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氷見の仏教《1》





  《目次》

  一.氷見の仏教概説  二.浄土真宗本願寺派  三.真宗大谷派
  四.浄土宗        五.曹洞宗         六.臨済宗国泰寺派
  七.真言宗        八.日蓮宗         九.石動山



 一.氷見の仏教概説 

 氷見では古代から仏教が根付き、今日に至るまで受け継がれている。その永い星霜の間に幾多の変遷があり、時代毎に明らかな特徴が見られる。市全域を対象とした本格的な仏教の調査研究は、近年始まったばかりで、まだ全貌が明らかになっていない。それでも数多くの資料が収集されており、今ここでは信頼できる文献から判明する範囲で、氷見の仏教を概観したい。

 旧氷見郡において、開基が古代まで遡る寺院は、数箇寺しか知られていない。さらにその内、現在まで継承されているのは上日寺・千手寺のみで、他は廃寺となっている。しかし、石動山や二上山などは明治維新の頃まで存続し、多くの史料から往年の活動内容を読み取ることができる。古代の氷見では、石動山・二上山などに見られる修験道や、上日寺・千手寺などに見られる観音信仰の形態で、仏教が営まれていた。

 中世に入ると鎌倉新仏教が氷見でも布教され、各宗派で活動が開始される。とりわけ禅宗の地方展開が目覚しく、十四世紀頃、高名な禅僧により期を同じくして多くの寺院が建立された。正中元年(一三二四)に壺庵至簡が紹光寺を、嘉暦元年(一三二六)に明峯素哲が光禅寺を、嘉暦三年(一三二八)に慈雲妙意が国泰寺を創建している。この間わずか五年しかない。
 浄土系仏教では、正応五年(一二九二)の『時宗過去帖』に「氷見 道阿弥陀仏」とあり、氷見で時宗が布教されていたらしい。浄土宗の西念寺はもと時宗で、開基の由来に踊り念仏が出てくる。延文五年(一三六〇)に後醍醐天皇の皇子・信濃宮良明が住して、浄土宗へ改宗した。
 石動山は中世に北陸の有力寺院として発展し、鎌倉期に朝廷の勅願所となった。また地方政治と深く関係し戦火に遭うことも多かった。建武二年(一三三五)には中院定清が篭城し、康安二年(一三六二)にも桃井直広が合戦している。戦国期は上杉勢に味方して、天正十年(一五八二)に荒山の合戦で前田勢から攻撃を受け、全山灰燼に帰している。慶長二年(一五九七)に、ようやく許され還住することができた。日蓮宗の日暹はもと石動山の坊主であり、日印に折伏されて改宗し、嘉暦二年(一三二七)に蓮乗寺を創建している。
 また中世末頃から越中では浄土真宗が盛んに布教され、広く民衆へ浸透した。古くからあった寺院が改宗したり、新たに多くの道場が建立されたりした。旧氷見郡の全域へ真宗寺院が展開し、近世初期には百箇寺を数えた。

 近世に浄土真宗本願寺派で活発な活動が展開され、越中を「学国」と称えている。第五代能化の義教をはじめ学匠が輩出し、本山の教学に大きな影響を及ぼした。当時越中には尺伸堂学派(氷見)と、空華学派(浦山)があった。尺伸堂は空華廬よりも早く創設され、「学国越中」の発祥地と考えられている。西光寺の尺伸堂は善空(安貞)の遺嘱で、義教と善意が設立し、門弟は越中・能登・加賀・越後などまで及んでいた。この他、氷見の学塾には、円満寺の大心海や願正寺の安祥閣があった。
 ところで近世に本願寺派で、三業惑乱という異安心事件が起きた。三業帰命説の正否をめぐって大騒動に発展し、宗派内で解決できず幕府の裁決を仰ぐことになる。氷見の尺伸堂学派は三業帰命説を奉じ、義霜が越中で指導者的な存在となっていた。そのため江戸で裁きを受け処罰されている。また大谷派でも幕末頃、頓成事件が起った。これは能登の頓成が機の深信自力説を主張し、宗義を混乱させたもので、西念寺(赤毛)や常願寺などに波及した。

