苦しむということ
T.はじめに
U.「一般的苦」について
V.「宗教的苦」について
W.おわりに
T.はじめに−いま「苦」を問うことは時代遅れか?
いま改めて「苦」について、考えてみたいと思う。
「苦」などと言うとすぐ前時代の陰惨な状況や貧困・病などを連想し、あえて取り上げるのはおかしい気がする。そうしたものの克服をこそ有史以来人類は求めてきたのであり、うち捨てておくのが当たり前のようだ。また現代の進んだ社会においては、特権階級でなくとも多くの人びとが文明によって様々な「苦」を解消してもらっている。生活を脅かされないという基本的なレベルにおいて衣食住はほぼ満たされており、飢えたり雨露をしのぐのに悩んだりする人は少ない。本当にいま身のまわりで、貧困に苦しんでいる人の姿を見ることはまずなく、「生活苦」という言葉は死語になった観がある。ただし当然より豊かな生活を求め現状に満足せず、好んで苦労をしょい込んでいる者は別として。
病気にしてもかつては考えられなかった高度な治療が、誰でも受けられるようになっている。以前なら確実に死に至った病が、薬ひとつであっけなく治ってしまう。ただしときには過剰な医療により新たな苦しみが生じることはあるけれども。
こうしたことの恩恵には計り知れないものがある。物質的な面で人に直接およぼす「苦」は、いまのところ時間の経過に従い確実に薄らいでいるようにみえる。ごくまれに何らかの不幸が訪れたとき以外、いまや誰も心の深いところから、身につまされるような実感をもって「苦」を考えることなど、なくなってきたのではないだろうか。せいぜい日ごろあちこちで見かける対人関係の軋轢くらいの、そよ風の吹く程度の「苦」が、現代で唯一私たちが直面する「苦」なのかもしれない。しかしそのようなものでも当事者にとっては、どうしようもなくつらいものに違いないのだが。
あれこれこんなことをふり返ってみると、現代日本は「苦」を忘れた社会のように思えてくる。
このことを裏付けてか、いま人生観や生きがいも「快」中心に考えられているようだ。何か心地よいこと、もしくは楽しいことばかりがもてはやされる。そしてそれが間断なく続いてゆくなら、最高の在り方だと思われている。個人的な「快」の享受にのみ目が注がれ、他のものに対する配慮が希薄になってきている。同時に「苦」にまつわる事柄は排除され、できるだけ目の触れないところに押しやられている。たとえば代表的な「苦」である病気・老い・死などは、人びとの日常的な意識に現れないよう注意深く隔離され抑圧されている。病んではすぐに病院へ入り、老いては老人ホームに介護施設、死んでは葬儀が業者によってお決まりの華やかさで執り行われる。そうして日々の生活は健常者だけで営まれ、見かけ上の「快」的な状態が少しでも崩れないように現代社会のシステムは構築されている。
しかし以前に、これほど社会が「快」で塗り潰されることはなかった。「教養小説」などでよく描かれていた物語を見ても、人生ではつらい修行や鍛練をへた後、望ましい境遇や精神的境地をかち取るといったとらえ方が一般的だった。ほとんど一生にわたり自分を高めて行って、不断の努力の結果いくらか「快」が与えられるだけだった。そしてこうした向上に試練として「苦」が不可欠の要素とされ、人生の価値をはかるときの基準にさえなっていた。生きるつらさに重要な意味があった。また日ごろ身のまわりに病んだ者・老いた者・死にゆく者がおり、彼らに接することで人生の様相を深く理解することができた。このような見方が、いま影をひそめている。
とりわけ現代社会の消費文化に慣れた若い世代に、ひどく現実的で安易な「快」中心の人生観を持つ者が多いようだ。「快」はまわりに満ちていて実にたやすく手に入り、後はそれをうまく維持するだけでずっと楽しく生きてゆけるような感覚でいる。とりあえず目の前にある「快」が大事で、より強くより大きな「快」にかかわることによってのみ人生の意義を確認する。あきらかに「快」が人生の価値をはかる尺度になっている。けれども現実には「快」などあまりない。ほんとうに楽しいことはめったにない。日ごろ楽しいと感じる事柄にも、冷静にみれば必ずつらい部分がある。楽しみを得るまでの手順がひどくめんどうだったり、体のどこかに負担がかかっていたり、これは楽しいことなんだと思い込んでそうしているだけだったり、すべてはただ差し引きすればいくらか楽しいというだけにすぎない。純粋な「快」などはまず存在しないように思う。仮にあるとき本当に楽しかったとしても、それを維持するには相当のエネルギーとテクニックがいる。実際「快」を得るにはかなりの努力と運を要する。
「快」は実に得がたく、また壊れやすい。逆に冷静な目でみると、「苦」は至るところにある。「快」の壊れることがすでに「苦」であり、「快」に巡りあわずつまらない時間を過ごしていることも「苦」といえる。そして好むと好まざるとにかかわらず、しばしばほんとうの「苦」が訪れて長く居座りつづける。目先の「快」にとらわれ、「苦」を克服する努力をおこたると、あとで手痛い目をみることになるかもしれない。
しかし、もちろん「苦」を嫌い「快」を好むのは、人間の習性とも言えるものだ。古今東西を通じて誰もがそうしてきたし、またそこには道理の上でもっともな点もある。とりわけ「肉体的苦」などは、すべて避けなければならない必然的な理由がある。「肉体的苦」は、物理的に人体へ加えられている脅威に由来する。内部・外部を問わず、正常な人体を脅かす何かが現れたとき「肉体的苦」は生じる。それは、同時に人体の危険性を示すシグナルでもあり、もしみんな好んでそんなものを求めていたとしたら、人類などとうの昔に滅んでいたにちがいない。「肉体的苦」はまず避けてみて、避けられないものだけを解決すればよい。ただ「肉体的苦」は、その存在や原因を客観的にとらえることができるので、わりあい解決しやすい。たとえば貧困や病気などひとりではどうにもできない苦しみでも、文明や医療が解決してくれることもある。「肉体的苦」はあくまで基本的な「苦」であり、第一に解決しなければならないものだ。しかしそれは実体を持ち外に現れているので、他と共同でもまた他に依頼しても処理できる。
これに対し「精神的苦」は、実体がないだけにこうは行かない。まずよほどひどくなり、異常が表面に出てこないかぎり、他の者にはその存在すら分からない。さらにその苦しみは自分が自分ひとりの世界で独自に体験していることで、結局本人以外の誰も本当に理解できるものではない。ある意味において「精神的苦」は「肉体的苦」以上に解決が難しく、人間存在にとってより本質的な苦しみであるのかもしれない。けれどもこうした「精神的苦」は「肉体的苦」の場合とは逆に、それが起ったときはひとりで正面から立ち向かい、そのつど乗り越えなければならないようだ。それは決して避けたりせず、納得のゆく方法で根本的に克服しておかないかぎり、必ずくり返しくり返し目の前に立ちはだかってくることになる。
