読経記 四(一)
― 『大正新脩大蔵経』読書記 ―
《第四巻 本縁部下》
凡例 - 経典番号・経典題名・内容紹介の順で記述した。
- 経典番号は、原本の通し番号に従った。
- 経典題名は、常用漢字の表記に従った。
- ( )内は頁数であり、aが上段・bが中段・cが下段を表す。
- 記述に際しては、『大蔵経全解説大事典』(雄山閣1998)・『閲藏知津』 (北京・綫装書局2001)等を参照した。
- 機種依存文字や、日本語文字コードにない漢字等は、「大正新脩大藏經テキストデータベース」(SAT)の表記に従った。
- なお私見により、特に重要と思われる経典や巻を太字で示した。
No.0192 仏所行讃 五巻 [亦云仏本行経] 馬鳴菩薩訳
【目次】 ⇒【四(二)目次】(作成中) ⇒【総目次】
No.0193 仏本行経 七巻 [一名仏本行讃伝] 釈宝雲訳
No.0194 僧伽羅刹所集経 三巻 僧伽跋澄訳
No.0195 仏説十二遊経 一巻 迦留陀迦訳
No.0196 中本起経 次名四部僧出長阿含 二巻 曇果訳
No.0197 仏説興起行経 二巻 康孟詳訳
No.0198 仏説義足経 二巻 支謙訳
No.0199 仏五百弟子自説本起経 一巻 竺法護訳
No.0200 撰集百縁経 十巻 支謙訳
No.0192[cf.193] 仏所行讃 五巻 [亦云仏本行経]
《参考文献》
馬鳴菩薩訳 ⇒【目次】
『国訳一切経 印度撰述部32 本縁部四 過去現在因果経 衆許摩訶帝経 仏所行讃』 常磐大定 寺崎修一 平等通昭 訳 大東出版社 1971(1929)
『国訳一切経 印度撰述部33 本縁部五 仏所行讃 撰集百縁経 菩薩本生鬘論上』 平等通昭 赤沼智善 西尾京雄 岡教邃 訳 大東出版社 1971(1929)No.0192[cf.193] 仏所行讃 巻第一 [亦云仏本行経]
生品 第一(1a)
釈迦族に徳を備えた浄飯王がいて、その后であった摩耶夫人はある年の四月八日に、右脇から菩薩を出産した。輝くような体の菩薩は産まれると直ちに七歩進み、仏陀となることを宣言した。知相婆羅門も赤子を見ると、将来は正覚を成じるか、もしくは転輪聖王になるだろうと予言した。また有名な阿私陀仙人は菩薩の降誕を知って訪問し、赤子を見るなり歎息して涙した。父王が不安に慄いたので仙人は、この子に不詳な相が現れているのではなく、自分が年老いて将来の説法を聞けずに終るから嘆いたと言うと、ようやく皆は安心した。
(2004/11/1)
処宮品 第二(3c)
太子はあらゆる徳目を備えていたので、悉達羅他と名づけられた。摩耶夫人は、あまりの果報に堪えかねて、しばらくすると臨終を迎え天上へ転生した。それからは大愛瞿曇弥が、実子の如く養育した。太子は学ばずして諸芸に優れ、賢く成長したので、父王は名門の子女を選び、耶輸陀羅を妃として迎えることにした。その後、めでたく長子の羅睺羅も産まれ、父王はこれで太子の出家もないだろうと安心していた。(2004/11/2)
厭患品 第三(5b)
ある時、父王は太子が外遊したいと言うので、道路を美しく整備させた。それから太子が出遊すると、天子が化けた老人と出会い、誰も老いを免れないと知り戦慄した。再度出遊すると病人に出会い、誰もが病に苦しむと知って恐怖した。三度出遊すると死人に出会い、皆が結局死んでしまうと知り、憂いに沈んだ。(2004/11/3)
離欲品 第四(6c)
太子は園遊を勧められ、庭園で多くの妓女から歓迎を受けた。しかしどのような歓楽にも全く関心を示さず、その内に女たちも恥ずかしくなって黙り込んだ。再度奮起し種々の技芸で誘惑しても、太子の堅固な心を動かせなかった。そこで婆羅門の子・優陀夷が王命で太子の友となり、世俗の快楽について詳説した。これを聞いても太子は関心を示さず、逆に世の無常を知り欲望から離れるよう説いていると、日が暮れたので帰城した。(2004/11/4)
出城品 第五(8b)
四度目の出遊で、太子は農夫の苦労する姿を見かけ、慈悲心から端坐して諸苦の生滅について思索した結果、初無漏禅へ入った。その時、天子が比丘に化けて現れ、太子の誰何に応えて、生老病死からの解脱を求める沙門であると言った。これを聞いて喜んだ太子は、過去仏のことに想いを馳せ、出家する決意をした。しかし父王に意思を告げると、涙を流して慰留された。ここで天子は出家の時機到来を知り、宮女等を昏睡させ、城門を開いた。すぐさま太子は車匿へ命じて馬の用意をさせ、諸天の加護で無事に王城から抜け出ることができた。(2004/11/5)No.0192[cf.193] 仏所行讃 巻第二 [亦云仏本行経]
車匿還品 第六(10c)
夜明に跋伽仙人の林へ着くと、太子は馬から下りて車匿をねぎらい、父王へ求法のため出家したと伝言するよう頼んだ。車匿がなんとか思い止まるよう、懇願したにもかかわらず、太子の決意は固く、自ら宝剣で髪を下ろした。それから車匿と別れると、袈裟を着て仙人窟へ入った。(2004/11/6)
入苦行林品 第七(12b)
菩薩(太子)は林の中で修行する多くの梵志たちを観察し、その長老へ真実の道について質問した。しかし彼らは、生天の法を求めるだけで、輪廻から免れる道を知る者はいなかった。そこで菩薩はこの場を去ろうとしたところ、ある苦行の梵志が阿羅藍仙人を訪ねるよう勧めたので、これに従うことにした。(2004/11/7)
合宮憂悲品 第八(14a)
車匿は太子が見えなくなると、ようやく城へ戻って来た。彼ひとりが帰ったので、みな嘆き悲しみ、瞿曇弥は転倒し狂ったように長嘆した。また耶輸陀羅がなぜ太子を置いて来たかと詰問したので、車匿は天意に逆らえず、なす術もなかったと弁明した。父王も太子の出家を聞くと、驚愕のあまり卒倒した。そこで王師と大臣は王をなだめ、二人で太子を説得に行こうと進言した。(2004/11/8)
推求太子品 第九(16b)
王師と大臣は、父王の苦衷を切に訴え、出家を思い止まるよう諫言した。しかし太子は、この世が無常ならいずれ別離は避けられず、生老病死の苦を免れるためには、出家するしかないと主張して譲らなかった。やむなく二人も慰留をあきらめ、太子と別れざるをえなかった。(2004/11/9)No.0192[cf.193] 仏所行讃 巻第三 [亦云仏本行経]
瓶沙王詣太子品 第十(19a)
その時、瓶沙王は高楼から人々が慌てている様子を見、理由を質すと、出家した釈迦族の太子が訪れた、ということだった。王は喜んでその居場所を調べさせ、後に自ら訪問し、出家の因縁を教えて欲しいと懇ろに頼んだ。(2004/11/10)
答瓶沙王品 第十一(20b)
王から親しく質問されると、太子は謹んで生老病死の苦を恐れ真の解脱を求めるために、親愛の情や五欲の執着を断ち切り出家したと答えた。また、年老いてから出家すれば良いという通念を否定して、まず体力が衰えてしまえば、厳しい修行には耐えられない。さらに老年まで必ず命があるかどうかも分らないので、今すぐ出家し良師を求めて来たのだと説いた。王はこれを聞いて歓喜し、速やかに成道した暁には、自分にも教えを垂れてくれるよう頼んで別れた。(2004/11/11)
阿羅藍鬱頭藍品 第十二(22b)
菩薩が訪問すると、阿羅藍大仙は喜んで歓迎し、生老病死の苦から免れる方法を質問され、丁寧に自説を開陳した。人間の本性は清浄であるのに、我のはたらきが五欲に執着して、五道を輪廻するようになる。この因縁を正しく思惟することで、無尽処に至り解脱できる。またそれには出家し乞食で生活しつつ、戒律を持し欲望から離れ、坐禅に勤しむなどの行法が必要であり、初禅を得て四禅へ至ってもさらに精進し、空観を成ずるなら真解脱へ到達できると説いた。しかし太子はこの教えに満足できず、辞去することにした。その後も求法のため、鬱陀仙を尋ねて質問したところ、想非想から離れることを説くのみで、納得できなかった。 そこで五比丘が住む苦行林へ赴き、独自に苦行を修めることにした。一日に一粒の麻と米しか食べず六年も修行すると、全身が消耗し尽くした。これでは智慧が働くはずもなく、充分に食事を採り体力が回復してから、再び禅定へ入ることにした。その時、天子の勧めで、牧牛長の長女・難陀が供養した乳糜を食すると、五比丘は堕落したと勘違いし去ってしまった。菩薩は独りひとり吉祥樹下へ行くと、結跏趺坐して、
「要(ちぎ)りて斯の坐を起たず 其の所作を究竟せずんば(要不起斯坐 究竟其所作)」
と誓言した。(2004/11/13)
破魔品 第十三(25a)
菩薩が菩提樹下で成道の宣言をした時、魔王波旬はひとり喜ばず、三女と眷属を連れ、脅迫にやって来た。しかし弓矢で脅しても、三女に誘惑させても、菩薩は全く動じることなく、何の効果もなかった。さらに魔軍を派遣し猛襲させても、児戯に等しかった。魔王は面目を失って恥じ入ると、すごすご退散することになった。(2004/11/14)
阿惟三菩提品 第十四(26c)
菩薩は降魔の後、深い禅定へ入ると、衆生の過去世について悉く知り天眼を得た。次に五道を観察して、衆生の生死にまつわる苦が、どのように生滅するか思惟した結果、十二縁起の法を悟り、ついに正覚を成じた。それから七日間、菩提樹を見つめつつ、解脱の楽しみを味わうと、慈悲心から衆生にも思いを馳せた。しかし仏法は非常に深妙であり、誰も理解できそうになく、このまま沈黙を守ろうかとも考えられた。梵天がその心を察知すると、すぐさま衆生のため説法するよう、勧請に訪れた。釈尊はこの請を受け入れ、誰に初めて説法するか思索し、まだ存命している五比丘を選ばれると、彼らの居所へ出立された。(2004/11/15)
転法輪品 第十五(28c)
道中である梵志と出会い、何宗で誰が師か尋ねられると、釈尊は無師独覚であると答えられた。憍隣等五比丘は、釈尊の姿を見かけ、堕落した修行者に、挨拶も歓迎もしまいと示しあった。しかし近くでその威容に触れるなり、不覚にも尊師を迎えるように、もてなしてしまった。釈尊は彼らの頑迷な心根を叱ると、苦楽から離れて中道を歩むことや、八正道・四聖諦などを詳説された。この時、憍隣は清浄法眼を得て、仏法を理解し、釈尊も彼を最初の仏弟子と認められた。(2004/11/16)No.0192[cf.193] 仏所行讃 巻第四 [亦云仏本行経]
瓶沙王諸弟子品 第十六(30c)
その頃、鳩尸城に住む長者の子・耶舍は、世俗を厭離する志が起こり、家から出て彷徨い歩いていた。如来が経行中にその姿を見かけ、懇ろに説教したので、彼はその場で漏尽通を得、阿羅漢となった。それから五十四人の友人も勧誘し、ここに阿羅漢が六十人となった。その後、釈尊は迦葉仙人を教化するため、ひとり伽闍山へ行き、火窟に住む悪龍を調伏した。さらに種々の神通力を示して、仙人の奢りをたしなめると、ついに鬱毘羅迦葉は、弟子五百人と仏法へ帰依した。また弟の那提・伽闍等も兄に倣って帰依し、千人の弟子が出家することになった。釈尊は、この大眷属を率いて王舎城へ赴き、約束通り瓶沙王を教化した。まず高名な迦葉に仏法へ帰依した経緯を話させ、会衆が法を受け入れやすいよう配慮した後で、王へ平等観について教示された。これを聞いて王は歓喜し、俗塵から離れて法眼が生じ、会衆もみな随喜した。(2004/11/17)
大弟子出家品 第十七(33a)
瓶沙王は教団のため、竹園を寄進する約束をして帰還した。後に阿湿波誓が托鉢していると、舎利弗がその威容を見て感動し、誰が師でどんな教えを奉じているか質問した。彼は笑顔で、釈尊に師事しており、その教えを略説して、
「一切の有法は生じて 皆因縁より起き 生滅の法は悉く滅し 道を説きて方便と為す(一切有法生 皆從因縁起 生滅法悉滅 説道爲方便)」
と言った。これを聞いて、舎利弗は直ちに悟り、比丘と別れて家へ帰った。親友の目連は舎利弗の明るい表情を見て、その訳を聞くとすぐ悟り、弟子二百五十人を連れ出家することにした。釈尊は二人を見るやいなや、
「吾上首の弟子たり 一は智慧無双にて 二は神足第一なり(吾上首弟子 一智慧無雙 二神足第一)」
と言って歓迎された。また迦葉族の聡明な長者が、出家し解脱を求めていると、たまたま釈尊と出会いその場で帰依した。彼は修行に励み、高徳な比丘として名を馳せ、大迦葉と呼ばれた。(2004/11/18)
化給孤独品 第十八(34b)
その頃、給孤独という名の大長者が、憍薩羅国の知人宅に止宿していた。そこで仏が現れ竹園に住していると聞き、夜に訪問すると、釈尊は彼に素質があることを見抜き、無我や無常の法を説かれた。長者は直ちに初果を得て、正見を具え、釈尊へ礼拝すると、精舎を寄進するので舎衛国へも来遊して欲しいと懇願した。釈尊はこれを受け、正しい布施の方法について教えると、長者は帰国し相応しい土地を探した。太子の祇園が最も素晴らしく購入したいと申し出ると、黄金を敷いても手放し難いと断られた。しかし長者が粘り強く希望したのでその理由を質すと、如来へ供養するためであると聞いて、太子も共同で寄進することにした。(2004/11/19)
父子相見品 第十九(36c)
以前、太子を説得にきた王師と大臣は、その後も様子を窺っており、如来が帰国を考えていると知って、直ちに王へ報告した。これを聞いて王は大喜びし、すぐ自ら歓迎に出かけた。ただし釈尊は、父王が自分を子供扱いする気持が、まだ抜けていないと察知し、種々の神通力を示して、予めその慢心をくじいた。それから四聖諦などの法を説くと、王は歓喜し仏を讃嘆した。会衆も謙虚な王の態度に感動して、釈迦族の王子が数多く出家した。
(2004/11/20)
受祇[洹]精舍品 第二十(38b)
釈尊は迦維羅衛の人々を教化した後で、憍薩羅国へ行き、祇園精舎に入られた。そこで波斯匿王へ、世の無常や生老病死の苦などについて、詳しく説法された。王が仏法を信じた様子なので、外道の仙人たちは躍起になり、仏と神通力で優劣を決したいと申し出た。釈尊もこれを黙許され、神通力で悉く彼らを降伏させたので、国民がすべて仏法に帰依した。
(2004/11/21)
守財酔象調伏品 第二十一(40a)
釈尊は天上で母に説法した後、また地上へ降り、人々を教化していた。提婆達多は釈尊の盛名を妬み、教団の破壊を企んで、山から岩石を落したり、酔った象に襲わせたりした。しかし少しも釈尊を害することができず、むしろ自縄自縛であり、提婆達多は結局、地獄行となってしまった。(2004/11/22)
菴摩羅女見佛品 第二十二(41b)
釈尊はそろそろ衆生への教化活動を終えようと考え、王舎城を離れて巴連弗邑へ向かわれた。途中、鞞舍離の菴羅林に寄ると、持主の菴摩羅女から歓迎を受けた。ただ彼女は極めて美しく、女色に惑わされないよう比丘たちへ注意した。菴摩羅女自身は仏を敬う心が篤く、釈尊もこれを認めて懇ろに教示された。(2004/11/23)No.0192[cf.193] 仏所行讃 巻第五 [亦云仏本行経]
神力住寿品 第二十三(42b)
鞞舍離の離車長者たちは、釈尊の入国を聞くと、さっそく聞法に訪れた。そこで釈尊が驕慢を誡めて、無常や無我などを説かれたので、彼らは歓喜し仏足へ礼拝した。それから釈尊が獼猴池の辺で瞑想されていると、魔王波旬がやって来て、むかし尼連禅河の辺で衆生への教化が一段落したら、涅槃に入ると言ったのはどうなったのかと質した。この時、意外にも釈尊は、三月後に涅槃へ入ると宣言されたので、魔王は喜び帰って行った。
(2004/11/24)
離車辞別品 第二十四(44a)
阿難は大地が振動したので、釈尊へ理由を尋ねたところ、自分が三月後、涅槃へ入るからだと答えられた。ひどく泣き悲しむ阿難を見、釈尊はやさしく世の無常と苦についてくり返し教えられた。また大河の中洲の如く、自らをより所として、仏法に精進し、解脱を獲得すべきであると説かれた。離車たちもこの話を聞き、驚いて集合したので、釈尊は彼らにも平常心を保ち、いたずらに悲嘆すべきではないと教えられた。それから釈尊は北方へ向かって旅立たれ、離車たちも連れ立ち、一行を見送った。(2004/11/25)
涅槃品 第二十五(45a)
釈尊は鞞舍離に別れを告げ、蒲加城へ至った時、比丘たちに自分は今日の中夜、涅槃へ入ると教えられた。長者の子・純陀が最後の食事を供してくれたので、これを食した後、鳩夷城へ向かった。蕨蕨河と熙連河の辺にある林で、双樹の間に寝床を作り、そこで涅槃に備えた。近くに住む力士たちが、これを知って驚愕し、号泣しながら集って来たので、釈尊はやさしく、自分はこれで輪廻から離れ、憂患がなくなるのだから、むしろ随喜してほしいと諭した。またこれから自分がいなくなっても、仏説に従い精進すれば、いかなる人生の苦しみも、恐れることはないと説かれたので、力士たちは涙を抑え帰って行った。(2004/11/26)
大般涅槃品 第二十六(47a)
その時、須跋陀羅梵志は、釈尊が間もなく涅槃に入ると聞いて、面会を希望したところ、阿難が難色を示した。釈尊はこれをたしなめ、彼には見どころがあるので、そのまま通すよう命じた。それから八正道について略説すると、須跋陀羅は直ちに開悟し、如来の入滅を見るに忍びないと言って、その場で先に涅槃へ入った。
ここで釈尊は弟子たちへ遺誡を残し、自分の涅槃後は戒律を厳守して、三業を清めるべきであると教えられた。また慚愧心を忘れず、悪口を言わず、小欲知足を知るのが解脱へ向う道であり、正念を保ち、正定を行い、智慧を得て、在家も出家も正法を歩むべきであると説かれた。最後に、皆よく自分を護り、放逸にならないよう言い残された後、禅定に入りそのまま涅槃へ至られた。(2004/11/27)
歎涅槃品 第二十七(50a)
その時、ある天子が空中から仏の般涅槃を見て諸天へ、
「一切性は無常にして 速かに生じて速かに滅す 生じれば則ち苦と倶にして 唯寂滅のみ楽と為す(一切性無常 速生而速滅 生則與苦倶 唯寂滅爲樂)」
という無常偈を説いた。また阿那律陀も如来の寂滅にちなみ、世の無常を切々と歎じた。阿羅漢たちは解脱しているので、師恩を想い悲しむだけだった。しかし煩悩が尽きない力士たちは、慟哭して涙をながしつつ、香木を積んで、火葬の準備をした。ただ大迦葉がまだ到着しておらず、その誠願により、三度点火しても燃え上がらず、彼が釈尊の遺体へ礼拝してから、ようやく荼毘に付すことができた。(2004/11/28)
分舍利品 第二十八(52b)
力士等が懇ろに釈尊の葬儀を終えた頃、七国の王がこれを知り、仏舎利の請求に使者を派遣して来た。力士等は慢心を起こし、腕ずくで命をかけ、舎利を護ろうとしたので、七国王も怒って大軍を出し、鳩夷城を囲んだ。その時、独楼那婆羅門が憂えて、仏を供養するなら、仏の教えに従うべきであると考え、諸王へ戦いは無益であると説いた。王たちもその言を容れてくれたので、今度は力士へ面会し、道理に則り舎利の分配を進言したところ、彼らも反省して説得に応じた。そうして仏舎利を八等分すると、七王も喜び各々供養塔を建立した。その後、五百羅漢は釈尊を偲んで、経蔵を結集することにし、阿難陀を獅子座に据え、「如是我聞」で始まる仏説を編集した。また後世に無憂王が出て、仏法を深信し、七王塔の舎利を分けて、八万四千塔を建立した。(2004/11/29)
No.0193[cf.192] 仏本行経 七巻 [一名仏本行讃伝] 釈宝雲訳
⇒【目次】No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第一 [一名仏本行讃伝]
因縁品 第一(54c)