 明治維新後は、神仏分離・廃仏毀釈が断行され、石動山など退転する寺院が多く出た。また上日寺などのように、存続しながらも加賀藩の保護や氏子などの経済基盤を失い、寺運が衰退する場合もあった。
 しかし全体的に見るなら、氷見では富山のように合寺が強行されることもなく、明治初年に存在した寺院は、概ね今日まで継承されている。




 二.浄土真宗本願寺派
 ⇒目次

 
現在氷見市内には、浄土真宗本願寺派の寺院が、五九箇寺存在する。その大半は十五・十六世紀の頃、道場として創建され、近世へ入ってから寺院の体裁が整ったと考えられている。
 本願寺派で中世末頃、寺号を持っていたのが確実な寺院に、光照寺と光明寺がある。永禄七年(一五六四)、本願寺へ納める番銭の割高を定めた「本願寺番銭帳」に、「五百文 光?寺/三百五十文 光明寺」とあり、越中では当時から有力寺院とされていた。
 とりわけ光照寺は、「番銭帳」を見ても、越中で最高額が割り当てられており、当時氷見で大きな勢力を擁していたらしい。また天文十三年(一五四四)に三十日番衆として本山へ上っており、この頃すでに本願寺直参となっていたことが分る。しかし光照寺は、守山城主・神保氏張に追放されて、中世末頃に一時期、越後の出雲崎へ移っている。そうして天正十年(一五八二)に、出雲崎の新発意・称慶を迎え、旧地の田子村で再建された。
 光照寺には今日まで多くの寺宝が伝えられている。氷見市指定文化財の絹本著色二河白道図や蓮如筆御文章の他、全国的にも作例の少ない、見返りの阿弥陀如来立像などがよく知られている。

 近世中頃から氷見では、浄土真宗において極めて盛んな活動が展開された。
 本願寺派では、近世の越中を「学国」と呼んで称讃している。それは第五代能化に就任した義教をはじめ、多くの学匠が越中から輩出し、本山の教学において重きをなしていたからだった。当時越中には大別して、氷見町・西光寺の学塾に因んだ尺伸堂学派と、浦山(宇奈月町)善巧寺の学塾から出た空華学派という、二学派があった。尺伸堂は空華廬よりも二十年早く創設され、氷見は「学国越中」の発祥地であると考えられている。
 尺伸堂は善空(安貞)の遺嘱で、義教と善意が設立した。善意(芳山)・善譲・善済・善容(義霜)という西光寺法嗣が主催し、門弟は越中・能登・加賀・越後から陸奥・近畿や、遠くは長門まで及んでいた。
 他にも氷見には、大心海・安祥閣という学塾があった。大心海は、第五代能化に就任した義教が、円満寺に設けた学塾で、近世末頃まで経営されていた。安祥閣は大心海の学統を受け継ぎ、義浄が願正寺において開設した。万延元年(一八六〇)から明治二年(一八六九)頃までの、十年に及ぶ門弟帳が遺されている。
 ところで近世に、三業惑乱という異安心事件が起った。身・口・意の三業を正し、阿弥陀仏へ救いを願い求めよと教える、三業帰命説の正否をめぐり、本山と在野の学匠が論争して、宗派内で決着がつかず暴動にまで発展した。
 功存が、『願生帰命弁』を著した明和元年(一七六四)頃から表面化し、文化三年(一八〇六)に幕府から裁決が下るまで続いた。学林に属する何人もの学匠が処罰を受けて、関係書籍が絶版となり、本山も百日の閉門を言い渡されるなど、前代未聞の事態となる。
 氷見では尺伸堂学派に連なる学匠が三業帰命説を奉じており、とりわけ西光寺の義霜が越中において布教の中心的な役割を果たしていた。そのため義霜は、寺社奉行所から召喚され江戸で取り調べを受けた上で、本籍地などに住めなくなる軽追放に処せられた。
 尺伸堂は文化三年(一八〇六)に義霜が処罰された後も、多くの門弟を擁していた。しかし天保三年(一八三二)に義霜が江戸で獄死してからは、さすがに活動も衰え、以後の史料は残されていない。

 しかしこのような騒動がありながら、氷見の学系は近世の終わりまで途絶えることがなかった。明治以後にも滝山義浄や高峯了州などが、本願寺派で最高の学階である勧学に就任している。

