魂のこと 《2003》
【目次】
「大蔵経を読む」 20030915 ⇒【目次】
大蔵経を読むことが日課となってから、もうかれこれ5年の歳月が経過した。
しかしまだ3巻目も読了できず、ほんとうに遅々として進まない。ただもともとなにか学問上の成果を求めて取り組んでいる仕事でもなく、あまり進行状況を気にすることもない。
それでもなんとか根気が続く内に、経部だけでも読み切りたいと願っている。当初はただ読み飛ばすだけなら、10年もあれば十分だと考えていた。けれどもやはりいろいろ欲が出て、細かくメモなど取るようになると、ひどく時間がかかり、この分ではいつになったら完了するか知れたものでない。
ここであらためて確認しよう。
それで近頃、焦りやいら立ちに似た感情も、心の底でうごめくようになった。
大蔵経の全巻を、いま完読できたとしても、得られるものなどなにもないのだ。そんなことをしたとしても、現代の仏教学に少しでも貢献するわけでなく、己事の究明に資して修行が進むわけでもない。
ただ若い頃から、なぜか大蔵経に惹かれ、種々のご縁から、毎日読めるようになった。このことだけで満足すべきであり、同時に綴っている「読経記」についても、なにかに使おうなどと考えず、日々写経でもするような心構えで、淡々と記していきたい。
一切の功徳を期待せず、ただ心静かに読んで行きたい。
「念仏往生」 20030712 ⇒【目次】
いまとりあえず「浄土」とはなにかと聞かれたら 、「無」と答えよう。
また「阿弥陀仏」とはなにかと聞かれたら 、「法」(ダルマ)と答えたい。
そしてさらに、 「往生」とはなにかと聞かれたら、 「法」のはたらきで自分の中にわだかまる「我」が消え去り、 「無我」になることだと答える。
こうして見ると、念仏往生の道とは、従来の仏教となんら変わらず、ただ教える方法が異なるだけだと分かるだろう。
「福力」 20030501 ⇒【目次】
きょう『仏説福力太子因縁経』(大正蔵3 本縁部上)を読んだ。
ここでは色相(容姿)・精進・工功(工夫)・智慧の四力で、最も利益があるのはどれか、比丘たちが議論している。決着が着かず、釈尊に教えを請うたところ、四力の中では智慧が第一であるとされた。しかしそれでも福力には遠く及ばないとし、遠い過去世で、眼力王の第五太子だった福力の故事を説かれた。色力・精進・工巧・智慧太子の四兄と福力太子は、色力・精進・工巧・智慧・福力の中で、何を修めたら最も利益が多いか議論し、それぞれお忍びで各自が信じる行を試すことにした。そこで福力太子が貧乏人の家へ行くと、自ずから財宝が充満した。またある国で罪人が断肢に処され苦しんでいるのを見て、自らの手足を切り彼の四肢を繋げた。その後で誓願を立てると、四肢も元に戻った。その国では、老いた王が世継に恵まれず、灌頂すべき太子を決めていなかった。皆一致して福力太子が王位に就くよう望んだので、太子はこれを承諾した。
こうした出来事を聞いた四兄は、福力太子の業績が最も優れていたと認め、彼のもとへ行き福力を褒め称えた。さらに父王も年老いて讓位することを希望したので、福力太子は二国を兼ねて治めることになった。
この福力太子とは、釈尊の前身だったという。「福」というものはこのように、最大の利益をもたらす力があるらしい。これさえあれば富や権力や名声などは思うままであり、悟りや救いもこれを欠く者には得られない。
そんな「福」の力とは、言い換えるなら「徳」の力に他ならないだろう。
不幸が訪れるのも、何をしても運が悪いのも、なかなか成功しないのも、結局みな福力=徳力が無いせいに違いない。これさえあれば一切の苦は自ずと除かれ、思いのままに幸せな生涯を送ることができる。
そうした福力を得るためには、昔から言い古されているように、日々人知れず陰徳を積んで行くしかないと思う。
「無宿善」 20030214 ⇒【目次】
自分はほんとうに信心の薄い、無宿善の人間だ。もう二十年以上あれこれ仏教を学んでも、今に至るまで古の妙好人のような、しっかりとした安心が得られない。一つの教えに満足できず、あれもいい、これもすばらしいと、迷うばかりだ。
もともと宗教的な営みを、学問にたよって求めようとすること自体、程度の低い軟弱者と笑われてもしかたない。例えば道元禅師など、古の修行者くらい精神力の強い者なら、根性玉ひとつ磨いて行くだけで、確かに悟りは得られると思う。
ただそればかりでなく、法然上人など古の学匠のように、一心に学問することで揺るぎない安心を得た人たちもいる。けれども生来惰弱な自分には、種々の修行はおろか、骨身を削り真剣に書物を読み続けることさえできない。いつもついつい卑俗な欲望に負け、怠惰に流れてしまう。
恥ずべし。傷むべし。
しかしこれまでいろいろ手を出し、すべてダメだったのだから、他の方法で道を求めるわけには行かない。これからも自らの弱さ愚かさを歎きながら、でもあきらめずに書物を杖として、少しずつ歩みを進めるしかないのだろう。