魂のこと 《2002》
《目次》
「修行」 「精進」 「菩薩の心」 「浄土に墜ちず」 「人との軋轢」
「在家のための教え」 「教行証文類」 「長老のことば」 「喜ぶ力」
「白糸篇」
「白糸篇」 20021024 ⇒TOP
きょう『白糸篇』の原稿が完成した。1999年の10月に書きはじめ、まるまる3年の歳月を要した。
最初この書に出会ったのは、平成元年(1989)まで遡り、ほぼ14年間も付き合っていたことになる。その間、実にいろいろな出来事があり、とてもいちいち書き記すことができない。ただ一つ言えることは、京都で学問の道に挫折し、鬱屈する心を懐いて故郷へ帰り、あれこれもがいて、ようやく田舎で埋もれる覚悟がついた、ということだろうか。
これで拙い著作物を3冊出し、己の力量も知れてしまった。それによりいわゆる表現欲(自己顕示欲)が薄れ、この先もう本など作りたくなくなってきた。なにかツキモノが落ちたような、ほっとした気持ちになっている。
「喜ぶ力」 20020921 ⇒TOP
いま生きていて
喜ぶという力があるなら
なにはなくともただすなおに
喜んでいればいい悩み、苦しみ、怒り、悲しむ
それは表に出なくとも
暗いきもちをうち破り
喜ぶこころをおこすこと
確かにほむべき
善い行いなのだから
「長老のことば」 20020919 ⇒TOP
テーラワーダ仏教(南伝上座仏教)を日本で布教するアルボムッレ・スマナサーラ長老のことば。 『逆境をはね返す ブッダの知恵』(アルマット)より。
心を発展させるためには、逆境がとても役に立つのですね。心の成長のためには、いわゆる〈不幸〉な環境の方がいいのです(p.40)。
一切の苦しみの原因になる、この「自分のことしか知り得ない」という状態を、仏教用語では「自我」 「我」と言います。それはすべての生命がかかっている重い病気です(p.73)。
善行為から生まれる喜びをもって生きることです。私たちは、何があっても、心の喜びを忘れてはいけないのです(p.119)。
憂い、悲しみ、悩み、落ち込みなどの暗さを消すことも善行為なのです。憂いや悲しみを消して喜びに入れ替えること、そのこと自体が善行為になります(p.120)。
「教行証文類」 20020902 ⇒TOP
『教行証文類』(教行信証)を読みたい。
もうすでに一通りも二通りも、字面だけなら追ってみた。しかし、どれだけ書いてある文字を、ていねいに読んでみても、なかなかその真意が理解できない。とりわけあの膨大な引用部分で、なぜその経文を引用する必要があったのか、まったく分からない。
やはりテキストを自分の手で書き写し、典拠や用語等を一つ一つ調べて行かなければ、作者と同じ土俵で思索できない。テキストとはあくまで表に現れた氷山の一角に過ぎず、その背景に大きな知識の体系が隠れている。これをきちんと理解していなければ、正しく内容を解釈することなど不可能なのだ。幸いあるご縁により、浄土真宗の学匠・善意の『白糸篇』を翻印する仕事が入り、仏書を精読する方法論が身に付いてきた。まだ実力に不足はあるとしても、精力的に研究活動ができる残りの時間を顧み、そろそろこの辺で親鸞聖人の主著を、読み込んで行きたいと思う。
「在家のための教え」 20020708 ⇒TOP
最近は大蔵経を読み進めながら、浄土真宗がほんとうに仏教と言えるかどうかという、古くて新しい問題について考えている。
すくなくとも南伝大蔵経が伝えている宗教形態のみを、本来の正しい仏教であると見るなら、真宗などまさしく異安心以外の何ものでもない。肉食妻帯し、伝統的な教義を無視する、破戒・棄教の救われがたい思想だろう。しかしこれが、在家の者を真の仏教へと導く方便と見るなら、これほど分かりやすく、かつ洗練された教えも他にない。ただひたすら阿弥陀仏(永遠なる仏)を、信じるだけで救われるとするのだから。
崇高で難解な教義や、厳格で修めがたい戒律などを、とても受け入れられない在家の者にとり、仏への帰依だけしか求められない真宗は、もっとも親しめる教えに違いない。
そして「朱利槃特」の故事でも明白なように、ただひとつの教えでも、まごころ込めて真剣に行うなら、確かに救いは得られるのだ。
「人との軋轢」 20020507 ⇒TOP
日頃たびたび遭遇する対人関係の軋轢は、ほとんど自分のわがままを通そうとする態度に起因する。相手を自分に都合のいい道具として扱おうとするから、反発され攻撃を受ける。そんな人間は相手にとって、実に嫌な存在であり、敵視されて当然だろう。