【参考文献】
『氷見市史 3』『氷見市史 6』『氷見市寺社調査報告書 平成三・四年度』『近世の氷見町と庶民のくらし』『真宗史概説』「氷見地方真宗寺院の展開」




 三.真宗大谷派 ⇒目次

 現在氷見市内には、真宗大谷派の寺院が、四七箇寺存在する。本願寺派は五九箇寺あり、一割程度少ない。
 また両派を比較すると、寺院の開基年代では、大谷派のほとんどが十六世紀以降に創建されており、全体的に見て本願寺派より成立が遅れている。ただしこれは道場としての成立であり、寺院の体裁が整うのは、大半が江戸期へ入ってからであると考えられている。

 大谷派で、中世末頃までには寺号があったと推定できる寺院に、梨谷の永福寺・飯久保の光久寺・柿屋(氷見町へ移転)の円照寺などがある。永禄七年(一五六四)に越中の諸寺が、本願寺へ上納する番銭の割高を定めた「本願寺番銭帳」に、「梨谷・いく分(飯久保)・柿屋」と記され、その頃すでに寺院として機能していたらしい。
 この他、森寺の西念寺には、大永五年(一五二五)吉滝定孝の山・畠寄進状(氷見市指定文化財)があって、当時地侍から寄進を受ける有力寺院となっていた。また赤毛の西念寺にも鞍河職綱が発給した天文十五年(一五四六)の制札(氷見市指定文化財)があり、当時寺号を持っていたことが確認できる。

 ところで近世へ入るとすぐ本願寺教団は東西に分派した。文禄元年(一五九二)に顕如が歿して、その跡目を長男の教如が継いだ。しかし翌年、母親の如春尼が豊臣秀吉へ、末子の准如に対する譲り状があると訴え、教如を退けようとした。そこで秀吉は教如へ、本願寺の留守職を十年間勤めた後、准如へ譲るよう裁決した。これを不服として家老らが抗議したため、秀吉の怒りに触れ教如は即刻退職することになる。
 その後、徳川家康は教如に同情し、慶長七年(一六〇二)京都東六条の土地を寄進した。ここに東本願寺が建立され、以後東西両派が本願寺の勢力を二分することになった。
 越中でもこうした動向を受けて、東西どちらの本願寺へ帰参するかをめぐり、大きな混乱があった。氷見地方では当初から、光久寺・永福寺・円照寺などの大寺が教如方を支持しており、それらの末寺二十箇寺が、期を同じくして東派になった。慶安三年(一六五〇)、井波の瑞泉寺が東派へ帰参すると、さらに多くの寺院が行動を共にしたものと考えられる。その後、東派から西派へ転派した寺院も数箇寺見られ、近世の間、しばしば両派の間で移動が起きた。その理由として本願寺直参への引き上げや、法物の拝領・僧階の昇進などがあるとされている。

 しかし残念ながら氷見では大谷派において、本願寺派のような学塾の発達や、学匠の輩出・学派の形成などは見られなかった。ただ幕末の頃に頓成事件が起こって、宗義をめぐり激しい議論が戦わされた。
 頓成事件とは、能登・長光寺の頓成が、真宗の教義に見える二種深信を否定し、救われがたい身であると自ら深く信じる機の深信は、自力であると主張して破門されるに至った一件をいう。
 頓成の機の深信自力説は、氷見において西念寺(赤毛)や常願寺などで法座を設け、盛んに説かれていた。そこで慶応元年(一八六五)に、寺社奉行が西念寺へ法話の差止を命じ、翌年奉行所へ召喚される。しかしこの時点では説を枉げず、自力説を堅持しており、そのまま維新を迎えたらしい。

 大谷派の寺院では、光久寺が多くの宝物を伝えており、富山県指定名勝の茶庭、氷見市指定文化財の古文書・聖徳太子信仰関係資料などがある。とりわけ聖徳太子伝1である『正法輪蔵』には、「高田専修寺」の印があり、真宗十派のひとつである高田派との関係が推測される。
 円照寺にも氷見市指定文化財の木造阿弥陀如来立像などが安置されている。