「精神的苦」も一見「肉体的苦」と同じく、自分を脅かすものと映りがちだ。しかし、実のところそれは、精神面で自分が克服すべき点=弱点を示すシグナルであることが多い。たとえば他の人がなんでもなく通りすぎる「苦」を、いつも気にして悩んでいたとしたら、それはあきらかにその人の弱点を示している。これは身近な人の死や事業の失敗など、誰でも強いショックを受ける「苦」についても言える。当初はどうしようもないにしろ、人は何年も何年もそんなことで落ちこんでいるわけではない。それをいつまでたってもくよくよと悩んでいたとしら、ここで新たにその人の弱点―たとえばコンプレックス―が形成されたと見なしていい。「精神的苦」はそれが自分の弱点であるだけにきちんと解決しないかぎり決してなくならない。このシグナルの点滅を消さないかぎり、本当の意味で苦しみが去ることはない。しかし「精神的苦」は実体がないため他人には理解しがたい。結局それは、自分自身がまっ向から弱点に挑んでこれを克服し、自らを高めてゆくという方法を採らないかぎり解決できないものなのだ。
また現代日本の社会は、地理的・歴史的視点から考えても繁栄の極みにあり、この状態を基本に「快」中心の人生観や世界観を築いては危ないように思える。いまこの時点で目を海外に向けても、何千万もの人びとが飢えに苦しんだり、何億もの人びとが貧困に悩んだりしている。人類全体でみると恐らく大半の人が何らかの形で日常生活に困っているに違いない。けれどもほんの半世紀前まで、このような飢えや貧困は日本でもごく当たり前に目撃できたことだった。ある社会の繁栄などきわめて短い期間しか続かない。ポルトガル・スペイン・イギリスなど世界の歴史上に数多くの例が見え、また日本でもバブルの頃と現在を思えば隔世の感があるのだ。ほんの数十年後でさえ、どのような社会状況の中にいるか分かったものではない。さらに、近ごろ盛んに論じられている国際的レベルでの環境問題をすこしでもまじめに考えると、逆に現在「快」的な状態が地球上のどこにあるかと問いたい気持になる。「苦」にまつわる危険な地下流はいつも脈々と流れており、ただ日ごろ表に現れずつい忘れられているにすぎない。
このようにともすればいま忘れられがちな「苦」というものについて、一度きちんと考えてみたい。「苦」とは何か、その克服とはどういうことか、納得のゆくまで追及してみたい。いまはやりの「快」中心の人生観は決して長続きしない。厳しく言えば「快」というものが本当に存在するかどうかすら怪しい。それに対して「苦」はいつか必ず訪れ、何らかの形でしっかりとした克服法を持たないかぎりそれこそ死ぬまで居座り続ける。一見きらびやかな「快」中心の生き方とは、このような苦しい現実から逃れるための儚い一時しのぎの営みにすぎないのかもしれない。けれどもそんなものに従うわけにはゆかず、苦しくとも意義のある確かなよりどころを求める必要がある。自分の人生がまったく無意味で、無残に終わってもかまわないと言い切れる人は別として。結局「苦」とは、正しく人生を歩み真の幸福に至るための、避けられない課題といえる。
この課題を克服するためにはまず「苦」とは何か明確に把握する必要がある。そのため「苦」の全体を体系的にとらえようとするなら、まず「肉体的苦」と「精神的苦」に分けその各々について網羅的に記述すべきだろう。しかし「苦」の様相は時代と共に変遷し、また個人によってその感じ方も異なる。厳密にはこの世で、すこしでも問題視されたり疑問視されたりしたことは、即「苦」となるだろう。いつか誰かがそのことで必ず「苦」を感じるだろうから。網羅的な記述にとらわれては、「苦」を的確に把握することはできない。そこでいくらか見方を変え、次のように「苦」をとらえることにする。
◇一般的苦 ― 能動的苦/受動的苦:運命的苦・絶望的苦
◇宗教的苦 ― 開悟苦/代受苦:時代苦・社会苦
これは「苦」を客観的な事象として把握するのではなく、あくまで個人の主観的な体験としてとらえている。そしてその「苦」の体験が、個々の受け止め方の精神的レベルによってどう変わるかに注目し、分類してある。以下ここで挙げた項目に沿って、考察を進めて行こうと思う。
U.「一般的苦」について ―能動的苦/受動的苦:運命的苦・絶望的苦
「一般的苦」とは、人間社会の様々な局面で私たちが体験している、つらさ・苦しさを総称していう。それは単に肉体的な痛みや不快感によるものから、日常における人と人との摩擦・軋轢によるもの、ひいては人類や世界を憂慮して感じる苦しみに至るまで、実に多種のものがある。また「苦」は、強弱の具合によっても質的に異なる。たとえば頭痛や腹痛などの「苦」で、程度の軽いものなら簡単に対処でき、精神的影響はほとんどない。しかしこれが長く続いたり激しくなったりして痛みの強度が増すと、精神に深刻な影響を及ぼし、しまいには人格の変化すら起こすようになる。同じ痛みによるものでもここまで違えば、別々に分けて扱わなければならない。
「苦」は強弱のレベルでも分ける必要があり、すべてをきちんと分類して網羅的に記述することは不可能に近い。けれども「苦」の内容をまったく分析して整理せず、直接把握しようとするのもまた無理だと思う。そこで苦しむ主体が「苦」とかかわる態度の違いにより、大まかに「能動的苦」と「受動的苦」に分け、その内容をとらえてみることにしたい。
「能動的苦」とは、自ら求めて受ける「苦」をいう。ある目的があってそれを達成するために自覚的に苦しむことをさす。たとえば何かを身につけようとしたり、何かを作ろう・生みだそうとしたりするとき、必然的についてまわる苦しみがある。スポーツで上達しようとするとき、技術をマスターしようとするとき、長期間にわたりつらいトレーニングを積まなければならない。または絵を画いたり文章を綴ったりして作品を作り上げるとき、あるプロジェクトを成功させようと画策するとき、ああでもないこうでもないと頭を悩ませいろいろ工夫しなければならない。これらに携わるとき実に多くの苦しみをなめる必要がある。
しかし、そうは言っても「能動的苦」はまだ耐えやすい。これにはかならず目的がある。行き先がはっきりしていて自分がいまどういう位置にいるかすぐ把握できる。また苦しむことに明確な意味があり、なぜ苦しまなければならないのか、苦しんでいったい自分が何を得るのか、きちんと説明することもできる。思えばなにか価値あることを成し遂げようとするときは、だいたい苦しいものだ。そしてその苦しさが、価値あることをしているという実感につながる。苦しむことに喜びがある。いわば「能動的苦」とは、垣根の向うに華やかな喜びが、見え隠れしているような「苦」なのだ。さらにこれはその気にさえなれば、いつでも逃れることができる。目的をあきらめるならそれこそいつでも。
このような「能動的苦」に対し「受動的苦」は、はるかに耐えがたいものだ。いつも耐え切れるとはかぎらない。ときにもう耐えることができず精神に異常をきたしたり、死に至ったりすることさえある。
「受動的苦」とは、求めずして受ける「苦」をいう。それこそ何の因果かあるときふっと目の前に現れ、ずっと居座る。いつまで続くのか、どれほど強く自分をさいなむのか、まったく分らない。苦しみの原因も苦しまなければならない理由もぜんぜん理解できない。意味や価値などどこにも見あたらず、ただ苦しむためだけに苦しんでいるような「苦」。古来人びとが本当に苦しんだのはこうした「苦」だった。この「受動的苦」には実に多くのものがある。過去に様々なところで論じられてきた「苦」は、ほとんどこの中に入る。たとえばその内のいくつかを仏典から拾ってみると、次のようになる。
