雨読




  氷見の妙好人「おのよ」の伝記とその往生観






   はじめに
   一.『妙好人伝』にみえる越中・能登・加賀の事例
   二.氷見の妙好人「おのよ」の伝記
   三.「おのよ」の伝記にみえる近世の往生観と信心の特徴
   おわりに


  はじめに


 近世末頃、氷見郡の一刎村に「おのよ」という名の年若い娘が、独り身で暮らしていた。家が貧しく、わずかばかりの田を人に貸し、なんとか生計を立てていた。ただたいへん正直な人柄で浄土真宗の信仰に篤く、足繁く御寺へ通ってはいろいろな世話をしていた。この「おのよ」は、天保元年(一八三〇)の四月下旬頃、不幸にして重い病に罹り、三〇余りの若さで儚くこの世を去ってしまった。そこで親類等が集まり、村の習慣通りに葬式を挙げ墓場へ葬り、その目印として青竹を五本ほど立てておいた。これが日を経ても一向に枯れようとはしないで、いつともなく芽を出し、逆さまに枝すら繁ってきた。この「逆竹」は、あたりで大変な評判となり、たくさんの見物人が訪れ、回りに仮垣まで作られる。
 その話が往生にまつわる奇瑞として遠く本山まで知れわたり、ついにはその頃から刊行が計画されつつあった『妙好人伝』に収録されることとなる。そうして「おのよ」はいわゆる「妙好人」として、広く人々の認知するところとなり、今日に至っている。
 ただしこの「妙好人」という概念には、注意を要する。いま「妙好人」といえば、およそ仏教に関心を持つ者なら、称揚すべき浄土真宗の篤信者として誰もがその人物像を知っていると言って良いだろう。しかしこのような概念が生まれ、周知の事柄となったのは、決してそう古くからではない。
 真宗史の研究者として著名な柏原祐泉氏は、その点を次のように言っている。

  一般に、妙好人という言葉は、とくに浄土真宗の信仰者で、なかでも営々として日々の生活にいそしみつつ、深い念仏信仰に生きる、いわば草の根の信者たちを指す意味で用いられている。しかし、このような真宗篤信者を呼ぶ意味になったのは決して古いことではなく、少なくとも、後述の『妙好人伝』が編纂され出版されてから以後のことであるとおもわれる。それまでは、ひろく浄土教全般の念仏者を讃える言葉として用いられていたのであった。(文献五.三頁)

 「おのよ」は、例えば「昭和の妙好人・浅原才市」のように生前から「妙好人」として注目され、めでたく往生した後で伝記が作られ、歴史上に名を残すこととなったわけではない。貧困の中で病死した無名の女が、ある奇瑞から評判になり当時の学僧の目に止って、そうした人達を選んで編集した伝記に収められた。この『妙好人伝』と名付けられた伝記集がたいへん流行し、そこに描かれたような人達を「妙好人」と呼んで称揚するようになった。つまり「妙好人」とはどんな人物を指して言うのか考えようとするなら、まず最初に『妙好人伝』編集の意図を押さえる必要があり、それは「おのよ」についても例外ではない。
 ただし、「妙好人」は以前の真宗教学から軽視されて、あまり関心を持たれていなかった。しかし近年ようやく、「妙好人」そのものや『妙好人伝』にまつわる研究が、真宗史ばかりでなく他方面からも盛んに行われるようになってきた(文献四.「七 妙好人の研究」林智康)。このような『妙好人伝』の研究状況について、朝枝善照氏による詳細な紹介がある。
 これを見ると、以前「妙好人」の研究で歴史的に考察される場合、近世末期に成立した『妙好人伝』が基礎的な史料とされ、その六篇十二巻は一括して扱われてきた。ところが佐々木倫生氏は、編集者の仰誓・僧純・象王を区別して考え、それぞれ成立・上梓の時代的変化を指摘して編纂意図の相違を推定し、全篇を一括して考察することは困難であると結論づけた。また、土井順一氏は初篇『妙好人伝』について、写本と版本の研究の必要性を指摘した。さらに仰誓撰『妙好人伝』の変質という間題も提起し、初篇刊行の過程で僧純による加筆があったと考えている。龍口明生氏は「妙好人」という語句の内容を追究して、誓鎧の序文に見られる「妙好人」観と、仰誓の伝記類収集の基準となる条件とが相違しており、初篇出版の時それが理解されていなかった。僧純や象王もこの序文の「妙好人」観に従ったので、以後仰誓の考えた妙好人像とは全く異質なものへと変遷してしまったと考察している。
 『妙好人伝』はこうして篇毎に詳しく研究され、写本と版本の問題や、開板の事情、仰誓と後続する編者の「妙好人」観の問題などへと発展した。それは言わば、近世の「妙好人」考察の際、『妙好人伝』という史料の成立過程を問題とするものであった。結果としてその研究は、版本として流布した『妙好人伝』を扱うもの、写本と版本を比較したもの、さらに仰誓ら編者の妙好人像を検討するものなどへ、自から展開して行った(文献三.「序論『妙好人伝』研究史」一三〜二七頁)。
 今日に至るまで『妙好人伝』は、概ね以上のように研究されてきており、いまここで「おのよ」の伝記を検討する際にも、それらの成果を参照する必要があることは言うまでもない。
 ところで、別稿で詳しく紹介した『応響雑記』は、「おのよ」とまったく同時代に記録されており、筆者自ら見聞した事実として、その奇瑞にまつわる記事が掲載されている。従って、今日たいへん進んでいる『妙好人伝』研究の成果を踏まえながら、この貴重な史料も全文紹介し、氷見の妙好人「おのよ」の伝記を詳しく考察してみたい。


