雨読





氷見の仏教《2》





  《目次》

   十.学国越中          十一.浄土真宗の学塾 
  十二.浄土真宗の学匠     十三.氷見の学匠著述 
  十四.義教と善意        十五.妙好人おのよ
  十六.異安心           十七.光禅寺と円満寺の騒動
  十八.明峰素哲と月澗義光   十九.慈雲妙意と雪門玄松
  二十.滝水薫什と薮波浄慧    《参考文献》



 十.学国越中

 前田慧雲が『学苑談叢』で、
「越中は、義教、僧樸二公の豊沛たり。―(中略)―世称して学国と曰ふ。良に所以あるなり」
と言っているように、浄土真宗本願寺派では近世
の越中を「学国」と呼んでいた。
 それは第五代能化に就任した義教をはじめ、多くの学匠が越中から輩出し、大きな学派を形成していたからだった。
これには大別して二系統あり、一つは尺伸堂学派で、もう一つは空華学派という。尺伸堂学派は旧氷見町の西光寺にあった学塾・尺伸堂から、空華学派は浦山(宇奈月町)の善巧寺にあった学塾・空華廬から出ている。
 尺伸堂は空華廬より二十年程はやく創設されたものの、三業惑乱の際に異端の学説を奉じていたとされ、以後活動が衰えてしまう。空華廬の方は明治まで学統が途絶えず、本山の教学において最も重きをなしていた。

 【尺伸堂学派】
 尺伸堂は善空(安貞)の遺嘱により、義教と善意が協力して設立した。義教が能化になった後、越中の門弟はみな尺伸堂で学んでおり、当時は大心海に属する者もこの学派に入っていた。善意(芳山)・善譲・善済・善容(義霜)という西光寺法嗣の他に、僧樸なども尺伸堂に学んでいる。空華廬を開いた僧鎔は僧樸に師事しているから、一時期は空華学派も尺伸堂学派の影響を受けていたかもしれない。まさしく尺伸堂学派は「学国越中」の発祥とも言える存在で、門弟は越中・能登・加賀は言うに及ばず、越後・陸奥・近畿や、遠くは長門などからも訪れていた。
 尺伸堂学派は、文化三年(一八〇六)に義霜が軽追放となった後も、多くの門弟を擁していた。しかし、天保三年(一八三二)に義霜が江戸で獄死してからはさすがに活動も衰えたらしく、以後の史料は残されていない。

 【空華学派】
 空華廬は宝暦八年(一七五八)に、僧鎔が善巧寺に設けた学塾で、高柳(滑川市)明楽寺の柔遠をはじめ、薩摩の 道隠も門弟に連なり、多くの学匠が入門している。僧鎔・柔遠・道隠は「空華三師」と称され今日でも尊ばれており、浄土真宗の教学に大きな足跡を残している。
 空華学派は、奇しくも尺伸堂学派が三業惑乱の際に異義とされ、勢力を失ってから台頭しはじめ、近世を通じ本山の教学において、主流派の位置を譲らなかった。明治に入り勧学となった願正寺(論田)の義浄も、空華学派の学匠に師事している。

 ただし前田慧雲は前掲書に「(越中の学国は)而して今日亦衰廃せり」とも言っている。確かに明治以降も県内各地で著名な学者が出てはいながら、富山で再び学派を形成し本山の教学に影響を与える、などということはすでに望めなくなっている。

 【参考文献】
 『真宗王国 富山の仏教』『学国越中』『学苑談叢』
 『近世の氷見町と庶民のくらし』




  十一.浄土真宗の学塾 ⇒目次

 近世の氷見では、浄土真宗本願寺派において宗学の教育が盛んに行われ、一時期は本山の教学に多大な影響を与えるほどの学派が形成された。そうした活動を底から支えていたのは、地方に点在していた寺院の学塾であり、西光寺の尺伸堂・円満寺の大心海・願正寺の安祥閣などが、数多くの師弟を擁し活況を呈していた。
 こうした氷見の学塾に関し、今日残されている史料から、その活動内容を点描すると次のようになる。

 【尺伸堂】
 尺伸堂は元文三年(一七三七)に、西光寺の第六世住職だった善空(安貞)の遺嘱により、義教と善意が協力して創設した。「学国」と称された越中における最初の学塾で、氷見以外からも夥しい僧が訪れて、その門を叩いていた。現在も「尺伸堂入門帳」「義霜門弟帳」や、「尺伸堂学則」「新学教誡」などの史料から、活動の様子が比較的よく分っている。これによれば越信・簡寮・治事・司教・上座という役職があって、他は大衆扱いとなる。衣食住の細かな規律もあり、総じて禅堂のように厳しく運営されていた。
 しかし尺伸堂は三業惑乱の際に、義霜が処罰された関係から衰退したらしく、門弟帳も文政十二年(一八二九)で途絶え、その後の事跡はよく分らない。

 【大心海】
 大心海は第五代能化に就任した義教が、円満寺に設けた学塾で、近世末頃まで経営されていたことが分っている。しかし尺伸堂のように門弟帳や記録等がなく、詳しい活動内容までは知るすべがない。ただ義教には尺伸堂創設の際に与えた「勧学序」があり、同様な精神で運営されていたことは疑いない。
 また『応響雑記』には嘉永五年(一八五二)八月、失火により大心海が焼失したと記されている。さらに安政二年(一八五五)十二月、円満寺の所化坊主(塾生)が光禅寺の雲水等と大喧嘩をし、公事場から検使役が来て、氷見町を震撼させる大事件となったことも詳述されている。

