雨読








           魂のこと 《1996》




   《目次》


   「瞑想」  「二種深信 続々」  「感謝の気持」  「生きている実感」  「ことばと我」 

   「不知」  「感謝すること」  「真宗の極意」  「老荘と真宗」  「恵まれていること」 

   「超己のはたらき」  「お任せする心」  「道の求め方」  「日常の大事」  「腹立ち」 

   「仏教の本質?」  「幸福」  「集団の力」  「つらいこと」  「自我の様相」 

   「自利と利他」  「不浄行」  「死にたい」  「光の筋道」  「自分の本性」 

   「宗教的経験」  「自分が」 








  「自分が」 19961125   ⇒TOP


 「自分ばかり」「自分ひとり」「自分さえ」等々、「自分」という言葉で頭が一杯なときは、わざわざ苦しみの種をまき散らしているに等しい。家庭でのいざこざ、仕事上のトラブル、人付合いの齟齬などに心を悩ませているときは、こうした「我」中心の思考に、捉われていることが多い。
 「わたし」がしている行いはすべて、「わたし」ひとりで出来るものではない。まずは人とのかかわり合いの中で、さらには意識しているかどうかによらず、想像を絶する大きなはたらきに促されて行っている。どんなつまらないことでも、他との連なりから隔絶し、「わたし」だけで出来るものではない。
 このようにあらゆる行いを、「わたし」ひとりがしているわけではないと実感するとき、たいていの悩みや苦しみは、消し飛んでしまうものだ。
 失意のときも、得意のときも、自分ひとりでいるのではない。「わたし」を促し、支えてくれるものが、いつも必ずある。




  「宗教的経験」 19961027   ⇒TOP


 たまたまちょっと宗教的な経験をし、あたかも悟ったような気持になった後、しばらくすると今度は必ずつらい出来事に遭うこととなる。急に対人関係のひどい軋轢が起きたり、思いがけない事故に出くわしたり、変な事件に巻き込まれたり、とにかくひどく打ちのめされる。
 ほんとうにつらい体験があった後で、それを救う喜ばしい経験も起こるように、なにかちょっと悟ったと思った後で、つらい体験がまたよく起こる。

 宗教的経験はこうして少しづつ向上しながら、出る杭を打たれるように平均化される。過度に絶望しないように、そして決して慢心しないように。
 とりわけなにか悟ったようにかん違いしたとき、それを挫いてくれる体験のなんとありがたいことか。大いなるはたらきの恵みに、心から感謝の念を奉げなければならない。




  「自分の本性」 19961007   ⇒TOP


 なにかひどくつらいことでも起きて、性根を試されたりしない限り、ほんとうに自分の本性というものは分らない。すこし物事がうまく運ぶと、すぐ心おだやかで人間もできてきたかのように錯覚する。口の上や頭の中だけでは、まだまだ至らないと反省しながら、どこかで自分を甘やかし、満足感にひたっている。
 「わたし」という存在は、本質的に現状の自己を肯定し、ともすれば「悪しき我」を育ててしまうもののようだ。独力でその潜在的な自己満足まで放棄し、あさましいほんとうの自分の姿を見据えることなど不可能に近い。
 「わたし」ごときが薄弱な意志の力で、修行しよう魂を向上させようなどと、あれこれ試みること自体が、過ちのはじまりなのかも知れない。




  「光の筋道」 19960907   ⇒TOP


 あふれんばかりの陽光のもとでは、小さな灯火など目に入らず、澄みきった清水に光を当てても、どこを通っているかよく分らない。灯をはっきり見るには、闇の中でなければならず、光の筋道を確かに知るには、濁った泥水を通さなければならない。
 あたかもこのように、大いなるはたらきを実感するには、先の見えない苦しみの中でなければならず、真実の道理を体得するには、汚れきった心を通さなければならないのかも知れない。
 もしこの世が極楽だったとしたら、またこの心に煩悩などなかったとしたら、どうして真理のはたらきに気づくことができるだろう。少しでもほんとうのことが分ったとしたら、それはこのあさましい心が、このつらい世の中で苦しんだ結果に他ならない。