1.生苦・老苦・病苦・死苦・愁悲苦憂悩苦
2.地獄の苦・畜生界の苦・餓鬼界の苦・人界の苦
3.胎に入ることに根ざす苦・胎に住することに根ざす苦・胎より出ることに根ざす苦
4.生まれた者に結縛する苦・生まれた者が他に支配される苦
5.自らいためつける苦・他にいためつけられる苦
6.苦苦・行苦・壊苦
7.a眼病・耳病・鼻病・舌病・身病・頭病・外耳病・口腔病・歯病・咳・喘息・感冒・熱病・おこり・ 腹病・気絶・下痢・腹痛・コレラ・癩病・癰・疱瘡・肺病・癲癇・輪癬・疥癬・風癬・かき傷・あかぎ れ・出血・糖尿病・痔・腫れ物・潰瘍・胆汁の出る病・粘液の出る病・風の出る病・〔胆汁・粘 液・風の〕集合した病・季節の変化より生ずる病・不正な姿勢より生ずる病・傷害による病・業 の果報より生ずる病/b寒さ・暑さ/c飢え・渇き/d大便・小便/e虻・蚊・風・熱・蛇との接 触による苦
8.母の死の苦・父の死の苦・兄弟の死の苦・姉妹の死の苦・息子の死の苦・娘の死の苦
9.親族を失う苦・財産を失う苦・健康を失う苦・戒を失う苦・〔正〕見を失う苦
※ 藤田宏達氏「苦の伝統的解釈」(『仏教思想5 苦』 平樂寺書店)による。これは、アビダルマ仏教において「苦」を列挙した例を紹介したもの。
仏教は発祥の段階から「苦」を根本的なテーマのひとつとしており、この手の記述にはことかかない。もっとも基本的にはいわゆる「四苦」(生苦・老苦・病苦・死苦)「八苦」(四苦および怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦)があり、さらにこれが時代と共に細分化され、たとえば『瑜伽師地論』では百十にもおよぶ「苦」の分類がある。ただし「一切皆苦」という仏教の根本的立場に従うなら、すべての現象はすでに「苦」であり、改めて記述すること自体がナンセンスになる。またこれはあくまで仏教の視点によるもので、現代人の目からみるといくらか受け入れにくいところもある。まず輪廻を前提とした「地獄・餓鬼・畜生」という世界観は疑問だし、人生のすべてが「苦」であると言えるかどうかは検討を要する。語義の解釈が難しく、現実のどういう苦しみをさすのかよく分らないものもある。しかし「苦」を具体的に考える際、こうした記述はたいへん参考になる。
この記述をみると、「受動的苦」は運命的なニュアンスが強いことが分かる。そもそも自分が求めてもいないのに何かに巡り会ってしまうこと自体、すでに運命的と言っていい。けれどもそればかりでなく何か痛切に運命を感じるときというのは、たいてい「受動的苦」がからんでいるようだ。「7・a」のようにいろいろな病気で伏せっているとき、「8」のように身近な人間の死を向かえたとき、また「9」のように自分がよりどころとしているものを失ったとき、まさに運命的ななにかが到来した印象を受ける。こうしたことから「受動的苦」で特に厳しいものを、「運命的苦」と言っていいかもしれない。
この「運命的苦」は実に耐えがたい。耐え切れないと感じられることも多い。ひとつのものが単発的に訪れたときはまだいい。それならどれほど苦しくても何とか耐えられそうだ。ただいくつもの「苦」が錯綜してやって来ると、ほとんどお手上げになる。耐え切る努力をする前にショックを受けてしまい、すべてを投げ出すこともある。しかし、現実において「運命的苦」は、しばしば複数で訪れる。肉親を失ったショックから病気になる、これなどは因果関係がはっきりしていてよく起る。また病気がちでかなり参っているときに家族が事故に遭う、あるいは会社が倒産するというような、因果関係のない場合もそんなに珍しくはない。むしろ不運は重なることが多く、ひどい不幸に見舞われているときにかぎって、次から次へと新たな苦しみが生まれてくる。一般的にこうした事柄は、たがいに独立したものが同時に現れるほど苦しさが増す。しまいには誰が見ても耐え切れないと感じるような、正真正銘の苦境に陥ることも稀で
はない。
そうして「運命的苦」は、徐々に「絶望的苦」へと変わってゆく。
「絶望的苦」とは文字通り絶望の「苦」をさす。あまりにも強烈で忍耐のレベルを越えた「運命的苦」が訪れたとき人は生きる望みを失う。このまま生きているより死んだ方がましだと思う。このように人を絶望に導く「苦」を「絶望的苦」という。一般にそこで生きている(その状態で存在している)より、死んだ(存在を消滅させた)方がましだと感じられるとき、人は地獄にいると言える。この意味で「絶望的苦」は一種の「地獄苦」なのかもしれない。「絶望的苦」に巡り会ったとき、人は生きるか死ぬかの限界状況にいる。しかし長い人生でこうした苦しみを、ただの一度も経験したことのない者などいないと思う。心理学や精神医学の説によれば、人間の発達段階の節目節目(ライフサイクルの転換期)には、必ずと言っていいほどある種の精神的危機(アイデンティティ・クライシス=自己同一性の危機)が訪れ、きびしい対応を迫るという。このとき対応に失敗すれば、「絶望的苦」に見舞われやすい。そしてこのような時期に受ける「絶望的苦」は、あくまで主観において耐えられないと感じる苦しみにより成立する。各々の「苦」に対して下される、一般的な強さの評価などから、決して推測できるものではない。他人が容易に耐えられる「苦」でも、その人の気質から耐えられないと感じれば、それは「絶望的苦」となる。
概して「精神的苦」はどんなものでも、その人が訴える苦しみをそのまま受けとる必要がある。些細な苦しみを人は主観において、どれだけでも増幅させ苦しむことができる。明日着てゆく服が決まらず、眉間にしわ寄せ涙を流す人もいる。このような何でもない事柄を大袈裟に苦しんでいる人を見ると、あまり滑稽でとてもまともに相手をする気にはなれない。しかし実は見るからに大袈裟なその苦しみ方に、もっともな理由がある場合も多いのだ(精神分裂病や神経症に対する現象学的・人間学的アプローチにそのような事例がよく紹介されている)。たとえば服に涙するのも、もしその人がひどい対人恐怖症で、外で感じる他人の視線の怖さを、ただ気に入った服を着ているという安心感で解消していたとしたらどうだろう。まさしく服をうまく選べるかどうかが、その人にとって社会的に生きて行けるかどうかの瀬戸際ともなるではないか。何かを苦しんでいる人に向かいありふれた一般論をふりかざして、「どうしてこんなつまらないことに、それほど苦しむ必要がある」「これはそんなに苦しむようなことではない、もっと気を楽に」などと言うのはまったく無意味なのだ。これではみすみす当人から、厳しい拒絶か激しい反発をくらうだけにすぎない。しかし幸か不幸か人生の瀬戸際までほとんどそんな苦しみを知らない人がいたとしても、最後に最大の「絶望的苦」である「死」が訪れる。そしてこれはどうあがいても、決して避けられるものではない。人は遅かれ早かれ、いつか必ず「絶望的苦」に巡り会って、真正面から対決することを迫られるのだ。
先人はこうした人生の様相を深く哀れみ、自らの経験に基づいて多くの慰めや励ましの言葉を残している。たとえば『孟子』では「苦」について、次のように言っている。