 【安祥閣】
 安祥閣は勧学に就任した義浄が願正寺において開設し、門弟帳では万延元年(一八六〇)から明治二年(一八六九)頃までの、十年間に入門した塾生の名前が記されている。しかしその他、活動の詳細についてはよく分らない。
 ただし義浄は、円満寺の義淳(玄天)に宗学を学んだとされ、また門弟帳の巻頭には義教の「勧学序」が掲載されており、大心海の学統を受け継ぐものである点は明白と考えられる。

 【参考文献】
  『氷見市史6』『学国越中』『芳山小部集』 『応響雑記(下)』
 『応響雑記と仏教』
「安祥閣 滝山義浄門弟帳について」




 十二.浄土真宗の学匠
 ⇒目次

 近世の越中は「学国」と称されており、とりわけ氷見はその発祥地と考えられている。それは西光寺の尺伸堂などから、本山の教学に大きな影響を与えた学匠が、輩出したからだった。そこで今日まで残されている伝記史料から、氷見の学匠たちの足跡を追うと、次のようになる。

 尺伸堂学派(西光寺)

 善空(一六七七〜一七三七)
 越中における真宗の学史上、最初に名が出てくるのは、西光寺第六世の善空(安貞)だった。善空は誰に師事したか不明で、学林へ入り第二代能化の知空などに教えを受け、独力で学問を大成させたものと推測されている。平生倹約に努め、学問の際に必要な紙は、安価なものを求めて自ら八尾まで買いに通った。またある年に立山へ登ると、空中で三尊の姿が現れた。同行の者はみな合掌礼拝したのに、彼ひとりそれは魔の所作であると看破し、叱責したという。元文二年(一七三七)に六一歳で歿し、後事を義教や法嗣の善意に託している。

 善意(一六九八〜一七七五)
 善意(芳山)については、「義教と善意」の項で詳述した。

 善譲(一七二二〜一七五九)
 善譲は字が子恭で、一名を芳什とも言い、北湖と号した。指崎村善兵衛方で生まれ、西光寺で得度し善意に学んだ。師説をよく継承して、第八世住職になっている。しかし、宝暦九年(一七五九)、師に先立ち三八歳で歿する。

 善済(一七三五〜一七八九)
 善済は字が若楫で、忘機と号した。姿村五右衛門方で生まれ、出家して善意に師事した。善譲が夭折した関係から、二五歳で西光寺第九世となる。寛政元年(一七八九)に、五五歳で歿する。

 善容(一七六〇〜一八三二)
 善容は字が子明で、一名を慶哉と言った。一般には義霜という名が用いられている。尺伸堂で学び、後には西光寺第十世となった。また第七代能化の智洞にも就いている。享和二年(一八〇二)に学林で『入出二門偈』を代講した際、自然三業説を主張したとされている。三業惑乱の時は越中で指導者的な役割を果たし、文化元年(一八〇四)に、江戸の寺社奉行所で取り調べを受けている。そして文化三年(一八〇六)、軽追放の裁きを受けた。しかし決して自説を枉げず、晩年まで三業帰命説を布教していた。そのため善容は天保元年(一八三〇)に再び江戸で捕縛され、天保三年(一八三二)年に七二歳で獄死している。

 大心海派(円満寺)

 義教(一六九四〜一七六八)
 義教については、「義教と善意」の項で詳述した。

 義淳(?〜一八四五)
 義淳は字が教曜で、一名を玄天と言った。円満寺住職で漢詩・和歌に優れ、大窪詩仏の『再北遊詩草』附録に七言詩が三首掲載され、写本の『玄天和尚詩集』も現存する。第九代田中屋権右衛門と交流があって、『応響雑記』に九件ほど関係記事が見える。また、勧学となった義浄の師でもあった。弘化二年(一八四五)に歿する。

 義天(生没年未詳)
 義天は義淳の法嗣で書画に秀でていた。田中屋権右衛門と風雅を共にし、『応響雑記』に三六件も関係記事が見える。しかし、円満寺の住職となってから不運な出来事が多く、嘉永五年(一八五二)に学塾・大心海が焼失し、安政二年(一八五五)には光禅寺の雲水と大喧嘩が起きた。

 義浄(一八一七〜一八八六)
 滝山義浄は矢田部村の大誓寺で生まれ、十五歳で義淳に就いて宗学を学び、師の歿後は持浄の門下へ入っている。天保七年(一八三六)、上京して学林に学び、七年後には、願正寺の第十五世を継いだ。寺内に学塾・安祥閣を開設し、門弟の育成に努める。明治七年(一八七四)に司教となり、明治十九年(一八八六)に勧学となって間もなく、七十歳で歿する。真成院と諡されている。

 了州(一八九八〜一九七七)
 高峯了州は、無礙室と号し、論田村の光伝寺で生まれた。昭和十三年(一九三八)に司教となり、太平洋戦争末期の昭和十九年(一九四四)、龍谷大学教授に就任する。終戦後間もなく、昭和二一年(一九四六)には光伝寺の第十六世住職を継いだ。昭和三十年(一九五五)に「華厳に於ける禅と念仏の通路」で、文学博士号を授与される。また昭和三二年(一九五七)に勧学となり、本山の安居で阿弥陀経や無量寿経を講じる。昭和五二年(一九七七)に七九歳で歿する。華厳院と諡された。
 了州の代になると近代的な学制の中で学ぶようになり、近世末まで続いた氷見の学系とは断絶した観がある。