 「ダンマが業熟体に顕わになる」(玉城康四郎)
 人の悟りや救いはすべて、この世や心の闇とともに。




  「死にたい」 19960905   ⇒TOP


 このところどうしたわけか、「死にたい」という言葉が口癖になっている。
 わずかばかりのものとはいえ、宗教的な体験をし、信心らしきものも得ているはずなのに、なぜいまさらこんな言葉が出て来るのか不思議でならなかった。しかし最近ようやく思いついたところによると、それにはふたつの理由があるようだ。

 ひとつは「我」(エゴ)の問題で、大いなるはたらきに生かされていながら、ろくに感謝もせず、そんな忘恩の言葉を吐く者こそ、自分のことしか考えない「悪しき我」に他ならない。なにを甘えてか、ほんとうに死ねもしないくせに、ちょっとつごうの悪い出来事があると、「死にたい」などと言ってナルシズムに浸っている。そんな「我」など、望み通り死ねばいいのだ。
 こうした「我」のはたらきの全体像をしっかり捉え、そんな言葉に従わないよう、いつも注意する必要がある。

 もうひとつは「業」の問題で、たとえ今どれほど確かな悟りを得ていたとしても、それで過去に自分の犯したあらゆる罪が許され、ただちに極楽にでもいるような生活ができるわけではない。「わたし」という存在は「業熟体」であって、過去の自分に関する全営為の結果、ここにこうして存在している。良くも悪くも報いはあるもので、それは現在の精神状態と関係なくやってくる。むしろこのときこそ、落ちついた心でしっかりとした行いをし、将来へ悪しき因縁を残さないよう努力すべきであろう。

 このような、いまだに深く心に根づいている「悪しき我」と、かつての行いに対する「悪しき業」がはたらいて、日常の生活で様々な軋轢が生じ、恥ずかしくも「死にたい」などと言うのではないかと、いま反省している。




  「不浄行」 19960902   ⇒TOP


 食べたり、飲んだり、眠ったり、そしてたまには性交したり、そんな肉欲に従った行為をあえてする前には、必ず祈りを捧げていたい。これらは人が生存する上で、間違いなく必須の営みだろう。これなしでは、生命が断絶してしまうのだ。
 しかしそのように大事な行為でありながら、こうしたことはなぜかあまり大っぴらにはできない。どこか汚れた感じがつきまとい、人目を気にし、マナーを守って行わなければならない。
 実は控えるべきなのだけれど、やむなくしていることのような。動物的な欲望に屈服し、人間本来の姿ではないような。

 例えば、何かを食べるということは、必然的に他の生命を奪う行為に他ならない。この点は、いつも肝に銘じておくべきだろう。菜食主義であっても植物は殺害しており、木食に徹したとしても草木を阻害しているのだから。人間を含め動物はすべて、積極的に他の生物を殺して食べなければ、生きていけないのだ。
 これら不浄の行いを日々くり返しながら、すべて許され生かされている。この事実に気づき、たえず感謝を捧げていたい。




   「自利と利他」 19960818   ⇒TOP


 浄土真宗には、往相回向と還相回向という思想がある。また通仏教の思想として、自利と利他、求道心と慈悲心という考え方もある。これら対になる思想を、単純に自分の利益ばかりでなく、他人の利益もはかるべきだというような、道徳的・倫理的な理解の仕方で済ませておいてはならない。
 ここにはエゴイズムに対する、実に深い洞察が含まれているのだ。

 ある求道者がいて、常日頃から自分はいつか悟りたい、すみやかに救われたいなどと、考えてばかりいたとする。彼はどれほど精進したとしても、こうした意識で修行している限り、結局自分のため努力しているにすぎない。とりあえず自分が悟りや救いにあずかりたいという、利己意識から一歩も外へ出ていないのだから。これでは世俗のエゴイストと、意識の働き方の点で、なにも異ならなくなる。
 むしろ自分はいつも正しい道を歩んでいると錯覚している分、たちが悪いかもしれない。もし彼が、こうした意識の問題を解決しない内に、なにか宗教的な体験をし、自分はもう解脱したと勘違いしたら、エゴイスティックな誤った思想を、世の真理として他の人たちへ、押し付けるようになるかもしれない。

 こうした陥穽に陥らないよう、根本的にエゴイズムを超克し真の意味で他人と共生して行く観点から、還相・利他・慈悲などの思想が懇切に説かれているのだと思う。
 常に自分の幸福は、他人と共に求めて行きたい。