これから諸仏典の要義である、釈尊の言辞について略述し、衆生の利益をはかる。
古に阿育王が現れ八万四千塔を建立した時、諸天は歓喜して、その声が天下を揺るがせた。金剛力士はこの大音声を聞き、ひとりうなだれて仏を追憶していると、後世に産まれた天人たちは、釈尊がどんな方だったか全く知らず、その人となりについて質問した。金剛力士は、とても自分に仏の功徳を説き尽くす力はないけれども、鸚鵡の言に類した所見なら述べることもできよう、と言って話し始めた。(2004/12/1)
称歎如来品 第二(55c)
釈尊は彼岸に達し、大法海を開立して、海よりも深く山よりも高い徳を備えられている。成道前、魔王や魔女がしつこく誘惑に来ても全く動じず、来襲した大魔軍も難なく降伏させた。仏光は遍く三千世界を照らし、一切の衆生へ至るその輝きは喩えようもない。こうした金剛力士の話を聞くと諸天は喜悦し、菩薩が兜術宮から下生する際のことを、早く教えてくれるよう願った。(2004/12/2)
降胎品 第三(57a)
菩薩が兜術宮にいた時、衆生の苦悩を見て、下生することに決めた。そこであまねく閻浮提を観察して、侍臣の月孟にどこの王家へ生まれるか諮問した。彼はしばらく思惟した結果、釈迦族の白浄王が好ましいと答え、菩薩も了承した。
それからすぐ白象へ乗ると、菩薩は王妃の母胎に入り、大地が六種の振動を起こした。この時、妃も白象が腹中に入る夢を見て、それを王へ話したので、さっそく梵志に命じ吉凶を占わせた。その結果、これはたいへんな吉祥で、産まれる子は転輪聖王か、仏陀となるに違いないと予言された。(2004/12/3)
如来生品 第四(58b)
時が満ちて、菩薩は王妃の右脇から産まれた。誕生後すぐに七歩進み、
「吾斉ひ此を以て 末後の受形とし 復処在せず 胞胎の獄に 今当に仏を得べし 最も得道し難く 将に一切を導かんとす(吾斉以此 末後受形 不復処在 胞胎之獄 今当得仏 最難得道 将導一切)」
と宣言すると、無数の諸天が合掌して、菩薩を讃嘆した。(2004/12/4)
梵志占相品 第五(59b)
王は歓喜すると、多くの優れた婦人を乳母として命じ、菩薩を大事に養育させた。
さっそく乳母たちが天祀へ参詣したところ、神像がみな菩薩に向かっておじぎした。王は不安に思いすぐ吉凶を占わせると、梵志が笑顔で、それは慶事であり、この子が必ず転輪聖王か仏陀になることを現している、と予言した。王も納得して、それなら太子に良い名を付けるよう命じたので、梵志はしばらく黙考した後、「吉財」と命名した。(2004/12/5)
阿夷決疑品 第六(60b)
その頃、阿夷仙人は諸天が歓喜するのを見て、理由を尋ねると、白浄王に仏陀となるべき太子が産まれたからだと教えられ、総毛立つほど驚いた。
さっそく仙人は王宮を訪問し、王の歓待を受け太子と対面して、しばらく注視する内、はらはらと涙を流した。王がなにか不吉な相でもあったかと憂慮したので、仙人はそうでなく、太子には三十二相が完備しており、必ず成仏するに違いない。しかし自分は老齢で、五種の神通力を持ちながら、その教えに接することができないと思うと、無念で涙を流したのだと話して、帰って行った。(2004/12/6)
入誉論品 第七(61c)
太子は十六歳になると文武を兼備し、釈迦族の中で誰も敵う者がいないほど熟達した。
その頃、王は太子の出家を恐れ、肉欲で世俗に引き止めようと考え、十五歳以上の美女を方々から選んで侍らせた。また成婚の手筈も調え、国中で最も誉の高い娘を妃に迎えた。(2004/12/7)No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第二 [一名仏本行讃伝]
与衆婇女遊居品 第八(63a)
太子の居所は天宮のように美しく飾られ、侍女が囲んで昼夜、歓楽を尽くした。そんなある夜、女たちの就寝後に、妃は太子が出家する夢を見た。この話を聞いた太子は、夢など泡沫の如きものなので、気にするべきでないと慰めた。しかし内心では、自分に出家の時機が訪れたと考えていた。(2004/12/9)
現憂懼品 第九(64a)
王は太子が憂いに沈んでいるのを心配し、外遊を勧めた。国中が清掃され、飾り立てた馬車で城門から出ると、浄居天は出家を勧めるため、病人に化けて道端へ現れた。太子はこれを見て、誰もが病から逃れ得ないと知り、慄然とした。また天子は老人や死人に化けて、世の無常を太子に知らしめた。それから天子が梵志の姿で現れると、太子はその修行法について尋ねた。しかし、ただ天上へ生まれることが目的であると知り、それでは輪廻から逃れられないので満足できなかった。さらに天子は沙門に化けると、太子の問に応じて、生老病死の苦を免れるにはこの道しかないと説き、忽然と消えた。(2004/12/10)
閻浮提樹蔭品 第十(66a)
菩薩は田園を遊観した時、農夫が耕作の際に虫たちを踏みにじるので、悲痛な気持になり、閻浮樹下で禅定へ入った。一切の衆生へ慈悲心を懐き、第一禅を得て、これに執着せず、第四禅へ至った。その後で王宮を訪ね、出家したいと申し出たところ、父王は驚愕のあまり声も出なかった。しばらくしてからやっと、太子はまだ年若く、山野になど生活できないと言って許可しなかった。(2004/12/11)
出家品 第十一(67b)
太子は王の寵愛を感謝しながらも、火宅の如き世俗にいては、無常の火に焼かれるだけであると説いて、さらに出家を願った。王は太子の言葉が、道理にかなっていると認めつつ、頑なに拒絶し、諸臣へ太子宮の警護を厳重にし、歓楽を尽すよう命じた。ところが太子はかえって出家の意志を固くし、今日にでも城を出て、山野へ入ろうと決心した。諸天はその志を知り、城門を開放するなどして誘導すると、太子は車匿を起し、愛馬・犍陟を連れて来るよう命じた。すぐ馬を駆って城外へ奔り、諸天の加護で速やかに国境を越えることができた。(2004/12/12)
車匿品 第十二(69a)
そこで太子は自ら剃髪し、身に付けていた宝飾等を車匿へ渡すと、父王へ奉げるように依頼した。車匿はこれを聞いて驚愕し、とめどなく涙を流しつつ、慰留に努めた。しかし太子の決意は固く、重ねて王宮へ帰るよう命じられ、泣きながら帰路へついた。(2004/12/13)
瓶沙王問事品 第十三(70b)
太子は山野へ向いながら自分の華美な服装を気にしていると、途中で会った猟師が袈裟を持っていたので、交換してもらった。それから林に着いて、梵志たちへ何の道術を修めているか質問した。しかしどれもたいしたものではなかったので、立ち去ることにした。次に王舎城へ行き、托鉢したところ、住民はその威容に驚き、大評判となった。瓶沙王がこの騒ぎを聞きつけ、家臣に太子の居所を調べさせて、自ら訪問し丁寧に出家の動機などを尋ねた。(2004/12/14)
No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第三 [一名仏本行讃伝]
為瓶沙王説法品 第十四(72b)
王の懇ろな問に答え、太子は柔和な声で、一切の衆生が無常の火に焼かれるのを見て、なんとかこの大患から逃れるため、親族と別れ王位を捨て、道を求めていると説いた。(2004/12/15)
不然阿蘭品 第十五(74b)
それから菩薩は阿蘭梵志を訪ね、老病死苦の問題について質問した。梵志は五情や五欲などを具に観察し、惑わされないようにすることが覚りの業であると教えた。しかし菩薩はこの説に満足せず、その程度ならまた輪廻に還ると考え、梵志のもとを辞去した。以後は尼連禅川の辺で坐禅に励み、六年間毎日、麻と米を一粒ほどしか食べず、身は痩せ細り気力も衰えてしまった。これではとても成道できないと考えた菩薩は、諸天の勧めを受けて、滋養のある食事を採ることにした。五人の侍者はこれを見て、彼が堕落したとかん違いし、すぐ立ち去っていった。菩薩は乳糜などを供養され、体力が回復したので、道樹の下へ赴くと、金剛座に就いた。そうして、
「魔界の 衆労と欲塵を度せずんば 是に坐して起きず 亦飲食せず(不度魔界 衆労欲塵 坐是不起 亦不飲食)」
という誓願を立て、不退転の決意で禅定へ入った。(2004/12/16)
降魔品 第十六(76a)
菩薩が金剛座に就いたのを見て、地神は歓喜し、何度も地震が起った。魔王が訝しく思い家臣にその原因を質すと、白浄王の太子がやがて成道すると知り、憂いに沈んだ。そこで魔王の三女は、菩薩を誘惑しようと道樹へ赴いたところ、かえって老女にされてしまった。これを見て烈火の如く怒った魔王は、軍勢を率いて菩薩を囲んだ。恫喝したり矢を放ったり、魔女に誘惑させたりしたのに、全く効果がなく、さらに大軍を呼んで菩薩を襲撃させた。ところがどんな攻撃も菩薩の法力で無力化され、かすり傷ひとつ付けることができなかった。諸天は上空よりこうした経緯を見極めた上で、魔王・波旬へすでに勝敗が決しており、退却するよう勧告した。
菩薩は降魔の後、再び坐禅に専念した。久遠の過去世における衆生の生死を観察し、夜半に天眼を得た。それから生老病死の根源を思惟し、十二因縁の法を知り、八聖道を得た。智慧の炎により煩悩を焼き尽した菩薩は、朝陽が登ろうとする頃、ついに仏道を成じた。(2004/12/17)No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第四 [一名仏本行讃伝]
度五比丘品 第十七(異訳→「転法輪品」87a頁)(79a)
釈尊は成道後、慈悲心から以前の侍者だった五比丘に向って、法輪を転じようと考えられた。しかし彼らは、太子が堕落したと思い込んでおり、素直にその説法を聞こうとしなかった。そこで釈尊は慈父のような態度で、懇ろに八聖道や四聖諦等を教えられ、五人はようやく解脱することができた。(2004/12/18)
度宝称品 第十八(79c)
波羅奈城に住む大長者の子・宝称は、侍女たちが屍のように眠る様を見て、深く無常を感じると、そのまま家から出てあたりを彷徨した。偶然、川向うに釈尊の姿を見かけたので、生老病死の苦に困惑しており、どうか救って欲しいと懇願した。釈尊は優しい声で、八聖道を守れば平安であり、早くこちらへ来るよう勧められた。宝称は説法を聞いて直ちに解脱し、後で五十人の友を誘って得度させ、ここに六十羅漢が生まれた。それから釈尊は独り野象沢へ行き、神通力を現して迦葉三兄弟を帰依させ、千人の弟子を獲得した。次に王舎城へ赴き、瓶沙王に無常や縁起の法を説かれ、慧眼浄を獲得させた。
また釈尊が竹林園にいた時、馬師比丘が朝早く托鉢へ行ったところ、外道の受訓(舎利弗)がその威儀に感動し、誰が師で何を教えているか質問した。釈尊の弟子であり、
「苦と苦の起元を覚り 又苦の滅する所を知り 苦滅の道たる所以は 聖師の頒宣する所なり(覚苦苦起元 又知苦所滅 所以苦滅道 聖師所頒宣)」
という四句を示すと、彼はすぐ慧眼浄を得た。そこで親友の目犍連も誘い、五百人の弟子と共に、仏法へ帰依した。その頃、名家であった薬樹生(迦葉)は、自ら出家し、山野で暮らしていた。たまたま釈尊を見かけ、自分の聖師であると覚り、その場で帰依した。また舎衛国の富豪だった須達も釈尊の令名を聞くやいなや、喜び勇んで面会し、説法を受けて直ちに帰依した。(2004/12/20)
廣度品 第十九(82a)
釈尊は天人の師として、衆生の教化に励まれた。人々を殺害し、その小指を首に巻いた鴦掘魔を調伏し、無数の幼児を食べた鬼子母神も受戒させた。舎利弗や槃特など、賢い者も愚かな者も分け隔てなく教化され、五百羅漢を擁していた。ただし調達だけは釈尊に逆らい、教団を混乱させた。この経典を学ぶ者は涅槃の城に入り、甘露の薬を服して永く災厄が消失する。(2004/12/21)
現大神変品 第二十(83c)
その頃、王舎城に住む梵志たちは、瞿曇沙門が高名で、数多くの世人が帰依したことを嫉妬し、林に集い共謀していた。そこである大梵志は、誕生時に起きた奇瑞や、王位を捨てて出家したこと、迦葉・目連・舎利弗などの高弟が従っていることなどを挙げ、あなどり難い相手であると説いた。しかし常日頃、弟子へ神通力を現さないよう戒めており、この点なら勝機があるかも知れないと言ったので、みな喜んだ。翌朝王宮へ押しかけ、釈尊と七日後に神通力で勝負したいと強訴したので、瓶沙王は仕方なく許可した。その後、王が自ら試合に出てもらうよう頼みに行ったところ、釈尊はすぐ了承された。
その時、称令という天子が釈尊を訪問し、外道など自分一人で打ち負かすことができるから、任せて欲しいと申し出た。梵志等は後でこの話を聞き、恐れをなして勝負を捨て、雪山中へ逃げてしまった。それから釈尊は、忉利天へ昇り、母のために説法された。
(2004/12/23)
転法輪品 第十七(異訳→「度五比丘品」79a頁)(87a)
釈尊は成道後七日間、菩提樹を見つめながら正覚の喜びを堪能された。それから遍く世間を観察され、彼等に仏法は理解しがたいと判断し、このまま沈黙しようと考えられた。梵天はこれを察知して、衆生を教化するよう懇ろに勧請した。釈尊はこれを受け、誰に説法しようか思案し、阿蘭や鬱陀羅はもうこの世にいないので、以前の侍者・五人を選ぶことにした。直ちに波羅奈国へ出発すると、途中ある梵志がその威容に感動し、誰に師事したか質問したので、釈尊は無師独覚であると答えられた。五人の比丘は釈尊を見かけ、歓迎しまいと誓ったのに、実際間近に接するやいなや、いそいそともてなした。…(後欠)…
(2004/12/24)No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第五 [一名仏本行讃伝]
昇忉利宮為母説法品 第二十一(88b)
世間の人々に対する教化が一段落したので、釈尊は母へ説法するために、忉利天へ昇られた。釈尊が清らかな音声で、四聖諦・八聖道について説かれたところ、母は煩悩が滅尽し、三道を証することができた。(2004/12/25)
憶先品 第二十二(89a)
釈尊が竹林園で往古を回想され、前世に無数の衆生へ布施し、数千もの仏に供養した故事を説かれた。かつて月光王であった時、大施を十二年行っていると、悪い婆羅門に首を求められ、そのまま与えた。また善目王だった時も、目を求められて与えた。白象王の時、猟師に射掛けられ牙を取られたのに、抵抗しなかった。鹿王の時、妊娠した母鹿の代わりに自ら罠へかかった。釈尊がこうして、生経五百章を語られると、三千大千世界は六度振動した。(2004/12/26)
遊維耶離品 第二十三(90a)
その頃、維耶離城では悪鬼が跳梁し、疫病が蔓延していた。王や大臣等が対策を議論していたところ、篤信の財明長者は仏に助けてもらうよう進言した。そこで直ちに使者となり礼を尽くして懇願すると、釈尊は了承され二千五百人の弟子を率い、維耶離城へ遊行することになった。王たちの歓迎を受けた釈尊は、一偈を唱えて、清浄な水を大地に撒くと、たちまち慈雨が降り注ぎ災厄も鎮まった。その後で釈尊が弟子たちと捺女林で休息していると、捺女がこれを聞きつけ面会に訪れた。釈尊は彼女の美貌を見て、弟子たちへ色欲に惑わされないよう厳しく戒めた。捺女は仏の威容に感激し、清い心で礼拝した。釈尊もこれを認め、正法を信じるよう懇ろに教えられた。(2004/12/27)
歎定光仏品 第二十四(91c)
阿難は天花が降る奇瑞を見て、その原因を尋ねると、釈尊は過去無数劫において、定光如来が現れた時の、善思菩薩の故事を説かれた。梵志の子・善思は、定光仏の名を聞いて歓喜し、供養のため花を七枚入手すると、成道を誓願し仏へ散華した。それが空中で花蓋に変わったのを見た菩薩は、さらに仏に踏んでもらうため、髪を解き地面に敷いた。定光仏は菩薩の資質を見抜くと微笑して、後世に必ず成仏すると授記された。その善思こそ釈尊の前身であり、仏へ散華した福報で、今も天花が降ったと説かれた。(2004/12/28)
降象品 第二十五(93c)
その頃、調達(提婆達多)は釈尊へ害意を懐いており、阿闍世と共謀して、彼に王位を簒奪させた。それから仏を殺そうとし、象に酒を飲ませ外へ放った。しかし釈尊はまったく動じず、象は仏前まで走って来ると足を屈めて礼拝した。その後、調達は貴族の高度へ、栄達を約束し自分に従うよう勧誘したところ、すでに釈尊へ帰依しており断られた。調達は怒って王宮へ赴き讒言すると、阿闍世王は家臣へ命じ、秘かに宝物の瓔珞を彼の家へ投げ込ませた。後日、官吏が高度宅で王の瓔珞を見つけ、彼は冤罪で処刑されることになった。この時、調達が自分に頼れば助かると言って来たのに、高度は頑として拒否し、命をかけ仏へ帰依すると誓った。釈尊はこれを察知して刑場へ赴き、懇ろに四聖諦などを説くと、高度は直ちに阿羅漢となった。それから神通力で飛翔し、空より種々の説教をしたので、阿闍世王も改悛し、旧悪を懺悔して仏法へ帰依した。(2004/12/29)
魔勧捨寿品 第二十六(95c)
ある日、魔王の弊魔が訪れ、釈尊へ語りかけた。むかし自分が尼連禅河の辺で、成道後すぐ涅槃へ入るよう勧めたら、まだ四部の弟子を持たず、法も広めていないと断られた。しかし今は阿羅漢の弟子がおり、教えも遍く伝わったから、もう寿命を捨てる時期である、と説いた。ここで意外にも釈尊が、望み通り三ヵ月後に命終すると告げられると、魔王は喜び帰って行った。この時、大地が振動し様々な凶兆が現れたので、阿難が原因を尋ねたところ、釈尊は自分が近々死去するからである、と答えられた。これを聞いた阿難は驚愕し、血涙を流して悲嘆したので、釈尊は優しく、自然の有様を観察すれば、形あるものがすべて壊れるのは道理であり、誰も逆らうことはできない。自分が涅槃へ入っても正法を守る者は、いつも仏に見えているのだから、以後も弛まず精進してほしい、と教えられた。(2004/12/30)No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第六 [一名仏本行讃伝]
調達入地獄品 第二十七(98b)
阿難は多くの衆生が仏法へ帰依したのに、調達(提婆達多)だけが学問しながら、どうして悪行を重ねるのか疑問に思った。そこで釈尊は、どれだけ博学であっても、心が悪になじんでいれば、善行は失われ穢れてしまう、と教えられた。その調達が重病に罹り、旧友の摩竭国王に助けを求めるため、弟子たちと訪問することにした。一行がやっとのことで城門へ辿りつくと、王はすでに仏法へ帰依しており、悪人がまた騙しに来たと言って追い返した。困った調達は、弟子たちに嘘をつき、自分は釈尊と親しいから、救ってもらいに行こうと指示した。阿難が到着を告げると釈尊は、彼の罪があまりに重く、仏と面会などできないだろうと言われた。調達はこれを聞いて顔面蒼白になり、死の恐怖に震えていると、たちまち地面が魚口の如く割れたので、両手を高く挙げ、仏に助けを求めた。
しかしその甲斐なく、調達はすぐさま無択(阿鼻)地獄へ落ちた。そこで獄卒に連行され、閻魔王と面会し、生前の悪行を譴責され、種々の処罰を受けた。炎を上げた大金剛山が、いく度も頭上に落ちて全身を粉砕するなど、彼は筆舌に尽し難い責苦に苛まれた。目連が神通力で見聞した有様を、求めに応じ詳しく話したところ、阿闍世王は恐れ戦き、涙を流して悔恨した。目連は懺悔こそ悪行を治す良薬で、仏こそ良医であると説いたので、王は大勢の人々と釈尊を訪問した。そうして四聖諦など解脱の法を聞き、会衆の天・人はみな得度した。(2005/1/3)