 【参考文献】
 『近世の氷見町と庶民のくらし』『応響雑記と仏教』『学国越中』
 『真宗本派 学僧逸伝』





 十三.氷見の学匠著述 ⇒目次

 近世の越中は「学国」と称され、浄土真宗本願寺派で多くの学匠が輩出し、本山の学林で活躍していた。なかでも氷見はその発祥地といわれ、西光寺にあった学塾の名を冠する、尺伸堂学派が一世を風靡していた。今日まで残されている氷見出身者が著した古書のほとんどは、この学派のものであった。第五代能化・義教を筆頭に、善意(芳山)・義霜等の著述が、刊本あるいは写本の形で公にされている。
 その内、代表的なものを列挙すると次のようになる。

 義教(円満寺住 号・易往閣 諡・泰通院)

『浄土真宗諭客編』
 中嶋又兵衛(富山)元文三年(一七三八)刊
 ※ 千手寺の空遍が『禅客鸞徒破会評決』を著して真宗を誹謗したので、
  反論したもの(『浄土真宗経典志』巻二)。『真宗全書』巻六十所収。
  近世活字本。

『輪駁行蔵録』五巻(善意と共著)
 大野木市兵衛(大阪)河南四郎右衛門・西村与右衛門(京都)
 延享元年(一七四四)刊

 ※ 日蓮宗で『決権実義』を著し『諭客編』を批判したので
  反論したもの(『浄土真宗経典志』巻二)。

『千五百条弾憚改』十一巻
 河南四郎右衛門・西村与右衛門(京都)寛延二年(一七四九)刊
 ※ 富山の日芳が『訶責謗法鈔』著し『行蔵録』を批判したので
  反論したもの(『浄土真宗経典志』巻二)。『真宗全書』巻六十所収。

『愚禿鈔摸象記』六巻(別名「二巻鈔摸象記」)
 丁子屋九良右衛門(京都)安永九年(一七八〇)刊
 ※ 親鸞の『愚禿鈔』に詳細な注釈を加えたもの。
  『真宗叢書』巻九所収。

『本尊義破邪顕正』(写本)
 ※ 智暹の『浄土真宗本尊義』を批判したもの。
  『真宗全書』巻四九所収。

『観経四帖疏講録』十三巻(写本)
 ※ 『真宗全書』巻十四所収。
『観経依釈』六巻(写本)
 ※ 『真宗全書』巻四所収。

 善意(西光寺住 号・芳山・無人閣 諡・明達院)

『白糸篇』三巻
 丁子屋九郎右衛門・北村四郎兵衛・銭屋荘兵衛(京都)
 天明元年(一七八一)刊

 ※ 本書は三業惑乱関連書として、文化三年(一八〇六)絶版にされた。
『評偽弁』(写本)
 明和八年(一七七一)
 ※ 前年六月に大谷派で起った論争を批判したもの
 (『浄土真宗経典志』巻二)。

『安心或問』(写本)
 安永二年(一七七三)
 ※ 別名「法の友」。善意自筆本か?
『安楽集述聞』五巻(写本)
 寛政七年(一七九五)
 ※ 『真宗全書』巻十二所収。

 義霜(西光寺住)

『大寂定中所現録』(写本)
  寛政十一年(一七九九)
末代无智章法談』(写本)
 ※ 義霜自筆本か?

 義淳(玄天・円満寺住)

『玄天和尚詩集』(写本)
 嘉永五年(一八五二)

 【参考文献】
 『氷見市史6』




 十四.
義教と善意 ⇒目次

 近世に「学国越中」から輩出した学匠の内で、最高位に昇ったのは、旧氷見町の円満寺に住した義教だった。
 義教は字が了翁で、易往閣と号し、後に大心海主と自称した。元禄七年(一六九四)、能登・羽咋郡の小原直江宅に生まれ、十一歳で越中に来る。円満寺・宗句の下で剃髪し、法嗣となって第九世住職に就任する。浄土真宗の教義は、西光寺の善空(安貞)から学んだ。
 千手寺の空遍が『禅客鸞徒破会評決』を著し真宗を誹謗したので、元文三年(一七三八)に『浄土真宗諭客編』を刊行し反論に努めた。しかし日蓮宗の僧が『決権実義』を著し、『浄土真宗諭客編』を非難したので、延享元年(一七四四)、『輪駁行蔵録』五巻を善意と共に刊行して、これを論駁した。さらに富山の日芳が『訶責謗法鈔』著し『輪駁行蔵録』を批判したので、寛延二年(一七四九)に『千五百条弾憚改』十一巻を刊行しこれを論破した。
 このような他宗派からの論難に対し、義教は真宗擁護のため応戦して、大いに成果をあげた。
 また寛延二年(一七四九)夏には、『観無量寿経』を本山の学林で代講し、寛延三年(一七五〇)に『入出二門偈』、宝暦五年(一七五五)に善導の『観経四帖疏』「玄義分」を講じる。こうした学問上の業績に加え、義教は性質が温和で人望も篤く、当時十三年間も空位だった能化職に推される。能化とは、本山の学林における最高責任者で、宗学を統括する要職だった。
 第四代能化の法霖が歿するとなかなか後継者が定まらず、学林では智暹の学力が群を抜いており、次に就任するのではないかと噂されていた。その時、僧樸は以前に尺伸堂で学び、義教の力量をよく知っていたので、一度代講に任命するよう提案した。そこで『観経』を講じると皆その学問に驚き、翌年も代講に指名される。その結果、一同が心服して、宗主へ推挙したという。宝暦五年(一七五五)、能化に就任してからは、一切のことを道粹・僧樸に委ねる。他の者を推挙しその力量を発揮させるため、講義も隔年に行い、一年は代講を立てた。この時から隔年に講じるのが、能化の通例となる。義教は講義が終るとすぐ帰郷し、本山に長く止まらず、地方の教化にも意を注いだらしい。
 義教が能化を勤めていた時期に、本山では激しい論争が起った。それは明和法論と呼ばれており、智暹が明和元年(一七六四)に『浄土真宗本尊義』を著し、学林で正当とされていた法霖の学説を、批判したことに端を発する。
 この議論の中心問題として、本尊論と一益法門の二面があった。法霖は、真宗の本尊を『観経』に見える立像尊としていた。しかし、智暹は『無量寿経』の仏身とするべきであると主張し、さらに法霖が正定聚・滅度を一益とみる異義に陥っていると批判した。学林ではこれに反発して、『浄土真宗本尊義』の絶版を本山へ求め、智暹と対立するに至った。明和四年(一七六七)に、義教を判定者として、功存等の学林側と智暹等が議論した。二回の討論で決着がつかず、本山は双方を誡告し謹慎させたところ、学林側が不服として騒動を起こし、対立は納まらなかった。
 しかし残念ながら義教はこの論争の終結を見ることなく、明和五年(一七六八)、七五歳で逝去する。辞世の句は、
「のちのよとゆふもいまやになりはてて かなしくもありうれしくもあり」
と伝えられている。宗主からの諡は、泰通院という。