  「自我の様相」 19960818   ⇒TOP


 どんなに思い詰めていたとしても、心に浮かぶあらゆることは、結局かりそめのものでしかない。まずそれらはすぐに移り変ってしまうし、さらには善悪・苦楽・喜怒哀楽などの、思考や感情の場である「自我」そのものが、どうやら仮構の存在らしいのだ。
 「自我」は漠然としたイメージなども含めた広い意味での「言葉」で形成され、日々の経験(実体験・言語体験など)により少しづつ変化する。そうして年を取ると共に相貌も異なり、一貫した見識などなかなか持てるものではない。
 また「自我」の究極の目的は、自分を守ることに他ならない。そのためあらゆる事柄を、自分の都合の良いように曲解してしまう傾向が強い。有利・不利に関係なく、ありのままの真実をそのまま認識するようなことは、不可能に等しい。

 自分が思うあらゆることは、常にそんな移ろいやすい「自我」の色眼鏡を通している。
 いまたまたま得た立場や考え方に固執し、「自分は絶対に正しい」などと思い込むほど、おこがましいことはない。




  「つらいこと」 19960731   ⇒TOP


 いっぱい、いっぱい、つらい思いをした後は、ちゃんとご褒美がもらえるみたい。
 ちょっとだけでも、かたちがなくとも。
 でも、つらい思いはしたくない、やっぱりすきじゃない。
 楽したいから、いつも逃げまわっている。
 けれどもつらいことは、すぐに向こうからやってきて、サッとつかまえられてしまう。
 そうしてまた、たくさん、たくさん、つらい思いをして、なんとか心は育って行くのだと思う。




  「集団の力」 19960729   ⇒TOP


 ある宗教を信じること、ある思想を奉じること等は、あくまで個人の営みにすぎない。徒党を組み、集団の力で個人の立場を干渉したり、各々の態度の変更を強制したりするのは、根本的に誤っている。
 ある宗教や思想を正しく後世へ伝えるため、集団で維持や保存にとり組む行為は、確かにそれなりの意義はあるだろう。しかしそれを集団の力で運営して行こうとするとき、必ずある種の変質や逸脱を伴うことも忘れてはならない。




  「幸福」 19960729   ⇒TOP


 先日、ある初対面の人にこう聞かれた。
「あなたはいま幸福か?」
「あなたの人生の目的は何か?」
と。
 その人はどうやら、どこかの新興宗教に関係しているらしく、好んで経典の言葉などを口にしていた。その時は、あまりに突然だったので、話の意図もよく見えず、いま手がけている仕事を中心に、当り障りのない範囲で答えておいた。
 しかし考えてみるとおもしろい質問なので、ここできちんと検討しておきたい。

■いま自分は幸福か?
 第一義においては、会うべき教えに出会え、それなりの宗教的な経験もあって、生死に対し根本的な疑問はなくなってきた。それこそこの問題は、結局のところ死んでみなければ何も分らないことだろう。しかし今、もう後しばらくで命が尽きると宣告されたとしても、純粋に肉体的な苦痛を除けば、それほど不安な要素がない。幸福といえば、これほど幸福なこともない。
 ただし第二義において、現実の生活を営むとき、まだまだ様々な軋轢に悩まされ、心が安定しないことも多い。禅などで言うところの「定力」が培われておらず、まったく修行が足りない関係で、なかなか精神の平安が得られない。つまりは第一義の宗教的境地を、どれだけ第二義の実生活で発揮可能かという点に、幸福の度合いはかかっているのだろう。

■人生の目的は何か?
 ひと言で済ますなら、それは「己事究明とその表現」以外のなにものでもない。自分の生死に対して、心から納得できる考え方を持ち、いかなる時でも確固とした態度がとれるよう探求し続ける。そうしてその成果を、分りやすく正確な言葉で表現して行く。この営みが、自分の生きる目的であると断言できる。それを現在は東洋思想、とりわけ老荘思想と浄土真宗の研究と実践において、行おうとしている。
 これらのことは、すべて二十歳の頃に遭遇した、ある根源的な宗教体験によって方向付けられ、以後数度の追体験を経て、すでに確固としたものになっている。もう根本では、人生の歩み方で迷いの入る余地はない。ただなぜそうなのかを、自分なりに誰へ対してもきちんと説明できるよう、ずっと模索しているのだ。