現乳哺品 第二十八(103a)
ある時、拘夷那竭城で五百力士が集まり、合力して城門の出入に不都合な小山を移し、後世に名を残そうと相談した。しかし大勢で力を尽したのに、その山は微動もしなかった。釈尊がその場を通りかかり、力士から話を聞くと、左手で軽く山を挙げ右手へ移してから、空中に放り投げた。そうして彼等へこんなことは仏にとり、乳哺力(赤ん坊が乳を吸う力)程度に過ぎないと語られた。また力士たちの質問に答え、仏の功徳福力や、智慧力・神足力・定意力なども詳しく教えられた。しかしこうした偉力でさえ、無常の大力には粉砕されてしまう。必ず生ける者は死に、成る者は敗れ、合う者は別れ、集る者は散る。このように苦の起原を示し、それを滅する八聖道について説かれたところ、大地は六度震動した。(2005/1/4)No.0193[cf.192] 仏本行経 巻第七 [一名仏本行讃伝]
大滅品 第二十九(106b)
釈尊は遊行の途中で双樹林へ到着すると、阿難に縄床を敷くよう命じ、右脇を臥せ、西方を向き、頭は北にし、足を重ねられた。その時、梵志の須跋が聞法に訪れたので、釈尊は阿難の心配をよそに、強いて面会した。彼の心はすでに調えられており、釈尊が無常の法を説かれると、その場で解脱し阿羅漢となった。須跋は仏がやがて入滅されるのを見るに忍びず、先に涅槃へ入った。
それから釈尊は床に就くと、そろそろ仏身を捨てようと思い、初夜の時分、弟子たちを集め、最期の説法をされた。自分の死後は法を犯さず、身・口・意を清浄に保つべきであり、戒律を守らない者は沙門と言えない。また慚愧を捨てると、諸徳を廃することになり、慚愧がある者を人と言い、これがなければ獣に他ならない。今このように四聖諦を敷衍して説いた。質問があればこの際に遠慮なく聞きなさい、などと説かれた。弟子たちが黙ったままだったので、釈尊は皆よく善を修めるように、一切は死すべき者で、自分もいま涅槃へ入る、と語り終わられた。そうして、第一禅から第四禅までを遍歴し、ついに滅度へ至られた。(2005/1/6)
嘆無為品 第三十(109b)
その時、空中に諸天が集り見守る中で、仏が命終され、みな嘆き悲しみ世の無常を悼んだ。弟子の阿那律も入滅を追悼し、無常の金剛杵が仏を撃ち、無量の功徳も空しくついに崩御された、と述べた。
諸天は煩悩が少なく悲歎するだけであり、解脱した弟子も諦念を懐くだけだった。しかし未熟な弟子は悲痛のあまり号泣し、その噂が諸国に流れた。さっそく拘夷国の力士たちが駆けつけ、双樹に詣で悲しみにくれた。それから仏を象牙の輦輿に乗せると、香華を供え、荼毘に付す準備をした。しかし三度火を点けても薪が燃えず、不審に思っていたら、迦葉が到着し仏へ礼拝すると、たちどころに炎が上がった。火葬の後、仏舎利を拾って帰城し、七宝の高座に据えて供養した。(2005/1/8)
八王分舍利品 第三十一(112a)
諸力士が宮殿で釈尊の舎利を供養していると、数日して七国の王が使者を派遣し、分骨を求めて来た。力士たちは仏が我国で入滅されたから、ここで供養するとして、要求に応じなかった。王等は怒って軍勢を集め、城を取り囲んだため、力士は命に代えても仏舎利を守ろうと決心し、籠城して敵軍に備えた。
その時、高徳な梵志だった香草性は情勢を見て憂え、諸王へ釈尊を追慕するなら、教えに従い無益な戦を止めるよう説得に回った。王等も時宜にかなった彼の説を受け入れたので、次に梵志は王命を奉じ、力士の城を訪問した。そこで釈尊はいつも布施の功徳を讃嘆されており、舎利を分けて人々へ法施すれば、名声が広く伝わるだろうと説いた。力士もこの教えに服し、仏舎利を八等分して送ったので、七国王は喜んで帰国し、各々仏塔を建立し、盛大に供養した。以上、舎利弗のような阿羅漢でも、仏徳について説き尽くすことなどできない。まして自分の如き浅慮の者では、実際に見聞きしたことしか述べられなかった、と金剛力士が語り終えた。その場に会した天人たちは、所説を聞き心中に悟るところがあり、釈尊と対面したかのように感じて、仏法へ帰依する心を固め、各々飛び去って行った。(2005/1/10)
No.0194 僧伽羅刹所集経 三巻 僧伽跋澄訳 ⇒【目次】
《参考文献》
『国訳一切経 印度撰述部37 本縁部九 方広大荘厳経 僧伽羅刹所集経』 常磐大定訳 大東出版社 1984(1930)
No.0194 僧伽羅刹所集経 巻上(115b)
序
僧伽羅刹は須頼国の人で、仏滅後七百年、この国に生まれ出家した。諸国を遊行し、揵陀越土の甄陀罽膩王の師となった。高徳で著述が多く、仏伝に関する経典を編集した。
菩薩が修行を始めた時、世間を憐憫して出家し、苦行に励んだ。菩薩の智慧は、衆生に理解できないほど深い。菩薩の諦観は、まったく虚妄がない。菩薩はいつも柔和で、粗暴なところがない。菩薩が父母に孝行する時、報恩の念から敬って奉仕する。
菩薩はこうした行を修め、一切の無明を消滅させた。衆生は日々生老病死の苦に追われ、脱出する術を知らない。衆生は究極の聖諦を、理解することができない。このように菩薩が観察した時、衆生へ大きな慈悲心を懐いた。
菩薩の戒は、身・口の行為が心に甘露の法を起す。菩薩の精進は、心に倦怠なく衆生のため行う。菩薩の忍は、何も恐れず、衆生を守るために行う。例えばある時、迦藍浮王が深山へ鹿狩りに行き、忍辱仙人に出会って、修行の目的を尋ねた。求忍であると答えたので、王はその志を試すため、彼の手足を切った。しかし仙人は少しも動じず、忍辱の徳を讃嘆したという。
菩薩の三昧は、不放逸で執着がない。菩薩の堅固心は解脱へ向い勇猛で、かつて阿蘭迦蘭仙人に禅定を習いながら満足できず、さらに無上道を求め苦行した。菩薩の多聞は、聞くことをすべて忘れず、知識があっても驕慢にならない。
菩薩が恩に報いる際、僅かなものでも決して忘れない。古に菩薩が鸚鵡だった時、いつも停まっていた樹が火災に遭うと、独り海から水を運んで、消火したという。菩薩の袈裟は、世人の規範となり、その風俗を改善する。かつて菩薩が兎だった時、ある仙人と山林に住んでいた。しかし彼が食物を求め下山しようとしたので、親友を思う気持から林住の功徳を説き、ひき止めたという。
菩薩の慈悲は、一切の衆生を漏らさず救済しようとする。かつて釈尊が比丘たちと火災にまき込まれた時、仏の功徳で偈を唱えるやいなや、直ちに鎮火した。菩薩が輪廻の中で生まれようとする際、衆生を救済するため、苦について根本から観察する。かつて菩薩が山林で、烏・鹿・鴿・蛇と暮らしていた時、彼等からそれぞれ何を苦しんでいるか、懇ろに聞いた。そこで菩薩は深く思惟した結果、一切皆苦であると説いたという。
菩薩が兜術天から下生した時、世の無常を観じて執着がなく無心であり、大光明が世界を照らした。誕生時は、七覚意の瑞祥として七歩進み、四聖諦の瑞祥として四方を観察した。菩薩が出家し城門から出た時、成道するまで帰還しないと誓った。菩薩が菩提樹下に結跏趺坐した時、解脱しなければ座を起たないと誓った。
釈尊が正覚を得た時、世の無常・苦・空を観じて、煩悩を無くした。それから独り衆生を教誨するため、八聖道を示して、法輪を転じられた。(2005/1/20)
No.0194 僧伽羅刹所集経 巻中(123c)
その時、釈尊は分別について、愛欲が牢固で愚痴に染まることであると説かれた。また魔衆を降伏するとは、善を行い執着がなく、慚愧心を懐いて、無相を宗とし、八聖道を修めることである。灰河を渡るとは、希望や瞋恚を不浄なものとして、悉く除去することである。説法とは、相手の求めを充足させた上で、解脱の徳義を示し、時節や聞く者の素養に応じて話すことである。福田とは、人々が麦や稲の田に依るごとく仏へ帰することである、等と説かれた。
釈尊の解脱は愛欲に与せず、精進して怠ることなく、清浄な功徳は計りしれない。その尽智は、苦を滅尽し、言行一致・応病予薬で、怒りや驕りは根が断たれ、真実に涅槃へ至る。その無生智は、滅尽された苦が二度と起らず、究極の証を得ている。その戒を布くことにより、人民がみな禁戒を守り、悪心が消滅し、十善行が具わり、出家者と同じ功徳が成就している。
釈尊の首は堅牢で、髪は柔軟、額は金剛のように固い。眉間は明るく、眼は清浄で、鼻は微妙、歯は揃っている。広長舌を持ち、発する言葉は穏やかで、その功徳も量りしれない。釈尊の顔面は瑕疵なく頭も端正であり、臂は無比で柔軟な手を持っている。身体は方正であり、内臓や胃腸もよく整い、健脚を備えている。歩みは遅からず速からず、足跡に千輻の相輪が現れる。笑みには必ず因縁があり、衆生を憐憫して笑う。背後には妙なる光がさし、衣は高くも安くもないものを着て、乞食する際は貴賎を選ばない。臥所は、岩窟に柔らかい草を布き野宿する。
釈尊の感覚は、物事をありのままに映して倒錯がなく、心を乱れるもの、世間を頼りないものと捉えている。この人生を、汚泥に咲く睡蓮のように、煩悩の水中で暮らすものとする。また海を彼岸へ渡り解脱すること、船を善行による果報に譬えている。
太陽を四禅が具足し、戒行を保持し、名声も広まり、衆生が尊敬すること、雲を永劫の修行の成果で、一切の衆生へ慈悲を垂れることに譬える。火を人々が喜んで求める解脱の行に、庭園をやさしい禁戒により煩悩を整えること、空を欲愛が広く一色に断たれた様子に譬えている。釈尊は無欠の禅定力・神通力による輪を持ち、禁戒の車に乗って降魔し、仏法を雨のように降らせる。その城は智慧を砦として、三昧力で敵を退ける。(2005/1/27)
No.0194 僧伽羅刹所集経 巻下(134b)
釈尊は道迹について、王道のように涅槃へ至るものであると説かれた。
釈尊は教化のため、独りで人殺しの鴦崛鬘がいる道を歩き、神通力を示して帰依させた。その時、
「亦我が弟子と為れば 是の如く有を受けず 覩る者は皆怖畏す 諸妖・鬼神に及ぶ 是の諸の鬼神の処 最勝は便ち彼に入る(亦為我弟子 如是不受有 覩者皆怖畏 及諸妖鬼神 是諸鬼神処 最勝便入彼)」
と偈を唱えると、阿羅婆鬼が聞いて怒り狂い、釈尊を攻撃してきた。しかし雹雨を降らせても曼陀羅華に変るなどし、かえって鬼神王は仏の威力に感嘆してしまった。
その頃、調達(提婆達多)は恨みに駆られて、耆闍崛山から釈尊めがけ、何度も岩石を投擲した。その内、ひとつが如来に当り、足の指から出血させた罪で、彼は後に地獄へ落ちることとなった。また象に酒を飲ませ酔わせてから、釈尊へ向けて放ったところ、仏前で急におとなしくなり、足を礼拝した。
摩竭国王は羅閲祇城(王舎城)にいた釈尊との面会を望み、多くの人々を連れて訪問した。仏を目の当りにした王は、これこそ福田であると言って礼拝した。また舎衛国の闍提蘇尼梵志は、弟子たちを連れ議論するため釈尊を訪問した。そこで為すべき梵行とは何か質したところ、釈尊は清浄で穢れのない行いをすべきであると説かれた。
ある時、五人の比丘が釈尊を見かけると、彼は苦行を修めながら迷った末に、道を究められなかった、と話し合った。そのためせっかく釈尊と会っても、教えを受けようとせず、毎日一麻一米しか食べないで、六年苦行してもだめだったのに、いま欲するまま口にして道を得たのか、と言った。しかし釈尊は彼等へ懇ろに苦聖諦を説かれ、阿羅漢へ至る道を示された。
優波斯尊者の弟子・鉢摩迦が、摩鍮羅で托鉢の途中、うっかり婬女の村へ入った。ある娘が一目惚れし、家へ呼んで誘惑したにもかかわらず、かえって彼は煩悩を観察し解脱してしまった。娘はいよいよ惚れ込んで、旃陀梨に呪術をかけるよう依頼した。彼は村に鉢摩迦を呼ぶと、この女と結婚しなければ、火坑へ落すと脅した。しかし彼は節を枉げず、肉欲に従い後で無量の罪を受けるより、今日火坑へ入る方がましであると答えた。旃陀梨もこの態度に心を動かされ、後に二人は出家したという。
釈尊は煩悩を除去して執着がなく、勝れた功徳を持っておられる。人中の獅子であり、力強い咽喉で優しい言葉を使い、巧みに仏法を称揚される。また人中の雄象であり、一切の智慧を具え、心身が調和し、無師独覚された。釈尊にはこのような功徳があり、その覚りは極めて深く、比べるものがない。また釈尊は世間の様相を、草木が依りあって生育するようなものと観られている。大迦葉は飽くことなく苦行を修めて、知覚が円熟し煩悩を降伏させており、名声が知れわたっていた。釈尊もその徳を誉めるため、年老いて体も弱くなったから、重く粗末な衣を捨て、長者から布施された服を着るよう勧めた。しかし彼は決してこれを受けず、阿練若(森林での修行)を讃嘆し、今まで通り粗服で清浄に暮らすと宣言した。
仏滅後百年を経て、摩竭国に阿儵王が現れ、八万四千の仏塔を建立し、仏法を広く世界へ流布させた。(2005/2/6)
舎利弗は最期の時を迎えて、那羅陀村の静かな場所に草を敷き、如来の姿を観じつつ、獅子奮迅三昧に入って涅槃へ至った。阿難は侍者の均頭沙弥から知らせを受け、うろたえながら釈尊のもとへ連れて行った。釈尊は嘆き悲しむ阿難をたしなめると、舎利弗の遺骨を受け、比丘たちへ礼拝するよう命じられた。
その後、釈尊も寿命を捨てる時期が来て、地面が大きく震動した。阿難が驚いてこの因縁を尋ねると、釈尊は少しも心を動かさず、如来が涅槃に入る瑞祥であると答えられた。阿難はこれを聞くと、卒倒してしまった。しばらくして釈尊は双樹の間に臥所を設け、比丘たちへ無常の理などを説法してから、静かに涅槃へ入られた。
釈尊は波羅奈国で初転法輪し、夏に摩竭国王を教化された。それからの教化は第二・三年が霊鷲頂山。第五年は脾舒離。第六年は摩拘羅山。第七年は三十三天。第八年は鬼神界。第九年は拘苫毘国。第十年は枝提山中。第十一年は鬼神界。第十二年は摩伽陀国。第十三年も鬼神界。第十四年は舍衛国の祇樹給孤独園。第十五・十六年は迦維羅衛国。第十七年は羅閲城。第十八年も羅閲城。第十九年は柘梨山。第二十年は羅閲城。第二十一年も柘梨山。その後、鬼神界で四年連続夏坐。十九年連続舍衛国で夏坐。最後の夏坐は跋祇境界毘将村だった。
No.0195 仏説十二遊経 一巻 迦留陀迦訳(146a) ⇒【目次】
《参考文献》
『国訳一切経 印度撰述部34 本縁部六 菩薩本生鬘論下・他』 岡教邃 赤沼智善 成田昌信 常磐大定 訳 大東出版社 1997(1935)
過去永劫の昔、菩薩が王だった時、国を弟へ譲り瞿曇婆羅門の下で修行していた。その後、国に五百人の盗賊団が現れ、官邸の宝物を盗って逃げる途中、菩薩が住む庵の辺りで解散し、遺物を落としていった。翌日、追跡者たちはこれを見て、菩薩を犯人と断定し、強盗の罪で磔に処した。婆羅門はこの一件を知って悲歎すると、刑場へ赴きその骸を納め、土に染みた血も団子にして持ち帰った。十月後、血団子が男女の子供に生れ変り、瞿曇氏の開祖となった。
ところで菩薩は天上から下生する国を選び、白浄王家が適当であると判断した。それから白象に乗り、夫人の母胎へ入った。誕生後、悉達と名づけられ、難陀が弟で、母は摩耶、瞿曇弥が叔母で、従弟に調達と阿難がいた。
釈尊は二十九歳で出家し、三十五歳で得道された。その後、菩提樹下で一年過し、第二年は鹿野園で説法された。第三年は迦葉三兄弟を教化し、第四年は象頭山、第五年は竹園で説法された。この年舍利弗が托鉢中、馬師比丘と出会って仏法を知り、目連等と帰依した。第六年に須達と祇陀太子が精舍を寄進した。第七年は拘耶尼国で般舟経を説かれた。第八年は柳山中で説法し、第九年は陀崛摩を教化された。第十年はまた摩竭国で説法し、第十一年は弥勒に本起を説かれた。第十二年に父王の国へ帰り、釈迦族へ説法された。こうして釈尊は十二年の遊行中に、八万四千人を得度させ、十四国を巡られた。(2005/2/9)
No.0196 中本起経 次名四部僧出長阿含 二巻 曇果訳 ⇒【目次】
《参考文献》
『国訳一切経 印度撰述部34 本縁部六 菩薩本生鬘論下・他』 岡教邃 赤沼智善 成田昌信 常磐大定 訳 大東出版社 1997(1935)No.0196 中本起経 巻上 次名四部僧出長阿含
転法輪品 第一(147c)
釈尊が摩竭提国の菩提樹下で成道後、誰にこの甘露な教えを聞かせようかと思案された。最初にかつて師事した路由梵志と阿蘭迦蘭が適当と思われたところ、天子が彼等は七日前に死去したと告げた。次に鬱頭藍弗を思われると、また天子が昨晩命終したと告げた。そこで父王が派遣した五人の侍者に説法すると決め、波羅奈国へ旅立たれた。
彼等は如来がやって来るのを見て、蔑ろにし口もきかないでおこうと相談した。ところが実際、間近に接したら、不覚にも以前と変らず応接していた。釈尊は五人へ、貪欲と労苦の両極端を捨て、中道を歩むように説き、さらに八正道・四聖諦について詳しく教えられると、みな漏尽通を得て、阿羅漢となった。これが波羅奈国における初転法輪の様子だった。(2005/2/12)
現変[一作善来]品 第二(149a)
その頃、波羅奈国に住む阿具利長者の独り息子・宝称(蛇蛇)は、ある夜に妓女たちの寝姿を見て世俗を厭離し、家から飛び出ると釈尊に出会った。懇ろな説法を受けた宝称は、その場で法眼を得て沙門となった。翌朝、息子の跡を追い尋ねて来た長者も、釈尊の説法を聞いて歓喜し、仏法へ帰依した。また後に、これを聞いた四人の友人も、連れ立って出家した。(2005/2/15)
化迦葉品 第三(149c)
釈尊が教化のため訪問すると、迦葉師弟は仏の威容に打たれ、天人かと疑った。しばらくして悉達王子が出家したことを思い出し、彼が成道したのだと思い当った。歓迎を受けた釈尊が、一夜の宿を頼むと、唯一の空室に神龍がいて、害を及ぼすと断られた。釈尊はそれでも構わないと言ってそのまま泊り、翌日、龍を降伏させ鉢に入れて部屋から出てきた。迦葉はこれを見て感嘆しながら、心中で名声を惜しみ、まだ自分には及ばないと奢っていた。
後日、釈尊が迦葉の住居付近へ移り、樹下で夜坐していたところ、四天王が聞法に訪れた。それから諸天が次々と来臨し、七日目には梵天も下降してきた。何度もこのような神通力を見せ付けられ、やがて迦葉も心から降参した。そこで釈尊は、阿羅漢を僭称していると批判すると、迦葉も無知を悟り、沙門になる決心をした。この時、弟子の五百人も師と出家し、これまで使っていた什器を川へ流した。迦葉の二弟は下流でこれを目撃し、兄が誰かに襲われたと思い急いで駆けつけて来た。そこで沙門姿の兄を見て驚き、経緯を質すと彼等も納得して、五百人の弟子たちと出家した。(2005/2/16)
度瓶沙王品 第四(152a)
釈尊が教化のため羅閲祇(王舎城)へ赴こうと考えられた時、ちょうど瓶沙王が招聘の使者を派遣してきた。さっそく比丘たちを連れて行ったところ、人々は高名な迦葉の姿を見て、どちらが師事しているか疑問に思った。そこで釈尊は彼に命じ阿羅漢の神通力を示させ、仏法へ帰依していると宣言させた。みな納得したので、改めて瓶沙王へ無常や苦の理を説かれた。そうして五戒を持し、精進すれば道果が得られると教えたら、会衆の一万二千人が道に目覚めた。
この中にいた迦蘭陀長者は、先に尼揵へ寄進した庭園を惜しんだ。しかし大鬼の半師が彼等を駆逐したので、長者は精舎(竹園)を建立し僧団へ寄進した。(2005/2/17)
舍利弗大目揵連来学品 第五(153b)
弟子二百五十人を擁する那羅陀(沙然)梵志の高弟に、優波替と拘律陀がいた。優波替が弟子たちを連れ外遊していると、たまたま頞陛比丘に出会った。その威儀に感動し、誰が師でどんな教えを受けているか質問した。頞陛が仏法の要諦を偈で、