 義教の同学に西光寺の善意がおり、共に切磋琢磨し学問を成就させた。
 善意は初名が自牽で、芳山と号し、また無人閣という号もあった。義教と共に善空(安貞)に学び、『無量寿経』の「易往而無人」という句を分けて各々の号に用いていた。
 元禄十一年(一六九八)に、稲積村の大坪三左衛門方で生まれ、幼い時に西光寺で出家した。善空には後継が無く、養子に入り第七世住職となる。義教より四歳年少ながら、徳望は互角であり、志を同じくして学問に励んだ逸話が伝えられている。
 二人はある碩学に四書五経等を習い、作文・作詩も教わり、なかなかのものを作った。ある日、先生は両人を呼んで、自分のような田舎学者のところに居らず、上京して大学者を訪ね勉強すれば、すぐにも進歩して学問が成就するだろう。青雲の志をもて、と励ました。二人はこれを受け、先生が親戚に話して上京させ、檀家が費用を工面した。
 二人は京都で内外の典籍を学んでいたところ、少々倦怠感を覚えて、お金もなくなり労役に服した。親戚・檀家はこれを知り、連れて帰ろうと考えた。そこで資金を持って京へ上り旅館で近況を聞くと、ひどく驚いて二人を呼び、前に人をだまし学業を修めると言ったのに、金銭をむだ遣いしてこの有様となった。仏祖がどうご覧になっている、と戒めた。二人は、まったく誤っていた。これからは非を改め学業に励みたい、と言うので、総代はようやく許し、亭主にお金を預け越中へ帰った。
 二人はこの時から発憤し、学業に励んだ。三年間、諸方へ遍歴して師を尋ね、経論等を学んだ。ある年に、碩学が法華入疏を四条の道場で講義したので、これを聴いて互に討論した。翌年二人は越中へ帰って、義教が法華入疏講義の看板を円満寺に立てると、数日で僧たちが雲集し聞く者みな驚嘆した。善意も開講の看板を西光寺に立て、余章を講義すると、多くの弟子たちが集まった。その翌年、また上京して学林に席を置き、日々聴講する。講義終了の際、法霖に弟子入りを懇願して許可され、日夜勉学し教義全般に理解の及ばない点はなく、年を経ずして大成する。
 善意は多くの著述を遺しており、主著『白糸篇』の他、『評偽弁』『安楽集述聞』など二十種を越えている。義教が能化になってからは、円満寺の門人も西光寺の尺伸堂で学ぶようになり、多くの学匠がその門を叩いている。全盛期には尺伸堂学派を形成して、本山の教学に影響を及ぼし、「学国越中」の発祥地とすら称される。地方における真宗教学の振興に、大変な功績があった。
 安永四年(一七七五)に、七八歳で逝去した。宗主より明達院と諡されている。

