この娑婆世界がこのまま寂光浄土であり、極楽浄土は方便にすぎない。
2.極楽浄土はなぜ西方にあると限定するのか。
3.西方にあるなら極楽浄土には境界があり、有限なのか。
「弥陀の仏身仏土については差別の一面からは指方立相の分量を示すけれども、これを平等の一面から見れば真報身は法界に周く真報土は広大無際である。…(中略)…しかしながら彼土得証を教える浄土門では、凡夫が絶対界の仏土を理解し願求し易くするために、差別、分量、有限等の概念によって指方立相の方法を用いたもうのである」つまり一般的な常識とは異なり、浄土とは本来無限であり、有限なこの娑婆世界など、すっぽり包み込んで、さらに果てしなく広がっている。人の世界は、そんな浄土の大海に浮かぶ、孤島のようなものらしい。
ところで「指方立相」には、こうした真宗教義上の議論ばかりでなく、広く宗教思想を考える上でも、重要な視点が示されている。
ただ人はふだんそう思わず、この現世のみが実在していると考えて、自我的世界に埋没している。そこを突破し限りなく広がる無我的世界に目覚める手段として、仮に西の方角を定め突き進もうとするのだろう。この意味で西方浄土とは、苦界を脱出する突破口と言うことができる。
それは信仰の対象に関する問題で、人間には自然に信仰心が備わっており、世界中で様々な宗教が行われてきた。各々には必ず信仰の対象があり、なぜそれを信ずるかが問われている。人は対象がなければ信仰心を育むことができず、その対象が絶対的真理とどう関係するかは、各々の教義上たいへん重要な要素になる。
その点で「指方立相」は、人間と真理との関係が、はじめから明確に規定されており、信仰の対象について考察する際、格好の材料になるだろう。
「念仏を愛好する」 20070205 ⇒【目次】
これまで様々な思想や宗教に接し、あれこれ実際に行ってみて、やはり自分には念仏が一番向いている、と思うようになった。
いまではことさら意識しなくとも、折にふれ心で念仏したり、口で称えたりしている。そうしたごくあたりまえな念仏が、また実にありがたい。ただ念仏しているだけで、心が落ちつき満足して、これ以上なにか求める気持ちが起こらなくなる。念仏はなにも求めず、ただ称えるのがよい。
念仏を称えるのは、そのいわれに納得するものがあり、先達に尊敬できる人がたくさんいて、ただ好ましいからに他ならない。
極楽往生するためや、地獄へ堕ちないため、または功徳や利益を得るため等々、念仏にそれ以外のことを求めようとせず、ただ好きで称えるようにしたい。
たまたま極楽へ往けたら、心から感謝して念仏し、地獄へ堕ちてしまったら、苦しみを忍んで一心に念仏する。そしてふだんは良き教えに出会えたことを喜んで、他の何よりも念仏を愛好する(ここでいう極楽・地獄はあくまで比喩であり、そうした精神状態にあることを意味する)。
古の著名な念仏者のように、身命を捧げ一心に念仏したいとまでは思わない。なにか賭けたり、誓ったり、捧げたり、求めたりせず、ただもの好きで、がんばらずに念仏する。そんな気楽な念仏愛好者として、生活して行きたい。
「自分にこだわらない生き方」 20070110 ⇒【目次】
これまでは主として己事究明を、人生の目的に掲げてきた。
それは禅宗などでやかましく言う教義であり、自分とは何者か厳しく問いただし、心身のすがたをありのままに捉える営みといえよう。そうした姿勢で生きるのは実にけっこうなことだから、今後も死ぬまで多少なりとも続けて行きたい。しかしこの頃は、どうしたものか以前のように、己事究明を標語にして机へ置いたり、友人へも勧めてみたりする気がなくなってきた。
ともあれ毎日、なにかにつけて「ありがとう」と言うようになってから、気持がひとつのところにわだかまらず、次々と転換していく。お先まっ暗な心境でいても「ありがとう、ありがとさん」と言っているうちに、なんとか明るくなって行ける。それでくよくよ私事にこだわる気が失せ、わざとらしく己事究明などと考えなくなったのかもしれない。
自分ひとりに関することでは、もう特別なにかをしたいとは思わない。色々とめんどうはあっても、今ここに生きているだけで、根本的に満足している。しばしばつらい出来事に遭っても、その逆境を感謝するくらいの気持になれることもある。
最近はもう、日々感謝することだけが生きがいとなっており、これさえ続けられるなら、わたくしごとなど適当にしていれば良い。