【参考文献】
『氷見市史 3』『氷見市史 6』『氷見市寺社調査報告書 平成五・六年度』『近世の氷見町と庶民のくらし』『真宗史概説』「氷見地方真宗寺院の展開」




 四.浄土宗
 ⇒目次

 氷見市内には浄土宗の寺院として、南大町の西念寺と、小境の大栄寺がある。
 西念寺はもと時宗であり、開基の縁起を次のように伝えている。古に筑紫の住人が独子を失って、諸国を探し歩き氷見へ訪れたところ、踊り念仏行者の中に子供を見つけた。歓喜してここに子見堂を建てると、子も親見堂を建てた。この二堂に由来し、幸徳山という山号で一寺が創建された。その後延文五年(一三六〇)に、後醍醐天皇の皇子である信濃宮良明が住して、浄土宗へ改宗した。
 一説には、後醍醐天皇の皇子である宗良親王が、兵乱を避けて暦応三年(一三四〇)に氷見へ訪れ、剃髪して創建したとされている。貞和三年(一三四七)に宗良親王剃髪の地と伝えられる小境で、髪塚が建立されている(氷見市指定文化財)。しかし親王の遺品は、寛永・元禄の頃、火災に遭い焼失したという。
 第九代田中屋権右衛門宅が近所にあった関係から、その日記『応響雑記』には西念寺の記事が多く見える。例えば、天保五年(一八三四)六月一日、生花の大会が開催され、近隣から大勢見物に来た。弘化四年(一八四七)三月一日、法然上人の遠忌が七日間行われ、町中が大にぎわいだった。嘉永二年(一八四九)四月二五日、開山である良明上人の遠忌が行われた。嘉永五年(一八五二)三月一日、天神様(菅原道真)の遠忌が七日間行われ、大変な人出だった。
 また西念寺は、前田利家・利長・光高などが立ち寄った由緒のある寺院で、嘉永三年(一八五〇)四月二四日には、前田斉泰も訪れている。

 大栄寺は休安良国が小境で大円寺を建立した時に始まり、第二世の紫栄は後醍醐天皇から紫衣を賜ったという。その後、永正十五年(一五一八)に真良庵光国が住し、中興の上人となっている。戦国期に、上杉謙信が石動山般若院と兵乱を起した際、諸堂が焼失してしまった。それを西念寺の良意が再建して、弟子の慶禅が元和三年(一六一七)に入寺し第十二世となる。承応三年(一六五四)、第十五世の伝牛が寺号を改め、摂取山墓王大栄寺とした。
 一説には、石動山を開いた方道仙人が大円寺を建立し、休安良国が浄土宗へ改め、開山になったとする。元弘元年(一三三一)に後醍醐天皇の第八皇子が訪れて、延元元年(一三三六)に剃髪し、越中宮仏眼法親王と号した。
 大栄寺は貞享年中(一六八四〜一六八七)、類焼して灰燼に帰し、二十年来草庵を結ぶのみだった。これを宝永二年(一七〇五)から檀家が勧進して再建にかかり、翌年客殿・庫裏等を建立した。
 寺宝に、氷見市指定文化財の木造十一面観音菩薩立像や、山越阿弥陀図などがある。また、享保二十年(一七三五)の氷見三十三所観音霊場木札には、旧氷見郡を代表的する観音信仰の霊場が列記されている。

【参考文献】
『氷見市史3』『氷見市史6』『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度』
『応響雑記(上)(下)』『応響雑記と仏教』