「天まさに大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えさせる。その身を空乏させ、行いはその為す所を払乱させる。心を動かせ性を忍ばせ、そのよくせざる所を曾益するゆえんなり。人つねに過ち、しかる後よく改む。心に困み慮に衡(おもいによこさま)で、しかる後作す。色に徴し声に発して、しかる後喩る。入りては則ち法家・払士なく、出ては則ち敵国・外患なきは、国つねに亡ぶ。しかる後知る、憂患に生きて安楽に死すと」
―「告子下」 空乏:まずしいこと。 払乱:くいちがうこと。 曾益:増益に同じ。ふやすこと。 法家:道理をわきまえた臣下。 払士:ヒツシ。君主をたすける賢臣。 法家・払士はよく諌言を呈して、君主を悩ます。
大いなるはたらきが起ってある人に大事を託そうとするとき、必ずその人は苦しみに見舞われる。心は悩み体は飢え何をやってもうまくゆかない。精神的にも肉体的にも追い詰められる。しかしそれは動揺させ本領を押さえて、その人のできないことを増やすためなのだという。なぜなら人はいつも失敗してはじめて自分を改める。苦しんで思い通りにならなくてはじめて発奮する。悩みが顔色に現れうめき声まで起るようになって、はじめてさとる。こうした「苦」のきっかけがないかぎり、人が一心に努力して本当に成長することなどないのだ。たとえば内に諌言を呈する家臣がなく、外に攻められる恐れのない国が必ず衰滅するように。こうして人は、悩み苦しむときには生かされ安らかで楽しいときには死ぬ、という道理が分かる。
この言葉は、苦しみのまっ只中にいる者に、無限の慰安を与えてくれる。苦しむということの本当の意味を教えてくれる。いま苦しんでいるこのときこそ、自分は成長し生かされているのだ。楽になったら死んでしまうのだと。ただ自分が現在どれだけ苦しんでいるからと言って、直接それが将来の成功や栄達を約束するあかしとなるわけではない。しかし「苦」には一般にこのような自己啓発の働きがある。とりわけ先の「能動的苦」などは、ただこのことのために「苦」を選んでいるようなものだ。「絶望的苦」でも例外ではない。文字どおり死ぬほど苦しくて、危うい選択をする一歩手前まで追い込まれたとしても、逆にまさしくそのことにより必ずはかり知れない自己啓発がある。
ここのところを南宋時代の大儒であった朱熹の注では、「困窮・払鬱はよく人の志を堅くし、人の仁を熟す。安楽を以てこれを失う者多し」と説明している。「仁」などの人間が求めうる最高の精神性は、「苦」によってこそ育まれるという。安楽に生きていては、決して得られないのだけれども。このことは、まったくそのとおりだと思う。
キリスト教文化圏でも、これに類した「苦」のとらえ方が見られる。
旧約聖書に「たヾしきものは患難おほし」(詩篇34−19)という言葉がある。これを前世紀末に「スイスの聖者」と称された法律学者・思想家のヒルティが解釈して言う。
「これは、すでに数千年も前に語られた言葉であるが、善人はこの世で何を覚悟しなければならないかを、ごく簡潔に述べている。彼らは多く苦しまねばならない。他の道では、彼らが到るべきまことの善に達しえないのである。彼らがたえずこの苦難を避けて、多くこの世の子らに見受けられる、あるいは少なくとも見受けられると思い誤られているような、安楽な生活を営みたいと願うならば、そこから、善人たちのすべての誤謬と間違った道と、真に困難な運命とが生じてくる。これこそ、彼らが完全に脱却しなければならない誤りである。多くの苦しみを受けること、これは避けられないものだ。だから、甘んじてそれに従いなさい、そしてできるだけ早く、できるだけ完全に心を落ちつかせなさい。その時はじめて、あなたは完成へ到るまっすぐな道を進んでいるのである」
―『眠られぬ夜のために 第一部』岩波文庫 P.38
これ以上多くの言葉を差しはさむ必要がないほど、ここでは「苦」の意義が見事にとらえられている。ヒルティはいともあっさりと、善人は多く苦しまなければならない、苦しむことを覚悟しなければならないと言う。しかし常識的な感覚から判断すれば、当然善人は苦しまなくていい。正しくまじめに生きているのだから、安楽に生活を営めて当たり前なのだ。もしそんな善人が苦しむとしたなら、まさしく神も仏もないように思える。けれどもそれは完全に誤っているという。安楽な生活は、人を間違った道にしか進ませない。そうした在り方は逆に人間にとって、真の意味で困難な運命を導くのだ。本当の善に至ろうとするなら、訪れる多くの苦しみを決して避けたりしてはならない。むしろあまんじて従わなければならない。そうした苦しみを受けて生きることこそ、魂の完成に至る唯一の正しい道なのだから。
この言葉も実際苦悩している者に、大きな慰めを与えてくれる。安楽に過ごすために人は生きているのではない。どんなに苦しくとも真実の道を歩み、自己を本当に実現させて、魂の完成を目指すために人は生きている。もしいま苦しんでいるなら、それは自分が確実に人生の正しい道を歩んでいるのだと考えていい。逆になんの苦しみも感じなくなってしまったときこそ、自分はこれでいいのかと反省しなければならない。誤解を恐れずあえて強く言ってしまえば、苦しむことが人生なのだ。安楽なだけで、間違いなく堕落に向かう生き方などできない。
これらの言葉は、「苦」の「意味」を突き詰めたものだと言っていい。「苦」によって人が最終的に得られるものを、あますところなく表現している。苦しまなければ人は本当に努力できない。真の自己が実現し精神が正しく向上することはない。それは確かにその通りだと思う。しかしもっと厳しく考えるなら、得られるもののある「苦」、意味を見い出せる「苦」とは、所詮その程度の「苦」なのだとも言える。最も苛酷な「苦」が訪れたとき、はたして人に意味など感じている余裕があるだろうか。「運命的苦」などはいいとしても「絶望的苦」で限界状況に至ったときはどうだろう。ここではあらゆる「意味」が消し飛んでしまうのだ。このようなときの「苦」とは、人間にとってどんなものなのだろうか。
極限の「絶望的苦」、言い換えればまさしく死ぬような状況に臨んだとき、最もひどい場合は「意識」が失われるか損なわれるかする。しかし「意識」が損失すれば体験もなくなるので、これは対象にならない。問題なのは「意識」があって、通常どおり体験できる精神的機能を持ちながら、極限の苦しみを受ける場合なのだ。こうしたときでなければ、人は「苦」というものをつぶさに感じとることができないのだから。そしてこのときこそ最大の「絶望的苦」を体験する。
さて極限の「絶望的苦」に臨んだとき、まったく奇妙な体験をする。しだいに「苦」の強さが増し、通常の精神的機能で対応できるギリギリのところまでくる。これよりかなり前の時点で、もう「意味」を感じるような機能は崩壊している。後はただひたすら苦しいだけだ。しかしこの苦しい感覚もそれほど長続きはしない。やがて、苦しむという感覚の限界までくる。そうしてついに苦しみを感じる精神的機能の限界を越えたとき、あたかもヒューズが切れたかのように、自分の中の何かが消し飛ぶ。恐らくこのとき消滅するのは、私たちがふつう「自我」と呼んでいるものだと思う。