  「仏教の本質?」 19960717   ⇒TOP


 仏教にはひどく多様な教えがあって、どれをどう理解したら良いかしばしば迷うことがある。仏教をひと通り、ごく浅く学ぶだけでも、人の一生などすぐ終ってしまう。
 ただ最近、ほんとうにわずかばかりの経験を通して、思い知ったところによれば、仏教とはどんな境遇にあったとしても、自分ひとりがそうなのではないと、説く教えのようだ。

 ひどく打ちひしがれ、思い悩んでいる時は、お前ひとりがつらいわけではないと諭す。得意満面でわがもの顔にふるまっている時は、お前ひとりの力でそうなったわけではないと叱る。どん底の時も絶頂の時も、自分ひとりではないと教え、より大きなはたらきに気づき、ありのままに生きて行くよう導く。
 少なくともこうした促しが、どの仏教の思想でも、根っこの部分には必ずあると思えてならない。




  「腹立ち」 19960704   ⇒TOP


 恥ずかしくも今日また一日、腹をたてて過ごした。
 日々の些細な出来事に、よくもまあいつもいつも我を忘れて怒れるものだ。仕事上でのちょっとした軋轢、家庭での小さなもめごとで、分っていながらつい頭に来てしまう。
 憤りを感じる理由は確かにある。とりわけ職場でのそれは、私情でなく義憤に近いものだと思っている。けれどもカッとなって何かやらかすとき、必ずしばらくしていたたまれなくなる。後悔心に苛まれ、わが身の未熟さにほとほとあいそが尽きてしまう。
 宗教的な思想を勉強し、それなりに実践しているつもりでも、まだまだ現実の自分は、あさましくたよりない。




  「日常の大事」 19960701   ⇒TOP


 大きなはたらきに生かされながら、まさに今ここで行っていることこそが、かけがえのないものなのだ。これ以上の大事など、ありえない。
 今ふつうに食べて寝て、働き遊び生きている。朝起きて仕事に出かけ、夜家に帰って食べて寝る。たまに休みの日があれば、ちょっと遊びに行ったりする。この極々当たりまえで、時には退屈も感じる日常生活。しかしその一コマ一コマこそが、現実の人生であり、これ以外どこにも生きていられる場などない。
 またそのどの場面でも、意識しているかどうかに関わらず、この世をつらぬく大いなるはたらきに連なり、そう生きるよう促されているのだ。むだなものなど一切なく、あらゆるものに完璧な価値がある。
 少なくともこざかしい分別心が入る以前の、第一義においては。

 日々の営みの中で、あれこれ先々のことを心配したり、昔のことをむし返して後悔したり、善いこと悪いことを細々と区別して捉われてみたり、分別心は暇なくはたらいている。ところがそんな煩わしい配慮は、本来まったく必要ではない。あれこれつまらないことを考えても、目立った効果があった例などない。
 むしろそうしたむだな心の動きを捨て去って、大きなものにおまかせするような態度でいた方が、うまく生きて行けるようなのだ。




  「道の求め方」 19960628   ⇒TOP


 人生は「苦」であると深く実感することから、しばしば真の求道が始まる。「苦」が解決できる道を探して、それこそ必死に方々へさまよい歩く。しかしふつう人は、生きることがほんとうに苦しく感じられるとき、それに永く耐え切れるものではない。ほとんど必ず心が病んで、神経症的な精神状態に陥ってしまうものだ。
 自分も例外ではなく、かつて対人恐怖症に悩まされ、その克服方法を探し求める内に、自ずと宗教的な感覚が身についてきた。

 しかしいま思い返してみると、誰もがこのような道筋で宗教に目覚めるわけではない。必ずしも「苦」でなくても、「楽」でも「快」でも、または「遊」でも、日常を超えた深い感覚へ至ることが可能だろう。苦しい修行以外に選択肢がないわけでなく、突きつめて行うならふだんの仕事や趣味からでも、自己を超えた世界に気づくことができる。
 「人生は苦である」という思想は、絶対のものではなく、各々の気質や性格に基づき、確信できる方向で人生をまっとうすれば良いのだ。