  一.『妙好人伝』にみえる越中・能登・加賀の事例

 さきに触れた通り、今日よく知られている「妙好人」という人物像が成立したのは、近世末頃刊行された『妙好人伝』によるところが大きい。そこでまずこの文献の内容を、今日の書誌学的な成果を押さえつつ詳しく解説し、併せて近隣の地域である越中・能登・加賀の事例も紹介することにしたい。

(一)『妙好人伝』について

 『妙好人伝』は天保十三年(一八四二)以後、仰誓等が編集し逐次刊行されている。ただしその経緯はかなり複雑であり、ここでは柏原氏の調査研究に基づいてその概要を示すことにする。
 現在一般に知られている『妙好人伝』は、全六篇からなり、それぞれ上・下の二巻に分けられ、合計十二冊に及ぶ。その内、初篇は仰誓・第二篇から第五篇までは僧純・続篇は象王が編集している。
 まず初篇上下二巻から、出版状況を説明する。編者は仰誓で、板行に至るまでにはかなりの紆余曲折がある。序文・跋文を見ると、最初に仰誓が見聞した真宗念仏者の伝記を書き集めて「妙好人伝」と名付けた。これを嗣子の履善が仰誓没後二十五回忌に校正して板行を企て、文政元年に板行を計画し克譲も協力した。しかし翌年に履善が没し、結局実現できなかった。それを再び天保十一年から僧純が着手して、同十三年ようやく板行するに至った。ところでその跋文に「この妙好人伝を三四本あつめて校正し」とあり、僧純により板行される以前、すでに異本があったことが分かる。
 つまり、仰誓が編集した「妙好人伝」は元々数篇あったか、もしくはかなり大部な編著であった。その内、二巻本写本そのものか近似したものが、仰誓二十五回忌を期して序を付し板行が企てられた。しかしこれは失敗し、天保十三年に僧純がようやく板行する。そのときは二巻本写本に収められていた伝記はずっと減らされ、他のものから五話を加えて初篇が板行されたものと考えられる。
 次に第二篇以下の構成を概観したい。第二篇上下二巻は僧純の編纂で、巻頭に天保十三年の南渓の序があり、巻末に同十四年の僧朗の跋を付している。したがって本篇は天保十四年の板行と考えられる。第三篇上下二巻も僧純の編で、巻初に弘化四年の泰厳および克譲の序文があり同年の板行であることが分かる。第四篇上下二巻も僧純の編で、巻初に安政三年の自序を付し巻末に同年の刊記があるので、板行年次は明白といえる。第五篇上下二巻も僧純の編で、同じく巻初に安政五年の自序と巻末に同年の刊記があり、刊行年次を明示している。最後の続篇(第六篇)上下二巻は象王の編で、巻初に嘉永三年の信暁の序文と巻末に同年の「石南学人瑛」の跋文を掲げ、嘉永五年の刊記があるので、板行年次がわかる。本篇の題簽には「続妙好人伝」とあり、仰誓の初篇に続くものとして編纂されたらしい。本来僧純の編述とは無関係のものが、各篇一括して板行されるようになって、第六篇的な形をとるようになった。それは、本篇の刊行年次が、僧純編纂の第三篇と第四篇との間に位置していることをみても、はっきりしている(文献五.七二〜八一頁)。
 ここで参考のため、『妙好人伝』全篇の体裁を紹介したい。ただしこれについても、柏原氏がきわめて緻密に記述された報告がある。それ以上加えるべき事柄がないので、あえてそのまま引用する。