【参考文献】
『近世の氷見町と庶民のくらし』『芳山小部集』『学国越中』
『龍谷大学三百五十年史 通史編上巻』





 
十五.
妙好人おのよ ⇒目次

 近世末頃、一刎村に「おのよ」という名の女が、独りで暮らしていた。家が貧しくわずかな田を人に貸し、なんとか生計を立てていた。ただたいへんな正直者で浄土真宗を信じ、よく御寺へ通い世話をしていた。この「おのよ」は、天保元年(一八三〇)の四月下旬頃、重病に罹り、三〇余りでこの世を去った。そこで親類が集まり葬式を挙げ墓場に目印として青竹を立てておいた。これが日を経ても枯れず、逆さまに芽を出してきた。この「逆竹」は、あたりで大変な評判となった。その話が往生にまつわる奇瑞として本山まで知れわたり、当時刊行されていた『妙好人伝』に収録される。こうして「おのよ」はいわゆる「妙好人」として、広く人々の認知するところとなった。
 「おのよ」の伝記に見られる最も特徴的な点は、「逆竹」の奇瑞であった。貧困の中、若くして病死した女が正しい信心を持っていた証として、遺言通り墓の青竹がいつまでも枯れず、逆さまに茂ってきたという。
 このような内容は、近世に数多く作られた往生伝の系譜に繋がる物語で、そこに見られる来世往生主義的な思想は、江戸時代に真宗門徒の大部分を構成した、農民たちの生活苦に基盤がある。生きる辛さから現世という穢土を厭い、浄土を欣求する願いが切実となり、臨終時の来迎を肯定し来世への往生を重んじる教義が形成された。そこに当時の民衆の意識が、実にはっきり現れていると思われる。
 また、「おのよ」の伝記に見られるもう一つの特徴的な点として、「三業惑乱」に関する問答が挙げられる。
 大病で危篤になり、従弟が法門の心得を聞いたところ、「阿弥陀如来を信じて、ただ念仏するばかり」と言う。彼は三業執着の人で「弥陀をたのむ一念が大事であり、すぐ如来をたのめ」と勧めた。すると「おのよ」は「私の信心が疑わしいなら葬式の灯籠の竹をさして、芽が出れば往生したと思え」と答えた。死後まさしくその竹は枯れず、逆さまに芽を生じた。
 これは「おのよ」が、三業帰命説などに屈しないで信心を貫き、その正当性が死後の奇瑞で確証されたという説話に他ならない。「おのよ」の伝記では、三業帰命に反対する立場の喧伝という意図がきわめて濃厚に現れており、それはどうやら、『妙好人伝』第四篇の編者であった僧純の意志によるものらしい。
 ところで「おのよ」と同時代人の第九代田中屋権右衛門が書いた日記『応響雑記』には、「逆竹」の挿絵まで入れられている。「おのよ」の一件はその頃、現実に起った出来事として広く知られており、『妙好人伝』と比較しても、事件そのものに関する描写は酷似していて、その事実性はきわめて高い。しかし『応響雑記』には、『妙好人伝』中の眼目とも言うべき、三業帰命に関する問答と最後の批評の部分が全く欠落している。
 つまり「おのよ」の事件は当時、しばしばまことしやかに伝聞されていた、奇跡話の一種として捉えられていた。当初は三業帰命説などと関係ないただの珍事が、いつしか従弟との問答まで付加され、安心に関する例話のようなものに変質しつつ、今日に伝えられたと考えられる。

 【参考文献】
 『来世への旅立ち』




 十六.
異安心 ⇒目次

 異安心とは真宗において、教団が正統と認める方向から逸脱した形で教義を解釈し、頑なにそれを奉じて行動することを意味する。親鸞聖人の在世当時から、信仰上の解釈をめぐって、数多くの異義が現れた。しかし、今日問題とされる異安心とは、中世以前の異義・意解とは一線を画し、近世以後に起った特徴的な現象を指す。
 近世では幕府の奨励下、学事組織が整備され学匠が輩出した。そのため真宗の教学研究が盛んになり、宗学が洗練されていった反面で、宗教上の統制も厳格になり、異義を排斥する傾向が顕著になってきたと考えられる。
 また江戸幕府は寺檀制度を整備し、民衆の支配に寺院を利用していた。檀家の者が切支丹ではないことを保証するだけでなく、当時の寺院は一種の戸籍事務を扱う行政機関の役割も果していた。従ってこの時代、寺院の意向は直接民衆に大きな影響を及ぼし、異安心問題もしばしば民衆を巻き込んだ大事件に発展している。
 近世の氷見でも真宗において、僧俗を巻き込んだ大きな異安心事件が起っている。本願寺派では三業惑乱という、本山まで震撼させた大騒動があり、大谷派でも能登を発端とする、頓成事件があった。

 三業惑乱とは、身(体)・口(語)・意(心)の三業を正し、阿弥陀仏へ救いを願い求めよと教える、三業帰命説の正否をめぐり本山と在野の学匠が論争して、宗派内で決着がつかず暴動にまで発展した一件をいう。
 宗学を統括する能化職に就任した功存が、『願生帰命弁』を著した明和元年(一七六四)頃から表面化し、文化三年(一八〇六)に三業帰命説を異安心とする裁決が幕府から下されるまで続いた。その結果、本山の学林に属する何人もの学匠が処罰を受けて、関係書籍が絶版となり、本山も百日の閉門を言い渡されるなど、前代未聞の事態となる。
 氷見では尺伸堂学派に連なる学匠が三業帰命説を奉じており、とりわけ西光寺の義霜が越中において布教の中心的な役割を果たしていた。そのため義霜は、寺社奉行所から召喚され江戸で取り調べを受けた上で、本籍地などに住めなくなる軽追放に処せられた。善意の主著である『白糸篇』も官命で絶版にされ、尺伸堂学派の活動が大きく停滞することになった。この時に氷見の門徒衆は、伏木の勝興寺や金沢別院へ大勢集まったり、三業帰命説を従来の通り相承することができるよう、嘆願書を出したりしている。

 頓成事件とは、幕末の頃に能登・長光寺の頓成が、真宗の教義に見える二種深信を否定し、機の深信は自力であると主張して破門されるに至った一件をいう。
 その二種深信とは、機(衆生)の深信と法(阿弥陀仏)の深信に分けられる。前者は救われがたい身であると自ら深く信じること、後者はそんな自分を必ず仏が救うと信じることで、正しい信心とは、両者が具足したものであるとされている。
 頓成の機の深信自力説は、能登を中心に広く布教され、氷見でも西念寺(赤毛)や常願寺などで、盛んに説かれていた。そこで慶応元年(一八六五)に益善寺等の訴えから、寺社奉行が西念寺へ法話の差止を命じ、翌年奉行所へ召喚されることになる。しかしこの時点では説を枉げず、自力説を堅持しており、そのまま維新を迎えたらしい。
 明治七年(一八七四)に頓成は本山から破門されており、西念寺側がいつまでこの説を奉じていたか、現在のところまだ明確でない。今後の調査が待たれる。

 ところで中島覚亮は『異安心史』で、
「異義者の出づるは法義繁昌の間に於て、義解若しく(ママ)安心に心を留むる余りに起るのが普通」(五六頁)
と言っている。異安心事件が起るのは、その時点で仏法が繁昌していた証拠とさえ考えられる。
 近世の氷見において、他地方・他宗派ではあまり類例を見ない、このように大きな異安心事件が、東西両派でまき起っている。それは当時の僧俗がどれほど篤く真宗の教えを心に懐いていたか、窺い知れるものと言えるのではないだろうか。