「一切諸法の本は 因縁空にして主無く 心を息めて本源に達し 故に号して沙門と為す(一切諸法本 因縁空無主 息心達本源 故号為沙門)」
と説くと、優波替は直ちに理解して法眼を得た。喜んで帰ってきた優波替を見て、拘律陀は経緯を聞き、同様に法眼を得た。それから弟子を連れ訪問すると、釈尊は歓迎して比丘たちへ、この二人は仏の左右に侍すべき者であり、本名に還ってそれぞれ舍利弗・大目揵連と呼ぶように言われた。(2005/2/18)
還至父国品 第六(154a)
迦維羅越王の閲頭檀は太子の成道を聞くと、さっそく帰国を促すため、憂陀耶を派遣した。釈尊はこれに応じ、七日後に帰国すると約束された。王は報告を受けて歓喜し、群臣に命じて国内の道路などを整備させた。いよいよ釈尊が千二百五十人の比丘を連れて帰国すると、王の招請で七日間の法座を設けられた。しかし王は、父親の気持を捨てられず、仏法をよく理解できなかったので、釈尊は目連に神通力を示させ、恩愛の情を絶ち正しく帰依するように導いた。その後で王は親族の子弟に出家を命じて、僧侶の数を充実させた。この時、調達もいやいやながら、沙門になっている。(2005/2/19)No.0196 中本起経 巻下
須達品 第七(156a)
舎衛国の長者・須達(善温)が、友人の伯勤宅へ泊ったところ、非常に忙しくしていた。その理由を尋ねると、釈尊を招くからだと言うので驚き、自分も面会を懇願した。それから聞法のため釈尊を訪問すると、元々功徳があり直ちに法眼を得て、五戒を受けた。
そこでぜひ釈尊を舎衛国にも招聘したいと考え、帰国して良い土地を探した。祇陀王弟の庭園が最適で購入を希望すると、園中に金銭を敷かなければ売れないと言われた。しかし長者はその言葉の通り実行しようとしたので、祇陀も心を打たれ、共同で精舎を建立することにした。その後、釈尊が舎衛国に外遊し、この精舎を献じられて、祇樹給孤独園と命名された。(2005/2/20)
本起該容品 第八(157b)
釈尊が拘藍尼国に外遊した時、国王の優填は暴君で二夫人を置いていた。左夫人の照堂は傲慢・凶悪、右夫人の該容は仁愛・謙虚であった。王が右夫人を寵愛していたので、左夫人は嫉妬し害意を懐いていた。ある時、釈尊の法座に出た該容は、説法を受けて疑問が解け得道した。それを知った照堂は、斎戒の日を狙って遊楽に召すようしむけ、彼女が再三断ると王は怒り、捕縛して射殺しようとした。しかし仏の神通力により矢は当たらず、一命をとりとめた。
ただしその後、王が出征中、照堂の謀略にかかり、該容は焼死してしまった。帰国後にこれを知った王は、彼女を幽閉し、仏法を広めた。(2005/2/21)
瞿曇弥来作比丘尼品 第九(158a)
釈尊が迦維羅衛国にいた時、瞿曇弥が女人の出家を許して欲しいと再三懇願した。しかし釈尊は頑として認めず、彼女は嘆き悲しみ立ちつくしていた。そこを阿難が通りかかり、やつれ果てた瞿曇弥に理由を尋ねると、自分からもお願いしてみると約束した。最初、女人を入れたら清浄行が永続しないと断られたにもかかわらず、阿難は釈尊を養育した大功について言及し、再度許可を願った。釈尊もついに折れて、八敬法を守るなら、女人の出家を許すと告げた。阿難がその言葉を伝えると、瞿曇弥は歓喜して承諾した。
ただ後で釈尊は阿難へ、女人も沙門になるため、将来仏法が五百年で衰微すると予言された。(2005/2/22)
度波斯匿王品 第十(159b)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王が聞法に訪れた。しかし王はまだ若い仏の言葉を信じきれなかったので、釈尊は小さいからといって軽んじるべきでない四事を説かれた。その後、釈尊がある梵志に、恩愛こそ憂悲の原因であると教えたら、彼等は理解できず、世を迷わす愚者として嘲笑された。
王がこの話をすると末利夫人は、仏説に嘘はないと断言し、太子や自分が病死したらどうするかと反問した。そこでようやく王も理解し、直ちに仏法へ帰依した。(2005/2/23)
自愛品 第十一(160b)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王が皇太后を亡くし、やつれ果てた姿をしていた。釈尊はこれを見て、生あるものはすべて死すべき理を説かれ、善を行うのが自愛で、戒を持すのが自護であると教えられた。(2005/2/24)
大迦葉始来品 第十二(161a)
釈尊が舎衛国にいた時、弊衣を着た摩訶迦葉が来訪したので、座を半分に分ち、並んで坐られた。それから釈尊は比丘たちへ、自分に具わる四禅・六通・四定などを、迦葉も体得していると称賛された。(2005/2/25)
度奈女品 第十三(161b)
釈尊が迦維羅衛国から維耶離に至り、奈氏樹園へ着いた時、阿凡和利が五百人の女人を連れ聞法に訪れた。釈尊はこれを見て比丘たちへ、劣情を起さないよう注意された。釈尊が顔色は衰えやすく、色欲は禍のもとと教えられたので、彼女は道に目覚め仏法へ帰依して、食事の供養を約束し喜んで帰った。その後、長者の子弟が五百人訪れて説法を受け、明日食事を奉げたいと申し出た。しかし釈尊は男女貴賎の別を問わず、阿凡和利の先約があると断られた。(2005/2/26)
尼揵問疑品 第十四(162a)
釈尊が那難陀国にいた時、阿夷拔提弗長者が尼揵の命で、食を費やし、無益な教えを広めていると論難に訪れた。しかし釈尊が、布施の福徳について説き、蓄財の危険を教えられると、長者は改心し、外道に唆されて来た非を懺悔した。さらに彼が、仏法を聞いても得道する者としない者がいる理由について尋ねると、釈尊は肥えた田と痩せた田の譬えを示された。(2005/2/27)
仏食馬麦品 第十五(162c)
随蘭然郡の阿祇(耆)達婆羅門は、須達から釈尊の令名を聞き、祇園精舎を訪れた。説法を受け歓喜した婆羅門は三月の間、僧団を招請し供養することにした。しかし彼は魔がさして五欲に耽り、三月の間どの客も通さないよう門番へ命じた。
釈尊が到着しても門を閉ざしたままで、比丘たちは各々托鉢することになった。その頃、郡内は不作で食べ物に乏しく、とうとう馬用の麦まで食べることになった。三月が過ぎて釈尊は帰ることにしその旨を報じると、婆羅門は驚いて馳せ参じ、罪を懺悔しつつ改めて七日間供養した。
その時、比丘たちがなぜこうなったか疑問に思ったので、釈尊は古に盤頭越国の太子だった維衛の故事を説かれた。(2005/2/28)
No.0197 仏説興起行経 二巻 康孟詳訳 ⇒【目次】
No.0197 仏説興起行経 巻上 [一名厳誠宿縁経出雑蔵]
仏説孫陀利宿縁経 第一(164b)
釈尊が阿耨大泉にいた時、舎利弗は孫陀利に誹謗されたり、地婆達兜(提婆達多)に岩石を当てられたりした因縁について質問した。そこで釈尊は、まず孫陀利に関する故事を説かれた。
過去世で波羅㮈城に、博徒の浄眼と婬女の鹿相がいた。二人で終日淫楽に耽っていたところ、浄眼が鹿相の美服を見て強奪しようと思い、殺して辟支仏の楽無為が住む庵の近くに埋めた。その時、国王の梵達は、鹿相の姿が見えないので捜索を命じると、諸臣が辟支仏の所で死体を発見した。尋問しても黙秘するばかりだったので、彼を捕縛し処刑することにした。浄眼は辟支仏が刑死するのを見かねて自首し、とうとう王命で磔刑に処された。この浄眼が釈尊の前身で、鹿相が孫陀利だった。こうして前世で殺人を犯し、辟支仏へ累を及ぼした罪により、何千年も地獄へ落ち、成道後も誹謗を受けることになったという。
『仏説興起行経』はこのように、釈尊が前世で犯した罪を集めて説く経典であり、他にあまり類を見ない内容となっている。(2005/3/2)
仏説奢弥跋宿縁経 第二(166a)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、古の善説王の時に、博学で知られた延如達婆羅門の故事を説かれた。彼は富豪の梵天婆羅門が檀越であり、浄音夫人が世話をしていた。ある時、愛学辟支仏が托鉢に訪れると、彼女はその威儀に感動して、衣食の供養を申し出た。日が経つ内に、彼の方が厚遇されるようになったので、婆羅門は嫉妬し、二人が密通していると流言した。この延如達が釈尊の前身で、辟支仏を誹謗した罪により地獄へ落ち、成道後も謗られることになったという。(2005/3/3)
仏説頭痛宿縁経 第三(166c)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、古に羅閲祇城(王舎城)で起こった飢饉について説かれた。その時、多魚池に村人が集り、漁で飢えを忍んでいたところ、四歳の小児が跳ねた魚の頭を小杖で打った。その幼児が釈尊の前身であり、この因縁で成道後も頭痛が起こるという。(2005/3/4)
仏説骨節煩疼因縁経 第四(167a)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、遠い過去世で羅閲祇城にいた医師の故事を説かれた。彼がある時、長者の子の熱病を治したところ、報酬を払わなかったので、後日また治療を求められた際、見殺しにした。その医師が釈尊の前身であり、この因縁から成道しても疼痛を煩うという。(2005/3/5)
仏説背痛宿縁経 第五(167c)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、遠い過去世で羅閲祇城にいた力士の故事を説かれた。二人の力士が節日に相撲を取る際、婆羅門力士が、負けてくれるなら大金を渡すと約束した。しかし勝負の後で約束を守らず、再び試合を行った時、刹帝利力士は怒って彼を打ち殺した。この刹帝利力士が釈尊の前身であり、婆羅門力士を撲殺したせいで地獄へ落ち、成道してからも背骨が痛むという。(2005/3/6)
仏説木槍刺脚因縁経 第六(168a)
釈尊が羅閲祇城で早朝に托鉢していた時、ある家で材木を割っている者がいた。すると二尺ばかりある槍のような木片が仏前に立ちはだかり、どこへ避けても追いかけて来た。釈尊は宿縁があり、償いをしなければならないと思われ、竹園精舎へ帰り人払いして座に就き、右足を伸ばすと、木槍は足の甲から地面に突き抜けた。未熟な比丘が傷を見て泣くので、釈尊は前世の縁により報いを受けたのだから、避けようがなかったと話された。阿闍世王はこれを聞き、直ちに典医の耆婆を連れて見舞すると、懇ろに傷の手当をさせた。それから釈尊が、この一件に因んで王たちのため、苦にまつわる四聖諦を説かれると、一万一千人もが法眼浄を得た。
翌朝、釈尊は舎利弗へ、無数劫の昔に波羅㮈国の商人が二人で各々五百人を連れ、渡海した故事を説かれた。一行が苦労して種々の財宝に満ちた渚へ着くと、商人はここで暮らそうと相談した。その時、天女が訪れ、ここは七日後に水没するから、早く立ち去るよう勧めた。同時に魔女も来て、反対のことを言いここに止まるよう誘った。一方の商人だけが天女の言葉を信じ準備していたところ、やはり七日後に大水が押しよせた。備えのない商人等が船を襲ったので、やむなく片方の商人は彼を鉾で刺し殺した。この商人が釈尊の前身であり、片方の商人を刺殺した罪により、何千年も地獄・畜生・餓鬼を巡り、如来となった今も、その報いで木槍に刺されたという。(2005/3/8)No.0197 仏説興起行経 巻下 [一名厳誠宿縁経出雑蔵]
仏説地婆達兜擲石縁経 第七(170b)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、過去世の羅閲祇城にいた須檀長者が、命終した時の故事を説かれた。長子の須摩提は、異母弟の修耶舎へ遺産を分けたくなかったので、彼を山頂へ誘い崖から突き落として殺した。この須摩提が釈尊の前身であり、弟を殺害した罪で、何千年も地獄へ落ち、成道しても耆闍崛山で提婆達多に岩石を当てられ、足から出血したという。(2005/3/9)
仏説婆羅門女栴沙謗仏縁経 第八(170c)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、古に尽勝如来の弟子だった、無勝比丘と常歓比丘の故事を説かれた。無勝比丘は六神通力を具えていたのに対し、常歓比丘にはまだ至らないところがあった。その頃、波羅㮈城の大愛長者婦人であった善幻は、二人の比丘へ種々の布施をしており、無勝比丘に手厚かった。常歓比丘はこれを嫉妬し、彼等が密通していると誹謗した。この常歓比丘が釈尊の前身で、善幻婦人は婆羅門の娘・栴沙者であった。釈尊は阿羅漢を誹謗した罪で、何千年も地獄へ落ち、いま得道してからも、栴沙者に密通して妊娠したという嘘をつかれたという。またここでは栴沙者の一件に因んで、三業のうち意業を重んじる、「意大身口小」の教義が説かれている。(2005/3/10)
仏説食馬麦宿縁経 第九(172a)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、古に毘婆葉如来が槃頭王から供養された時の故事を説かれた。如来が招請を受けて比丘たちと王宮へ赴き、食事を供養されて帰る際、病気で来れなかった者のため、食べ物をもらった。帰路にある山を通ったところ、梵志がその美食を嫉妬して、馬麦でも喰らうのがふさわしいと罵った。この梵志が釈尊の前身であり、如来を罵倒した罪で何千年も地獄へ落ち、いま成仏しても昔の因縁で、九十日も馬麦を食べることになったという。(2005/3/11)
仏説苦行宿縁経 第十(172c)
釈尊が阿耨大泉で舎利弗へ、古の火鬘と護喜の故事を説かれた。昔波羅捺城付近に多獣村があり、国で第一太史を勤める婆羅門がいた。その独子である火鬘の親友に、瓦師の子・難提婆羅(護喜)がおり、幼い頃から尊敬しあっていた。ある時、迦葉如来が多獣村近くに来たので、護喜は一緒に面会しようと再三誘った。しかし火鬘が禿頭の行者など会いたくないと断ったので、強引に引き連れ、如来へ不信者のため説法してくれるよう頼んだ。火鬘は三十二相が具わる仏の容姿を観て歓喜し、「菩薩断功徳法」を教示され、その場で出家を決意した。この火鬘が釈尊の前身であり、護喜はその出家を促した天子だった。釈尊は迦葉仏へ「髠頭沙門」等と悪口を言ったせいで、成道の際に六年苦行し、毎日一粒の麻・米などしか食べず、身体も痩せ細ったという。(2005/3/12)
No.0198 仏説義足経 二巻 支謙訳 ⇒【目次】
No.0198 仏説義足経 巻上 [八双十六輩]
桀貪王経 第一(174b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある梵志の田が大雨で不作となったばかりでなく、独り娘まで急死してしまった。彼が煩悶し泣きながら訪問したので、釈尊は世の中で避けられない五事を説かれ、梵志ひとりが老病死の苦に苛まれているわけではないと教えられた。それから布施・持戒などの法を示し、さらに四諦の理まで授けられたところ、彼は直ちに道果を得て、仏法へ帰依した。
後に釈尊は比丘たちへ、過去世でもこの梵志を救ったとして、古の桀貪王の故事を説かれた。閻浮利地(閻浮提)の五王に数えられていた桀貪は、不正な政治を行い、大臣等が結束して兵を出したので、国外へ逃亡した。後に王の弟が推戴されると、桀貪は帰国し土地を分けてもらうことにした。それから徐々に領地を広げて、弟の国を攻め取り、さらに隣国まで兵を出し、天下統一した。そこで帝釈天が彼を試すため、梵志に化けて現れ、遠い海辺に大国があり、ここへ出兵するよう誘った。しかし約束の日に大軍を率いてきても彼の姿がなく、王は憂いに沈んだ。その頃、国内にある偈が流行し、真意を解説できた者に、千金を与えることになった。鬱多がその意を解し、王へ天下を治めてさらに海外まで遠征しようとする愚を悟らせた。この鬱多が釈尊の前身で、桀貪が先の梵志であったという。
なおこの経典では各章の末に、「義足経」という名称で、全体の要旨を表した偈が掲載されている。(2005/3/14)
優塡王経 第二(175c)
釈尊が舎衛国にいた時、ある比丘が山で修行中、優填王の側女が来て鬼とかん違いした。王が誰何すると、沙門であると答えたので、四禅を得ているか質したら、一禅を得た程度だった。王は美人に淫欲を懐いたと思い、怒って捕縛した。山神が哀れんで大猪に化けると、王が追った隙に比丘は逃げ去った。(2005/3/15)
須陀利経 第三(176b)
釈尊が舎衛国にいた時、梵志等が講堂に集まり、以前自分たちは国王や大臣から厚遇されていたのに、瞿曇沙門のせいで台なしになった。いま弟子から最も美しい女を選んで殺し、死体を祇園精舎に埋め、悪評を世間へ流そうと策謀した。計画の通り梵志は女の死体を掘り出し、街の大通りへ運んで釈尊の弟子が殺害したと流言した。人々もこれを盲信し、比丘が托鉢に来ると罵詈雑言を浴びせ応じなかった。この時、釈尊は比丘たちへ、根拠のない噂話など、七日で消え去ると教えられた。その後、梵志の間で争いごとが起ると、一人が女を謀殺した悪事をばらした。王はこれを聞いて怒り、梵志等を国外へ追放した。(2005/3/16)
摩竭梵志経 第四(177c)
釈尊が舎衛国にいた時、摩竭梵志が講堂で急死し同学等は解脱したと吹聴した。釈尊はこれを聞き、外道の教えで解脱などできないと批判された。(2005/3/17) 鏡面王経 第五(178a)
釈尊が舎衛国にいた時、比丘たちが托鉢の途中、梵志たちの講堂へ立ち寄った。彼等は激しい舌戦の最中で水掛け論の末、互に中傷しあう有様だった。釈尊がこれを聞き、梵志等は過去世でもそんな議論をしていたと、古に閻浮提を治めた鏡面王の故事を説かれた。王はある時、国内の盲人を集め、各々象を触らせると、これがどんな動物か議論させた。足を触った者は柱のようだと答え、尾を触った者は杖のようだ等々と答えた。このように触れた部位で話が異なり、まったく収拾がつかなかった。この鏡面王が釈尊の前身で、盲人が梵志の前身であった。彼等は今も昔もあい変らず、無益な議論に明け暮れているという。(2005/3/18)
老少倶死経 第六(178c)
釈尊が娑掃国にいた時、車が壊れ、道端で嘆く人がいた。釈尊はこれを見ると、正法に乗らなければ、この人同様憂えることになると教えられた。また、ある梵志が百二十歳で死に、長者の子が七歳で死んだのを見て、夭折しても長寿を全うしても人生は苦であり、最後にはみな死ぬと説かれた。(2005/3/19)
弥勒難経 第七(179a)
釈尊が王舎城にいた時、老年の比丘が講義中、舍利弗(采象子)が律に従わず、律法について難詰したので、大句私は先学を敬うべきであるとたしなめた。その後で弥勒が舎利弗へ同様に難詰したら、彼も応えられなかった。(2005/3/20)
勇辞梵志経 第八(179c)
釈尊が墮沙国にいた時、長者等が勇辞梵志に、仏陀と議論して勝ったら、五百金を与えると約束した。しかし梵志が釈尊に面会すると、その威容に圧倒され、一言も発することができなかった。(2005/3/21)
摩因提女経 第九(180a)
釈尊が句留国にいた時、摩因提梵志に美しいと評判の娘がおり、誰から求婚されても釣り合わないと断っていた。しかし梵志は釈尊を見て威容に打たれ、帰宅すると婿にすべき人物がいたと話した。さっそく娘を連れて訪問すると、彼女も仏の姿を見て一目惚れした。釈尊はこれを察知され、自分はかつて魔女の誘惑さえ問題にしなかったと説かれた。(2005/3/22)
異学角飛経 第十(180c)