ただ「自我」という言葉はたいそうあいまいで難しい。哲学者・心理学者の間で実に多様なとらえ方がされている。自分にかかわるあらゆることをこの語の範疇に収めてしまう者もいる。ここでは心理学において一般に用いられている「自我」の概念をすこし絞って使うことにしたい。心理学では、「@行動・経験・感覚の主体となり、A行動や情動をフィードバックして環境との適応を司り、B価値判断や批判を行い、C社会的な行動の主体となる」等の機能を持つものを「(主体的)自我」という(『新版 心理学事典』 平凡社)。このうちB・Cを主とした意味で「自我」を考える。それは仏教で言う「分別する我」に概ね等しい概念といえる。
「自我」が崩壊し頭の中がまっ白になって、いつも心を占めているような煩わしい思いがすべて消え去ってしまう。しかし「意識」はあり、確かにいままでどおりの自分もある。感覚・思考もまったく支障がない。むしろふだんより気分はすっきりして、自分がなにかゆったりとした大きなはたらきと同化し、広々としたものになったような感じさえ受ける。そしてついさっきまでその渦中にあって、あえいでいたはずの「苦」が、どこにも見あたらなくなる。「苦」などというものが存在したことさえ信じられなくなる(「臨死体験」の報告にこうした事例がよく紹介されている)。これは一種の「至高経験」と言えるかもしれない。
「至高経験」とはこれまで人類が体験してきた神秘・啓示・恍惚・回心などの、本質的で突発的な認知・人格の変化を総括するため用いられている概念で、主に人間性心理学派が提唱している。この経験は高度に統合された、自己や世界に対する知覚を特徴としており、いったんこれが起ると他では得られない精神の高揚―エクスタシーやカタルシス―を味わう。またこれはいわゆる忘我・無我の体験でもあって、「自我」の存在が意識されなくなったとき、あらゆる精神的葛藤・障害などの「苦」から解放されるという(詳しくは『創造的人間』誠信書房など、A.H.マスローの著作を参照のこと)。「自我」がないとき「苦」もまたない。「自我」の働きがなければ、「苦」は生まれないのだ。
たとえばここに、「痛み」があったとする。肉体的なものでも精神的なものでもかまわない。「痛み」はただ痛いと感じているだけなら「苦」にはならない。原因がなくなったときすぐに「痛み」もなくなる。気にさえ止めなければこの時点ですべて済んでしまう。ただ人はここでついつい、いろいろなことを思う。「またこんな痛みに、襲われないだろうか」「こんな痛みに見舞われるとは、なんて運が悪いのだろう」などと、過去・現在・未来にわたり記憶力・思考力・想像力を駆使して、あれこれ思い煩いだす。ある程度しかたがないとはいえ、このように「自我」を働かすことで、わざわざ「苦」を生みだしている。いわば「自我」とは、「苦の座」なのだ。このことを逆に考えると、「苦」とは「自我」の存在を示すシグナルであると言えるかもしれない。苦しいということは、「自我」が存在し活発に働いている状態を意味する。しかしまた同時に「苦」とは、「自我」に亀裂を走らせ崩壊させるものでもある。そして「自我」が崩壊したとき、「至高経験」のような人間の本質における精神の高揚と意識の改革を、享受できることもあるのだ。残念ながらそれは、必ずいつもそうなるとは限らない。「自我」が崩壊したまま元に戻らず、精神的な病に陥ることもある。しかしこのような厳しい「苦」の体験なしでは、決して「自我」が根本的に変容することなどありえない。
思えば、人生の「苦」を直視することにより創始された仏教で、最終的に求めるものは「無我」だった。あしき「自我」の解消が、解脱・救済に至る道であるとした。こうして「自我」の問題の出現によって、「苦」は一挙に宗教的色彩を帯びるようになる。
V.「宗教的苦」について ―開悟苦/代受苦:時代苦・社会苦
煮えつまり厳しさが増して、耐えられるレベルを越えたとき、「苦」は「自我」と共に弾け飛ぶ。そうしてときには「至高経験」に見られるような、宗教性を帯びた体験を受けることもある。いつも必ずそうなるとは言わない。けれどもかなりの確率で臨界点に到達した「苦」は、人を何か宗教的なものへと向かわせる。このように人を宗教へと導く「苦」を、「宗教的苦」という。
ただし「宗教的苦」とは、「苦」のもつ宗教的な働きや享受のされ方に注目して付けた名称であり、特定の「苦」がここに分類されるというものではない。「一般的苦」として挙げたものは、すべて「宗教的苦」に転換する可能性がある。これははじめに述べた通り、個々の「苦」に対する受け止め方の違いを言ったものにすぎない。ある人は受け止め方を変えて、あらゆる「苦」を宗教的なものと関連させる。しかしある人はいつまでも「苦」を、「一般的苦」として苦しみ続けるというように。そして、この受け止め方が変わるかどうかの、分岐点に横たわっているのが「自我」なのだ。「自我」をいったん捨ててその働きをなくせば、「一般的苦」は「宗教的苦」に変わる。この転換によって「至高経験」のような救済や開悟の体験も現れ根本的に「苦」が解決される。けれども「自我」に執着しエゴイスティックな思考を捨てられないなら、いつまでたっても「一般的苦」から解放されることはない。どちらを選択するかはまったく各自に委ねられている。
ただ先人は、「苦」を「宗教的苦」として感受することの大切さをしばしば説き、このような態度で「苦」と接することを勧めている。ヒルティは言う。
「神の慎重な、ゆるやかな導きは、みずからそれを体験しないかぎり、だれもが信じがたい、最も不思議な経験の一つである。それはいつも苦痛と不安とを通して行われるものである。人はたえず、自分の所有する一切のものを捧げ、とくにこれだけはほんとうに自分のものといえる自己の意志をも、完全に神にゆだねる覚悟をしなければならない。そうすると突然、新しい段階が開けてくる。この段階に立つと、自分の過去の歩みがはっきり分かり、特に、自分が幸福な道を選んだこと、そして今や一つの新しい自由が、しかも永遠に、増し与えられたことが明白になる」
―『眠られぬ夜のために 第一部』 P.168
また、試練的な「苦」の意味についても説き明かして言う。
「エゴイズムは何にもまして宗教と一致しないものである。したがって、われわれが何でもすべてを正しく、また心やすらかに所有しようとすれば、いったんそれをすてて(少なくとも心のなかで、ときには実際にも)、あらためて神から返してもらわねばならない。財産、名誉、よい評判、健康、働く力、家庭、生活の喜びなどがそうである。いや、生命そのものでさえも例外ではない。そうしておかないと、これらすべての財宝はわれわれにとって破滅のもととなるかもしれないからだ。これが、いわゆる『試煉』の意味である。われわれがすすんでそれをするか、またそれをなしうるかどうかの、検査である」
―同書 P.86
これは一般に「苦」の恩寵的解釈と呼ばれるもので、一概に肯定できない向きもあるかもしれない。まず神に対する信仰がなければ、受け入れにくい考え方のようだ。またこれほど楽天的に「苦」を神の導きや恩恵としていいか、疑問に思われても仕方ない面がある。ただしそれはヒルティが最初から言っているように、「みずからそれを体験しないかぎり、だれもが信じがたい、最も不思議な経験の一つ」なのだ。「自分の所有する一切のものを捧げ、とくにこれだけはほんとうに自分のものといえる自己の意志をも、完全に神にゆだねる覚悟」をしなければ決して分からない境地なのだ。「自我」の立場からあれこれエゴイスティックに分別するだけの者には、このことを批判する資格はない。ただそういう事実があり、そう生きている人たちがいるということを理解するしかない。