 【参考文献】
 『氷見市史6』『近世の氷見町と庶民のくらし』『了瑞寺略記』『真宗史概説』
 『本願寺史 第二巻』
『異安心史』




 十七.
光禅寺と円満寺の騒動 ⇒目次

 安政二年(一八五五)十二月十五日に旧湊町で、光禅寺(曹洞宗)の托鉢僧と円満寺(浄土真宗本願寺派)の所化坊主とが大喧嘩をした。光禅寺側雲水の三人が半死の重傷を負ったせいで、加賀藩の公事場から検使役や、寺社奉行から与力などが出役することになる。その間、町方の役人は全員待機していなければならず、氷見町中を震撼させる大事件に発展した。その当時、町年寄を勤めていた第九代田中屋権右衛門の日記『応響雑記』の中でも、屈指の騒動だった。
 この一件の経緯を『応響雑記』に従って逐一見てゆくと、次のようになる。

《十二月十五日》
 湊町の魚店辺りで光禅寺の托鉢僧と円満寺の所化坊主が、大喧嘩し、雲水を袋叩きにする。そこで直ちに光禅寺側は、瑞龍寺へ訴え出た。
《十二月十六日》
 昨日から徹夜で町役人が寄合を開き、情報を収集しつつ対応を協議する。
《十二月十七日》
 光禅寺の雲水三人は重傷で、御役所へ検使役派遣の伺いを立てる。円満寺側も勝興寺へ届け出る。
《十二月十八日》
 返書が来て、町役人が夜通しで御役所へ出頭する。藩の公事場検使役と寺社奉行所与力が来るとの通知を受ける。
《十二月十九日》
 公事場検使役が今石動町に泊まる。
《十二月二十日》
 公事場検使役・留書足軽・医師・寺社方役人などが到着する。検使役は光禅寺へ泊まる。
《十二月二一日》
 光禅寺雲水・円満寺院主・学寮僧・湊町組合頭・肝煎等を詮議する。
《十二月二二日》
 口書調方御用で肝煎等が詰切となる。また、勝興寺より断書が来る。
《十二月二三日》
 口書調方御用が済んで、裁きが下る。光禅寺雲水は寺社奉行所預け、円満寺院主は徘徊留、など。
《十二月二四日》
 検使役が出立する。

 この騒動には前段があって、嘉永七年(一八五四)六月二二日に、光禅寺の雲水が円満寺の所化坊主を取り囲んで狼藉している。その際は両者の住職が相談して、内々に済ませたらしい。しかし寺僧の間では怨恨が消えず、翌年に大騒動を起す原因になったと考えられる。

 【参考文献】
 『真宗王国 富山の仏教』『応響雑記(下)』『応響雑記と仏教』




 十八.
明峰素哲と月澗義光 ⇒目次

 曹洞宗において、歴史上ふたりの傑出した禅僧が氷見に住した。それは加賀の大乗寺第三世・能登の永光寺第二世を歴任して、光禅寺を開いた明峰素哲と、能登の豊財院に住し、後に光禅寺を再建した月澗義光であり、宗門内でも名僧として称えられている。
 明峰素哲は建治三年(一二七七)、加賀に生まれ、富樫氏の出であるとされている。永仁元年(一二九三)に十七歳の時、比叡山・延暦寺で円頓戒を受けて出家し、顕・密の教義に精通した。しかしこれに飽きたらず翌年には建仁寺へ行き、禅を学ぶことにした。
 それから間もなく大乗寺へ移り、瑩山紹瑾に参禅する。修行に励むこと八年、乾元元年(一三〇二)の頃、ついに大悟徹底した。さらに悟後の修養として諸国を行脚して、恭翁運良や徹通義介に参学し禅を究めている。
 後に大乗寺を退き永光寺へ移った瑩山紹瑾のもとへ参じ、元亨三年(一三二三)に首座となった。そうして正中二年(一三二五)、譲られて住職に就任し、以後十年にわたって門弟を指導する。
 また嘉暦元年(一三二六)には、氷見の光禅寺を創建し、すぐに法嗣の松岸旨淵へ住職を譲った。ただし晩年に越中の檀家から招請を受け、再びここに住している。一生所持していた弁才天を唐島へ安置し、伽藍も整備するなど、大いに寺を盛りたてた。明峰素哲は光禅寺を終焉の地と定め、観応元年(一三五〇)に七四歳の生涯を終えた。
 遺骨は大乗寺・永光寺・光禅寺に分けられている。

 月澗義光は、承応二年(一六五三)に十二町村で生まれ、寛文五年(一六六五)に光禅寺で得度している。天和元年(一六八一)には月舟に謁して禅を極め、翌年、大乗寺で卍山に付いて参禅し、衣鉢を受けるに至った。
 貞享二年(一六八五)に豊財院の住職となり、元禄元年(一六八八)に光禅寺へ移り第十九世住職となる。しかし当時この寺の伽藍は荒廃しており、すぐ復興のため全国を行脚した。元禄九年(一六九六)には過労のため、左眼を失明したにもかかわらず、屈することなく勧化に努める。その結果、元禄十四年(一七〇一)にめでたく再建を果たすことができた。またその傍ら指先の鮮血を絞り大般若経の血書に励み、失明するまで三百巻を書き終えた。現在も血書された経典は豊財院に保存され、折本の体裁で桐箱に納められている。
 月澗義光は光禅寺が再建されるのを待ったかのように、翌年の元禄十五年(一七〇二)、五十歳で示寂した。