 五.曹洞宗
 ⇒目次

 氷見市内に曹洞宗寺院は十四箇寺あり、広く市全域に広がっている。
 光禅寺は氷見を代表する曹洞宗の名刹であり、明峰素哲や月澗義光が住した寺としてもよく知られている。
 明峰素哲(一二七七〜一三五〇)は、大乗寺(加賀)や永光寺(能登)に住し、嘉暦元年(一三二六)には光禅寺を創建した。その後、法嗣の松岸旨淵へ住職を譲る。晩年再びここに住し、伽藍を整え所持していた弁才天を唐島へ安置し、七四歳の生涯を終えた。
 月澗義光(一六五三〜一七〇二)は十二町村で生まれ、元禄元年(一六八八)に第十九世住職となった。荒廃した伽藍復興のため全国各地を行脚し、元禄十四年(一七〇一)に再建を果たして、翌年五十歳で示寂する。その傍ら血書の大般若経を三百巻書き終えた。第九代田中屋権右衛門の日記『応響雑記』には、光禅寺関係の記事が多く見える。境内に秋葉権現があり、毎年二月の始め頃、火祭を行っていた。また町方から、疫病除などの祈祷が度々依頼されている。寺宝に、氷見市指定文化財の絹本著色前田利家画像・木造地蔵菩薩立像などがある。
 宝寿寺は、元禄十二年(一六九九)に十二町村宗助が、月澗義光のため草堂・梅林庵を寄進したことに由来する。安永九年(一七八〇)、石動山にあった廃寺・宝寿院の号を譲り受け改称した。天保三年(一八三二)に失火全焼し、慶応二年(一八六六)に法堂等を再建し今日に至る。
 紹光寺は瑩山紹瑾の弟子・壺庵至簡を開山として、正中元年(一三二四)に三善朝宗が建立した。壺庵至簡は能登・永光寺の第五世となっている。寺宝に、氷見市指定文化財の木造壺庵禅師坐像などがある。
 光西寺は笑山宗を開山とし、天正二年(一五七四)に長坂村伊勢之助が飯久保村で建立した。第四世・不谷順察の時、布教のため慶安元年(一六四八)、長坂村へ移転する。寛政二年(一七九〇)に出火全焼し、文化十年(一八一三)、第十五世・??道隆が本堂等を再建し今日に至る。寺宝に、木造烏枢沙摩明王立像など石動山伝来の什物が多くある。
 延暦寺は慶長十七年(一六一二)に、瑞龍寺の広山恕陽を開山として建立された。一説に延宝三年(一六七五)の開基とされる。もとは天台宗で延暦年中(七八二〜八〇六)に開かれたという。観音信仰が盛んで(氷見三十三所霊場の第十一番札所)、『応響雑記』にも関係記事が見える。
 鳳谷院は寛永十三年(一六三六)の開基とされる。戦前に月澗義光の銘文を刻んだ梵鐘があった。しかし戦時中に供出され、今日銘文のみ伝えられている。
 東泉寺は、光禅寺二一世の一如孝順が開山となっている。一つ灸が有名で、「当山夢想秘灸略縁起」が遺されている。
 この他、観音寺(神代)・心月寺・松月寺・観音寺(宇波)・枯木寺・福泉寺・白雲寺については、史料が乏しくよく分らない。

【参考文献】
『氷見市史6』『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度』
『応響雑記と仏教』『宝寿寺記録撰集』『東旭山 光西寺誌』 
『禅宗地方展開史の研究』




 六.臨済宗国泰寺派
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 旧氷見郡の西田村に、臨済宗国泰寺派の大本山・摩頂山国泰寺があった。慈雲妙意(一二七四〜一三四五)が嘉暦三年(一三二八)、後醍醐天皇から「国泰寺」号を賜った時にはじまる。応仁の頃(一四六七〜一四六九)、兵火に遭い寺運が衰退した。しかし天文十五年(一五四六)雪庭祝陽が朝廷より綸旨を受けており、この年までには復興されたらしい。また室町時代には国泰寺の末寺が、神通川上流の飛騨地方へも展開した。ただしこれは後に、妙心寺派へ組み込まれている。
 江戸時代へ入り、享保六年(一七二一)に別伝通識が、法堂・祖堂・庫裏・僧房などを新築した。次いで万嶽性狄も浄財を募り、諸堂を修理している。しかし明治維新後に廃仏毀釈が断行され、国泰寺もまた衰微する。この時に、越叟義格と雪門玄松が、山岡鉄舟などの助力を受けて復興に努めた。明治三八年(一九〇五)相国寺派から分離し、国泰寺派が起こる。
 ところで氷見町年寄の第九代田中屋権右衛門は、国泰寺の檀頭を勤めていた。その日記『応響雑記』に、近世後期の国泰寺をめぐる夥しい記事が見え、開基・法事・行事・後住等々について、細かく書かれている。因みに三代目の権右衛門は、元禄三年(一六九〇)に梵鐘を寄進している(嘉永二年五月二一日)。本山以外でも、興聖寺・実相寺・誓度寺・大安寺・仏心寺・宝光寺などの記事が散見する。
 現在国泰寺派は末寺が三三箇寺で、信者二四〇〇人を擁し(『宗教年鑑』)、氷見市内には九箇寺がある。
 弘源寺は貞和二年(一三四六)の創建で、光明天皇より寺号を賜っている。
 仏心寺は至徳二年(一三八五)に国泰寺六世・晴天覚珍が建立した。古は二上山にあり、文化元年(一八〇四)乱橋村で再建した。
 実相寺はもと国泰寺内にあり、応仁の兵火で途絶えた。それを国泰寺四九世・典栄志謙が再興し島村へ移る。
 安養寺は応安三年(一三七〇)国泰寺四世・覚天宗閑が創建した。古は太田村にあり、慶長の頃、兵火のため焼失する。その後上泉村へ移り、安永八年(一七九九)に再建した。山岡鉄舟念持仏とされる木造円空仏がある。
 正法寺はもと二上山にあって、応仁の戦火で途絶える。後に宝永二年(一七〇五)、国泰寺三七世・天英清竺が園村で再興した。
 興聖寺は文和元年(一三五二)、国泰寺二世・絶崖覚雲が創建した。一説に貞和元年(一三四五)の開基とされる。伝快慶作の木造聖観音菩薩坐像が安置されている。
 宝光寺は天文元年(一五三二)、国泰寺二六世・春渓覚栄が創建し、後に寛文十一年(一六七一)、第八世・玉峰の時、加納村へ移った。もとは天台宗で日名田村にあったという。
 誓度寺は貞和三年(一三四七)に、二上山で仏眼慧日が創建した。応仁の戦乱で焼失し、国泰寺四八世・定海宜精が乱橋村に再建する。その後衰退し大正八年(一九一九)に氷見町へ移転した。境内に国指定史跡の朝日貝塚がある。
 聞声寺については、史料が乏しくよく分らない。