厳しく自らの行いを反省しなければならない。また対人関係の悩みはほとんど、他人から認めてもらいたいという感情に起因している。よく理解され大切に扱われたいと強く願うせいで、思い通りにならない現状に対し、不満を懐いて悩み苦しむ。
これらは結局、自分をより快適に保っていたいという、自己保存本能に基づく原始的な行為と言っていい。どれだけもっともらしい理屈をつけても、しょせんは生物の根本的な欲求から一歩も出るものではない。そうした無明とも言える立場から抜け出すためには、自分本位な心の動きを断ち切って、他の生命を愛しみ尊重する、慈悲の精神を育んで行くしかない。
しかし他人の思惑など、本来自分となんの関係もない。ただ毎日をあるべき姿で正しく生活してさえいれば、他がどうであろうと知ったことではない。
対人関係の軋轢は、すべてわがままな心理のせいだと気付いた時点で、無理にでも相手を思いやり、自分への執着を絶つことができれば、たちどころにそれまでの苦悩は霧散してしまう。
「浄土に墜ちず」 20020503 ⇒TOP
真宗では往相と還相という、二種の回向を説く。
このうち極楽浄土へ行こうとする往相なら、誰でもその具体的な意味は分かるだろう。ところが浄土から娑婆へ戻る還相とは、いったいどんな形で実現されるかとなると、もうひとつはっきりしない。
一般には、念仏往生の教えが、自分本位なものとならないように、自利(往相)・利他(還相)円満な視点を備えるためと考えられている。しかしそんな教義上の問題はさておき、個人的な宗教上の営みに即して言うなら、極楽浄土でさえも究極的な目的地、または安住の場所としないために、還相が説かれているのではないかと思う。
もしほんとうに念仏して極楽のような場所へたどり着いたとしても、そこに執着してしまうなら、いわゆる「浄土に墜ちる」こととなる。仏教が最終的に求めるのは、あらゆる執着から離れることであり、浄土といえども例外ではないのだ。
浄土系の仏教が内包する、こうした危険な陥穽へ落ちないためにも、還相という教えがあるのではないだろうか。
「菩薩の心」 20020215 ⇒TOP
きょうは菩薩の心意気を示す、善吉王の故事を読んだ。
『菩薩本縁経』巻中「善吉王品第四」で、魔王が布施行を修める者は地獄へ堕ち、布施を受けるなら天上へ生まれる、と嘘をついた。これに答えて、王は言う。願ふらくは我今より、独り施主と為りて、常に地獄へ堕ち、諸の衆生をして、悉く受者と為して、天上へ生じせしめん。一身に苦を受け、多く楽を受けしむるは、豈に菩薩の、本誓願に非ざらんや。ここで宣言する「一身受苦、令多受楽」とは、まさしく菩薩が修する慈悲行の真骨頂に他ならない。大乗仏教の精神が、余すところなく発揮されている。
(願我従今、独為施主、常堕地獄、令諸衆生、悉為受者、生於天上。一身受苦、令多受楽、豈非菩薩、本誓願耶)
またしっかりと心に刻み、日々留意して、行いを慎みたいものだ。
「精進」 20020118 ⇒TOP
いま『大正新脩大蔵経』本縁部のうち、『六度集経』という経典を読み進めている。
これは仏の前世譚を、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜に分類し、編集した体裁になっている。
もちろんこれは物語(フィクション)であり、史実とほとんど関係ない。しかし経文を熟読していると、古人が精進というものをどれほど重んじていたか、ひしひしと伝わってくる。
文字通り体を張り、命を掛けて、道を求めていたのだ。思えば自分に最も欠けているのが、この精進だった。
将来怠惰で、少々きつく体を使うと、すぐまいってしまう。理想ばかり高く、実力がまったく伴っていない。
古人の気骨をよく見習い、厳しく反省すべきであろう。
「修行」 20020105 ⇒TOP
宗教的な修行といえば、なにか果てしなく厳しい、超人的な行為のような印象がある。
それは世俗を超えた崇高な行であり、選ばれた求道者のみ実践できるもののようだ。
しかしもしそれが自分など、とてもできそうにない困難な行なら、いかに尊く見えても、そんなことに心を奪われる必要はない。しょせんそれは自分に関係のない、他人事に過ぎないのだ。もともと修行とは、生きる苦しみから脱する方法を求めて行う営みであり、それが自分にひどい苦しみを与えるなら、はじめからやらない方が良い。それより、心の中にある憂いを確実に癒してくれる方法が見つかり、日々平穏に暮らせて、魂が自然に成長できたとしたなら、それで十分なのではないか。
根本的に生きる苦悩が解消され、障害なく魂が育つなら、他に特別な苦行など、なにも必要でない。