 ただ自分は深刻に物事を捉える性格だったので、人生を決定付けた重要な思想の多くは、ひどく苦しい時期に模索した結果として得ている。悩み苦しみあれこれ考えあぐねる内に、ハッとひらめくものがあって方向も定まった。けれどもそれは、いつも一時的な体験に過ぎず、また新たな問題が起って、次の苦しい時期に陥る。しかしそのつどハッとひらめく体験があってようやく解決する、というくり返しでなんとか生きて来たようだ。
 このような堅苦しい気質の人間は、ま正面から物事にぶち当り、苦しんで解決するしか、納得して人生を歩む道がないのだろう(あまりお薦めできるものではない)。




  「お任せする心」 19960606   ⇒TOP


 日常のささいな軋轢に、ついつい心を奪われて、すぐに「大いなるはたらき」を信じて生きる、感覚を失ってしまう。そうしてことさら自分に関するあらゆることを、てっとり早く「我の力」で、むりやり解決しようとあせりはじめる。
 しかし現実の生活は、なかなか自分の思い通りになどなるはずもなく、しょっちゅう傷つき、ひどく落ち込んだりしている。

 こうしたことは、すべてある種の不信から起っているようだ。ちっぽけな自分など超越した、大きなはたらきを信じ切り、なにもかもすべてお任せする覚悟を忘れてしまうから、つまらないことをあれこれ悩むようになるのだ。
 たとえば西田天香さんの言われる、「お光り」のはたらきを思い出すと良い。
 自分を超えたはたらきにすべてお任せすることで、衣食住から死に至るまで、あらゆる事柄が解決する。これを強く信じてさえいれば、生死の大事すらなんでもなくなる。それほど徹底した信仰心がまだないから、日々の雑事くらいで神経をすり減らすようになってしまうのだろう。
 よくよくこの点を、反省しなければならない。




  「超己のはたらき」 19960520   ⇒TOP


 現代人の多くは、宗教など信じられないと言う。神にしろ仏にしろ、明確な形を持たず、人間の認知を超越した何かを、信じることなどできないと言う。そうして信仰心を持つ者に対し、どうして実在するかも分らないものを、信じられるのかと問いただす。

 神や仏が実在するかどうか。
 そんなことはどうでも良い。神や仏がどこかの世界に実在していて、何らかの姿形を持っているかどうかなど、穿鑿しても意味がない。それは死後の世界と同様に、少なくとも現代人が金科玉条の如く信仰する、科学的な方法で捉え切れる事柄ではないのだ。
 ただときどき自分は、この自己を超越した促されるようなはたらきを感じることがあるので、極力それに従い、あまり自意識に捉われた行為を控えるよう努めているにすぎない。そのはたらきの源が、別の世界から来るのであっても、ある姿を持つ者が発しているのであっても、または自己の深層から湧き起るのであっても、どうでも良い。いつもその促しに従うことで、利己的な行動が抑制されてきたように思えるから、そうしているのだ。

 信仰者・不信者の境界とは、とにかくこのような自分を超えた何かが、そのまま受け入れられるかどうかの、違いにあるだけなのかも知れない。




  「恵まれていること」 19960519   ⇒TOP


 日常の様々な雑事からちょっと離れて、じっくりわが身をふり返ってみるとき、これでも実に多くの点で恵まれているのが分る。五体で特に具合の悪い部分はなく、食べるもの着るもの寝るところに困ってもいない。やるべき仕事はすでに与えられ、ささやかなものとはいえ楽しみらしきものもないわけではない。日々の些細な心配事は絶えないとしても、飢餓・貧困・災害・戦争などとは、縁遠い土地に暮している。
 人間の歴史を顧みるなら、恵まれていると言えば、これほど恵まれている時代と地域も少ないのだ。

 確かに上を見れば切りがないとはいえ、下を見てもまた切りがなく、とりあえず自分がいま普通に生活でき、悲惨な境遇に置かれていないというだけでも、もろ手を挙げて喜ばなければならない。この実に簡単なことを自分はいつも忘れてしまい、虫のいい手前勝手な望みが満たされていないと言っては、しょっちゅう腹を立てているのだ。
 ほんのわずかなことでも良い、いま自分が何に恵まれているかよく反省すべきだろう。そして傲慢な思いや行いを日々懺悔し、改めて感謝する気持を大切にしたい。