【参考文献】
『氷見市史6』『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度』
『清泉の流』『応響雑記と仏教』『禅宗地方展開史の研究』
『宗教年鑑 平成13年度版』




 七.真言宗
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 氷見市内には真言宗寺院として朝日本町の上日寺、幸町の千手寺、北大町の金剛院、幸町の普門寺がある。
 上日寺は、白鳳十年(六八一?)の開基とされている。往古は「伽藍絵図」に見える通り、七堂伽藍が具備し十八の坊舎が軒を連ねていた。しかしそれらは戦国時代、兵火のため灰燼に帰し、中世末頃には観音を守る一箇寺のみが残った。慶長十九年(一六一四)に、前田利長が山屋敷等を寄進し、加賀藩の保護を受け復興する。しかし寛永十五年(一六三八)に失火し、御印・制札・縁起など古い記録は焼失してしまった。
 ところで第九代田中屋権右衛門の日記『応響雑記』には、近世後期の上日寺に関する夥しい記事が掲載されている。氷見町惣社でもあった関係で、当時の民衆と深い繋がりがあった。折々の祭礼以外にも、火伏祈祷・大漁祈願・地震鎮撫・流行病除など様々な祈祷が依頼され、旧氷見町の人々が神仏へ祈りを捧げようとする時、まっさきに訪れたのが上日寺だった。とりわけ四月の「ごんごん祭」は有名で、梵鐘の銘文にその由来が詳述されている。
 寺宝には氷見市指定文化財の紙本著色上日寺伽藍絵図・絹本著色騎獅文殊菩薩画像・木造延命地蔵菩薩坐像(餅喰地蔵)・梵鐘・馬十の句碑・長沢筑前寄進の石仏群や、国の天然記念物に指定された公孫樹などがある。

 千手寺は、白鳳十年(六八一?)に恵林法印が創建したと伝えられている。一説では白鳳元年に、新羅国・智鳳の開基ともいう。中世には北町で多くの寺坊を構え、弘治年中(一五五五〜一五五七)、恵遍が観音堂を建立している。その際、菊池入道と神保氏張が田地等を寄進した。しかし寛永の頃(一六二四〜一六四三)領地を召し上げられて、文化の頃(一八〇四〜一八一七)現在地へ移転したらしい。
 上日寺と同様、氷見の民衆と深い交流があり、『応響雑記』に多くの記事が見られる。折々の祭礼や火伏等の祈祷以外に、相撲や芝居などの芸能も頻繁に興行されていた。また歴代住職の中では空遍が学問に優れ、『禅客鸞徒破会評決』を著し浄土真宗を批判している。
 寺宝として富山県指定文化財の木造千手観世音菩薩立像や、両界曼荼羅などがある。
 金剛院は、寛永六年(一六二九)に創建された。しかしこの他、由緒等については分っていない。普門寺にも記録が残されておらず、今後の調査が待たれる。