 全篇十二冊が焦茶色地に唐草模様と西本願寺依用の八藤紋を配した紙表紙和綴で装丁され、第一篇上巻表紙裏に「実成院仰誓師撰 妙好人伝 初篇上下 中山園蔵」、下巻末刊記に「美濃国垂井 中山園蔵版」「御本山書物調達所 平安書賈 醒井五条下ル藤井卯兵衛」とあり、第二篇上巻表紙裏には「中山園述 妙好人伝 二篇 京都 永田文昌堂 藤井文醒堂合梓」、下巻裏表紙裏に「妙好人伝 迫々跡篇近刻出来」「発行書林 大坂心斎橋筋 北久太郎町河内屋喜兵衛(外四店略)」とあり、第三篇上巻表紙裏には「妙好人伝 三篇上 下 中山園蔵」、下巻末刊記に「美濃国垂井 専精寺蔵版」とあり、第四篇上巻表紙裏には「中山園述 妙好人伝四篇上下 文醒堂蔵」、下巻末刊記に「安政第三丙辰年冬十一月 西濃垂井駅 専精寺蔵版」とあり、第五篇上巻表紙裏には「妙好人伝 五篇上下 中山園蔵」、下巻未刊記に「安政第五戊午冬 十月濃州中山園 専精寺蔵版」とあり、続篇(第六篇)上巻表紙裏には「安政六己未年五月補刻 続妙好人伝 上下」、下巻末刊記に「嘉永五壬子 十月 安政六己未年五月補刻 皇都書林文醒堂蔵」とあって、各篇の板元は一致していないが、とくに続篇(第六篇)はその記載から、僧純編の最後の第五篇が安政五年に板行され終わったその翌年に、補刻したことが明らかである。すなわち安政六年に続篇を補刻することで全篇を一括化したのであり、その企画は京都文醒堂によって行われたことがわかる。なお右の架蔵本には、全篇の巻末に別刷の京都丁子屋九郎右衛門の広告刷が添付されているので、文醒堂が一括化したものの全板木を丁子屋が買い取り、後刷したものであると推察される(文献五.八一〜八三頁)。

(二)越中・能登・加賀の事例一覧

 『妙好人伝』全六篇十二巻の中で登場する信者の総数・在世年次・所属国別・職業などについて、統計的な数値を挙げておく。

  総数−一五七名(うち各篇目次に載せるもの初篇二十一名、第二篇三十七名、第三篇十九名、第四篇二十七名、第五篇二十一名、続篇二十四名、計一四九名、目次に載せずに本文中に併説するもの計八名)。
 在世年次(または没年)−天正−元禄年間(一五七三−一七○四)三名、宝永‐享和年間(一七○四−一八○四)四十二名、文化−安政年間(一八○四−一八六○)八十名、不詳三十二名。計一五七名。
 所属国別−石見国十一名、美濃国十名、越後国・摂津国各九名、越前国八名、和泉国・但馬国・陸奥国各七名、三河国・出雲国・播磨国各六名、越中国・安芸国・山城国・豊後国各五名、能登国・加賀国・武蔵国・伊賀国・出羽国・薩摩国・肥後国各三名、長門国・信濃国・伊勢国・尾張国・伯耆国・大和国・筑前国・近江国・讃岐国・備後国各二名、周防国・豊前国・伊予国・若狭国・飛騨国・常陸国・河内国・紀伊国・肥前国・遠江国各一名。計一五七名。
 職業別−農民六十四名(うち貧農十五名、富農五名、半農半商一名)、商人二十七名(うち貧商一名、富商四名)、漁師一名、武士十名(うち大身三名、武士の妻二名)、幼児十名、医師四名(うちその妻一名)、僧侶四名、坊守およぴ尼六名、乞丐者と賤民三名、「遊女」二名、其他十名(乳母・下女・相僕取・船頭・馬方・博労各一名など)、不詳十六名。計一五七名(文献五.八四頁による。またこれと同様の報告が、文献六.二一八頁にもみえる)。

 この中で次の巻に、越中・能登・加賀の事例がみえる。

 一.『妙好人伝』   巻下 加州・久兵衛娘 加州・与市
 二.『妙好人伝 二編』巻上 越中・九歳児
 三.『妙好人伝 三編』巻上 加州・信女 越中・佐治兵衛 能州・治郎右衛門
 四.『妙好人伝 四編』巻上 越中・幼女
 五.『妙好人伝 四編』巻下 越中・能与
 六.『妙好人伝 五編』巻下 越中・多平 能州・四郎左衛門
 七.『続妙好人伝』  巻下 能州・惣助
  ※ 越中:五例 能登:三例 加賀:三例 合計:十一例

 これを地域に別け、その主な内容を抜書して簡単に紹介すると、以下のようになる。なおここでは、明治二五年(一八九二)四月出版(五月再販)の、大阪・図書出版会社版を定本に用い、頁数を示した。

[越中]
(一)九歳児(二編巻上 六七頁):幼きもののことし九ツになれる、重き病をうけてたのみ少なき、仏の御国へといひさして、念仏と共にねむるがごとく息たえし。
(二)佐治兵衛(三編巻上 一五九頁):富山中野町米屋佐治兵衛祐心、柔遠師の徳をあふぎて、一切経を寄附、(高祖五百五十回御忌)御影堂御修覆時屋根板を募縁。夢のように存じたる極楽浄土がたしかに思へ、六十歳ばかりにて目出度往生。
(三)幼女(四編巻上 二二五頁):塩村(大沢野)大永寺七歳になりける幼女疱瘡を煩ひ、病おもりて往生の覚悟。死ねば極楽へゆきます、阿弥陀様におわれて行きます、阿弥陀様はわたくしがかわゆふて〜てならぬそふな。
(四)能与(四編巻下 二六一頁):−全文翻刻(後出)−
(五)多平(五編巻下 三四三頁):石動郡下中村の多平御法座とあれば参詣、食事にむかひて不足をいわず、多くの子供に御法義をすヽめて御慈悲を喜、「常念仏の多平」と異名。七十歳にして目出度往生、灰葬のとき白骨に文字顕。