  「老荘と真宗」 19960515   ⇒TOP


 老荘思想と浄土真宗には、相通じるところがある。
 『老子』第二五章に、次のような一節がある。
「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂兮たり寥兮たり、独り立って改わらず、周行して而も殆(つか)れず、以て天下の母為る可し。吾其の名を知らず。之に字して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う(有物混成、先天地生。寂兮寥兮、独立不改、周行而不殆、可以為天下母。吾不知其名。字之曰道。強為之名曰大)」
 これを見ると老荘思想において、「天下の母」に擬えるべきあるはたらき、名も知らないとにかく大きなものを、仮に「道」と呼んでいることが分る。ところで「阿弥陀仏」も、その本質においては無量光・無量寿という、時空を超えたある大きなはたらきを、仮に名づけてこう呼んでいるにすぎない。

 また『老子』第二五章に、
「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然(じねん)に法る(人法地、地法天、天法道、道法自然)」
とあり、「道」の拠りどころは「自然」であると言明している。親鸞聖人の『末灯鈔』第五章にも「弥陀仏は自然のやうを知らせん料なり」とあって、「道」も「阿弥陀仏」も「自然」のはたらきを表す、名称のひとつであることが分る。

 さらに『老子』第二十章に「絶学無憂」とあり、第四八章では、
「学を為すは日に益す。道を為すは日に損ず。之を損じて又損じ、以て為す無きに至る。為す無くして而も爲さざるは無し(為学日益、為道日損、損之又損、以至於無為、無為而無不爲)」
とある。これが法然上人の「一枚起請文」に見える、
「念仏を信ぜむ人は、たとひ一代の法をよくへ学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらにおなじくして、知者のふるまひをせずして、たゞ一向に念仏すべし」
という一文と、よく通じている。

 ※『老子』の訓読は、故・小川環樹博士による。




  「真宗の極意」 19960508   ⇒TOP


 浄土真宗でもいろいろ難しい教義があって、どれがほんとうに重要か分らなくなることがある。しかし近頃、ようやく自分にも身に染みてきたところによれば、それはどうやら「感謝」という一語に集約されるようだ。「阿弥陀仏」のような「大いなるはたらき」を信じ、その恩恵を感謝する意味で御名を唱える。ほんとうにたったこれだけのことで、生死の大事はすべて済んでしまうのだ。
 真宗の極意は、「感謝」にある。

 しかしこう言うと、必ず異論をとなえる者がいるだろう。現実の悩み苦しみばかりが多い世の中で、どうして感謝などできるかと。
 けれどもそれには逆に、こう問い返したい。ともあれいま生きているのに、なぜ不満を感じるのか。こうしてまわりから生かしてもらっているのに、どうしてそれだけで感謝できないのかと。
 後はその本人が、どれだけ深く自身を反省できるかにかかっているのだ。




  「感謝すること」 19960508   ⇒TOP


 感謝するのは良いことだ。感謝しながら生きて行けるのは、すばらしいことだ。
 感謝する生き方には、悩み苦しみがまとわりつかない。いかり、うらみ、むさぼる気持もすぐに流れ去って行く。むしろ悩み苦しむべき事柄に巡り会ったことさえ、感謝の対象としてしまうのだ。
 この世にいま自分が生きて、なにか感じていることができる恩恵を思うとき、ほんとうにありがたいという気持が、自然にわいてくる。そうして身のまわりのあらゆるものに、ついつい感謝してしまう。このような気持を忘れずにいれば、まずまちがいのない生き方ができるのではないかと、確信しつつある。

 思えばこれまで自分は、「御恩報謝の念仏」という教えが、もうひとつよく納得できずにいた。たしかに究極はこうあるべきだと理解しながら、現実の苦悩に満ちた生活の前では、どうしても「御恩報謝」することができなかった。
 なにか感謝すべき確固とした事実がなければ、この世の苦しみから救われたとほんとうに実感できる何かがなければ、とても感謝などできないと思い込んでいた。しかしこの考え方は、根本的に誤っていたようだ。