釈尊が王舎城にいた時、外道の六師が講堂で、かつて国民から尊敬されたのに、いま瞿曇沙門のせいで軽んじられている。彼はまだ浅学であり、試合すれば勝てると相談した。それから王宮へ行き上書すると、王は仏法を信じており、怒って彼等を国外へ追放した。釈尊が舎衛国でも敬われているのを見て、六師は波私匿王を訪ね、試合させて欲しいと願った。王はこれを許し七日後、変化を競うことになった。そこで当日、釈尊が神通力で空中を歩行すると、天人がみな讃嘆したので、梵志等は黙り込み、ただ低頭するばかりだった。(2005/3/23)No.0198 仏説義足経 巻下 [八双十六輩]
猛観梵志経 第十一(181c)
釈尊が迦維羅衛にいた時、四梵天が仏や比丘たちに見えようと降臨した。そこで梵天が仏法へ帰依すれば、天界に転生できると説いたら、猛観梵志が疑問に思った。釈尊はこれを察知し、外道が自説に固執する愚を批判された。(2005/3/24)
法観梵志経 第十二(182c)
釈尊が迦維羅衛にいた時、四梵天が仏に見えようと降臨した。そこで梵天が仏法へ帰依すれば、天界に転生できると説いたところ、法観梵志が疑問に思った。釈尊はこれに対し、執着なく無欲なら解脱できると説かれた。(2005/3/25)
兜勒梵志経 第十三(183b)
釈尊が王舎城にいた時、七頭鬼将軍が鵙摩越鬼将軍と、珍宝があったら知らせる約束をした。鵙摩越は池に千葉の蓮が咲いたと告げたところ、七頭は如来が現れたと教えたので、二人はさっそく面会に行き、仏法へ帰依することを誓った。その時、座中にいた兜勒梵志が、解脱について疑問に思ったので、釈尊は如来の清浄な見解による仏教を、みだりに疑うものではないと戒められた。(2005/3/26)
蓮花色比丘尼経 第十四(184c)
釈尊が忉利天で生母のために説法されていた時、舎衛国で四輩が目犍連を訪ね、仏の所在を尋ねた。彼が神通力で釈尊を探した結果、三か月天上に滞在して、説法されると答えた。三月経ち再び四輩が訪れ、釈尊の帰還を懇願したので、目犍連は天上へ昇り来意を告げたところ、釈尊は七日後、優曇満樹下に会すると約束された。この時、蓮花色比丘尼が金輪王服を作り、仏へ奉げた。それから釈尊が大衆のため四聖諦を説法されると、多くの者が自証を得た。(2005/3/27)
子父共会経 第十五(186c)
釈尊が迦維羅衛城にいた時、神通力で空中を歩行された。悦頭檀王はこれを見て、息子である仏の足に礼拝した。国民が不平を鳴らしたので、王は太子が産まれた時、すでに奇瑞を見て礼拝していると告げた。それから釈尊が四聖諦を説法されると、その場で王は諦眼を得た。(2005/3/28)
維楼勒王経 第十六(188a)
釈尊が舎衛国にいた時、迦維羅衛城で釈迦族の者が大殿を新築し、最初は仏に使っていただこうと申し合わせていた。舎衛国の王子・惟楼勒がそれを知らずに宿泊したので、彼らは怒って土台を掘り起こし、土を入れ替え、建物を洗浄した。王子はこれを聞いて憤り、将来国政を握ったら報復すると誓った。しばらくして舎衛国王が崩御し、王子が即位すると、さっそく軍隊を召集し、迦維羅衛城へ進撃した。途中、釈尊がわざと釈樹下に立ち、親族を思う様子を見せたので、王は仕方なく兵を帰した。しかし怨みを忘れず再度出兵し、釈摩男が体を池へ沈めて助命したにもかかわらず、釈迦族は悉く殺戮された。釈尊は後で戦場を視察し、惟楼勒王の罪は重く、七日後に大水で溺れ死ぬと予言された。(2005/3/29)
No.0199 仏五百弟子自説本起経 一巻 竺法護訳 ⇒【目次】
《参考文献》
『国訳一切経 印度撰述部34 本縁部六 菩薩本生鬘論下・他』 岡教邃 赤沼智善 成田昌信 常磐大定 訳 大東出版社 1997(1935)No.0199 仏五百弟子自説本起経(190a)
阿耨達龍王は受別(授記)の菩薩であり、崑崙山に龍宮を構えていた。また阿耨達池は五大河の源流で、この水を飲めば宿命通が得られた。ある時、龍王は釈尊と五百弟子を招請し、蓮華座でもてなした。その後、各々永劫に及ぶ因果応報を想い出し、現世で仏と出会い得度した因縁を偈で歌った。
大迦葉品 第一(190a)
釈尊が弟子たちへ、前世の遍歴を語るよう促された。そこで大迦葉は、前世の行いを述べ、その福縁により富豪の梵志に産れ、釈尊と出合って七覚意・八道行を修め、仏法を受継ぐことになった、と説いた。(2005/4/1)
舍利弗品 第二(190b)
舎利弗は前世において、辟支仏の衣を洗濯し繕った功徳により、転生して五百世も沙門となり、現世で釈尊と出会って、阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/1)
摩訶目揵連品 第三(190c)
目揵連は前世において、辟支仏の髪を切り衣服も調えた功徳により、現世で釈尊と出会って、阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/2)
輪提陀品 第四(191a)
輪提陀は前世において、寺院を清掃した功徳により、現世で清らかな姿を得て、釈尊と出会い阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/2)
須鬘品 第五(191b)
須鬘は前世において、惟衛神通仏の大寺へ詣で好華を散じた功徳により、釈尊と出会い阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/3)
輪論品 第六(191c)
輪論は惟衛仏在世の頃、槃頭摩国で僧侶へ、部屋や寝具などを布施した功徳によって、九十一劫も天上に産れ、今生では釈尊と出会い、精進第一と称されるようになった、と説いた。(2005/4/3)
凡耆品 第七(192a)
凡耆は惟衛仏寺を見て、幡や華を供養した功徳により、九十一劫も悪道へ落ちず、今生で釈尊から経楽第一と称されるようになった、と説いた。(2005/4/4)
賓頭盧品 第八(192b)
賓頭盧は前世で父母から飲食について注意され、怒って誹謗した罪により地獄へ落ち、現世で釈尊と出会い、解脱できた、と説いた。(2005/4/4)
貨竭品 第九(192b)
貨竭は前世で般頭摩国の貴族に産れた時、沙門を見て嫌悪し、姿が汚いと悪口を言った罪で地獄へ落ちた。現世で釈尊と出会い四聖諦の教えを受け、解脱して正受第一と称されるようになった、と説いた。(2005/4/5)
難陀品 第十(193a)
難陀は前世で王舎城の富豪に産れた時、飢饉の折に比丘が来て、食事に馬麦を雑ぜたところ、死去してしまった。この罪で久しく地獄へ落ち、今生で釈尊と出会い、阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/5)
夜耶品 第十一(193b)
夜耶は前世で女人の死体を見て、不浄観を修めた功徳から、波羅奈国の貴族に産れた。日夜修行して俗世を厭い、ある夜ついに家を離れ城外の河へ行くと、対岸に沙門の姿があった。それから釈尊に優しく誘われたので、河を渡り出家したところ、一夜の内に解脱した、と説いた。(2005/4/6)
尸利羅品 第十二(194a)
尸利羅は、古に波羅奈城で迦葉仏が入滅した時、太子として刹柱を建てた功徳により、現世で富豪に産れ貧者へ布施を行い、釈尊と出会って出家し一切の神通力を具えた、と説いた。(2005/4/7)
薄拘盧品 第十三(194b)
薄拘盧は古に槃曇摩国で売薬を営み、惟衛仏と比丘たちのため、種々の薬を供養した功徳で、いま道果を得た、と説いた。(2005/4/8)
摩呵較品 第十四(194c)
摩呵較は古に韋皮師をしており、飢饉の際、好皮を煮て沙門へ供養した功徳から、現世で釈尊と出会い解脱した、と説いた。(2005/4/8)
優為迦葉品 第十五(195a)
優為迦葉は前世で迦葉仏塔が崩落したのを見て、商人を集め補修した功徳により、久しく天上へ転生した。いま恒河の辺で釈尊と出会い、仏の神通力を見、兄弟と出家し解脱できた、と説いた。(2005/4/9)
迦耶品 第十六(195a)
迦耶は古に香を売っていた時、ある美少女を見て欲情し、腕を掴んだ罪で地獄へ落ち、人身を得ても右腕が不自由だった。しかし釈尊と出会って出家し、阿羅漢になれた、と説いた。(2005/4/9)
樹提衢品 第十七(195b)
樹提衢は、古の槃頭摩国城で阿能乾那長者だった時、惟衛仏と眷属へ三か月の供養を施した。その功徳で九十一劫も悪趣へ落ちず、今生で蓱沙王の宮に産れ、一身に寵愛を受けた。それから四聖諦など釈尊の説法を受けて出家し、精進を重ね阿羅漢になった、と説いた。(2005/4/10)
頼吒和羅品 第十八(196b)
頼吒和羅は、古に修惟尼王の末子・頼吒拔檀王子だった時、迦葉仏の大塔寺を父が建立した際、塔の頂にある露盤を造った。その功徳でいま投楼姙国に産れ、釈尊と出会って歓喜し、沙門になりたいと願った。しかし父母が許可せず六日間絶食し、ようやく認められ出家して阿羅漢になり、楽閑居第一と称されるようになった、と説いた。(2005/4/11)
貨提品 第十九(196c)
貨提は古に王舎城の富豪だった時、五百道士が持ちまわりで、家に一年住むのを厭い、御飯に馬麦を雑ぜて供したところ、彼等は胃腸を傷め死去してしまった。その罪で太山地獄へ落ち、後に人身を得ても短命だった。今生で精進し仏教を修め解脱しても、涅槃の時は前世の報いで五臓が爛れる、と説いた。(2005/4/12)
禅承迦葉品 第二十(197b)
禅承迦葉は前世で飢饉の際、自分の米穀を惜しみ、辟支仏への供養を止めた罪で地獄へ落ち、転生しても食べ物に困った。今生で釈尊と出会い信じて出家したら、煩悩が尽きて解脱できた、と説いた。(2005/4/13)
朱利般特品 第二十一(197c)
朱利般特は前世で養豚をしており、川を渡ろうとしてみな溺死させてしまった。仙人が哀れんで戒律を教え、無相三昧を行った功徳により天上へ産れた。その後、人道へ還ると、釈尊に出会って出家し、一偈を三月で覚えるほど愚かだったのに、四句を習い解脱できた、と説いた。(2005/4/13)
醍醐施品 第二十二(198a)
醍醐施は迦葉仏滅後の弟子で博学だったのに、知識を惜しみ比丘たちへ教えなかった。死期が迫り慌てて七日間説法した功徳で天上へ産れ、それから人身を得て釈迦族の王家に転生した。出家後二十五年も修行したのに、俗事を捨て切れず、悟れなかった。絶望し大刀で自殺を図ったところ、ようやく悪縁が除かれて、解脱することができた、と説いた。(2005/4/14)
阿那律品 第二十三(198c)
阿那律は前世において、自分が飢えても沙門へ布施した功徳により、今生で釈迦族に産れ、釈尊と出会って出家し、精進を重ね解脱できた、と説いた。(2005/4/14)
弥迦弗品 第二十四(198c)
弥迦弗は薬屋で体調が悪い辟支仏を見かけ、医薬を与え七日間静養させた功徳により、いま人身を得て釈尊と出会い、出家し解脱できた、と説いた。(2005/4/15)
羅雲品 第二十五(199a)
羅雲は古に摩竭国王だった時、ある仙人が他家の溝で水を飲んでしまい、罰して欲しいと申し出た。しかたなく王は六日間、庭園で幽閉を命じたところ、うっかり忘れて飲食物を与えなかった。その罪で黒縄地獄へ落ち、現世に産れる時も六年間母胎に止まった、と説いた。(2005/4/16)
難提品 第二十六(199b)
難提は前世で惟衛仏在世の時、ある比丘の体を洗って、以後ずっと僧団を清潔に保ちたいと発願した。また辟支仏塔を修繕したり、迦葉仏塔に露盤を建てたりなど、功徳を積んだ。そのため現世で釈尊の弟に産れ、大人の相を備えて、端正第一と称されるようになった、と説いた。(2005/4/17)
颰提品 第二十七(199c)
颰提は前世で飢饉の時、貧しい中で辟支仏へ食事を供養した功徳により、今生は釈迦族に産れ、釈尊が帰郷された際、出家し解脱できた、と説いた。(2005/4/18)
羅槃颰提品 第二十八(200a)
羅槃颰提は拘楼秦仏の在世時に、高大な仏塔に悪口を言った罪で地獄へ落ち、今生で釈尊と出会い、ようやく阿羅漢になれた、と説いた。(2005/4/19)
摩頭和律致品 第二十九(200b)
摩頭和律致は前世で惟耶離国の大猿だった時、仏鉢に蜜を一杯供養した功徳で、いま人身を得て釈尊と出会い、阿羅漢になれた、と説いた。(2005/4/20)
世尊品 第三十(201a)
釈尊は世間で最も勝れ、煩悩を悉く除かれており、智慧を現し、法船で人々を彼岸へ渡される。
その時、釈尊は龍王のいる阿耨達大池で五百比丘へ、前世の所業について語られた。古に善妙辟支仏を誹謗したせいで、この最後の世において外道の須陀利から誣告された。また三兄弟で財産を争い、深い谷へ突き落としたせいで、調達に投石され足の指を怪我した。この他にも渡海の際、商人と乗船を争い切り殺したこと、漁師の子に産れ魚を捕殺したこと、惟衛仏の弟子を謗ったこと、わざと間違って調薬し患者を見殺したこと、相手の力士を撲殺したこと、等々を説かれた。
これらの故事は『佛説興起行經』(No.0197)と対応した内容になっている。またここでは最後に経典を締め括る流通分が無く、後欠と思われる。(2005/4/21)
No.0200[cf.202] 撰集百縁経 十巻 支謙訳 ⇒【目次】
《参考文献》
『国訳一切経 印度撰述部33 本縁部五 仏所行讃 撰集百縁経 菩薩本生鬘論上』 平等通昭 赤沼智善 西尾京雄 岡教邃 訳 大東出版社 1971(1929)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第一
菩薩授記品 第一
(一)満賢婆羅門遙請仏縁(203a)
釈尊が王舎城にいた時、金地国の富豪・満賢婆羅門が大会を開き、多くの外道に供養し梵天へ転生しようと願った。その際、親友から仏の功徳について聞き、敬意を表して、高楼の上から釈尊へ香花を手向けた。これが釈尊の居所まで届くと、阿難がどこから来たか尋ねたので、満賢長者が我々を招請したからであると答えられた。そこで長者を訪問すると、感激して五体投地し、いま食施した功徳が、未来の衆生を救うために生かされるよう発願した。釈尊が微笑されたので、阿難が理由を尋ねたら、彼は遠い将来に菩薩行を修め、大悲心を懐き満賢仏と成り、無数の衆生を救済するであろうと説かれた。(2005/4/23)
(二)名称女請仏縁(203c)
釈尊が毘舎離で托鉢されていた時、長者の子に名称という嫁がいて、姑と共に仏を招請した。それから名称が、この功徳を未来の衆生へ回向するように発願したので、釈尊が微笑され、遠い未来に彼女は菩薩行を修めて成仏し、宝意仏と呼ばれ、広く衆生を救うであろうと説かれた。(2005/4/23)
(三)窳惰子難陀見仏縁(204a)
釈尊が舎衛国にいた時、長者の子・難陀はひどいなまくら者で、寝てばかりいた。しかし彼は頭が良く、寝転んで経論を聞きながらその教義に精通していた。釈尊は日夜、誰か苦しむ者がいないか観察していたところ、長者が難陀の怠け癖に悩んでいることを知った。そこで彼の家を訪ね懇ろに説法した後、地中の宝が探せる杖を授けた。難陀は喜びさっそく航海へ出ると、宝物を探し無事に帰還できたので、仏や僧等に食施し、仏法を理解して、衆生救済の誓願を起すに至った。釈尊は難陀が未来に精進力仏と成り、多くの衆生を救うと説かれた。(2005/4/24)
(四)五百商客入海採宝縁(204b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある商人が五百人を連れ諸神に祈って海へ出たのに、再三難破してしまった。次に仏の名号を称え出帆すると、珍宝を得て無事帰還できた。彼は初め宝物を惜しみ、僧団へ供養しなかった。しかし如来の神通力を目撃して反省し、説教されて改心すると、菩提心を発した。釈尊はその功徳で、商人が遠い未来に宝盛仏と成り、無数の衆生を救うと説かれた。(2005/4/24)
(五)貧人須摩持縷施仏縁(205a)
釈尊が舎衛国にいた時、須摩という貧しい織師が、一念発起して糸を布施した。これで仏衣のほつれを繕われたところ、彼は信仰に目覚めて誓願を発した。釈尊はその功徳で、須摩が未来に十綖仏と成り、衆生を救うと説かれた。(2005/4/25)
(六)婆持加困病縁(205b)
釈尊が舎衛国にいた時、婆持加長者は性格が悪く、怒ってばかりいたせいで、重病になっても世話をしてくれる者がいなかった。釈尊はこれを知ると、光明で病人を照らし、苦痛を癒されたので、長者は帰依し仏や僧等へ供養した。釈尊はその功徳で、婆持加が未来に釈迦仏と成り、広く衆生を救うと説かれた。(2005/4/25)
(七)王家守池人花散仏縁(205c)
釈尊が王舎城にいた時、波斯匿王は昼夜天神へ香花を奉げていた。釈尊は正覚を得て教化に訪れ種々説法したので、王は深く帰依し、それから香花を如来の供養に用いた。ある時、園丁が余った花を持ち街へ出ると、外道と須達長者が競売した。そこで何に花を使うか質したところ、長者は仏へ供養するためと答えた。彼はそれなら花を売らず自分で布施しようと考え、長者と共に訪問した。釈尊はこの園丁が未来に花盛仏と成り、衆生を救うと説かれた。(2005/4/26)
(八)二梵志各諍勝如来縁(206b)
釈尊が舎衛国にいた時、ふたりの梵志が、仏と外道六師の優劣について議論し、譲らなかった。そこで波斯匿王は、七日後に人々の前で神通力を試すため、各々の師を招請するよう提案した。当日、釈尊だけが試合の会場に来られたので、大衆は仏法へ帰依し外道を捨てた。梵志は望みが叶えられると、さらに誓願を発した。釈尊はこの梵志が未来に不動仏と成り、衆生を救うと説かれた。(2005/4/26)
(九)仏説法度二王出家縁(207a)
釈尊が舎衛国にいた時、二国の王が紛争し民衆も被害を受けていた。波斯匿王は彼等を哀れみ、釈尊へ救済を依頼した。ある時、二王が兵を集め会戦すると、一方は恐れて退き、釈尊に助けを求めた。そこで王へ無常偈を説いたところ、すぐに悟り出家した。相手の王も彼が仏門に入ったことで満足し、僧団を招請して供養した。釈尊はこの王が未来に無勝仏と成り、衆生を救うと説かれた。(2005/4/27)
(一○)長者七日作王縁(207b)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王と阿闍世王が紛争し、四兵を集め交戦に及んだ。波斯匿王が敗れ煩悶していたので、ある長者が自分の家財と策略を用いれば、必ず勝てると激励した。果してその通り戦うと、直ちに敵軍を破り、阿闍世王を捕えた。波斯匿王は彼の亡父と親友だったので、寛大な処置をとり釈放することにした。次に王は長者の功へ報いるため、望み通り七日間、天下を治めさせた。その間、長者は仏を招請し懇ろに供養した。釈尊はこの長者が未来に最勝仏と成り、衆生を救うと説かれた。(2005/4/27)
No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第二
報応受供養品 第二
(一一)船師請仏渡水縁(208b)
釈尊が舎衛国にいた時、伊羅抜河の船師が仏の来臨を喜び、無料で乗船させた。比丘がその由来を尋ねると釈尊は、古の波羅櫞国で毘閻婆仏が、遊行中ある川辺へ着き、商人の供養によりすぐ渡れたので、将来彼は釈迦牟尼仏に成り、衆生を救うと授記した故事を説かれた。(2005/4/28)