[能登]
(六)治郎右衛門(三編巻上 一六三頁):鹿島郡豊田村治郎右衛門仁愛あさからず、若者共も心を止めて聴聞し、妻子や下部の者皆々随喜。病気にて正信偈を勤、仕舞の処にて命終。
(七)四郎左衛門(五編巻下 三五五頁):鹿島郡小竹村四郎左衛門性質柔和にして人と争ふことなく仏法をふかく信じ、畑の大根切すてヽ立腹させんと計るに、これを見て過去の罪を懴悔して仏恩をよろこぶ。
(八)惣助(続巻下 続三七頁):羽喰郡相神村惣助四十二の時風邪の心持にて打臥、夜な〜鬼形の者二人呵責す。同村康順寺住持、浄土三部経くりよみ苦相を遁れ決定往生の旨を深く信じ、無二の信者となる。

[加賀]
(九)久兵衛娘(巻下 五三頁):金沢姥町鍵屋久兵衛娘おなむ七歳の時、正月発句御門主御聴。信心堅固にてつねに法坐へ参詣。口のほとりに瘡いでて痛けれど念仏を薬に用いず、仏恩報謝のためのみ申す。
(一〇)与市(巻下 五五頁):大聖寺領分右村与市、夢に地獄に入大きに驚き毎夜聴聞参詣おこたらず、一念帰命の信心を発得せし。若者とも試、田の中へつき落しけれど怒らず、魚屋庭に粟を盗み取らんとする処ゆるし遣す。
(一一)信女(三編巻上 一三九頁):婦女夫亡して後ひとり念仏をよろこび、蓮の花を近村の寺々へ供養。花の盛頃病を生じ家内眷属の人々をあつめ盃などして念仏の息たえしが、池中の蓮花みな西に向う。


  二.氷見の妙好人「おのよ」の伝記

 ここで氷見の妙好人「おのよ」に関する、伝記を紹介したい。まず、『妙好人伝』第四編巻下より「越中 能与女」の項を全文翻刻し、次に『応響雑記』から天保元年(一八三〇)八月三十日・九月八日付の記事を掲載する。そして終わりに、「妙好人 さかさ竹のお能与さん 150回忌讃仰法要」にも触れることとする。 

(一)『妙好人伝』第四編巻下「越中 能与女」(安政三年[一八五六]専精寺蔵版)

※ 本文に適宜、改行を行い、句読点・中点・括弧等を加えた。また、文中で部分的に振られている濁音符・半濁音符を、全文にわたり補った。
※ 本文の漢字は、原則として常用漢字を含む現在通行の字体を使用した。また文中の変体仮名は、平仮名に改めて表記した。
※ なお翻刻の際、本文に付されているルビは割愛した。