 感謝するということが、それだけで重要なのだ。日々感謝して生きているということが、ほんとうに大事なのだ。
 感謝しているとき、心は限りなく開放され大きく広がり、ことばでは表現できないある超越したはたらきと、直接つながっているように実感できる。こうした感覚を失わずいることが大切なのであり、特別に何かを与えられなければ感謝できないなどと考えるのは、ひどくあさましい。
 ここのところをしっかり心に刻み、そのほんとうの意味に目覚め、いつも感謝する気持を忘れずにいたい。




  「不知」 19960505   ⇒TOP


 今年の春先、ちょっとしたきっかけがあって、老子(『老子註』)をきちんと再読し始め、ようやく今日ひと通り読み終えた。改めて言うのもおかしいくらい、ものすごい本だった。
 二十歳の頃、先の見えないまっくらな思いに捉われあえいでいた時、偶然この本と出会い、「無為自然」の思想に触れて感激し、文字通り宇宙と一体になるような宗教的体験を得た。「わたし」における、根源的な経験=純粋経験だった。それまでのものの見方や感じ方が一変し、病んでいた精神が健康をとり戻しはじめた。
 しかしそれから干支もひと回りして、いつしかこの本の持つ真の力を忘れ去っていた。

 ところで平成の世に入り故郷へ帰って、我家の宗旨である浄土真宗と、心から向いあう機会を持った。そうして現在では、この教えに没頭した生活をしている。真宗、とりわけ親鸞聖人の思想にも、ものすごい力がある。ほんとうに阿弥陀仏を信じ念仏するだけで、すべてが済んでしまい、少なくとも精神生活上、他になにも必要でなくなるのだ。
 ただそれでも老荘思想は「わたし」にとり、決して忘れてはならないものだった。

 ちなみにこうした意味を込め、今後ペンネームなど使う機会があれば、「不知」(しらず)という名を使ってみたい。『老子』の最終章に「知者不博、博者不知」とあって、「わたし」の本名である「博」とは「不知」なものであると、明記されているのだ。
 これに知識や知恵がまるでない者という意味と、人知に縛られない者という意味を含ませ、常に自戒して行きたい。
 そしてまた「不知」とは、法然上人の「一枚起請文」に見える、
「念仏を信ぜむ人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらにおなじくして、知者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」(『原典校註 真宗聖典』)
とも、直接結びついているのだ。




  「ことばと我」 19960505   ⇒TOP


 心が「ことば」でいっぱいなとき、意識できる視野(ヴィジョン)も限定され、ひどく狭い世界しか実感できなくなる。五感すらその感受性をすべて機能させることができず、繊細な感覚は麻痺してしまう。
 また、「ことば」と「我」とは、密接に関わっている。「我」の根っ子のようなものが、「ことば」を与えられると、それを取りこみ肉づけることで、現実の「我」を形づくる。

 心が「ことば」でいっぱいなとき、「我」もまたさかんに活動して、ともすれば身勝手な思いに捉われやすくなる。
 「ことば」は道具にすぎない。「我」もまたひとつの器官にすぎない。それを使う主人公はあくまで自分自身であり、一部の器官に全体を支配されてはならない。




  「生きている実感」 19960424   ⇒TOP


 あれこれひどく思い悩んで、頭が悲鳴をあげているときも、この心臓はドキンドキンと規則正しく鼓動し、きちんと生命を維持してくれている。どんな悩みや苦しみも、生きていればこその感覚であり、死んでしまえば全くもってそれどころではない。
 死後に意識のあることはなく、どんな激情も感じることさえできなくなる。

 永劫の時間を思うとき、いまここに自分という意識を持つものが、存在しているという事実は、まさしく奇跡と言って良い。日々種々の悩み苦しみばかりにさいなまれ、喜び楽しむことなどわずかだとしても、ただ生きて実際にこの世界を感じ取れるというだけで、どれほどの恩恵か思い知る必要がある。
 悩み苦しみも命があればこそ、汚れた魂を懐きながら、自分は許されていま生きている。このことをいつも感謝していたい。

 そして、このように自分を死ぬまで生かし続けてくれる大きなはたらきを、仏教では仮に名づけて、「阿弥陀仏」というのだと考えている。




  「感謝の気持」 19960421   ⇒TOP


 自分自身をゆっくりふり返って、たったひとつでも意にかなうこと、満足できる部分が見つかったら、それをしっかり心に刻む。そうして他の苦しいこと、嫌な出来事は忘れるように努めて、日々感謝の気持を懐きながら生活して行く。
 小手先の気分転換に過ぎないようでも、この方法はなかなか心に良く効く。

