雨読





           魂のこと 《1993》




   《目次》

   「この世の努力」  「二種深信」  「御恩報謝」  「必要なもの」  「理想と苦悩

   「日々の仕事」  「憎い者






  「憎い者」 19931119   ⇒TOP


 最も忌み嫌い憎悪する人間まで救われないかぎり、自分が救われることもない。
 なぜならある人間を嫌悪する時、自分の心はその者の虜となり、同じ水準まで堕落する。従ってその人間が救われないなら、同じように心の汚れた自分も救われるはずがないのだ。
 ほんとうにいま最も嫌悪する相手が救われるように心から祈りを捧げ、ともに道を歩めるようになりたい。彼も自分の姿を映す、鏡のひとつに違いないのだから。

 しかしどんな人間でも、我がくじけ心もつぶれて、泣き悲しんでいるような時は、いつでもいとしく、さらに美しくさえあるものだけれども。




  「日々の仕事」 19931025   ⇒TOP


 いま自分が日々行っている仕事―公務はもちろん私的な活動も含めて―は、決して個人のためにしているのではない。
 職場での勤務以外にも、古文書の解読や地域史の調査、中国古代思想や浄土真宗思想の研究、はては雑多な読書や思索・瞑想・祈りに至るまで、自分のためにしていると思ってはならない。回り回って、それが自分のためになることがあったとしても、まず動機として個人の利益を求めるものであってはならない。
 それはほんとうに微かな力しかないとしても、この世に生を受け大いなるはたらきに救っていただいている御恩返しとして、縁ある人々へ奉仕しているのだということを忘れてはならない。分をわきまえずに広言させてもらえるなら、自分のことなど少しも意識せず、ただ人のために働いていたい。




  「理想と苦悩」 19931017   ⇒TOP


 高い理想があるから悩むのであり、大きな願いがあるから苦しむのだ。これがなければ、苦痛はあっても苦悩はない。
 ただその理想や願いが、己の欲望によるものではないように。その苦悩がたんなる執着ではないように。
 我に捉われた理想や願いは、しょせん迷いにすぎない。我を離れ、他を思いやってこそ、真実の行為となるのだ。




  「必要なもの」 19931011   ⇒TOP


 これがなくては生きて行けない、と思うものがあったとする。しかしそれは自分にとり、最も危険なものと言っていい。水や空気など生理的に必要な物質を除いて、そうしたものは最大の執着する対象であり、えてして正しい精神の向上を妨げる、つまづきの石となりやすい。
 その対象が単なる物質であれ、愛する人間であれ、優れた思想であれ、貴い宗教であれ、これがなくては生きて行けないと思うとき、心は本来の状態から離れ、その対象の奴隷となる。精神的発達のある時期においては、確かにそうしたものが必要になることもある。しかしいつまでも、それに捉われているべきではない。
 次のことは決して忘れてはならない。人間は本来無一物であり、ひとりで生まれひとりで死ぬ。これは全ての者が免れえない事実であり、何に執着していようが、それと生死を共にすることはできない。最後まで自分と連れ添うのは、自分の心身のみであり、健全な心身以外に拠りどころなどありえないのだ。




  「御恩報謝」 19930914   ⇒TOP


 「では今救われたとして、これから御恩返しのことをしなさい」(『懺悔の生活』18頁)

 今までも信心の最終的な在り方は、御恩報謝という形で現れると、理論的には理解していた。しかし現実の苦しみばかり多い生活の中では、どうしても御恩を感じそのお返しをするという生き方はしにくかった。よほど「我」の悪さを知りつくして、これを消し去る修行でもしなければ、御恩報謝はできないと思い込んでいた。けれどもそれは、根本的に間違っており、どんな苦しい状況下にいても意識さえ変革すれば、そこからいきなり御恩返しできるのだ。
 確かに浄土真宗の教えを借りるなら、阿弥陀仏の誓願で衆生はもともと救われている。少なくとも救いを感じ取る能力だけは、平等に全ての者へ与えられている。従って、現在の境遇はどうであれ、直ちにそれを感謝し御恩を返すべきなのだ。
 この論理について、よく考察する必要がある。




  「二種深信」 19930824   ⇒TOP


 浄土真宗において、「機」と「法」の「深信」を説く。
 これは通常、罪深い「我」(機)が永久に救われることはないと深く信じ、そんな自分をたすけてくれるのは「阿弥陀仏」(法)以外にありえないと確信することをいう。
 確かに「我」の罪を懺悔して、そこから離れようとする態度がなければ、決して自己に法が顕れることはない。この意味で「二種深信」の考え方は、根本的に正しいものと考えられる。
 ところでこの思想を、ダイナミックに実践している典型的なケースとして、西田天香の一燈園がある。ここではまず何をおいても、自分の悪さを徹底的に見つめ、懺悔し尽くす。そうして自分というものが、絶え果てたとき顕れる「お光」のはたらきにすべてを委ね、日々感謝して生活している。
 これはほとんど「二種深信」の概念をそのまま現実化し、実生活を行っているものと言っていい。この思想を考察する際、一燈園の実践は欠かせない要素のように思える。
  ―『懺悔の生活』117頁「鹿ガ谷夜話(一)」参照。


  「二種深信 続」 19930825

 浄土真宗において最も徹底した在り方は、御恩報謝の心持で生活することだと言われる。ただむやみに信じることでも、必死に救いを求めることでもない。
 しかしわが身を振り返ってみると、この御恩報謝とはほんとうに難解な考え方だった。忍界・忍土・堪忍土と意訳される娑婆世界において、常に苦しみを耐え忍ぶ存在なのに、どうして御恩を感じ感謝などできるだろうという思いが離れないのだ。けれどもよくよく反省すれば、そんな見方はただ我執に捉われているから起る想念に過ぎないと、近頃ようやく理解できてきた。
 例えば一燈園における人々の生活を見るとき、徹底して自分が悪いと懺悔し、利己的な態度を断ち切り、許されて「お光」と共に生きるようになると、何にでも「ありがたい」と感謝する気持が、ごく自然に現れてくるようだ。結局、感謝できないというのは、まだ「我」に捉われている証拠に過ぎないようだ。
 すべて自分(機)が悪いと思い知り、光のようなもの(法)と共に許されて生きることに、二種深信の真髄があるのではないだろうか。




  「この世の努力」 19930804   ⇒TOP


 仏教とは本来、この世にいる間の努力により、あの世のことまで解決する宗教のように思う。それは、生老病死が免れないこの世で、身心を修め一切の苦から脱却し、最終的な解脱を求める教えなのだから。
 必要なのはこの世での努力であり、あの世についての関心ではない。
 従ってオカルト的な要素は、真の仏教に全く介入する要素はない。






【総目次】