 越中国射水郡・一羽(ママ)村といへる処に、長右衛門と申す者の娘に能与とて廿六歳なり。父の代までは相応の百姓なりしが、身上衰微し其上男子なくして、右のの与一人殊に愚なるものにて、年たけるまで独身にて、わづかに二三反の田を人に当置、いと幽に暮しぬ。
 此女の宿坊は氷見の光明寺なりけるゆへ、常に行て何くれとなく取持せしが、その間に法談を聴聞せしが、いつのまにか宿善時いたり、法義を大切によろこびしが、其後大病にて打臥したのみ少く見えしゆへ、その従弟なるもの枕の下にいたりて法門の心得を示しければ、女のいはく、
「我は年比聴聞せしごとく、阿弥陀如来は無二無三にかやうな愚なるものを、浄土へつれ行てやると仰らるヽ御意を信じて、只念仏するばかりなり」
といへば、彼男はいまだ三業執着の人なるがゆへ、嘲笑ふて言やう、
「何とて左様の大様なることを言ぞや。弥陀をたしかにたのみたる一念の領解もなくて、浄土へ参らんとおもふことの愚かさよ。早々如来をたのみ奉るべし」
と切に勧めしかば、女の答に、
「我等におひて極めて浄土へ参るなり。去年より煩ひてこの春三月、蓮如様の三百五十回御 忌御引上の御法筵の比に本腹(ママ)し、又床につく。夫をも前より知て居るなり。又これより 次第に衰、四月十九日には必命終する。その子細は、この正月の比ある夜の夢に、殊勝なる御僧の来りまして、しか〜の御告に必浄土へつれ帰るぞとのたまひしが、果して御法筵に本腹(ママ)し、亦床につきしうへは、必四月には命終るべし。猶疑しくおもはれなば、我死して葬式のせつ灯籠の竹を灰塚にさしおかるべし。その竹に芽を生るならば、我浄土へ生れしとしるべし。此家并にいさヽかの田地まで売代なし、その半分は御本山・半分は光明寺に納めたまへ。若その竹枯てしるしなくば、我地獄へ堕たりとおもはれよ。しからば此家并に田畑残らず、其方の心のまヽにせらるべし」
といへば、かの男言やう、
「汝もし浄土に生れずば、弥祠堂などに納めてこそあらめ。何ゆへさやうに言ぞや」
と。女答て、
「それも御法談にて聴聞すれば、此世の追善などは未来のためにはいさヽかのたすけなるよし。我浄土に生れなば其御礼にこそ奉るべけれ。されば験なくば心のまヽにせられよといふなり」
と。是において彼男、又言ことなくて帰りぬ。
 果して四月十九日に死せりといふ訃におどろきて、かの従弟なる者来りて葬式とり行ひ、扨遺言のことなれば二本の竹を六段に伐、灰塚にさし置ぬ。さるを童の所業にや、二本はぬき捨つ。残四本の竹、五月の末より逆に芽を生じけるに、驚き先二本をぬきて見るに、さしたる口より白き根生じたり。扨は奇異なりとて、元のごとくさし置しが、其二本は枯たり。残二本の芽は弥延て、一尺斗末より又上さまに立のぼり、青々として栄えたり。
 此奇瑞四方に伝聞て、見物に来る人夥しく、其霊瑞を感じて群集せしゆへ、村長領主へ訴ければ、命をくだして垣を結はしめ、乱に入ことを停めらる。されども懇情のものには、密に見せしめけり。
 此こと宿坊なる光明寺の、親しく事実を正し咄ありしことを、印定勧学の物がたりにて承り侍りぬ。誠に、末代の奇特とやいふべし。尤、射水・砥(ママ)波の両郡は、その比三業の固執の徒多かりしに、此奇瑞を見聞して回心するもの数多し。是全く中興上人の感応なるべしと、印定師の評せられしまヽを筆とりて禄(ママ)す。時は天保元寅年のことなり。

(二)『応響雑記』 文政十三年・天保元年(一八三〇) 八月三十日・九月八日

※ 本文に適宜、改行を行い、句読点・中点・括弧等を加えた。
※ 本文の漢字は、原則として常用漢字を含む現在通行の字体を使用した。
※ 本文の変体仮名は、平仮名に改めて表記した。ただし「江・而」等の真仮名は、そのまま 用いた。

 [文政十三年・天保元年 八月]晦日(抜粋)

 (前略)此頃中の噺に、上庄組一刎村市郎右衛門と申軽き者娘、おのよと申年三十才余の者、当四月下旬頃病死いたし候ニ付葬送も仕、村口の薮の際に墓場有之、此処江白骨を埋め石牌抔も立ず、青竹弐尺斗に切たるを五本、墓のしるしに砂にさし込置候所、枯朽もせすいつとなく芽を出し、生附たる躰にて不審の事故、村の子供其内壱本抜とり見たれとも敢而根もなく、尤指たる折鎌にて切、其侭さかさまにさし置たる事なれハ、芽抔の出様筈もなく、まして生付べき様もなきに、次第に其芽延ひ此節六七寸まて延ひ、もとより逆さまに枝延ひ申由、誠に奇異の妙事、当所よりも多く人々見に行申候。
 其指たる竹の内三本芽生へ、此節人群集故、ぐるりに仮垣を結廻申候。元来山家の事、殊ニ彼村中右様墓しるしに竹をさす風俗と申事。彼の者一向宗にて至て愚痴者故、存命中寺庵抔江立入万事取持等仕、正直一編の女にて当所の人々多分見知りたる者と申事。
 松村屋仁左衛門殿・七尾屋次右衛門等、見物に行申候ゆへ承り申候。図の躰の事

 [文政十三年・天保元年 九月]八日(抜粋)

 天晴凉冷なり。日命乾宮。
 五ツ半頃浦廻り蔵しらへ相済申候。四ツ過、木哮・太兵衛・笹村屋等同伴にて一刎村逆竹見物に行申候。前に記るせし通り也。(以下略)

(三)「妙好人 さかさ竹のお能与さん 150回忌讃仰法要」(パンフレット)
 氷見市・光明寺 昭和五四年(一九七九)

 このパンフレットは、「おのよ」の百五十回忌として、昭和五四年十月十四日午前十時から、氷見市一刎の木村茂方で営まれた法要の際、配布された。主催は「氷見市一刎 光明寺門徒中」となっている。見開き一枚で大きさは縦三〇p×横二一pあり、三頁にわたって「おのよ」の伝記が紹介されている。章立ては、次の通り。

 ごあいさつ
  (氷見市丸の内 光明寺第二十七世住職 北沢俊嶺)
 あゝ妙好人「お能与さん」
  (文政13年4月19日往生浄土 氷見市一刎の住人 光明寺門徒)
 お能与さんの“さかさ竹”
  (妙好人伝 四編巻下より)
 むすび
 恩徳讃