 いま、自分という意識を持つ者が、ここに存在している、ということは奇跡だ。そしてこのように利己的な、汚れた魂を持ちながら、生きることを許されている、ということは有り難い(希有の)事実だ。感謝して当然なのだ。
 いつもは日常の喜怒哀楽に流されて、ついうっかりとこの事実を忘れてしまっている。しかしたまに心がすっきり目覚めたとき、それは疑いのない真実だったと、つくづく実感できるだろう。自分の心をしっかり見据えて、日々懺悔し、そして感謝しつつ生きること。この当たりまえな在り方を忘れてはならない。




  「二種深信 続々」 19960418   ⇒TOP


 浄土真宗に「二種深信」と呼ばれる教義があり、通常これは次のように解釈されている。

 [二種深信]機の深信と法の深信をいふ。他力信心の相の両面を表はしたるもので、即ち自身は罪悪の凡夫で、機の深信とは、永劫に生死の迷の世界を離脱することが出来ないと深く信ずることであり、法の深信とは、阿弥陀仏の本願は、かゝる罪悪深重のものを、救済して仏となすべき力あるものと深く信ずることである。
 ―『真宗辞典』(法藏館1935)

 実にすばらしい宗教思想で、心に銘記しておきたい。
 しかし、だだこれを文字通り、自分の心は汚れているにもかかわらず、そのまま救ってくれる仏がいるなどと、安易に理解するだけでは何にもならない。確かに毎日経文の如く、くり返しこの教えを思い出し味わって行けば、そのうち身に染みて、救われたような気持になることもあるかもしれない。けれども、こうした自分で自分を洗脳して行くような在り方では、真の宗教経験にならないと思う。そこには教えを信じることの、主体的理由が乏しいのだ。
 そうではなく、ほんとうに自分という存在の罪深さ、救われ難さを徹底的に思い知り、死ぬような苦悩を体験する。絶望の淵に立たされ、もうどうしようもなくなり、自分で何かはからおうとする意識(自我)がはじけ飛んでしまう。するとその無心になったところが、いつの間にか静かな光で満たされており、心の中に仏のようなはたらきを実感して、すっかり救済された自分を発見する。
 例えばこのような、回心とでも言うべき宗教体験があってはじめて、「二種深信」の真意が体得できるのではないだろうか。

 実は法然上人にも、次のような体験があったと伝えられている。

 わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろへの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。しかるあひだ、なげきへ経蔵にいり、かなしみへ聖経にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の観経の疏にいはく、一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故といふ文を見えてのち、われらがごとくの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふべし。
 ―「聖光上人伝説の詞」其三(『昭和新修 法然上人全集』平楽寺書店1955 p.460)

 智慧第一と謳われた法然上人ですら、自分に合う法が見つからず、永い間なげきなげき経蔵に入り、かなしみかなしみ聖経にむかって、絶望の末、ある時ようやく善導の教えを発見し、回心して偏に念仏へ帰したという。
 このことを思えば、ある宗教思想をほんとうに理解しようとするなら、いかに辛苦を尽した求道の実体験が必要か分ろうというものだ。多くの辛苦を厭わないで一途に求め続け、この自分の心の中で、仏のようなはたらきを実体験すること。それが真宗を理解する際にも、不可欠の要素であると思う。




  「瞑想」 19960215   ⇒TOP


 瞑想は無意識の様相を知る有効な手だてであり、これによって全人格の有様がはじめて窺い知れるようになる。狭小な自我意識のみに捉われていると、視野が日常に限定され、部分的な自己しか知りえなくなる。そうして生活上の些細な波風に翻弄され、自分自身を見失ってしまうことにもなりかねない。
 しばらく遠ざかっていたけれど、また瞑想もはじめてみようと思う。

 浄土真宗に関わる者として、念仏だけですべてが済んでしまうことも、それなりに理解しているつもりだ。ただ精神がひ弱で信心の足りない自分では、念仏だけで心の煩悶を鎮めることができない。自力に落ちているのは承知の上で、また少し瞑想をとり入れ、自心を深く窺ってみたい。







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