 今日市内に存在する真言宗寺院は、以上の四箇寺に過ぎない。しかし中世まで遡れば、まだまだ多くの寺院があり、氷見全域に広く展開していた。それらのほとんどが近世へ入る頃までに転派して、真宗寺院になっている。加賀藩で作成した貞享二年(一六八五)寺社由来書等を参照すると、転派寺院は浄土真宗本願寺派で八箇寺、真宗大谷派で二四箇寺を数える。実に大谷派では半数の寺院が、元々真言宗であったとしている。中世に氷見地方でいかに大きな宗教の変革があったか、窺い知れるものと言えよう。

【参考文献】
『氷見市史6』『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度』
『応響雑記と仏教』




 八.日蓮宗
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 氷見市内には日蓮宗の寺院として、朝日本町の蓮乗寺と比美町の宝徳寺がある。
 蓮乗寺は、嘉暦二年(一三二七)に、日暹によって開創された。日暹はもと石動山の坊主で、勧化のため越後へ行っていた時、日印と問答して折伏され、日蓮宗へ改宗した。それから稲積村で草庵を結んだのが開基となっている。後に境内が手狭となり、天正年中(一五七三〜九二)に日養(第十一世)の代で、氷見町へ移った。
 ところが寛永の頃(一六二四〜)、失火により堂宇が焼失してしまう。寛永十六年(一六三九)に日相(第十三世)が鋳造した梵鐘の銘文を見ると、再建の経緯が詳しく記されている。日陽(第十四世)も伽藍の復興に努め、十三箇国を勧化し、多額の喜捨を得ることができた。
 元文の頃(一七三六〜四一)の住職・日正(第二一世)は、こうした開基以来の歴史を簡潔にまとめ、由緒書を書き残している。
 第二五世の日芳は学問に秀で、浄土真宗本願寺派の義教や善意が、延享元年(一七四四)に刊行した『輪駁行蔵録』を批判して、『訶責謗法鈔』を著した。
 蓮乗寺は、天保二年(一八三一)二月八日の氷見町大火で類焼し、弘化元年(一八四四)に朝日村へ移転して今日に至っている。
 寺宝として氷見市指定文化財の木造日蓮上人坐像や梵鐘、寛永十八年(一六四一)に日脱が十五歳で筆写した、細字『妙法蓮華経』写経などがある。

 宝徳寺は、宝徳元年(一四四九)に日祐の開基とされている。天保二年(一八三一)の氷見町大火で蓮乗寺と共に類焼し、天保十二年(一八四一)に再建され今日に至る。

 氷見にゆかりのある日蓮宗の高僧に、日脱がいた。
 日脱は字が空雅で一円院と号し、身延山第三一世に就任した。寛永四年(一六二七)に加賀・小立野の荻野方で生まれ、俗姓を板屋久太郎という。荻野氏は前田家で造営に携わり、板の支配をしていた関係で、板屋と呼ばれた。
 蓮乗寺で出家して、本是院(加賀)日理の弟子となり、下総の飯高檀林へ遊学した。二十年間苦学して学問を大成させ、延宝七年(一六七九)に身延山久遠寺の第三一世となった。在世中に、多くの堂塔や坊舎を建立したばかりでなく、祈祷・読誦に力を入れて身延山の興隆に努め、中興の祖と称えられている。
 元禄六年(一六九三)には、東山天皇から紫衣を賜り、元禄十一年(一六九八)に七三歳で遷化した。
 ところで「身延山歴代略譜」に、日脱は「越中宇波村之産」と見える。その注に「氷見郡ナリ。姓荻野氏。氷見町蓮乗寺ノ檀越ニシテ、今主ヲ荻野五平ト云フ」とあって、日脱が氷見で生まれた可能性も否定できない。

【参考文献】
『氷見市史6』『氷見市寺社調査報告書 平成六・七年度』
『一圓院日脱上人遺芳』




 九.石動山 ⇒目次

 石川県鹿島町との県境に、霊峰・石動山(標高五六五m)が聳えている。古代から修験道で栄え、最盛期は五社権現をはじめ八十の末社があり、大宮坊など三百の僧坊を連ね、衆徒三千人を擁していた。知識米の勧進は、加賀・能登・越中・越後・佐渡・飛騨・信濃の七箇国に及んで、氷見の民衆の信仰と生活にも緊密な関係があった。しかし、明治初期に神仏分離が断行されると、全山が退転してしまい、往時の面影はほとんど残されていない。
 ただし遺存する文化財は、今日でも膨大な数量に及んでいる。古文書・造形資料・埋蔵文化財・民俗伝承などの各分野から、度重なる調査が行われており、石動山の全体像を把握するには、まだまだ多くの時間を要する。
 ここでは、そんな石動山の歴史について、きわめて簡略ながら、ひと通り概観したい。