 文中には、「お能与さんの墓」「村の八幡社」「八幡宮の柱の名号(蓮如上人執筆と伝える)」「さかさ竹の奇瑞を伝える古文書(山田茂氏蔵)」という四点の貴重な写真が掲載されている。中でも写真から、「柱之御名號寄瑞之事 迷竹略縁記 越中国射水郡 一刎村」(原文のまま)と読み取れる古文書は、まだその内容が知られていない。『妙好人伝』研究に資するためにも、早急に公開されることが望まれる。


  三.「おのよ」の伝記にみえる近世の往生観と信心の特徴

 以上のように、まず『妙好人伝』をめぐる研究状況やその内容について詳しく触れ、次いで現在知られている「おのよ」の伝記史料を、全般的に紹介してきた。ここでは最後にこれらの成果を踏まえ、「おのよ」伝の特徴について考察を進めてみたい。

(一)「おのよ」の伝記にみえる近世の往生観

 「おのよ」の伝記に見られる最も特徴的な点は、改めて言うまでもなく「逆竹」の奇瑞であった。貧困の中、若くして病死した「おのよ」が、正しい信心を持っていた証として、遺言の通り墓の目印にさし込んで置いた青竹がいつまでも枯れず、逆さまに茂ってきたという。このような伝記内容は、まさしく近世へ入って真宗においても数多く作られるようになった、往生伝の系譜に繋がる物語であると考えられる。
 本来、真宗では親鸞聖人が説いたように、臨終際の奇跡で往生したかどうか取沙汰するようなことはせず(不来迎)、この世で確固とした信心を得たかどうかで往生が決定するとされていた(現生正定聚)。しかしこれが蓮如上人以後、次第に臨終際で来迎があり極楽往生したかで信心の可否をはかる、来世往生主義に傾いたとされる。さらに近世真宗の教学上では、本来の現生正定聚や不来迎の教説に拡大解釈が行われ、来迎肯定論まで現れて、往生の確証により信仰を保証することさえ考えられるようになった(文献六.一二二頁)。
 「おのよ」伝においてもそうした傾向がはっきり読み取れ、「逆竹」の奇瑞により極楽往生の証を示したことが、正意安心の根拠として扱われていた。しかしこれは、あえて厳密に言えば、浄土真宗本来の教義から外れた解釈の仕方であった。親鸞上人の説くところにそのまま従うなら、信心の内容はあくまで現世における行状からのみ、検証されるべきではなかったのだろうか。いわゆる「妙好人」として称揚するのも、本人の死後に「逆竹」のようなものが現れたからではなく、生前どのように日々を暮らし、またどのように死を迎えたかという、事実から直接把握して行く必要があった。例えば、讃岐の有名な「妙好人」の伝記である、『庄松ありのままの記』の中で、生き生きと描写されている言行のように。
 ただしこのような来世往生主義的な理論が、なんら教義上の必要性や社会的な要請もなく生まれて来たわけではない。来世往生を求めるもっとも決定的な根拠としては、幕藩体制下で真宗門徒の大部分を構成した、被支配者層である農民たちの生活状況がある。明け暮れわずかばかりの土地を苦労して耕作しつつ、また様々な労役にも服さなければならない。重税に生活が成り立たず、多くの借財を負って喘ぎながら日々を過ごしている。こうした困窮生活が、来世往生主義の教説を実感的に受用させる要因となった。来世への往生こそ、近世の抑圧された門徒農民にとり、最も切実な信仰の目標として生活の支点にさえなった。従って往生の確証はそのまま信仰の証しであり、信者の指標ともなったものと考えられる(文献六.一二三頁)。
 今日たまたま恵まれて、暖衣飽食する者たちの想像を絶する苛酷な生活を、当時の農民は余儀なくされていた。そんな民衆が、切実に現世という穢土を遠離し、浄土を欣求したとしても、どうして一方的に非難できよう。その結果、教義上の必要性から、いささか真宗本来の在り方を逸脱した、来迎肯定論や来世往生主義的な思想が、形成された。それは、宗教が本来備えなければならない死生観というものを、忠実に時代の要請を受け模索したため生まれたのであり、そこに当時の民衆の意識が、はっきり現れていると思われる。「おのよ」伝に描かれた往生観も、まさしくそんな時代苦と時代精神を反映して、培われてきたものだった。