(一二)観頂王請仏縁(208c)
釈尊が王舎城にいた時、阿羅漢たちを連れ拘毘羅国へ教化に訪れた。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の梵行仏が観頂王の供養を受け、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。 (2005/4/29)
(一三)法護王請仏洗浴縁(209a)
釈尊が舎衛国にいた時、五百の商人が他国で商売した帰り、荒野で道を失い猛暑のため死にそうになった。そこである信者が、如来は昼夜衆生を見守っておられ、救いを求め「南無仏」と称えるよう提案した。釈尊は商人等の称名を聞いて、直ちに神通力で大雨を降らせた。彼等は歓喜して、帰国後すぐ僧団を招請した。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の栴檀香仏が、日照りの際に法護国王の供養を受け、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/4/30)
(一四)仏救済度病縁(209c)
釈尊が王舎城にいた時、那羅聚落で疫病が流行し、民衆は諸天神へ厄除けを祈願した。しかし全く癒える気配が見えず、一人の信者が如来へ救いを求めて、「南無仏」と称えるよう提案した。そこで釈尊はこの集落を訪れ、疫神を退散させたので、人々が喜び供養会を設けた。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の日月光仏が、梵摩国王の願により疫病を駆逐して、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/4/30)
(一五)天帝釈供養仏縁(210a)
釈尊が王舎城にいた時、提婆達多は阿闍世王を唆して、民衆が如来へ供養しないよう禁令を立てさせた。そこで帝釈天は釈尊を尋ね、五日間の供養が許可されると、さっそく迦蘭陀竹林を宮殿のようにし、仏や僧等へ懇ろに美食を施した。阿闍世王はこれを見て後悔し、提婆達多を叱って、以後は如来を信仰するようになった。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の宝殿仏が、伽翅国王から三箇月供養され、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/5/1)
(一六)仏現帝釈形化婆羅門縁(210c)
釈尊が王舎城にいた時、梨車大臣が邪見を信じ、阿闍世王に父を殺させ、自分も王となった。それから大会を催し、婆羅門たちを集めて、如来の所へ行かないよう禁制を布いた。そこで彼等は密会し、韋陀経で瞿曇沙門は帝釈天に等しいと説かれており、共に称名することにした。釈尊はこれを知ると、帝釈天に化けて飛来し、婆羅門等を教化した。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の妙音仏が、宝殿王から三箇月供養され、臍から化仏が現れる奇瑞を示して、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。 (2005/5/2)
(一七)乾闥婆作楽讃仏縁(211a)
釈尊が舎衛国にいた時、五百の乾闥婆が昼夜如来を歌舞で供養していた。その頃、南方の乾闥婆王・善愛は、自分の腕を無比と誇り、彼等と試合するため訪ねてきた。そこで波斯匿王が相談したところ、釈尊は乾闥婆に化け琉璃琴を奏でたので、彼は負けを認め懺悔した。それから釈尊が元の姿に戻り教化すると、善愛は出家し間もなく阿羅漢となった。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の正覚仏が、梵摩国で火光三昧に入り、王から種々の供養を受け、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/5/3)
(一八)如願臨当刑戮求仏出家縁(212a)
釈尊が舎衛国にいた時、愚か者の如願は殺生や強盗を好み、ついに逮捕され刑場へ曳かれた。途中で釈尊と出会い命乞いしたので、阿難を波斯匿王のもとへ遣り、出家させるため罪人を放すよう頼んだ。彼はそれから修行に励み、間もなく阿羅漢となった。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の帝幢仏が、ある仙人から食施を受けて、将来彼は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/5/4)
(一九)頻婆娑羅王請仏縁(212b)
釈尊が王舎城にいた時、頻婆娑羅王が仏から三箇月の供養を許可され、群臣を率いて懇ろにもてなした。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の差摩仏が、宝勝国の伽翅王から供養を受け、発心した王は将来、釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/5/5)
(二○)帝釈変迦蘭陀竹林縁(212c)
釈尊が王舎城にいた時、瞿沙長者が外道に仕え、仏法を信じていなかったので、大目連が哀れみ、帝釈天へ迦蘭陀竹林を七宝に変化させるよう頼んだ。長者はこれを見て驚き、深い信心を懐くと、釈尊を訪ねて供養した。釈尊はその由来について、古に波羅櫞国の満願仏が、梵摩国王から供養を受け、将来王は釈迦牟尼仏になると授記した故事を説かれた。(2005/5/7)
No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第三
授記辟支仏品 第三
(二一)化生王子成辟支仏(213a)
釈尊が摩竭提国から恒河の辺へ遊行した時、ある仏塔が崩壊していた。諸比丘が誰の塔か尋ねたところ、釈尊は栴檀香辟支仏の故事を説かれた。過去世で波羅櫞国の梵摩達多王は子がなく、神々へ祈願しても無駄だった。そんなある時、王は庭園の蓮花に小児が結跏趺坐するのを見つけ、さっそく養育することにした。彼は成長して毛穴から栴檀の香を放つようになり、栴檀香と名づけられ、歩行の際、足跡から蓮華が出た。しかし栴檀香は蓮花が枯れる様に無常を観じ、辟支仏となって涅槃へ入った。王や妃は悲歎して屍骸を荼毘に伏し、舎利を仏塔へ供養した。
また釈尊は、栴檀香が辟支仏となった因縁について、古の波羅櫞国で迦羅迦孫陀仏の在世中、ある長者の息子が遺産を蕩尽したあげく疱瘡に罹った。そこで仏へ一心に懺悔したところ、病が癒え毛穴から栴檀の香がした。彼は以後、転生する毎に毛穴から香気を放つようになった、と説かれた。(2005/5/8)
(二二)小児散花供養仏縁(214a)
釈尊が舎衛国で乞食の際、ある婦女に抱かれた小児が、仏を見て喜び、花を求め供養した上で、大誓願を発した。釈尊はその子が未来に花盛仏と号し、無数の衆生を救うと授記された。(2005/5/9)
(二三)女人以金輪擲仏上縁(214a)
釈尊が王舎城にいた時、浮海商人の妻が船出した夫の帰還を那羅延天に祈り、願いが叶ったので、金輪を造り奉納しようとした。しかし途中で釈尊と出会い、威容に打たれて仏へ供養することにした。釈尊は彼女が十三劫の後、金輪瓔珞仏と号し、衆生を救うと授記された。(2005/5/9)
(二四)老母善愛慳貪縁(214b)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王の後宮に善愛という老婦がおり、ひどく吝嗇で布施をしなかった。そこで大目連は、十八変化を現して教化したところ、懺悔して仏法へ帰依した。その夜、彼女は命終して荒野の樹下に転生すると、わずかな食物で自活を余儀なくされた。ある時、王が狩猟の途中で善愛と出会って、その依頼により僧団へ供養したところ、多くの食物が得られたという。(2005/5/10)
(二五)含香長者請仏縁(214c)
釈尊が舎衛国にいた時、含香長者は三宝を敬い、財産をそっくり僧団へ供養した。釈尊はその功徳で、将来長者が含香辟支仏になると授記された。(2005/5/10)
(二六)船師渡仏僧過水縁(215a)
釈尊が摩竭提国から恒河の辺へ遊行した時、ある船頭が種々説法を受けながら、代金を払わなければ対岸へ渡せないと主張した。しかし他の船頭が横で仏説を聞き、歓喜して一行を舟に乗せたところ、彼も懺悔し仏を招請した。釈尊は懺悔の功徳により、船頭は十三劫を経て度生死海辟支仏になると授記された。(2005/5/11)
(二七)婢使以栴檀香塗仏足縁(215b)
釈尊が王舎城にいた時、ある長者の婢が三宝を敬い、商品の栴檀香を少々取って仏足に塗った。釈尊はこの功徳により、彼女は九十劫を経て、栴檀香辟支仏になると授記された。(2005/5/12)
(二八)貧人拔提施仏燋木縁(215c)
釈尊が舎衛国にいた時、貧乏人の抜提は毎日薪を売って自活していた。ある時、彼は仏の化人と出会い、薪と食物を交換してやると言われ、喜んでついて行った。そこで釈尊と面会し威容に打たれると、持ってきた薪を布施した。釈尊はその功徳により、抜提は十三劫を経て離垢辟支仏になると授記された。(2005/5/13)
(二九)作楽供養成辟支仏縁(216a)
釈尊が舎衛国にいた時、長者等が着飾って芸能を楽しむため、外遊に出掛けた。途中で釈尊と会い、歓喜して僧団へ芸能を供養し、種々の花を散じた。釈尊はこの功徳で、彼等一同が百劫の後、妙声辟支仏になると授記された。(2005/5/14)
(三○)劫賊悪奴縁(216b)
釈尊が舎衛国にいた時、愚か者の悪奴は盗みで生活していた。ある比丘が墓場で坐禅中に彼と出会い、托鉢した食物を狙っていると知り、一計を案じて捕縛した。それから杖で打ち、むりやり三自帰させると、悪奴は懲りて、開放されるなり釈尊へ帰依し、出家後に間もなく阿羅漢となった。(2005/5/15)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第四
出生菩薩品 第四
(三一)蓮華王捨身作赤魚縁(217a)
釈尊が舎衛国で果実の熟した秋頃に村落を遊行中、比丘等が食あたりを起した。しかし釈尊は何ともなく、阿難がその因縁を尋ねたところ、過去世で薬湯を衆生へ布施した果報によるとされ、波羅㮈国の蓮華王の故事を説かれた。人民が食あたりで苦しむのを見ると、王は直ちに医師等を集め投薬させた。しかし赤魚の肉がなく治療できなかったので、王は自ら転生しようと発願した。そこで高楼から身を投げ、赤魚に生まれると、血肉を与えて民衆を救ったという。(2005/5/16)
(三二)梵予王施婆羅門穀縁(217c)
釈尊が舎衛国にいた時、比丘たちがなぜ布施の功徳を讃嘆するか尋ねたので、古の波羅㮈国王だった梵予の故事を説かれた。王はある時、星占に旱魃の相が出て、十二年不作になると報告を受けた。そこで算師に国庫を調べさせたところ、一升の配給で六年分しか貯えがなかった。そんな折、ある婆羅門が穀物を貰っていないと言うので、王は二升の特配から半分を与えることにした。これを知った帝釈天が、王の志を試すため婆羅門に化けると、食物を恵んでくれるよう願った。王は死を厭わず自分の配給を全て与えたので、帝釈天が讃嘆し七日後に大雨を降らせ、人民は救われたという。(2005/5/17)
(三三)尸毘王剜眼施鷲縁(218a)
釈尊が舎衛国にいた時、安居が終り比丘たちは各々衣鉢を修繕していた。その中で盲目の尸婆比丘は、針に糸が通せず、誰か福徳を好む者が手伝ってくれないかと頼んだ。すかさず釈尊が彼の手を取り、糸を通したので、比丘たちが因縁を尋ねたところ、古の波羅櫞国王だった尸毘の故事を説かれた。王はいつも布施を好み、惜しまず財宝を分け与えていた。帝釈天がその志を試そうと、大鷲に化けて現れ、眼を所望しても、喜んで両眼を抉り取って与えたという。(2005/5/18)
(三四)善面王求法縁(218c)
釈尊が舎衛国にいた時、大悲心から衆生を救うため、長夜にわたり説法された。比丘がその因縁を尋ねると、釈尊は古の波羅㮈国王だった善面の故事を説かれた。王は聡明で常に妙法を求めており、帝釈天がその志を試すため羅刹に化けて現れた。羅刹は空腹で説法できず、血の滴る肉が欲しいと言うので、孫陀利太子が自ら犠牲になった。しかしまだ満腹にならず、王は自分の体も与えるから、死ぬ前に教えを聞きたいと頼んだ。羅刹は信用し、「愛に因りて則ち憂生じ 愛に因りて便ち畏有り よく恩愛を離るれば 永く断ちて怖畏無し(因愛則生憂 因愛便有畏 能離恩愛者 永斷無怖畏)」と説いた後、帝釈天の姿に戻り太子も無事だったという。(2005/5/19)
(三五)梵摩王太子求法縁(219b)
釈尊が舎衛国にいた時、須達長者は三宝を敬い、日々仏塔を掃除していた。ある日、釈尊は大目連等と仏塔へ入り、掃除の五功徳(自除心垢・亦除他垢・除去憍慢・調伏其心・増長功徳得生善処)を教えられた。また長者へ法を好む因縁について、古の波羅㮈国王・梵摩達多の太子だった求法の故事を説かれた。太子は常日頃から法を好んでいたので、帝釈天が彼の志を試そうと婆羅門に化けて現れた。そして、妙法が聞きたければ、大坑に火を点け投身するよう求めたら、太子は喜んで応じ、死ぬ前に聞法したいと頼んだ。そこで婆羅門が「常に慈心を行じ 恚害の想を除去し 大悲にて衆生を愍れみ 矜傷して雨涙を為し 大悲を修行する者 己の所得の法に同く 諸の群生を救護せば 乃ち菩薩行に応ず(常行於慈心 除去恚害想 大悲愍衆生 矜傷爲雨涙 修行大悲者 同己所得法 救護諸群生 乃應菩薩行)」と説いた後、太子が火中に身を投げると、大坑は蓮華池に変じたという。(2005/5/20)
(三六)婆羅門従仏債索縁(220b)
釈尊が舎衛国で乞食中、ある婆羅門が地面に線を引いて、五百銭払わなければ通さないと言い張った。そこで須達長者が金銭を立て替えると、ようやく通ることができた。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国王・梵摩達多の太子だった善生の故事を説かれた。太子は親友等と遊んでいたところ、一人が路上で博打をし五百銭負けた。しかし彼は支払を拒み、太子が戯れに払うと言って、そのままになった。以来、転生を重ねる度、返済を催促されるようになったという。(2005/5/21)
(三七)仏垂般涅槃度五百力士縁(220c)
釈尊が拘尸那城の娑羅双樹間で涅槃へ入ろうとされた時、須抜陀が五百力士と共に出家を希望し得度できた。釈尊は過去世でも彼等を救ったとして、古の波羅㮈国にいた鹿王の故事などを説かれた。ある日、梵摩達多王が狩猟に出掛け、五百匹の鹿を見つけた。その時、鹿王は身命を顧みず、自分を踏み台にして河を渡るよう告げたという。また古の迦葉仏が入滅する際、五百比丘が山中で修行しており、臨終に会えそうもなかった。樹神が憐れんで彼等を運んでやり、仏へ懺悔した因縁で、いま釈尊と出会い道果が得られたという。(2005/5/22)
(三八)兔燒身供養仙人縁(221b)
釈尊が舎衛国にいた時、抜提長者は出家後も俗事に執着し、三業が廃れていた。そこで釈尊は彼に山林での修行を命じると、ほどなく阿羅漢になった。その因縁について釈尊は、古の波羅㮈国にいた兎王の故事を説かれた。ある仙人が長年山林で修行していたところ、旱魃で果実が得られず、村へ降り乞食しようと考えた。兎王がこれを知り、明日少しばかり餞別しようと申し出たので、仙人は言われるままに焚き火を起した。王は準備が整うと自分の体を与えるため、すぐさま火中に身を投じた。仙人は慟哭し、後で骸骨を塔に集め供養したという。(2005/5/23)
(三九)法護王子為母所殺縁(221c)
釈尊は舎衛国にいた時、提婆達多が嫉妬のあまり罵っても、まったく嫌悪されなかった。その因縁について釈尊は、古の波羅㮈国王・梵摩達多の、夫人にまつわる故事を説かれた。王が寵愛する第一夫人は子に恵まれず、第二夫人に一人だけ王子がいた。ある時、王は第一夫人と王子を連れて外遊し、第二夫人へは酒食を少し送っただけだった。夫人が怒って、実子を殺そうとしたところ、彼は何の罪もないのに、懺悔しながら刺し殺されたという。(2005/5/24)
(四○)劫賊楼陀縁(222a)
釈尊が舎衛国にいた時、盗賊の楼陀はある比丘の鉢を奪おうとした。比丘はこれを察すると、彼を呼んで食事させた。それから種々に説法したので、楼陀も改心し、出家を志してついに阿羅漢となった。 (2005/5/25)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第五
餓鬼品 第五
(四一)富那奇堕餓鬼縁(222b)
釈尊が王舎城にいた時、舎利弗と大目揵連は食事の前、地獄・畜生・餓鬼を観察することにしていた。ある時、目連が餓鬼へ何の因果でそんな有様になったか質問したら、飢渇のため答えられず、如来へ尋ねるように言われた。そこで釈尊は、餓鬼の因縁について、古の舎衛国にいた長者婦人の故事を説かれた。ある辟支仏が渇病を患い、医者に甘蔗汁を服するよう指示されたので、長者宅を訪れた。長者は喜んで婦人へ汁を施すよう命じ、用事があって外出した。しかし彼女は汁を惜しみ、鉢へ小便を入れて与えた。その罪で命終後、餓鬼へ落ちたという。(2005/5/26)
(四二)賢善長者婦堕餓鬼縁(223a)
釈尊が王舎城にいた時、大目揵連が樹下で坐禅中ある餓鬼を見た。そこで釈尊は餓鬼の因縁について、古の波羅櫞国にいた賢善長者婦人の故事を説かれた。ある時、比丘が乞食に訪れると、長者は急用があって婦人へ布施を頼んだ。しかし彼女はいま与えたら明日もまた来ると思い、比丘を部屋に閉じ込め、一日食事をさせなかった。その罪で無数の世、餓鬼へ落ちたという。(2005/5/27)
(四三)悪見不施水堕餓鬼縁(223b)
釈尊が王舎城にいた時、大目揵連が樹下で餓鬼を見た。これに因み釈尊は、古の波羅櫞國で、悪見という女が井戸水を汲んでいながら、喉の渇いた沙門の乞いを無視し、餓鬼へ落ちた故事について説かれた。(2005/5/28)
(四四)槃陀羅堕餓鬼身体臭縁(223c)
釈尊が王舎城にいた時、大目揵連が乞食後の坐禅中、体臭のひどい餓鬼を見た。目連の問に答えて釈尊は、古の波羅㮈国にいた槃陀羅長者婦人の故事を説かれた。ある辟支仏が病気に罹って医者から肉食を勧められ、吉善長者を訪ねたところ、急用があり婦人へ応対を命じた。しかし彼女は物惜しんで、鉢へ大便を盛って与えた罪により、永く餓鬼へ落ち、近付けないほど体が臭くなったという。(2005/5/28)
(四五)目連入城見五百餓鬼縁(224a)
釈尊が王舎城にいた時、目揵連が五百餓鬼と出会い、布施を怠った自分等のため、親族に僧団への供養会を開いて欲しいと頼まれた。彼等は、かつて王舎城の長者でありながら、高慢・貪欲で他人が沙門へ布施することを遮った罪により、餓鬼へ落ちたという。目揵連は請いを受けて親族等へ勧化し、大会を催したのに、餓鬼の姿が見えず不審に思った。そこで釈尊は声聞の弟子には見えなくとも、確かに彼等は大会の恩恵で罪が除かれたと教えられた。そしてすぐに餓鬼等を会所へ呼んで説法されたところ、その夜に命終し昇天した。(2005/5/29)
(四六)優多羅母堕餓鬼縁(224c)