実は禅でも、これに近い「苦」の解釈があるらしい。鈴木大拙の紹介によれば、菩薩の行願文と称するものの中に次のような意味をもつ文章があるという。
「敵心をいだくものが、たといわれらを困厄の中に陥れようとも、それは仮面下の菩薩と考えてよい。菩薩はその姿を敵のように見せて、空の方法によって、われらの過去の罪業−それは計算のできぬほどの太古から我執と邪見とで、不断に積みかさねた身口意行の結果たる罪業を消滅させようとするのである」
―『禅堂の修行と生活』春秋社 P.54
他人に陥れられて受けるような「苦」でも、それは我執・邪見などの「自我」の働きを空じ解消させることによって、永い間に知らず知らず作ってきた罪から自分を救うためのものであるという。これなどは対人関係で受ける「苦」の働きを、恩寵的な立場から見事にとらえた例といえる。こうして見ると、「宗教的苦」には人を救い「悟り」に導く働きがあると言っていいと思う。
ヒルティは苦痛と不安とを通して行われる導きに従い、自分の一切のものを完全に捨てさる覚悟をすると突然あたらしい段階が開け、あたらしい自由を永遠に与えられたことが、明白になると言っている。「苦」によって魂の高次な段階に入れるよう、導かれると言うのだ。また、禅においても「苦」には、「計算のできぬほどの太古から我執と邪見とで、不断に積みかさねた身口意行の結果たる罪業を消滅」させる働きがあるとしている。「苦」の働きにより罪業が消滅することで、魂の正しい状態・求むべき精神的境地=「悟り」に近づいてゆく。このように人を正しく導き、「悟り」に向かわせる働きをもつ「苦」を、「開悟苦」という。「苦」を通して人は自分と世界の本質に触れてゆくことができるようになる。
近代哲学でも、これに似た考え方をする場合がある。ハイデッガーと同時期にユンガーという思想家がいた。彼は労働者と苦痛の関係を考察し、「苦痛について」という文章を著している。この中に、次のような言葉が見られる。
「苦痛は、我々の単に最も内奥にあるものをのみでなく、同時に世界を開示する鍵でもある。人間が自己をその苦痛に対して耐え得るか、またはそれに優越し得るものたるか、を示すような点に近づくとき、人は、苦痛の力の源泉とその支配の背後に身を匿している秘儀へ歩み入ることが出来る」
―『有の問いへ(ハイデッガー選集]]U)』理想社 P.152(訳者である柿原篤弥氏の紹介によるもの)
これなどは「開悟苦」の内容を、かなり的確にとらえたものといえる。苦しむことでまず自分の最も深部に潜む本来性さえ立ち現れてくるようになる。けれどもそれだけではない。耐えうるかどうか克服しうるかどうかの限界状況に至る苦しみを受けるとき、「苦」を生む主体がはっきりと分かる。そしていままで、その背後に隠れていたため近づけずにいた世界の本質的な働きを知り、これに親しく触れることも可能になるという。「苦」により自分の中で、世界の本質があらわになる。これはまさしく「開悟」のありさまを、如実に示したものだと思う。
ただし「開悟」という概念もたいへん難しい。それは仏教における根本的なテーマであり、おいそれと定義できるようなものではない。各宗派がそれをどうとらえているか、現代の宗教学などでどう認識されているか、などと追及していたらそれこそ切りがない。そこでいまここでは、玉城康四郎氏が提唱された考え方に従いたい。それは氏の長年にわたる学問研究と禅定体験によって裏付けられたものであり、簡にして要を得ている。氏は「開悟」を、「ダンマが顕わになるとき」だという。「ダンマ」は「ダルマ」とも言い、仏典で一般に「法」と漢訳されている。法則・規範などを意味し、「真理」としても差しつかえない。氏は、「いかなる形態をも超えた純粋生命」であるとされる。この「ダンマが主体者に顕わになるときに、その心は、躍り、浄まり、確立し、解脱」するという(「原始仏教における苦の考察」 『仏教思想5 苦』P.141)。どのような形態も持たず、どのような言葉でも表現できない生きた真理が、自分自身の中で明らかに現れる。このとき心は歓喜におどりながらもしっかりと定まり、確かな「悟り」を開くに至る。「開悟」とはこうした体験を指すものとする。
「苦」は、最終的に人を「開悟」へと導く。「開悟」とは「悟り」を得ることであり、「解脱」することであり、向上する魂の目的地でもある。また、そこは「涅槃」とも呼ばれ、「苦」の消滅した境地とされる。それなら「開悟」するに至ったらもう「苦」はなくなるのだろうか。
仏教の伝統的な解釈によれば、人が今生で完全な「開悟」に到達することはないとされ、まずこの意味において「苦」も決してなくならない。人生とはつらく厳しい修行=「苦修」の場であり、命あるかぎりそれは果てしなく続いてゆく。むしろ、魂の向上を求める者=「修行者」なら、このような「苦修」は願ってもないことなのだ。なぜなら人生の「苦修」には予行練習など一切なく、つねに真剣勝負によって精神が鍛えられる。それは「開悟苦」による本当の修行であり、人がことさらにこしらえた「苦修」などでは、到底えられないものが体得できるのだから。人生の「苦」は、ある意味で求むべきものかも知れない。けれども「苦」がなくならない理由はこれだけではない。
ある程度まで精神が磨かれ自分に訪れる「苦」については、もう心にそれほど痛手を受けなくなったとき、今度は他人の「苦」がひどくつらいものとして感じられるようになる。自分などもうどうでもいい。けれども誰かがまわりで苦しんでいると、いても立ってもいられない。何とかしてその人の苦しみを代わって受けてあげたくなる。そうして率先して苦しんで、この世に「苦」があるかぎり人の代わりに苦しみつづける。不思議なことに、「苦」については実にしばしば、こうした対象の転換が起る。他人の苦しみがまったく自分のものとなって、周囲に苦しむ人がいるかぎり自分もそうしつづける。これを安っぽい同情と一緒にはできない。単なる同情では自分の身に不利や危険が迫った場合、手を翻すように保身にまわる。それまで同情していた相手を、蹴落とすようなまねさえする。中国に「救人救到底(人を救わばとことんまで)」という諺があり、中途で放り出すようなら人を救うことにはならないと言う。これはまさしくその通りで、始めは助けほっとさせておきながら中ほどで見捨てるのでは、安心していた分かえってその人の苦しみが増してしまう。ここで「苦」を代わって受けるというのは、そんないい加減なものではない。他の苦しみがまったく自分のことのように思われて、運命を共にしつつ苦しんでゆくのだから。そうして最終的には、まわりの苦しみがすべてなくならない限り心は晴れない。その意味においても、決して自分の「苦」はなくならない。世界に誰か苦しむ人がいるかぎり。
このように人に代わって「苦」を受けることを、「代受苦」という。この「代受苦」によって「宗教的苦」はきわまる。自分など放っておいても深い哀れみと思いやりの心から、人の苦しみを代わって受ける行為。これこそ仏教でいう「慈悲」でありキリスト教でいう「愛」ではないだろうか。ただし、あくまでこれは自分がある程度、鍛え上げられてからのことだ。自分の問題が解決してもいないのに、人の問題をあれこれできるはずがない。このあたりの事情を禅では「非力の菩薩、救わんと欲して自ら迷う」と言うらしい。まず「開悟苦」により自分の精神が、相応に高いレベルまで至ってはじめて「代受苦」がある。