(二)「おのよ」の伝記にみえる信心の特徴

 「おのよ」の伝記に見られるもう一つの特徴的な点として、「三業惑乱」に関する問答を、詳述していることが挙げられる。
 「三業惑乱」とは、近世の浄土真宗本願寺派で起こった最大の異安心騒動であり、宝暦十二年(一七六二)第六代能化の功存が『願生帰命弁』を著したことに始まり、文化三年(一八〇六)幕府の裁断が下るまで、四四年間続いた。これは身・口・意の三業をそろえて、阿弥陀仏に救いを請い願うのが正しいとする三業帰命説をめぐって起こった大論争であり、宗派内では収拾がつかず、門徒たちまで巻き込んだ騒動へと発展した。最終的には、この説が異安心とされ、関係者も処罰されて決着がついた。しかし越中では、その後も三業帰命説が根強く残っており、文化十四年(一八一七)本山の使僧が、宗義を改心させる目的で下向するまで、僧俗とも混乱をきわめていた(拙論。文献十.九九〜一〇〇頁)。
 この点について「おのよ」伝には、次のような記述がみられる。
 大病で危篤になり、従弟が枕の下に来て法門の心得を聞いたところ、「阿弥陀如来は無二無三に愚なるものを、浄土へつれ行と信じて、只念仏するばかり」と言えば、彼はまだ三業執着の人で嘲笑し、「弥陀をたしかにたのむ一念の領解もなく、浄土へとおもうことの愚かさよ。早々如来をたのみ奉れ」と切に勧めた。すると「正月の夜、夢に殊勝な御僧来り、必四月には命終るという。疑しくおもえば我葬式の灯籠の竹を灰塚にさし、その竹に芽を生ずるならば我浄土へ生るとせよ。その竹枯てしるしなくば、我地獄へ堕つとおもわれよ」と応えた。ここにおいて彼は、言葉をなくして帰る。果たして死後、その竹は枯れもせず逆さまに芽を生じ、青々として栄えた。
 これは「おのよ」が、従弟の臨終際での勧誘にもかかわらず三業説などに屈しないで、正しい信心を貫いた。その正当性が死後に現れた往生の奇瑞で確証された、と言う説話に他ならない。またそれは「宿坊なる光明寺の親しく事実を正し咄ありしことを、印定勧学の物がたりにて」承ったのであり、確かな事実であると保証している。そうして「射水・砺波の両郡はその頃三業の固執の徒多かりしに、此奇瑞を見聞して回心するもの数多し」と、その教化上の効果が絶大であったことを付言している。
 このように「おのよ」の伝記では、三業帰命説に反対する立場の喧伝という意図が、きわめて濃厚に現れている。それはどうやら、『妙好人伝』第四篇の編者であった、僧純の意志によるものらしい。
 僧純は、三業帰命説の根絶やしに努めていた当時の教団中枢と、同じ理念に立っていた。このことは仰誓の『妙好人伝』と、僧純のそれとの質的な違いを示している。仰誓の場合は教団中枢とは遠く離れた地で、すぐれた信仰生活をしている念仏の実践者を多く紹介することにより、実践から遊離しがちな当時の教団中枢を無言のうちに此判しているといった感じを受ける。しかし僧純の場合は教団から異端視された人物の名を抹消したり、あるいは三業派の邪義に惑わされなかったという一文を挿入しており、惑乱直後の危機的状況の中で、信仰の一元化によって体制の整備を目指す教団中枢のフィルターにかけられた話を多く列挙しているといった印象をうける(児玉識「『妙好人伝』小考」文献四.二六二〜二六三頁)。
 こうした観点を考慮するとき、「おのよ」の伝記で三業帰命説に関係する部分が、はたして本当に「親しく事実を正し咄ありしこと」かどうか、非常に疑わしくなってくる。越中に本山から、宗義改心の使僧が下向したのは、文化十四年(一八一七)のことであり、天保元年(一八三〇)当時、氷見郡でいまだに三業説が残っていたことは十分に考えられる。しかしこの伝記に描かれているような筋の通った教義上の問答が、危篤に近い病床で実際にされたのだろうか。「おのよ」は「殊に愚なるものにて」とあるにもかかわらず。それが光明寺住職−印定勧学−編者の僧純と、伝聞してきた過程の内、どこでどのように説話が変化して行ったか、いま推測することはできない。ただ少なくとも僧純は反三業説を喧伝する立場にあり、またその意図を持っていたことは明白だった。
 ところで先に紹介した通り、「おのよ」と全く同時代に生を享け、当時の氷見町の模様を克明に記録していた町年寄に、第九代田中屋権右衛門[文化元年(一八〇四)〜安政六年(一八五九)]がいる。その日記である『応響雑記』には、この一連の事件が、まさしく実際に見聞した事実として記述されている。これを見ると「逆竹」の挿絵まで入れられており、「おのよ」の一件がその頃、現実に起った出来事として広く知られていたことが分かる。また、『妙好人伝』と比較しても、事件そのものについては細かな描写で若干の相違が見える程度であり、「逆竹」がいわゆる「ヤラセ」だったかどうかは別として、その事実性はきわめて高い。
 しかし『応響雑記』では、『妙好人伝』において眼目とも言うべき、三業帰命に関する問答と、最後の批評の部分が全く欠落している。これを単純に、権右衛門の家は禅宗であり、真宗の信心に何の関心もなかったと考えることもできる。ただしそれは憶測に過ぎず、あたかも新聞記事の如く克明な描写が特徴であるこの日記で、少しの言及もなかったという事実の方が、重要ではないだろうか。
 つまり「おのよ」の事件は当初、その頃しばしばまことしやかに伝聞されていた、奇跡話の一種として捉えられていたに過ぎないのではないかと考えられる。たとえば、『応響雑記』天保十一年(一八四〇)四月十七日には、城山の奥の堤に「優曇華の花」が咲いたという風聞があった、と記されている。筆者自身は全くそれを信用せず、後になってツツジの花束だったと判明した。こうした話は日記の中で、枚挙にいとまがないほど見える。このように、当初は三業帰命説などとかかわりのない、ただの珍事だった「おのよ」の一件が、いつかの時点で従弟との問答まで付加され「その頃三業の固執の徒多かりしに、此奇瑞を見聞して回心するもの数多し」と言うような、安心に関する例話のようなものに、変質していったのではないだろうか。
 「おのよ」の伝記史料は数点しか知られておらず、論拠に乏しいので、現在の時点では前述のような仮説を、実証することができない。しかし少なくとも『妙好人伝』に収録されている伝記は、一種政治的とさえ感じられるような意図に基づいて、編集された部分が多い。そこに描かれている事柄を、そのまま歴史的事実として取り扱うことのできるようなものではない点を、はっきり指摘できたと思う。
 この点について、柏原氏は次のように考察されている。