 明峰素哲と月澗義光は、当時最も優れた師僧について禅を極め、その衣鉢を受け北陸の各地で活躍した。晩年氷見に住して、雲水を指導し民衆を教化した。遺徳は現在までおよび、折りに触れてその事績が称えられている。

 【参考文献】
 『加賀大乗寺史』『永光寺史料調査報告書』 『宝寿寺記録撰集』
 「明峰素哲の生涯とその功績」
「明峰素哲と松岸旨淵の伝記史料」




 十九.
慈雲妙意と雪門玄松 ⇒目次

 臨済宗国泰寺派の総本山である摩頂山国泰寺は、旧氷見郡の太田村にあり、開山の慈雲妙意(清泉禅師・慧日聖光国師)以下、代々高名な禅僧が住している。
 慈雲妙意は、文永十一年(一二七四)に信州で生まれ、十二歳の時、越後の五智山で出家した。十九歳になって、日光山へ行き円覚経を聴講し、大いに悟るところがあった。
それから諸国を巡錫し、永仁四年(一二九六)二三歳の時、霊感を受け二上山で草庵を結ぶ。翌年成道を二上権現に祈り、三光国師・孤峰覚明と邂逅し、その教えで紀州へ赴き法燈国師・心地覚心の下で大悟する。永仁六年(一二九八)に師が亡くなった後は、孤峰覚明に付いて修養する。
 正安元年(一二九九)には、再び二上山へ戻り、道俗の懇望からやむなく東松寺を創建する。乾元元年(一三〇二)、孤峰覚明の強い勧めで伽藍を整備し、雲水の指導に努め、その声望が全国へ及ぶようになった。
 嘉暦二年(一三二七)には、後醍醐天皇の招請を受けて参内し、清泉禅師の称号と紫衣などを賜った。翌年さらに国泰寺の号が下賜され、寺名を改めることになる。また、暦応二年(一三三九)には、北朝の光明天皇から御親筆を賜り、強い要望で翌年参内する。康永三年(一三四四)には、紫衣も賜った。
 貞和元年(一三四五)に病を得て、七二歳で逝去する。光明天皇はその遺徳を偲び、慧日聖光国師と諡された。
 その後を継いだ国泰寺歴代住職では、戦国の末頃、兵火で荒廃した寺院の復興に努めた雪庭や、江戸の中頃、伽藍を整備した別伝・万壑などの事跡がよく知られている。

 ところで近代に入り廃仏毀釈の余波を受けて、衰微した国泰寺を立て直した傑僧に、雪門玄松がいた。西田幾多郎の師匠でもあり、西田哲学の形成に大きな影響を及ぼした。また、水上勉氏の小説『破鞋』のモデルとされ、今日でもその生涯を生々しく知ることができる。
 雪門玄松は、嘉永三年(一八五〇)に和歌山で生まれ、俗性は道津といった。幼い時に発心し、寒川村の安楽寺で出家した。明治六年(一八七三)に京都の相国寺へ入り、数年で荻野独園から印可を受ける。明治十五年(一八八二)に清国へ渡り、名刹を歴遊した後、明治十七年(一八八四)に国泰寺住職となった。前住である越叟義格の遺志を継ぎ、荒廃した寺院の復興に奔走して、明治二一年(一八八八)、天皇殿などを再建した。しかし明治二六年(一八九三)に開山忌を盛大に勤めた後、急遽国泰寺から退いて、金沢・卯辰山の洗心庵に移り住む。この頃、第四高等学校の講師だった西田幾多郎が日参し、その指導で座禅に励んだ。
 それから雪門玄松は、実家を継ぐため明治三二年(一八九九)に一時還俗し、晩年の大正二年(一九一三)に僧籍へ復帰している。しかし海印寺の住職となって間もなく、大正四年(一九一五)六六歳で波乱の生涯を終えた。

 【参考文献】
 『清泉の流』『聖光国師』『雪門禅師と西田幾多郎』




 二十.
滝水薫什と薮波浄慧 ⇒目次

 明治期に氷見で、仏教の改革を提唱しながら、勧業に努めた浄土真宗の僧侶が二人いた。それは憶念寺(熊無)の滝水薫什と光福寺(薮田)の薮波浄慧であった。彼らは志を同じくし、当時の堕落した教団の在り方に異義を唱え、僧籍を剥奪されても屈することなく、真宗の布教と農業の普及に生涯を捧げた。

 滝水薫什は天保十一年(一八四〇)、慈光寺(宇波)に生まれ、後に憶念寺の法嗣となった。宗学を覚円寺(新湊市朴木)の持浄に、漢学を待賢室(高岡)の野上文山に学ぶ。
 明治十三年(一八八〇)、薮波浄慧と自督社を開設する。これは宗教産業一体論に基づき、真宗の教義を普及させるための教会として発足し、上庄地方の浄土真宗寺院・十六箇寺の賛同を得て設立された。ただし後には専ら農業改良運動が主体となった。自督社の活動は砺波郡まで波及し、会員が一万人を越える団体に発展する。
 こうした地元での活動ばかりではなく、滝水薫什は明如法主へ明治二十年(一八八七)に意見書を提出するなど、教団の制度改革を強く訴えた。ところが却って明治二三年(一八九〇)、本山から異安心の疑いで取り調べのため召喚されることになる。これは人道を第一に重んじて、信心はそれを守った上でのことである、などと説いたためだった。本山で審問を受け、見解の変更を求められても決して自説を枉げず、翌年には僧籍が剥奪されることになった。
 しかしこのことで滝水薫什の活動が停滞することはなく、明治二七年(一八九四)には薮波浄慧と氷見郡農会の創設に努めた。さらに富山県農会の組織活動にも取り組んだ。こうして県内における農業改良運動で不朽の足跡を残し、明治三九年(一九〇六)十月、盟友・薮波浄慧に遅れることわずか一月で、六七歳の生涯を終えた。