釈尊が王舎城にいた時、長者の子・優多羅は大きくなって父を喪い、母に出家を求めたところ、独り子なので許されなかった。ただ沙門等へ供養するのは認められ、しばしば家へ招請した。しかし彼女は道士が出入するのを喜ばず、彼らを罵倒するようになったため、命終して餓鬼に落ちた。優多羅は母の死後、願い通り出家し、精進して阿羅漢となった。ある時、坐禅中に餓鬼が来て、自分は母であり、敬わずに布施し沙門を罵った罪でこの身となり、施餓鬼会を設け救って欲しいと頼まれた。彼はこれを聞いて勧化し、四方の僧へ飲食を供養すると、餓鬼が大衆の前へ現れて懺悔し、その夜に昇天した。(2005/5/30)
(四七)生盲餓鬼縁(225b)
釈尊が舎衛国にいた時、阿難が乞食中、盲目の餓鬼を見た。これに因んで釈尊は、古の波羅㮈国にいたある比丘尼の故事を説かれた。迦葉仏在世の頃、ある長者の娘が成長して説法を聞き、信仰を懐いて出家した。しかし彼女は戒律を犯し、寺から追い出されたのに、かえって父へ比丘尼等が悪事をしていたと嘘をついた。その罪で命終後に餓鬼へ落ち、盲目になったという。(2005/5/30)
(四八)長者若達多慳貪堕餓鬼縁(226a)
釈尊が舎衛国にいた時、若達多長者は仏と出会い歓喜して出家したのに、貪欲で布施された衣鉢や品物を独り占めした。そのため命終し餓鬼へ落ちても、かつての衣鉢に執着しとり憑いていた。そこで釈尊は前世の行いを叱責し、さらに種々説法されると、餓鬼は慙愧して衣鉢を僧へ与え、その夜に転生し、美しい飛行餓鬼の身となった。(2005/5/31)
(四九)餓鬼自生還噉五百子縁(226b)
釈尊が王舎城にいた時、那羅達多は乞食後ある餓鬼の惨状を見た。それは一夜で五百人の子を産みながら、みな未熟児ですぐ悶死し、母親は飢渇に迫られ、その屍を喰らうというものだった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国にいた、ある長者夫人の故事を説かれた。長者夫婦に子がなく、第二夫人を迎えたところ、すぐ懐妊したので、第一夫人は嫉妬し密かに毒薬を与えて堕胎させた。これが発覚して詰問され、彼女は自分に罪があれば餓鬼となり、一夜で五百人の子を産む、と誓わされたという。(2005/5/31)
(五○)閻婆羅似餓鬼縁(227a)
釈尊が毘舍離にいた時、遮羅長者にやせ細った汚物まみれの子が産れ、好んで糞を食べるため、閻婆羅鬼と呼ばれた。彼は出家し度々外道に就こうとしても、不浄な行いを見て、叩き出されるだけだった。釈尊は昼夜、誰を救おうか観察しており、閻婆羅の苦悩を知ると、自ら訪問し説法された。彼は歓喜し自分のような下種でも出家できるかと尋ねたら、釈尊は人の尊卑に全く関係ないと告げられた。それから金色の右手で誘うと、閻婆羅は古参の比丘と変らない姿になり、ほどなく阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国にいたある寺主の故事を説かれた。迦羅迦孫陀仏在世中、宝殿国王は僧団のため房舎を寄進し、これを比丘に管理させ寺主としていた。ある時、阿羅漢が寺を訪れると、檀越等が歓迎し入浴させ香油を塗っていた。寺主がこれを見て嫉妬し、人糞のようなものを塗っていると罵った罪で、以後彼は五百世の間、臭い体で産れたという。(2005/6/2)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第六
諸天来下供養品 第六
(五一)賢面慳貪受毒蛇身縁(228a)
釈尊が王舎城にいた時、賢面長者は貪欲で、沙門等が乞食に来ても悪罵していたため、命終後も毒蛇となり、家財を守っていた。頻婆娑羅王が人への被害を恐れ、調伏を依頼したので、釈尊は神通力で蛇身を照らし、清涼にされたところ、毒蛇は歓喜し教えに従った。そこで蛇を鉢に入れ王や衆人へ見せたら、彼は蛇身を慙愧して、すぐ命終し昇天した。(2005/6/3)
(五二)月光児生天縁(228c)
釈尊が舎衛国にいた時、農業を営む婆羅門の子・月光は、僧坊で比丘が読経するのを聞いて深く信仰し、家へ帰ると七日後に昇天した。父母は悲嘆にくれ、子供の死体を抱いて、墓場を往復していた。月光はこれを見て哀れみ、仙人に化けると、百年死児を抱いて泣いても、決して生き返らないと諭した。婆羅門が慙愧し泣き止んだので、彼も正体を現し天子になったと告げ、ともに喜びあった。釈尊は過去世でも、月光は父母を救ったとして、古の波羅櫞国にすむ愚人が盗みを好んで捕まり、処刑寸前だったところ、その子が評判の孝行者で、王へ嘆願し助命された故事を説かれた。(2005/6/4)
(五三)採華供養仏得生天縁(229b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者が大勢で芸能を催そうとしたところ、一人が花を摘みに行き、仏に出会うと歓喜して散華した。それからまた樹に登り、転落して昇天したという。(2005/6/5)
(五四)功徳意供養塔生天縁(229c)
釈尊が王舎城にいた時、頻婆娑羅王は毎日三回、仏を礼拝に行った。後年、年老いて日々参詣できなくなったため、仏の髪爪をもらい、後宮に塔寺を建立することにした。しかし阿闍世王と提婆達多が共謀して、父王を殺害し簒奪すると、その塔への礼拝を厳禁した。ところが後日、宮人の功徳意は処刑を恐れず、前王を偲んで塔を清掃し、香花を上げて供養した。阿闍世王がこれを知って怒り、直ちに彼女を斬ったところ、その場で命終し昇天した。(2005/6/6)
(五五)須達多乗象勧化縁(230b)
釈尊が舎衛国にいた時、須達長者は無量の功徳がある布施を、下賎の者へも勧化しようと考えた。そこで七日間白象に乗り、街頭を勧化して行った。すると貧しい針子の女が、裸になることを覚悟で、一張羅の衣服を布施した。これを知った長者は感動し、自分の服を脱いで与えた。数日して彼女は来世の果報を確信しながら、命終し昇天した。(2005/6/7)
(五六)鸚鵡子王請仏縁(231a)
釈尊が頻婆娑羅王の招請で舎衛国から摩竭提国へ向った時、鸚鵡子王は自分の林で一夜過すよう懇願した。彼は王へも仏の来訪を告げ、翌朝先導し王舎城まで送ると、その夜に命終し昇天した。釈尊はこの因縁について、古の波羅櫞国にいた長者が、五戒中一戒を犯し、鸚鵡に転生した故事を説かれた。(2005/6/8)
(五七)王遣使請仏命終生天縁(231b)
釈尊が王舎城にいた時、須達長者は波斯匿王へ、そろそろ仏を招請して欲しいと懇願した。使者が迎えに行き、車へ乗るよう勧めると、釈尊は神通力で車を飛ばし、王舎城(舎衛城?)に着いた。使者はその夜、命終し昇天した。(2005/6/9)
(五八)仏度水牛生天縁(232a)
釈尊が驕薩羅国で比丘たちと通行中、ある沢に五百頭の兇悪な水牛がいて、危険だから渡らないようにと五百人の牛飼が注意した。しかし釈尊は意に介さず、そのまま通ると、悪牛が来て跪き、足を舐めた。そこで偈を説いて教えられたところ、牛は深く所業を恥じ、水草を食わず命終し昇天した。それを見た牛飼は、あの悪牛ですら仏に会って昇天できるなら、我等はなおさらであると言い、説法を受けすぐに出家し、精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国で、三蔵比丘の五百弟子が遊行中に議論し、負けた者が相手へ水牛のように人を突くと罵ったため、以後五百世、水牛と牛飼に転生したと説かれた。(2005/6/10)
(五九)二梵志共受斎縁(232c)
釈尊が舎衛国にいた時、初夜に五百天子が降臨し、説法を聞いて須陀洹果に至り、拝礼して天宮へ還った。釈尊はこの因縁について、過去世で迦葉仏在世時にいた、二婆羅門の故事を説かれた。二人は国王に従って仏を礼拝すると、勧められて斎戒を受け、各々天子と人王になることを願った。しかし一人は途中で飲食し破戒したため、龍王に転生した。後日、園丁が美果を見つけ献上したところ、国王は以後、この実を送ってこなければ殺すと命じた。彼が困惑し泣いていたら、池から龍王が現れ事情を聞くと、美果を採って来て、国王へ伝言を頼んだ。前世で国王とは親友であり、共に八斎を受けたのに、自分は願が叶わなかった。そこで八関斎文を求めており、これを探してくれなければ、国中を大海にするという。国王は大臣に捜索させ、見つけなければ殺すと命じた。大臣が帰宅し煩悶していると、老父は家の柱が光っているので、ここを切るよう勧めた。はたして八関斎文が見つかり、これを龍王へ送ると、さっそく八関斎法を修め、命終後ようやく天子になれたので、昨夜供養のため降臨したという。(2005/6/11)
(六○)五百鴈聞仏説法縁(234a)
釈尊が波羅㮈国で妙法を説かれた時、空を飛んでいた五百の群鴈が感激し降りて来たところ、猟師の網にかかり、命終し昇天した。(2005/6/12)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第七
現化品 第七
(六一)身作金色縁(234b)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者が結婚し、婦人が妊娠して端正な金色の男児を産んだ。彼は成長してから仏の相好を見て感激し、四聖諦について説法を受け、出家して間もなく阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立したところ、ある人が破損箇所を見つけ、金箔で補修した功徳により、現世で金色の体となり出家得道したと説かれた。(2005/6/13)
(六二)身有栴檀香縁(235a)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が懐妊して、体から栴檀の匂いがする男児を産み、栴檀香と名付けた。彼は成長後、仏の相好を見て喜び、出家して精進し阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏入滅時、槃頭末帝王が仏塔を建立したところ、ある長者が破損した箇所を補修し、栴檀香を塗った功徳により、現世で体が香り出家得道したと説かれた。(2005/6/14)
(六三)有大威徳縁(235b)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が端正な男児を産み、威徳と名付けた。彼は成長後に、仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、ある人が塔の萎れた花を取り替えた功徳で、いま美男となり出家得道したと説かれた。(2005/6/15)
(六四)有大力縁(235c)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が逞しい男児を産み、大力と名付けた。彼は成長後に、仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建てた時、ある人が大勢呼んで棖(ほこたち)を立てた功徳により、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/16)
(六五)為人所恭敬縁(236a)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が尊敬すべき男児を産んだ。彼は成長後に仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、ある童子が破損箇所を見つけ、大勢呼んで補修した功徳により、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/17)
(六六)頂上有宝蓋縁(236b)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が男児を産み、頭上に摩尼宝蓋が現れたので、宝蓋と名付けた。彼は成長後に、仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏入滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、ある商人が摩尼宝珠を塔頭へ奉納した功徳により、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/18)
(六七)妙声縁(236c)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が、音楽の上手な男児を産んだ。彼は成長後に仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、ある人が塔に因み音楽を供養した功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/19)
(六八)百子同産縁(237a)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が肉団を産んだ。長者が悩んで釈尊に相談したところ、疑わず七日待つよう教えられた。はたして七日後、肉団が割れて百人の端正な男児が現れた。彼等は成長後に仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、同じ村の百人が芸能や香花で塔を供養した功徳により、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/20)
(六九)頂上有宝珠縁(237c)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が男児を産み、頭上に摩尼珠が現れたので宝珠と名付けた。彼は成長後に仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏入滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、王子が摩尼宝珠を奉納した功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/21)
(七○)布施仏幡縁(238a)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者の夫人が男児を産み、空中に大幡蓋が現れたので、波多迦と名付けた。彼は成長後に、仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏入滅後、槃頭末帝王が仏塔を建立した時、ある人が大会を設け、長幡を作り塔上へ奉納した功徳で、今出家得道したと説かれた。(2005/6/21)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第八
比丘尼品 第八
(七一)宝珠比丘尼生時光照城内縁(238b)
釈尊が舎衛国にいた時、善賢長者の夫人が女子を産み、頭上に宝珠が現れたので、宝光と名付けた。彼女は成長後に仏を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の毘婆尸仏入滅後、梵摩達多王が仏塔を建立した時、ある人が宝珠を奉納した功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/22)
(七二)善愛比丘尼生時有自然食縁(238c)
釈尊が王舎城にいた時、修伽長者の夫人が女子を産み、生後すぐことばを話し、自然に食物も現れたので、善愛と名付けた。彼女は仏の招請を頼み、聞法して悟るところがあり、成長後出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の迦葉仏が長者の家へ乞食した時、来客をもてなしていた婢が仏に気付き、客等と食物を供養した功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/23)
(七三)白浄比丘尼衣裹身生縁(239b)
釈尊が迦毘羅国にいた時、瞿沙長者の夫人が女子を産み、白浄衣を着ていたので、白浄と名付けた。彼女は成長後出家を志し、比丘尼となって精進し阿羅漢果を得た。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏の遊行中、ある女が歓喜し一張羅を布施した功徳により、いま出家得道したと説かれた。(2005/6/24)
(七四)須漫比丘尼弁才縁(239c)
釈尊が舎衛国にいた時、博学な梵摩婆羅門の夫人が才色備わった女子を産んだ。彼女は成長後、説法を受け出家を志し、精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の迦葉仏入滅後、像法中にある比丘尼が釈迦牟尼仏へ師事したいと願ったため、いま比類なく聡明になったと説かれた。(2005/6/24)
(七五)舞師女作比丘尼縁(240a)
釈尊が王舎城にいた時、長者たちが合同で大節会を設け、南方から舞師の夫婦を招いた。彼等は青蓮花という才色備わった娘を連れており、城中に舞や議論で匹敵する者がいるか尋ねたら、人々は釈尊がいると答えたので、竹林園へ面会に行った。しかし彼女は自惚れており、敬意を表さなかったため、仏の神通力で百歳の老婆にされてしまった。青蓮花は深く反省し、釈尊が元の姿に戻されると、出家して精進し阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅奈国にいた緊耶羅女の故事を説かれた。孫陀利太子が山中で修行し、五神通力を得て仙人となった。その時、美しい緊耶羅女が誘惑したのにまったく動じず、かえってその慢心を懲らしめ懺悔させた。彼女は仙人に懺悔した功徳で、いま出家得道したという。(2005/6/25)
(七六)伽尸比丘尼生時身披袈裟縁(240c)
釈尊が波羅奈国にいた時、梵摩達王の夫人が懐妊し、袈裟を纏った女児が産まれたので、伽尸孫陀利と名付けた。彼女は成長後、釈尊を見て歓喜し、説法されると須陀洹果を得た。それから父王に出家を懇願して許され、精進し阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に波羅奈国で加那加牟尼仏の遊行を王女が見て喜び、招請し供養した上で、さらに妙衣も布施した功徳により、いま袈裟を着けて産まれたと説かれた。(2005/6/26)
(七七)額上有真珠鬘比丘尼縁(241a)
釈尊が舎衛国にいた時、沸疏長者の夫人が懐妊し、額に真珠鬘をつけた女児が産まれたので、真珠鬘と名付けた。その時、須達長者は彼女の噂を聞き、息子と結婚してくれるよう頼んだ。しかし真珠鬘は世俗を厭離しており、共に出家してくれることを条件とした。はたして結婚後、間もなく夫婦で出家し、精進して道果を得た。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏が鹿野苑で正法輪を転じた時、阿沙羅長者が発起し国王の許可を得て、白象に乗り般遮于瑟(五歳会)の勧進を行ったところ、ある女が頭上の珠を解き、布施した故事を説かれた。(2005/6/27)