  『妙好人伝』でも、妙好人が三業惑乱に対し正信を示した挿話三点を捨いうる。−(越中のよ[第四篇下]・陸奥中村屋とく[同]・和泉五郎右衛門[第五篇下]の事例紹介)−これらによって妙好人が正信の表出者であることを示していることは明らかである。そこには教学体系確立の責を負う中央学林・学場などの動揺と、そのための教団の混乱に対し、地方篤信者によって正信の範を示し、動揺に対応しようとする役割があったといえよう(文献六.二二六〜二二七頁)。


  おわりに

 以上のように氷見の妙好人「おのよ」の伝記を紹介し、併せて『妙好人伝』をめぐる様々な資料を検討して、この伝記の意味するところを考察してきた。しかし先にも触れた通り、今日『妙好人伝』の研究はたいへん盛んに行われており、ここで活用できたのはその代表的な、ごく一部分のものに過ぎない。参照しなければならない文献はまだまだたくさんあり、遺漏が多かったに違いない。
 それならなぜ今まだ調査研究が熟していない段階で、『妙好人伝』などに言及したかと言えば、『応響雑記』という同時代の史料にきわめて詳細な「おのよ」に関する記事があったからだった。早急にこの史料を紹介して、これまでとは少し異なる視点から近世の「妙好人」について考察してみたかった。その際、最小限目を通さなければならない文献のみを取り上げ、先学の業績に依拠しつつ氷見の妙好人「おのよ」の伝記について、現在の私見を述べることにした。
 浅学非才で至らない部分がたくさんあることと思う。識者のご指摘をいただければ、これ以上の喜びはない。
 最後に、今回たいへん多くの部分を参考にさせていただいた、柏原氏の著書より、『妙好人伝』について総括された一文を引用して、締めくくりとしたい。

  妙好人は個々の内面において宗教的な充足感に満たされ、その充足感を尺度として外面的世俗生活が営まれたが、その生活はより強く、政治的にも教団的にも体制順応として機能する相乗性をもち、結果的に体制側、教化者側の理想像となったのである。教化者にも被教化者にも、宗教的充足と体制的順応とがつねに二重的に作用し相乗化するのが、近世仏教の庶民化にみられる大きな特質の一つといえるのである(文献六.三二五頁)。




  《参考文献》

一.『妙好人伝』 四編巻下「越中 能与女」 専精寺蔵版 安政三年(一八五六)
二.『妙好人伝』 大阪・図書出版会社 明治二五年(一八九二)
三.『妙好人伝基礎研究』 朝枝善照著 永田文昌堂 [昭和五七年]一九八二
四.『妙好人伝研究』 朝枝善照編 永田文昌堂 昭和六二年(一九八七)
五.『浄土仏教の思想 十三 妙好人 良寛 一茶』 柏原祐泉 大峯顕 講談社 
[平成四  年]一九九二
六.『真宗史仏教史の研究 U 近世篇』 柏原祐泉著 平樂寺書店 [平成八年]
 一九九六
七.「妙好人 さかさ竹のお能与さん 150回忌讃仰法要」(パンフレット)
 氷見市・光明寺 昭和五四年(一九七九)
八.『応響雑記』文政十三年・天保元年(一八三〇) 氷見市立博物館蔵・覆製本
九.『應響雑記 (上・下)』(越中資料集成七・八) 桂書房 昭和六三年
 (一九八八)・平成二年(一九九〇)
十.『特別展 近世の氷見町と庶民のくらし』(氷見市近世史料集成 第十五冊)
 氷見市立博物館・編刊 平成六年(一九九四)


    ― 1998.2.2 脱稿 ―