ふり返ると「能動的苦」から「開悟苦」まではあくまで個人的にかかわる「苦」だった。ひとりで心の中で悩む「苦」だった。これに対し「代受苦」だけは社会的な「苦」だと言える。個人を越えて他者のために、社会のレベルで悩む「苦」なのだから。そして、この「代受苦」の対象として、「時代苦」と「社会苦」がある。
「時代苦」とは歴史的に見て、その時代ではまだ解決されていない問題によって生じる「苦」をさす。たとえば、自然の脅威からうける「苦」・専制的な政治による人権侵害の「苦」などは、以前に比べ現在かなり解決してきて、例外的な状況を除き通常あまり「苦」と認識されない。しかしかつては、それが最大の「苦」をうむ要素だった。現代においても国際紛争・環境問題・南北問題など解決をみていない課題はいくつもあり、しばしばここから大きな苦しみが生まれてくる。このように同時代人の誰もが広く受けなければならない「苦」を、「時代苦」という。
「社会苦」とはたとえば家族・職場・地域など、ふたり以上の集団が持つ問題から生じる「苦」をさす。自分をとりまく人々に原因がある苦しみで、その集団に属している誰もが受けなければならない「苦」をいう。
これらの「苦」はある程度まで「開悟」し、基本的に自分の苦しみを自分で解決できるようになった者でないかぎり、単に「受動的苦」のひとつとして感じられるにすぎない。その場で悩む他の人たちと同様、「どうしてこんなひどい目に、遭わなければならないのか」と、憤慨するばかりだ。「時代苦」・「社会苦」とはまったく理不尽であり、道理からすれば絶対に納得できるものではない。一切自分には責任がないのに、たまたまそこにいたというだけの理由で受ける「苦」なのだから。「自我」の働きにとらわれているかぎり、必ずこれに反応して苦しみ出すことになる。しかし「開悟」し、正しく「自我」を統制できるようになった人はそうでない。彼はその気になりさえすればいつでも、「苦の座」である「自我」の働きから離れることができる。「自我」の働きから離れてしまえば苦しむ主体が心にないのだから、普通なら耐え切れない「苦」でもそれほど苦しいとは感じなくなる。それで彼には自分の苦しみに対して一切の関心がなく、気になるのはいつも他の苦しみであり、なにをおいてもその解決に力を尽くすようになる。どれほど理不尽な「苦」でも、本来なら決して彼が受けなくともよかった「苦」でも、ただ他の誰かが苦しんでいるというだけの理由からよろこんで代わってあげる。
理不尽な苦しみをあまんじて受けるということは、一見意気地のない行為に映る。本当は抵抗すべきなのに、それができないで仕方なく耐え忍んでいると思われがちだからだ。とりわけ権利意識の発達した「近代的自我」の持ち主なら、このような行いは決して理解できないだろう。自分が少しでも不利になるようなことは、まず拒絶するのだから。確かに奴隷根性から、仕方なく理不尽さに耐えている者もいるだろう。むしろ大半はそうかもしれない。しかし決してすべてがそうなのではなく、偉大な人間性に基づき、そこで凡人にはとても為し得ない行いをしている者も必ずいる。彼にその苦しみを受けなければならない落ち度など一切ない。にもかかわらず深い情けの心から、本来受けなければならなかった誰かに代わり、彼がそれを受けているのだから。そのとき彼は誰の助けも借りず、ひとりで他人を救っているのだから。これは一種の英雄的行為と言っていい。
このように、自分ひとりの「苦」を離れ、心から人を思いやる。そうして他人もしくは社会のため、自分を超えたレベルでの「苦」に、まっ正面から立ち向かってゆく。それが「代受苦」であり、ここに「苦」の最終的な形態がある。
― 田村芳郎氏「代受苦−菩薩と苦」 『仏教思想5 苦』P.317を参照。ここでは日蓮の受難を例に「代受苦」が詳述されている。
W.おわりに―人生は「苦」か?
「苦」の様相を「一般的苦」・「宗教的苦」のふたつに大別し、それぞれをいくつかの観点から考察してみた。けれども「苦」とはあまりに膨大で、困難な問題だった。記述の対象を限定し、範囲を絞りながらも、まだまだ論じ尽くせなかった部分が多い。ここでそれらをいくらか補足することにしたい。
まずおのずと記述が現代日本における一般的な状況を念頭に置いたものとなった。たとえばこれが継続した戦争・飢餓・災害などに見舞われているもっと状況の悪い社会だったら、構成の仕方がかなり異なっていたかもしれない。やや一般論に傾き、「苦」に対する具体的な記述が少なかったように思う。これはたとえ「苦」の具体例を詳しく挙げたとしても、いまのような社会にある者には、他人事としか感じられないと考えたからだった。それより記述を絞って、「苦」の働きや意義をきちんと押さえた方がいい。ただし理想的には仏教で言う「六道説」のように、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天と苦しむレベルの相違をふまえて記述できればよかった。これは今後の課題としたい。ちなみに現代日本は、人間世界の中でも平穏で上等の位置にあるような社会と言えるだろうか。
次に「自我」の扱いにもいくらか問題があった。「自我」を仏教で言う「我」と対応させ、ほとんど悪者のように記述している。しかし当然、「自我」それ自体は悪者でもなんでもない。「自我」とは心を構成する大事な器官であり、これがないと社会生活ができなくなる。すこしばかり機能がマヒしただけでも精神的な遅滞や障害がおこる。また、しばしば「自我」そのもの、もしくは「自我」の働きをなくす必要性について説いている。けれども「自我」を完全に消すことなどできない。「自我」は精神における最も基本的な機能のいくつかを司る場であり、それがまったく消えるのはまず死んだときだけだろう。ここで解消や消滅を述べるのは、主として「悪しき自我」に限定したことであり、決してすべての「自我」を指しているわけではない。「悪しき自我」とは極端に働きが活発で、あまり厳しくみずからの世界を構築し、ほとんど自己完結してしまったものを言う。一般に「自我」はいつもその働きが、意識の表面に現れているわけではない。ふつう「(自)我を忘れた」状態にあって、むしろこのときの方が行為は円滑になる。しかし「悪しき自我」ではつねに働きが表面に現れており、間断なく意識的にあれこれ考えたり感じたりしている。そうすると「自我」は、主に自己の保身を目的として機能するため、必然的に他を寄せ付けず自分を守ろうとし、ひどくエゴイスティックな行為に終始するようになる。このような「自我」を持つとき、本当の意味での共感や愛情は一切生まれてこなくなる。ナルシズムに毒された自己満足のためのそれは別として。消滅させるべきは、この過剰に働き「悪しき自我」を形成しようとする傾向なのだ。決して本来の「自我」に問題があるわけではない。