 往古まで遡る石動山の由緒については、新旧二種の縁起が現存しており、それぞれ記述内容が大きく異なっている。「石動山古縁起」(石動山金剛証大宝満宮縁起)は、元和九年(一六二三)に、西洞院時慶・時興父子が伝来の縁起を転写したもので、その成立は中世に遡ると考えられている。ここでは崇神天皇の勅により、方道仙人が金剛証大宝満宮に住した時から、石動山の歴史が始まっている。しかし、承応三年(一六五三)に前田利常の依頼で、林羅山が作成した「石動山新縁起」(石動山天平寺縁起)では、白山などを開いた泰澄が開山となっている。近世に入り石動山から加賀藩へ提出した貞享二年(一六八五)由来書でも、泰澄開創説を採っており、寺院側ではこちらが伝承されていた可能性が高い。
 古代の石動山に関する史料は乏しく、『延喜式』等に神社名が見える程度だった。しかし、少なくとも平安前期までには、伊須流岐比古神社が中央でも知られるようになり、官社として律令政治下に組み込まれていたらしい。
 中世に入ると石動山は、北陸の有力寺院として、大きな勢力を擁する。鎌倉時代には山名に由来する「石動寺」が、朝廷の勅願所となっていた。室町時代になると「天平寺」という寺名で、祈祷した巻数(カンジュ。読誦した経巻を記した目録)が朝廷へ献上されている。また中世の石動山は地方の政治と深く関係し、争乱に巻き込まれることも多かった。建武二年(一三三五)には、越中守護の普門利清が山内に篭城する越中国司の中院定清を攻め、全山が炎上する。康安二年(一三六二)にも、桃井直広と能登守護の吉見氏頼が山内で合戦している。
 戦国期に石動山は、北越で知識米勧進の権益を確保するため、上杉謙信方に味方していた。しかし政情が変転して、天正七年(一五七九)に上杉方の能登支配が挫折し、翌々年には前田利家が能登一国を支配する。これに対し石動山は、上杉・温井・三宅方などと結んで反旗を翻したところ、天正十年(一五八二)に荒山の合戦で、前田勢の攻撃を受け全山灰燼に帰してしまった。ここで石動山の歴史も、大きな転換期を迎える。
 近世に入り、慶長二年(一五九七)、前田利家がようやく石動山の還住を許可した。その後、前田利常が伽藍の再建に尽力しており、慶安二年(一六四九)の地詰帳では山内に七三坊の存在が確認できる。ただし僧坊の数には変遷があり、寛文三年(一六六七)、大宮坊別当最勝院に同調した十四坊が退転した後、五八坊が幕末まで存続した。
 ところで石動山は近世の中頃、山域の村と領地に関する争論をしていた。これは「山論」と呼ばれており、縁起等に見える「九四鎮定」を根拠として、九里四方(実際は、一里半四方)が石動山の神領であると主張した。しかし、百数十年に及ぶ争論の結果、村側の権益を優先させる方向で、文化五年(一八〇八)加賀藩より裁決が下りた。
 明治維新により、廃藩置県や神仏分離政策が実施されると、石動山は加賀藩の保護や、知識米徴収の権益などを失い、急速に活動が衰退してしまう。明治三年(一八七〇)、七箇国への知識米徴収に関する嘆願書が却下され、翌年に朝廷への巻数献上も廃止された。こうして経営基盤をなくした石動山は、明治七年(一八七四)、五社を合祀して遷宮した上で僧坊・社殿や寺宝を売却し、天平寺としての歴史に幕を下ろすこととなった。

【参考文献】
『氷見市史 3』『石動山信仰遺跡遺物調査報告書』
『国指定史跡石動山文化財調査報告書』『能登石動山』
『鹿島町史 石動山資料編』
『白山・石動修験の宗教民俗学的研究』