 薮波浄慧は嘉永五年(一八五二)、覚円寺(新湊市朴木)に生まれ、明治十一年(一八七八)に光福寺第十五代住職となった。野上文山に学び、滝水薫什とは同門で親類でもあった。二人はまさしく一心同体の間柄であり、共に宗門の改革や農業改良運動で活躍した。奇しくも同年に僧籍を剥奪され、明治三九年(一九〇六)九月、滝水薫什に先立ち五五歳で逝去している。
 とりわけ農業改良運動に対し、薮波浄慧は多大な貢献をしており、氷見郡農会や富山県農会の設立に中心的な役割を果たしている。それらの功績が認められて、明治三二年(一八九九)には富山県農会長に就任している。
 滝水薫什と薮波浄慧は、宗門において異端者と見なされ破門の憂き目に遭っている。しかし彼らは、人道を重んじ宗教的な信念に基づいて、産業の興盛に一生を捧げた。

 【参考文献】
 『薬師山 光福寺』『薮田 光福寺史』
 「明治前期仏教改革運動の一こま ―滝水薫什の活動を中心に―」




 《参考文献》 ⇒目次


【氷見市関係】

『氷見市史 3 資料編一 古代・中世・近世(一)』氷見市史編さん委員会編
 氷見市 一九九八

『氷見市史 6 資料編四 民俗、神社・寺院』氷見市史編さん委員会編
 氷見市 二〇〇〇

『氷見市寺社調査報告書 平成三・四年度 浄土真宗本願寺派の部』
 氷見市教育委員会 一九九三

『氷見市寺社調査報告書 平成五・六年度 真宗大谷派の部』氷見市教育委員会
 一九九五

『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度 臨済宗国泰寺派・浄土宗・日蓮宗
 ・高野山真言宗・曹洞宗の部』氷見市教育委員会 一九九六

『近世の氷見町と庶民のくらし』氷見市立博物館編刊 一九九四
『来世への旅立ち』氷見市立博物館編刊 一九九八
『応響雑記』(上)児島清文・伏脇紀夫編 桂書房 一九八八
『応響雑記』(下)児島清文・伏脇紀夫編 桂書房 一九九〇
『応響雑記と仏教』森越博編 桂書房 一九九八
『芳山小部集』越中真宗史編纂会 一九三九
『薬師山 光福寺』 薮波隆信編 光福寺 一九八八
『薮田 光福寺史』 薮波隆信編 光福寺 一九九二
『了瑞寺略記』釜田弘章編著 了瑞寺 一九九六
『宝寿寺記録撰集』 児島清文編 小西素宗刊 一九八四
『東旭山 光西寺誌』 光西寺 一九七二
『清泉の流』桃井香岳編 国泰寺 一九三七
『聖光国師』湖海少哉編著 国泰寺 一九七五
『一圓院日脱上人遺芳』望月真澄編 日蓮宗脱師法縁 一九九八
『石動山信仰遺跡遺物調査報告書』氷見市教育委員会編刊 一九八四
『国指定史跡石動山文化財調査報告書』石動山文化財調査団・氷見市教育委員会
 一九八九

「明治前期仏教改革運動の一こま ―滝水薫什の活動を中心に―」
 (越中史壇第三十号) 橋本芳雄 一九六五

「氷見地方真宗寺院の展開」(氷見春秋 第三十一号)薮波隆信著 氷見春秋社
 一九九五

「安祥閣 滝山義浄門弟帳について」(氷見春秋 第三十六号)薮波隆信著
 氷見春秋社 一九九七

「明峰素哲の生涯とその功績」(駒沢大学仏教学部論集第三〇号〜) 佐藤秀孝
 一九九九〜

「明峰素哲と松岸旨淵の伝記史料」(駒沢大学禅研究所年報第十一号)佐藤秀孝
 二〇〇〇


【富山県関係】

『真宗王国 富山の仏教』青雲乗芳ほか著 巧玄出版 一九七四
『学国越中』永田文昌堂 一九八四
『禅宗地方展開史の研究』広瀬良弘著 吉川弘文館 一九八八

【石川県関係】

『能登石動山』櫻井甚一ほか著 北国出版社 一九七三
『鹿島町史 石動山資料編』鹿島町史編纂専門委員会編 鹿島町役場 一九八六
『白山・石動修験の宗教民俗学的研究』由谷裕哉著 岩田書院 一九九四
『加賀大乗寺史 増補版』舘残翁ほか著 北國新聞社 一九九四
『永光寺史料調査報告書』石川県羽咋市教育委員会文化財室編刊 二〇〇〇
『雪門禅師と西田幾多郎』上杉知行著刊 一九八二

【仏教関係】

『真宗史概説』赤松俊秀・笠原一男編 平楽寺書店 一九六三
『本願寺史』第二巻 浄土真宗本願寺派宗務所 一九六八
『龍谷大学三百五十年史』通史編上巻 龍谷大学 二〇〇〇
『真宗本派 学僧逸伝』井上哲雄著 永田文昌堂一九七九
『学苑談叢』前田慧雲著 前田是山両和上古稀記念会 一九二七
『異安心史』中島覚亮著 平楽寺書店 一九一二
『宗教年鑑 平成13年度版』文化庁編 ぎょうせい 二〇〇二


    ― 2002.6.27 脱稿 ―