(七八)差摩比丘尼生時二王和解縁(241c)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王と梵摩達王が戦争中、各々の夫人が男児と女児を出産した。王等は喜び和解すると、子供を婚約して帰国した。梵摩達王は息子が七歳になり、婚礼準備のため様々な宝物を送ってきた。王女は信心が篤く出家を志していたのに、二国の平和に換えられず苦悩していた。釈尊は心中を察知し、すぐ赴いて種々説法されると、彼女は悟るところがあり阿那含果を得た。そして王子が来訪した際、十八変化を現したので、波斯匿王は不明を恥じ、王女の出家を許した。彼女は直ちに比丘尼となり、精進して阿羅漢果を得た。釈尊はその因縁について、古に波羅奈国で、絶えず喧嘩していた夫婦が、迦葉仏へ来世は富貴に産まれて和解したいと願ったので、いま王家に産まれたと説かれた。(2005/6/28)
(七九)波斯匿王醜女縁(242b)
ある時、摩利夫人がひどく醜い女児を産んだので、波斯匿王は憂い、宮中深く隠して育てた。しかし適齢期になり悩んだ末、ある貧しい貴族と結婚させ、人目に触れないよう幽閉することにした。彼女は苦悩し助けを求めたので、釈尊がすぐ赴き金色の体を見せると、醜い姿が天女のようになった。そこで夫へ父王との面会を求めると、波斯匿王は娘の美しい姿に感激して、さっそくお礼に駆けつけた。釈尊はその因縁について、古の波羅奈国にいた長者が醜い辟支仏を供養していたところ、娘が見て汚いと悪口を言った。その後、間もなく辟支仏は神変を現し入滅したので、彼女が深く懺悔した故事を説かれた。(2005/6/29)
(八○)盜賊人縁(243b)
釈尊が毘舎離にいた時、城中に愚者がいて泥棒を生業としていた。ある時、僧坊へ盗みに入り、たまたま比丘が偈で、諸天の瞬きはごく遅く世人は速いと説くのを聞いた。後に彼はある商人が摩尼宝珠を王へ献上したと知り、まんまと盗んで隠匿した。そこで智臣が策謀し、盗人を呼び酔い潰した上で殿上へ寝かせ、目覚めたら美しい妓女を侍らせ天上へ来たと欺いて、悪事を自白させようとした。しかし彼は妓女の瞬きが速く天上でないと知り、黙秘していた。智臣は次に、偽って大臣とし国庫を任せてから、宝珠がどこにあるか聞くよう進言した。今度は盗人も騙されて白状し、なぜ先に黙っていたか糺されると、かつて比丘が説いた偈を教えたので、王は喜び罪を不問にした。その後、彼は一句の偈で命が助かったことを反省し、多く仏法を聞きたいと思って出家し、精進して阿羅漢となった。(2005/6/30)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第九
声聞品 第九
(八一)海生商主縁(244b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある商人が結婚後、珍宝を求め大海へ出ると、十月経ち船中で海生という男児を産んだ。彼は成長後、また大海へ船出し帰国の途中で大風に遭い、羅刹鬼国へ漂着した。その時、商人等がみな「南無仏陀」と称えたので、釈尊が光明を放つと、嵐は消え去りようやく逃れることができた。帰国後すぐさま彼等は釈尊へ御礼に行き、僧団を供養し、仏塔を建立した。それから説法を受け悟るところがあり、みな出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国に五通仙人がおり、五百の商人が大海へ出る際、何かあったら自分の名を呼ぶよう助言した。はたして彼等が大風に遭うと、仙人の名を呼び助けられた、という故事を説かれた。(2005/7/1)
(八二)須曼花衣随身産縁(245a)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に須曼花衣を着た男児が産まれたので、須曼那と名付けた。彼は孝行で柔和な人柄に育ち、父母は阿那律の元へ連れて行き沙弥としたところ、間もなく阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に毘婆尸仏の入滅時、梵摩達多王が建立した宝塔を見て、ある童子が喜び出家したのに、年老いても得るところがなく、自責し須曼花を求めて塔上に掛け、来世を祈願した功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/7/2)
(八三)宝手比丘縁(245b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に手から金銭を出す男児が産まれたので、宝手と名付けた。彼は釈尊を見て歓喜し、手から出した金銭で僧団を招請した後、説法を受けて出家し、精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏の入滅時、迦翅王が建立した宝塔を見て、ある長者が歓喜し金銭を塔の下へ置いた功徳で、いま出家得道したと説かれた。(2005/7/2)
(八四)三蔵比丘縁(245c)
釈尊が舎衛国にいた時、波斯匿王の夫人が袈裟を着た男児を産んだ。彼は誕生時にすぐ父王へ、如来や大迦葉・舎利弗・目揵連などの大弟子はどこにいるかと尋ね、招請を願った。釈尊は太子を見て、迦葉仏在世時に三蔵比丘だったことを記憶しているか問われると、その通りと答えた。それからこの因縁について、古に迦翅王国の太子だった、善生の故事を説かれた。遊行中に迦翅王国へ訪れた迦葉仏を見て、善生太子が歓喜し出家を志した。しかし父王が決して認めず、煩悶し六日断食すると、三蔵経の読誦を条件にようやく許された。彼は出家し三蔵経に通じたので、王は喜び迦葉仏と二万の比丘たちへ懇ろに供養した。その功徳により、善生は袈裟を着けて転生し、いま出家得道したと説かれた。(2005/7/3)
(八五)耶舍蜜多縁(246b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に男児が産まれ、大雨が降ったので、耶奢蜜多と名付けた。彼は乳を吸わず、歯の間から八功徳水を出して飲んでいた。成長後、釈尊を見て歓喜し、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏在世時の、ある長者の故事を説かれた。彼は年老いてから出家したものの、怠慢で重病に罹った。薬を飲もうとしたら煮え立ち、水を求めても器が干上がってしまった。そこで仏へ助けを求めたところ、衆僧へ浄水を供養すれば、餓鬼の身を脱すると教えられた。直ちにその通り実行した功徳で、彼は歯間から八功徳水を出し、いま釈尊と出会って出家得道したという。(2005/7/4)
(八六)化生比丘縁(246c)
釈尊が忉利天で生母の摩耶夫人へ三月説法し、閻浮提へ還ろうとされた時、無量の衆生が仏の降臨を見て、聞法を渇仰した。そこで釈尊が大衆のため説法されると、会中へある比丘が化生して、皆に食事を供養した。釈尊はその因縁について、古に毘婆尸仏在世時、比丘たちが山林で修行中、毎日遠方まで乞食しなければならず、疲労困憊した。その時、ある比丘が檀越の勧化を引き受け、衆僧へ供給した功徳で、いま自在に美食を整え、大衆へ供養したと説かれた。(2005/7/5)
(八七)衆宝荘厳縁(247b)
釈尊が迦毘羅国にいた時、ある長者に男児が産まれ、珍宝の満ちた泉が湧出したので、衆宝荘厳と名付けた。彼は成長後、釈尊を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦孫陀仏の入滅時、梵摩達多王が宝塔を建立すると、ある長者が宝物と水瓶を安置した功徳で、いま釈尊と出会い出家得道したと説かれた。(2005/7/5)
(八八)罽賓寧王縁(247c)
釈尊が舎衛国にいた時、南方の罽賓王に力持ちの男児が産れ、一万八千人の大臣にも子供ができた。成長して彼が王位を継承したある日、商人へ世の中に自分より力ある王がいるか尋ねたところ、波斯匿王の方が勝れていると答えた。王は怒って使者を派遣し、七日後にわが国まで挨拶へ来なければ、攻撃し五族まで誅すると告げた。波斯匿王が困って相談すると、釈尊は自分など小王に過ぎず、祇洹へ行けば大王がいると答えるよう教えられた。そこで使者が来ると転輪聖王に化けて威儀を示し、国書を足で踏みにじりながら、朝拝に来るよう命じた。罽賓王は拝しつつ、まだ力では自分が上だと自惚れていたので、化王は大弓弩を手に取り指で弾くと、世界が震動した。驚いた罽賓王は五体投地して降伏したので、釈尊が元の姿に戻り種々説法されると、すぐ出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に毘婆尸仏が宝殿国を訪れた時、槃頭末帝王が一万八千の群臣と共に歓迎し供養した功徳で、いま同日に産れ出家得道したと説かれた。(2005/7/6)
(八九)拔提釈王作比丘縁(248c)
釈尊が六年の苦行後に成道し、十二年を経て迦毘羅衛国へ帰る時、釈迦族を調伏するため、弟子千二百五十人と各々神通力を示しながら赴くことにした。浄飯王はその威力に感服すると、仏の従者がみすぼらしい姿だったので、釈迦族から容貌の優れた者を選び出家させることにした。拔提釈王は選ばれて優波離に髪を下ろさせ、失意しつつ比丘となった。しかし受戒の際、一足先に出家した優波離への礼拝を拒んだため、釈尊は仏法に貴賎の差別はなく、奴僕にでも敬礼するよう教えられた。そこで拔提釈王は素直に優波離を拝し、さらに説法を受けすぐさま阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国で辟支佛が乞食をしていたところ、貧乏人が持っていた少しの餅を布施した功徳で、いま富貴の身となり、出家得道したと説かれた。(2005/7/7)
(九○)仏度王子護国出家縁(249b)
釈尊が拘毘羅国から王子護国へ教化に訪れた時、王子が仏の威儀に感激し出家を志した。しかし父の須提王が許可せず懊悩し六日間断食すると、やむなく認められ出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国で毘提王が隣国との戦争に負け、逃走中に炎天下で飢渇していたところ、辟支仏に水場を教えてもらい助かった。帰国後種々の美食を設け彼を招請し、その入滅後には宝塔を建立した功徳で、いま富貴に産れ出家成道したと説かれた。(2005/7/8)No.0200[cf.202] 撰集百縁経 巻第十
諸縁品 第十
(九一)須菩提悪性縁(250a)
釈尊が成道の後、諸龍王を教化するため、比丘形で須弥山を訪れた時、たまたま金翅鳥王が大海で小龍を捕え飛び去るのに出会った。小龍は比丘を見て、助けを求めながら命終すると、舎衛国の婆羅門に転生し、須菩提と名付けられた。しかし彼は性格が悪く怒ってばかりいたので、家族や親類から見放され、山林で出家を余儀なくされた。そこでたまたま釈尊と出会い威儀を見て喜ぶと、瞋恚の害悪について教えられ、懺悔して沙門となり精進し阿羅漢果を得た。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏在世時、ある比丘がいつものように僧等を連れ勧化へ行こうとしたら、用事のため従わず、お前らは毒龍のようだと罵った罪で、五百世も毒龍となり、今も宿業で瞋恚が起ると説かれた。(2005/7/9)
(九二)長老比丘在母胎中六十年縁(250b)
釈尊が王舎城にいた時、ある長者の夫人が臨月を迎えても出産できず、次に妊娠した子が先に産れ、九人産んでも最初の子が出て来なかったせいで、体を壊し命終した。そこで胎児を取り出すと、もう頭髪が白くなっており、すぐに言葉を発して、自分は前世で衆僧を悪罵した罪により、六十年も胎内にいたと語った。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏在世時、夏安居の最中に老比丘が維那をしていて、衆僧から得道したと認められず、怒って彼等を罵り幽閉したせいで、この苦しみを得たと説かれた。親族はそれを聞いて、老児を養育し出家させると、精進して阿羅漢となった。(2005/7/10)
(九三)兀手比丘縁(251a)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に手のない男児が産れ、兀手と名付けられた。彼は仏と出会って喜び、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏の在世時、阿羅漢と凡夫の二比丘がおり、二人で檀家回りをしていた。ある日一人が不在で別の者と行ったら、凡夫が怒り阿羅漢の比丘に対し、以後日常の手伝いもしないと罵った罪で、無手に産れたと説かれた。(2005/7/11)
(九四)梨軍支比丘縁(251b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある婆羅門に醜悪な男児が産れ、乳が腐るため酥蜜を舐め育ったので、梨軍支と名付けた。彼は沙門が整然と托鉢する姿を見て喜び、出家し精進して阿羅漢となった。しかし宿業により乞食しても得られず、舎利弗が同行しながら空しく帰るだけだった。舎利弗がそれから七日間、力を尽して食物を求めても無駄であり、梨軍支はこれを恥じると、砂を食べて入滅した。釈尊はその因縁について、古に帝幢仏在世時、ある長者の息子が父の死後、母が僧団へ布施するのを嫌い、一室に閉じ込め七日も食事を与えず、砂でも食べたらどうかと言って見殺しにした罪により、こうして飢餓に苦しんだと説かれた。(2005/7/12)
(九五)唱言生死極苦縁(252b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に男児が産れ、誕生直後「生死極苦」と言ったので、生死苦と名付けた。彼は仏を見て歓喜し、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏在世時、ある沙弥が大節会の際、乞食へ行くよう誘ったのに和上が聞かず、悪罵した罪により五百世も地獄へ落ち、今ようやく脱することができたと説かれた。(2005/7/14)
(九六)長者身体生瘡縁(253a)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に疱瘡を病んだ男児が産れ、いつも疼痛のためうめいていたので、呻号と名付けた。彼は仏と出会って歓喜し、五盛陰苦の説法を受け、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅奈国にいた二長者の故事を説かれた。二長者は巨万の富を持つことで互に諍いしており、一方が王へ珍宝を貢ぎ讒言したため、相手は捕えられ鞭打ちに遭った。そこで彼は無常を感じ、山林で瞑想し辟支仏となった。それから自分を陥れた長者の因果応報を心配し、神通力を示して懺悔させたという。(2005/7/15)
(九七)醜陋比丘縁(253b)
釈尊が舎衛国にいた時、ある長者に悪鬼のような男児が産れ、父母が嫌悪し捨てられてしまった。その時、釈尊は衆生を観察し、彼の善根が熟していると知って、醜男に化けて接近し心を許させ、善心で比丘を観るよう勧めると、信仰心を懐いたので、本体を現された。彼は仏と出会い説法され、出家し精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に自分が弗沙仏の下で菩薩だった時、ある山中の鬼神が醜悪な姿へ化け脅かしに来たため、神通力で行手を阻むと、反省し懺悔した故事を説かれた。(2005/7/16)
(九八)恒伽達縁(254a)
釈尊が波羅㮈国にいた時、ある大臣に子息がなく、恒伽河の摩尼跋陀天祠へ行き、一子を授けなければ神社を破壊すると訴えた。天神は驚き、帝釈天へ相談すると、この件は困難で様子を見てみると答えた。その時、ある天子が臨終を迎えており、大臣の家へ下生しないか誘ったところ、出家を条件に了承したので、帝釈天は加護することを約束した。そうして大臣の家に嫡子が産れ、天神へ祈願したことから、恒伽達と名付けた。彼は成長して出家を希望すると、独子のため父母が認めず、悩んだ末に自殺しようとした。しかし帝釈天の加護により不死身となり、投身・入水・服毒しても死ねなかったので、王法を犯し処刑されようとした。王はその告白を聞いて出家させることにし、仏へ事情を話すと、彼は説法を受け、すぐ解脱し阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国にいた大臣の故事を説かれた。ある時、梵摩達多王が宮人を連れ山遊へ行き、道中歌わせていたら、ある男が唱和したので、怒って捕え殺そうとした。しかし大臣が姦通したわけでなく軽罪であると諫めたので、ようやく赦された。それから彼は出家して、山沢で瞑想し辟支仏になると、大臣は盛大に供養し後世の富貴を祈願したという。(2005/7/17)
(九九)長瓜[爪]梵志縁(255a)
釈尊が王舎城にいた時、蛭駛梵志に二子がいて、息子を長爪、娘を舍利といった。長爪は聡明で、ふだん姉と議論しても勝ってばかりいたのに、舎利が妊娠した後、敵わなくなった。彼は胎児の福徳力でそうなったと考え、誕生後に甥と議論しても負けないよう諸国へ遊学し、学問が成就するまで爪を切らないことにした。臨月になり男児が誕生すると、母の名に因み舎利弗と名付けた。果して彼は非常に聡明で、議論して誰も敵う者がおらず、名声は遠くまで響いていた。その頃、釈尊は初めて成道され、教化のため阿鞞比丘を王舎城へ派遣した。舎利弗は彼が托鉢する姿を見て感激し、誰が師で何を教えているか質問した。そこで阿鞞比丘が、
「一切の諸法中 因縁空にて主無し 息心本原に達す 故に号して沙門と為す」
と偈で唱えたら、舎利弗は直ちに悟るところがあった。そうして目連と弟子二百五十人を誘って竹林へ赴くと、仏に見えて出家し、精進して阿羅漢となった。
その時、長爪梵志は舎利弗の出家を聞いて怒り、釈尊を論破しようとやって来た。しかし、議論に詰まって沈黙し負けを認めると、その場で出家し、精進して阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古の波羅㮈国にいた群賊の故事を説かれた。ある辟支仏が山林で坐禅していたところ、五百人の群賊と出くわし、危うく殺されそうになった。辟支仏はこのままなら彼等の罪業が増して、地獄から逃れられなくなると憐れみ、神通力を現した。群賊はひどく恐れてひれ伏し、誠心誠意懺悔した功徳により、後世も地獄へ落ちず、いま出家得度できたという。(2005/7/19)
(一○○)孫陀利端政縁(256b)
釈尊が王舎城にいた時、波斯匿王の夫人が男児を産み、拘那羅鳥のように両眼が清らかだったので、拘那羅と名付けた。その時、商人たちは自分の集落に孫陀利という小児がいて、王子より優れた容貌であり、誕生の際に珍宝で満ちた泉が現れたと言った。王が見に行くと話の通りだったため、彼と共に釈尊を訪問し、その由来を尋ねることにした。孫陀利は仏に見えて歓喜し、その場で出家するとすぐ阿羅漢となった。釈尊はその因縁について、古に迦葉仏の在世時、ある長者が比丘たちの坐禅行道する姿を見て喜び、香水で沐浴させ、珍宝を水盤に入れて供養した功徳により、以後は泉と宝を伴い転生したと説かれた。(2005/7/20)