また「苦」という言葉についても、もっと説明が必要だったかもしれない。しかし「苦」とはいざ説明するとなると、実にやっかいな概念だ。ほとんど同義反復的に「苦しいと感じること」とでも言うしかない。きちんとした定義を施すのはひどく難しい。ただ中村元氏によれば、古代インドを例として様々な「苦」に対する考え方を総括するなら、「苦」とは「せまり悩ます」という意味で、「苦しみ・悩み・思いどおりにならぬこと・身心を悩まされて不安な状態」などを指すという(「苦の問題」 『仏教思想5 苦』P.7)。このなかで「思いどおりにならぬこと」という見解はたいへん参考になる。「苦」の成立条件を考えるとき、当然不快感や苦痛感などは重要な要素となる。しかしこのような感覚的要素だけでは決して「苦」にならない。それが求めるものであればむしろ「快」となる場合すらある。「苦」が成立するためには、つらく苦しい感覚の他に、みずからはそれを欲しないという「自我」の思考による判断が必要なのだ。このことは肉体・精神を問わず、「苦」一般について言える。従ってここでは「苦」を主として「思いどおりにならぬこと」という意味でとらえることにしたい。これに感覚的要素が加われば完全な「苦」となる。
このように見てくると、改めて「苦」とは避けられないものだと分かる。それは「自我」の思考するという最も根本的な機能に依拠しているため、生あるかぎり付きまとってくるのだ。思えば仏教の根本教説に「四聖諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)がある。この中の「滅諦」とよばれる教えでは、欲望を滅せば苦しみのない理想の境地に至れると説かれている。ただ注意を要するのは「滅」という言葉で、原語を「ニローダ」というこの語は、「せき止める」・「制止する」の意味であるという。消滅の意味ではない(『岩波 仏教辞典』)。つまり「四聖諦」における「苦」の「滅」とは、「苦」の消滅ではなくて「苦」の制御のことらしいのだ。これを逆に考えると仏教でも始めから、「苦」は消滅できないものとして理解されていたことになる。制御できるだけだった。それなら「開悟」とは、みずから完全に「苦」を制御できる方法の体得を言うのであり、それが存在しない状態を指すのではない。このことは「苦の座」である「自我」が、決して消滅できないものであるという点にうまく対応する。
「苦」を消滅させることはできない。「自我」があるかぎりできない。よく人生が「苦」であるといわれるのは、こうした意味なのかもしれない。そこで人生が本当に「苦」と言えるかどうか検討を加えて、「苦」に対する考察の締めくくりとしたい。
人生が「苦」であるという言い方には、いくつかのパターンがあるように思える。まず真正面から、人生はすべて「苦」であるという言い方がある。しかしこれはよほど状況の悪い社会にいる場合か、もしくは長く精神的・肉体的な病気にかかっている場合を除けば、すなおに受け入れられるものではない。次に人生の「快」には必ず「苦」が混じり、本当の「快」など決してない。だから、人生は「苦」であるという言い方がある。ふつう「快」は「苦」の対極に置かれ、「苦」を否定するときの最大の要素とされる。けれども厳密にはその「快」が人生において成立しないと言うのだ。これは確かに人生を「苦」と見るときの、一理ある言い方といえる。「苦」に対抗できるものが、この世にないのだから。ただし「快」がないから「苦」であるという論理は、すこし短絡している。「快」もなく「苦」もない状況をふまえていないし、また人生を「苦」と言いながら「苦」の本質にはまったく触れていない。これはあくまで補助的な言い方であり、必ずしも「快」がないから人生は「苦」であるとは言い切れない。他に人生の「快」と「苦」を差し引きするとどうしても「苦」の方が多くなるから、人生は「苦」であるという言い方もある。気持としては大変よく分かるものだ。しかし、人生全体における「快」と「苦」の量など、正確に把握できるはずがない。つまりこれはまったくの印象に過ぎず、正しい考えとはいえない。
このようにしばしば人生は「苦」であると言われ、私たちもそれに頷きながら、本当にこの点をうまく説明する見解にはなかなかお目にかかれない。ただ比較的妥当な見方として、「実存的危機」という概念による説明がある。
確かに人生には「快」のようなものがある。本当に快く感じることもないわけではない。このときすくなくとも意識の上に「苦」は現れておらず、人生のすべてが「苦」に塗り潰されているわけではないと、はっきり言える。けれどもそれは、あくまで一時のことに過ぎない。「快」がこのままずっと続いてゆく可能性は、皆無なのだ。むしろ潜在的なレベルにおいて、「苦」はつねに存在し続けている。「快」がいとも簡単に跡形もなく崩壊するのに対し、「苦」は生あるかぎり決して消滅しない。日常性がすこしでも破れ、人間の実存に危機的状況が訪れたとき、そこには必ず「苦」が現れてくる。限界状況において出現するのもすべて「苦」であり、決して「快」ではない。人生において「苦」はつねに潜在し、いざというとき必ず出現する。だから人生は「苦」であると言うのだ。この考え方では「苦」の本質的な性格も押さえられており、無理のない説明がされていると思う。
「苦」は生あるかぎり消滅しない。それはつねに潜み続けて、時機が来れば表に現れ私たちに対応を迫る。そして何人といえども最期まで、「苦」から逃れ切れる者などいない。だから人生は「苦」なのだ。
「苦」の考察に当っては、仏教思想から多くのヒントを得た。仏教は創始以来「苦」の問題を真正面から捉え、その伝統が今日に至るまで連綿と続いている。「苦」についてはほとんど言い尽くされているように思う。しかしそれがあまりに長い伝統と多様な視点を持つために、現代人には理解しがたい部分も多い。そこでここでは仏教において説かれる「苦」の最も基本的な要素を押さえ、さらに他の思想も加えて「苦しむということ」について考察してみた。ただふり返ってみると、「苦」の制御はできても消滅は不可能などと、気の塞がるようなことばかり言い過ぎた。それが「苦」の実態であるとはいえ、あまりに慰めに欠ける。けれども「開悟苦」のところで触れたように、「苦」には人を正しく導く他では得られない好ましい働きもある。
終わりにこうしたことを総括して、「苦」と魂の平安との関係について語った、ヒルティの言葉を紹介したい。
「われわれは多くの人生経験をつむことによって、全く苦難のない生活をもはや願わないという心境に達する。これが『永遠の平安の状態』である。この地上では、苦難こそがわれわれの悪い性質からわれわれを守ってくれる、われわれの変わりない番人であり、そのうえ、苦難がなければさらに堪えがたいであろう生活の単調さをも破ってこれを活気づけてくれるものである」
―『眠られぬ夜のために 第一部』 P.245
避けられない苦しみに耐え、これを克服したあかつきには、「苦」は決して自分と敵対するものにならない。むしろ共に人生を歩むべき、好ましい伴侶とさえなるらしい。そのとき意外にも私たちは、これまで自分が「苦」によって悪から守られていたことに気づくという。そしてそれはこれからもずっと私たちを守ってくれる。最終的には「苦」をも味方としてしまう、この人生観はまったく見事と言うほかない。本当にいつか自分もこの賢者の言葉が、しみじみと実感できるようになりたいと思う。
― 1993.9.24 脱稿 ―